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差異とのつきあい方・2

連載・53
立岩 真也 2010/07/01 『現代思想』38-9(2010-7):


『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』

  昨年九月に村上慎司・橋口昌治との共著書『税を直す』(立岩・橋口・村上[2009])を出してもらった。私の担当した部分(立岩[2009b])はこの連載の第38回から第45回を手直しし、それに他の文章を幾つか加えたものだった。この二月以降、所得税の最高税率の引き上げの可能性が語られている。辿ると昨年秋からその方向への動きがある。このことについては四月に新聞に短文の寄稿も依頼されている。次回に紹介するかもしれない。
『税を直す』表紙   『ベーシックインカム』』表紙
  そしてこの四月、齊藤拓との共著書『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(立岩・齊藤[2010])が出版された。私の部分である第1部「BIは行けているか?」(立岩[2010b])はこの連載の第46回から第52回(先月号)をもとにして書き足し書きなおしたものである。第1章「此の世の分け方」の2「此の世の分け方についての案」、また第5章「労働の義務について」は、これまで書いたものも使いながら、ここ数回の連載にはなかった部分である。また、第6章「差異とのつきあい方」については分量の関係で前回は略した部分を本には収めた。そして今回書くことは、前回に述べたことを引き継ぐものでもある。
  そして齊藤が第2部・第3部を執筆した。第2部は「政治哲学的理念(イデオロギー)としてのベーシックインカム」(齊藤[2010a])では、ヴァン・パリースの議論――その検討をこの連載で行ない、そこでそれが今度の本の第1部の相当部分を占めている――の要点を提示し、さらに自説を展開している。
  そして第3部は「日本のBIをめぐる言説」(齊藤[2010b])。最近、HP、ブログの類も含め、様々な人たちがBIを語っていること、それはてんでばらばらのようでもあり、また似通っているようでもあり、またなぜこの人と(普通同じ場にいることのなさそうな)この人が同じ(らしい)ものを支持するのかと不思議にも思っていることだろう。そこで齊藤がそうした様々を――すくなくとも論文などになっている部分についてはかなり網羅的に――紹介し、論評している。議論の動向を知るために、論点を整理するために、役に立つものになっている。
  第2部は全体として二二節からなっていて、様々なことが書かれているのだが、一節から六節まではBIの正当性に関わる議論の整理、解釈であり、とくに「資産としての職(ジョブ)」という論が取り上げられて、そして支持されている。それを私は第2章「何が支持するのか」で検討した。既に論じているのであらためて言うことはないのだが、一つ付言しておくと、二つの論理がここに並存しているということである。基本的な主張は「自由の最大化」、そのためのBIである。もう一つが「資産としての職」という論理である。BIの主張のためには前者だけでも本来はよいはずである。しかし後者が加わっている。それは、生産者による取得という規範を認める、あるいはそれが社会に存在するという前提があるからであり、その上で、その規範を緩め、誰のものでもなく一人ひとりに分杯してもよいだけの分を取り出すことが目指されているからということになるだろう。この理路は、連載と本に述べたように説得術としては有効であることを認める。しかし私が述べたのは、一番基本的なところでは、それにつきあわなくてもよいということである。ヴァン・パリースの議論ではBIは一定の制約条件のもとで最大化されるべきであるとされるから、これから見るようにニーズの側からの基準の設定は不要なのだが、ただ、誰のものでもない(よって一人ひとりに渡されてよいとされる)ものがどれほど存在するのかといった論難にはつきあわければならないことにはなる。
  そして齊藤は、経済・市場をどのようなものとして理解するべきなのか、またどのような経済、経済政策が支持されるのかを述べる。生産を増やし供給し消費を喚起しようという主張、生産性を上げようという主張、機会の平等を専ら重視する主張を取り上げ、その限界を指摘する(七・九節)。私はおおむね同意できる。また後半の二〇・二一節では労働政策が取り上げられ、例えば最低賃金の設定については否定的である。この主張は、連載で述べ、本にも記したように(立岩[2010b:90-92])、十分なBIが「存在するのであれば」という前提のもとでは、筋の通った主張である。そして一三節では個人に分配することの正当性について、一四節では市場をどのように見るべきなのかについての考えが述べられている。また、一八・一九節では、齊藤が理解するところの「市場原理主義」が解説され、それが肯定される。また一〇節〜一二節で税制のあり方が検討される。フラット税については肯定的ではない。この点にも同意する。法人税についても肯定的ではない。このことについての私の見解は立岩[2009b]の「[補]法人税について」に記した。
  その立場はなかなかに徹底したものであり、たぶん日本のBI論者の中ではそう多くはない姿勢のものである。読んでいただきたい。

