★01 杉野[2007:117]にOliver[1983:24]からの引用として掲載。訳文は杉野、「無力化している」は「disables」。次のように解説される。
「「障害」をインペアメントとディスアビリティという二つの次元に分けて考えて、社会的に形成されるディスアビリティについて社会的責任を追及していくというイギリス障害学の社会モデルの考え方は、もともと一九七〇年代に「隔離に反対する身体障害者連盟」Union of the Physically Impaired Against Segregation (UPIAS)によって採用された障害の定義を基盤として発展したものである.その意味でイギリスの社会モデルは、障害者運動実践のなかで形成された概念であり、その主旨は、障害者個人に問題の責任を帰するのではなく、障害がもたらすさまざまな問題を社会の問題として社会的解決を模索する方向に、障害者の意識と健常者社会全体の意識を転換させていくことだった。」(杉野[2007:117])
UPIASについては以下。
「一九六〇年代後半、イギリスの障害者施設のなかでも「進歩的」と目されていた「チェシャーホーム」の一施設である「ル・コート」において、施設入居者による自治活動が施設批判へと展開し、ついには入居者による施設の「自主管理」という「異常事態」へと発展する。この運動の中心となったのが入所者のポール・ハントだった。その後チェシャーホームの経営側による「正常化」によって、ハントは施設を退去する。そして彼は一九七二年に、全国紙『ガーディアン』の投稿欄にて施設批判を展開し、施設入所している障害者たちに対して利用者主権運動の結成を呼びかけた。このハントによる呼びかけに呼応した人々によって結成されたのが「隔離に反対する身体障害者連盟」Union of the Physically Impaired Against Segregation (UPIAS)である。」(杉野[2007:155]、ここで杉野が参照を求めているのは杉野[2002])
一部を本文に引用した文書、「障害の基本原理」については以下。
「UPIASが一九七六年に発表した歴史的文書Fundamental Principles of Disability(『障害の基本原理』)は、オリバーによって編集されたバージョンではあるが、Oliver[1996:21-28]に一部が再録されている。フルテキストは、リーズ大学のCentre for Disability Studiesのホームページからダウンロードできる。」(杉野[2007:155])
ほぼ同じ箇所がShakespeare[2010:267]にも引用されており、リーズ大学・障害学センターのHPのURLが記されている。ただそこではUPIAS[1975]となっている。これは、この「原理」が発表された「障害連盟」(Disability Alliance)との討論(その公刊が一九七六年)が一九七五年に開催されたことを受けているのだろう。「「障害の基本原理」の討論のドキュメントは、改良主義者の「障害連盟」(Disability Alliance)との不一致を記録しつつ、次のように記される」(Shakespeare[2010:267])として、シェイクスピアはその箇所を引用している。
また社会モデルとそれを巡る議論を紹介する同じ文章では、一九七四年のUPIASの方針(policy statement)の「目的」の最初の部分が引用されている。【すこし「青い芝の会」ふうにすると――しかしやはりどこに怒っているのかその雰囲気はいささか異なるのだが――次のようなかんじになる。→英語版ではこの箇所略】
「我らは、階段、不適切な公的また私的な移動手段、不便な住居、工場での厳格に決まった勤務規定(work routines)、最新の援助や設備の欠如といったものによって、孤立化され排除されている者たちとして、我らを自覚する。」(Shakespeare[2010:266]
【By the way I cannont agree to some arguments of Shakespeare [2006]. I will discuss about these in another paper.】)
【In japnan "Platform for Aoi Shiba Movement"(1970) by "Aoi Shiba no Kai"(cf. Kohichi Yokozuka (1935-1978) -- great leader of this group -- [1975→1981→2007], my commentary on this book (Tateiwa [2007] and one of our member's new book, Sadato [2011] etc.)
"We identify ourselves as people with Cerebral Palsy (CP).