必要について言われてきたこと

  なかで今回考える主題に関係するのは、一五節「「ニーズ」に基づいて」になる。ここで以下とりあげるその「困難」が示される。その後に、一六節「現物給付のBI」一七節「最大限に分配する最小国家」が続く。ヴァン・パリースの代案としての「非優越的優先性」が取り上げられる。そして、BIの最大化自体が目的であるから、ニーズの測定は必要ないことが示される。
  「非優越的多様性」という論は、人の「内的賦与」の差異の「補正」に関わる議論だった。そしてそれがうまくいかないと私は論じたのだった。そのことについては既に検討したので――連載では前回と前々回、本では第6章「差異とのつきあい方」――ここでは繰り返さない★01。
  では代わりにどのように考えればよいのだろう。それはたいへん難しいことであるとされる。何が何よりどれほど大切であるとするのか。人によって様々である。例えば人々の満足度のようなもので測るとすると、それは様々である。様々であるというだけでなく、その間に優先順位をつけたりしなければならないとする。そんなことができるだろうかというのである。後でも述べるように、このことは(まずは)一律の給付を正当化するにあたっても既に存在する問題なのだが、さらに人の違いに応じた給付をどのようにして行なうかという問題に関わる。
  難しいと言われると、そのようにも思える。ただそうだろうかと私は思うところがある。そのことについて、政府その他に様々に要求し、いくらかは実現させてきた人たちがいて、私はその人たちが言うことが基本的にはもっともであり、理に叶ったものであると思った。とすれば、それがどんなことを言ってきたのか、いくらか整理して示せばよいのではないかと思って、またときに間違いや誤解を招きやすいところがあればその部分を補いつつ、ものを書いてもきた(立岩[1995][2000a]等)。以下ではそこに述べたことは略し、今まではっきりとは書いたこなかった、(差異に応じて)「どれだけを」という、難しいとされる主題についていくらかのことを述べることにする。
  これまで言われていることは、齊藤のその一五節で取り上げられ、簡潔に要約され解説されている(齊藤[2010a:241-243])。それをより短く、しかしいくらか加えながら、繰り返す。
  まず「厚生主義」などと呼ばれる「厚生」「効用」に準拠する議論がある。例えば満足度において同じようにすればよいのではないかという。何かを得て使うが、それは気持ちがよいから使うのだから、厚生は大切である。より満足度の高いものが得られることは大切である。だからこれをまったく放棄することはできないし、またするべきでもない。ただ難点として示されるのは、「適応的選好形成」などと呼ばれる事態、多くを得ても満足しない人やわずかしかなくてもそれでよいと語る人がいるという事態をそのままに認めないのであればどうしたらよいのかといった問題である。
  そしてここにも集計の問題はある。一人ひとりの総満足度のようなものが計れればよいかもしれないが、そんなことはなかなかできそうにない――そしてこれにしても、全体として(豊かであるが不幸な人より)幸福ではある貧しい人は、財を受けとることはできないのか、それは違うように思える、ではそれをどう考えるかといういった問題がある★02。
  そこで「資源」(の保障あるいは平等)に着目する「資源主義」をとればよいか。生活のための手段、例えば「基本財」などと呼ばれるものを、例えばその最低限において、あるいは「健康で文化的な」水準を維持するために供給するとするのである。ただここでもその財とは何であるのか、そこから除外されてよいものは何であるのかという問題はやはりある。そして、同じ財があってもそれを使える人と身体の状態のその他が関わりそのまま使えない人がいたりする。それはやはりよくないのではないかということになる。
  そこで、「ケイパビリティ」がもってこられる。財が与えられても実際にそれが使えなければ仕方がない。例えば人の身体能力の差があればその部分は補い、実際に可能になること、その可能性について、ある水準が達成されるべきである、あるいはその部分での平等がよしとされる。それは、資源主義の難点を改善したものであり、私も基本的にそれはよいとする。そして、社会サービスとか、社会福祉サービスなどと呼ばれるものは基本的にそうした性格のものであるから、その業界・学界の人たちはこのごろよく肯定的に言及する。(そんなわけでセンはよく言及される。しかしこの方向の要求と獲得とは近年に始まったことではない。ずっと以前からなされ、実現したりしなかったりしてきた。それがなにか新しいものとして紹介されたりするのは不思議だと述べてきた。)
  ただここでもやはり何についてケイパビリティが確保されるのがよいのか、様々があるだろうから、そのうちどれが保障されるべきであるかという論点は残る。そして多くの人がそのことを指摘するように、センはそのリストを出していない。しかしそれは必要であるのではないか。
  それでどうするか。そのリストを作ろうとする人もいる。また、みなで、ただたんに多数決をとるというのではなく、まじめに「熟議」すればよいということになる。「公共的議論」がなされるべきだとされる。実際、民主制の政体においてはそういうことになるだろうし、なるべきであるのだろう。ただここにはではどうするかという答はまだない。討議しないとわからないということになる。そのように考えるだけでよいのか。討議で決めることを認めるとしても、その討議で何を言うのか。そこで何が採用されるのかといえばたんに(議論の始まりにおいて)多数派が認めたものではなく、話し合いの末、納得できるもの、「理」があるものが採用されるべきであり――いささか楽観的な想定がここにはあるのだが――そして採用されるはずであるということになっている。ならば「理」をまず言えばよいではないかというのが私の考えである。それがものを考えて言う人の仕事だと思う。しかしそれは難しいというのだった。そうでもないと考える。次のように考えてみたらどうか。

まず言えると思うこと

身体の差異について

 *この部分については加筆の上書籍化していただくことを考えております。まずは『現代思想』お買い求めくださいませ。



★01 二〇一〇年一月に立命館大学でヴァン・パリースを招いたワークショップがあることは案内した。そのワークショップのおり、質問に答えて、ヴァン・パリースは今はこの案を撤回していると語ったという。ただ当日私は不在だった。今のところその記録を入手していないので、その内容を知らず、よって検討できていない。
 このワークショップの開催にも関わったグローバルCOE「生存学」創成拠点の雑誌『生存学』の第2号が三月に刊行された(発売は生活書院)。そこには、天田城介・小林勇人・齊藤拓・橋口昌治・村上潔・山本崇記による座談会の記録が掲載されており、そこでもBIに関わる議論がなされている。
★02 「社会はある人の幸福の全体に関わることはできない。いくつかの項目の総合点が高い方がよかろうと述べたこととそれは矛盾しない。いくつかの項目とはすべてではないからだ。」(立岩[2004:191]、第4章2節3「総合評価について」)


UP:20100713 REV:20100807, 0913
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