"We recognize our position as "an existence which should not exist", in the modern society. We believe that this recognition should be the starting point of our whole movement, and we act on this belief."(cited in Nagase [1995] etc., the full test in our website: http://www.arsvi.com/o/a01-e.htm)
I think interesting to examine common and different features of these texts in Britain and Japan.】
★02 長瀬[1999]、星加[2007:47-48]、Barnes & Mercer[2010:32]、等。
★03 だからそれが身体における外形的な損傷がなくとも(見えなくとも)、行動・生活に支障を来しているいる限り、障害であるという主張はまったく当然である。「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」の人たちの生について大野[2008]。
★04 「障害学」やその研究の場が、そうして括った人たちを対象にするのだとすれば、私たちは、病気であると認知したりされたりするものも含めて調べたりものを言ったり書いたりする場所にいる。すると、両者をどのように考えたらよいのかという問いが現れる。
「ALSは障害なのか病気なのか。ALSの人は病者なのか障害者なのか。むろん、言葉は様々な意味に使うことができ、それぞれの言葉が示す範囲を変更することができるから、それによって答は変わってくる。ただ一般に、病は健康と対比されるものであり、苦しかったり気持ちが悪かったりする。また死んでしまうこともあり、よからぬものとされる。また障害とは、身体の状態に関わって不便であったり不都合であったりすることがあるということだ。病によって障害を得ることはあるから、両方を兼ねることはある。ALSは病気ではある。そして同時に機能障害が生ずる。ALSの人たちは同時に、病人・病者でもあり障害者である人たちだ。答としてはまずはこれでよい。/そして制度との関係でもALSの人たちは両方である。[…]」(立岩[2004])
たしかに苦痛はあるのだがそれをうまく除去したり軽減したりできるのであれば、またやはり適切な対応をとれば死に至るものではないのだから、ALSはむしろ重度の(そして他の固定された障害とは異なった)進行性の障害であると捉えた方がよいだろう。(そして、そうではあってもその人たちはなおることを求めているし、そのことにもまたもっともな理由がある。)
そしてもちろん、このことと、医療や医療的ケアと呼ばれるものをこの人たちが必要としていることとは矛盾しない。身体の状態を維持するために技術が必要であり、その技術を医療者(だけ)がもっている場合がある。ならばそれは必要である。また他方で、しかるべく技術を習得すれば、医療や看護や介護の資格をもっていなくても対応できる。にもかかわらず資格による制限がなされたり、なされようとしているために、それに反対せざるをえないことになる。 【and in practice opposition movements against qualification and monopoly often have ocurred also in Japan. (cf. Tateiwa [1999]). 】
★05 障害の「肯定」が語られることがあったし今でもあるのだが、それは(2)の側面に関わるものだけをとっても、インペアメントを肯定しているのではない。インペアメントがあることによって、それがない人には別のことが生ずること、そしてそのことによいこともあることがことが言われたのである。また(1)機能の側面についても、インペアメントがあること、なにごとかをなす機能が欠けていること自体が肯定されたのではない。できないことがあることによって、なにかよいことが起こることもあることが言われたのである。新刊の拙著[2010e]でもこのことに関わっていくらかのことを述べている。
★06 そしてそれは私自身が取ってきた道でもあった。移動させ分配できるもの、またすべきものについて、所有や分配のあり方を考えようというのである。ただたしかにその手前に、移動や分配が事実可能であったとしてもそれをなすべきでないものがあったとしたらそれは何か、またどうして私たちはそう思うのかという問いはある。このことについては立岩[1997:chap.4]で基本的なことは述べた。ただ、そうして代替したり交換したりできないあるいはするべきでないものについて、ただそれは仕方のないことだと言うのでなければ、それらについてどのように考えるべきであるのか、またどのように対するべきであるのかという問いは当然残される。その問いがあることは言いながら、それは難しいので今は措いておく、何か言えそうに思えたらその時に言おうと思う。そう記してきた(立岩[2002])。そのようにして私は回避してきたのであり、そこから前に進めることができていない。そこでその「ないにこしたことはないか・1」の続きもこれまで書かれなかった。そしてそれは新刊(立岩[2010e])についても同様であり、障害を巡って「できないこと」についてだけでなく「姿形」を巡る考察もそこでなされたらよかったというその本に対する当然あるべき評ももらっている。以下に続く稿でいくらかでも進むことができたらよいと考えている。
★07 「保安処分」や「医療観察法」については多くの文献がある。もちろんそれらは必要であり、またあるものは危険でもある。ただ、「障害とは何か(何とされているか)」という問いのもとでこの契機を検討しようとする文献は少ないと思う。関連する論文として寺本[2002a][2002b]がある。私はといえば、立岩[2003]でこの問題がやっかいな問題であることをすこし記したことがあるにすぎない。
★08 社会の側に(インペアメントとしての)障害をもらたすものがあり、であるがゆえにそれが批判され、改革されるべきであるという主張と、障害を否定的に見るべきでないという主張とは折り合いがつくのか。つくとしてどのように付くのか。
例えば戦争によって、戦争の後に残された地雷によって、また貧困によって、障害者が大量に発生するということが指摘される。それはそのとおりだ。とくに「低開発」の国・地域と障害との関わりが語られる時にはこうした側面が指摘される。それは当然のことであると思う。しかしそのことと「障害を否定しない」こととはどう関わるのか。それは、水俣病の人たちをどう捉えるのかどう描くのか――水俣病は糾弾されるべきであるとして、それは水俣病の人が悲惨であると言い切りたくない気持ちとどのように折り合うのか――という問いとしてこの国に現れた。このことについては立岩[2008](第2章4節「会ってしまうこと」)ですこし述べたことがある。またその後にも、原子力発電所への反対運動が盛んだった時、その問題をチェルノブイリの被害者の像をもって示すことがどれほどよいことなのかが問われたことがある――立岩[2002]で堤[1988][1989]【【she has cerebral palsy and is peer counslor and a member of Women's Network of DPI Japan, cf. Tsutsumi et al. [2009] as Englis paper on website) 】といった文献を示してこのことにふれている。私は糾弾・告発と肯定(少なくとも否定しないこと)とは基本的には矛盾しないと考えている。ただその矛盾しないはずのことをどのように言うのかということである。それでこの原稿も書いている。
例えば「先天性四肢障害児父母の会」という会がある。この会は、生まれた時に手や足の指がない、少ないといった障害をもつ子どもの親の会として、一九七五年に設立された。その障害の原因は不明だったのだが、環境汚染が様々に問題にされていた時期でもあり、環境要因が疑われ、会は当初「原因究明」を訴える活動をする。ここでは、当然、その障害をなくすことが目指された。だが現に障害があって暮らしている子どもがいる時に、障害を否定的に捉えてよいのか。そうしたことを考えていくことになる。例えば、『シンポジウム先天異常I――人類への警告』、『シンポジウム先天異常II――いのちを問う』(先天性四肢障害児父母の会編[1982a][1982b])と、『これがぼくらの五体満足』『わたしの体ぜんぶだいすき』(先天性四肢障害児父母の会[1999][2003])に書かれることは同じではない。またこの会に長く関わってきた野辺明子の『どうして指がないの?』(野辺[1982])と『魔法の手の子どもたち――「先天異常」を生きる』(野辺[1993])に書かれることとの間にも変化がある(cf.野辺[2000])。この会の歴史の記述・分析として堀[2007][2008]。
★09 インペアメントとディスアビリティの対で論ずることがときに適切でない――後述する――理由の一つはこのことである。社会モデルの主張はインペアメントを重くみないし、それが特定されない場合があることも認めるはずだが、しかし、その論理構成においては必須とされる。しかしそれが特定されないことはあるし、また特定する必要も常にはないのではないか。ともかくできないことがあるのであれば、その理由を詮索されることなく、そのことがおぎなわれるべきであるという主張がある。とすれば、まず――この社会において――できないこと、それに関わる不利益があり、それがおそらくは個々の身体のなにがしかに関わってはいるだろう、そんなものとして障害を捉えるのでよくはないかということである。私は、基本的には、の主張を支持する。
そしてこのことは前の註に記したことにも関わる。補償・保障を受けるために、自分の今の状態がしかじかによるものであることを証明することが求められることがある。また、その今の自分の状態がいかに悲惨であるかを言わねばならないことがあり、そして、それを受け取るために悲惨を誇張しているのではないかと疑われてしまうことがある。
他方で、自分の置かれている状況が何であるのか、その名を得ることが当人に利をもたらすことも事実ある。ではそれはどのような利益なのか。そしてそのことを考慮に入れた上でなお「わかる」ことについてどのようなことが言えるのか。自らが「自閉症」であることがわかったことが自らに益を(益も)もらたしたと語る人たちの書いたものから引用などしつつ、そのことを『みすず』での連載(立岩[2008-2010])ですこし考えてみた。
★10 『現代思想』に掲載されたものとしては、自らが理学療法士でもある古井透【(He is a physiotherapist and also has lived as partner of an activist disability movement)】の「リハビリテーションの誤算」(古井[2003])、また医師杉本健郎に私が話をうかがった杉本・立岩[2010]中の脳性まひ者への療法(の失敗)の歴史に関わる部分。
★11 このことをまず述べたのは「なおすことについて」(立岩[2001])でだった。その文章は理学療法士を目指す学生に対する科目を受け持っていた時期に書かれた。まず治療する、それが一段落したら(いわゆる、言葉の狭い意味での)リハビリテーションを行なう。それでも回復しない部分は残る。そこに「社会福祉」が関わる。それが当然のこととされ、実際そうした手順でことが運ぶ。それが有効である場合があることを否定しない。しかし常にそのように考えるのがよいのか、そうとは限らないはずだ。そのことを話していた。そのことを文章にした。
★12 身体に触れられること、見られることがある。排泄のことがある。介助の場面における性的な契機、また性的な行為の介助のことがある。『セクシュアリティの障害学』(倉本編[2005])に収録されている、草山[2005]、前田[2005]。また前田[2009]に関連する記述・分析がある。拙著(立岩[2010e:51-58]、T「できなくてなんだ」の6「他人がいてしまうこと」)では、自分が暮らしていた施設の看護婦長(今なら看護師長と言うのだろう)に男性によるトイレ介助について「男女の区別を乗り越えるのが本当だ」と言われ、「だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別にしてあるんですか」と抗議した三井絹【she has cerebral palsy and is one of those who left instituions and began independ living in the early 1960's in Japan】子の手紙のこと(三井[2006]に収録)、「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[…]プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえする」(安積[2010])という安積遊歩【she has dysosteogenesis and who introduced peer counselling into Japan first, lived with a daughter who has also dysosteogenesis, and is representative of a CIL (Center for Independent Living)】の文章を引いた。二人が言ういずれもがもっともなことであるはずだ。そのことをどう言うかということになる。いくらかのことはその本のその箇所【立岩[2010e:51-58]】
で述べている。【(Their lives and activities are intrroducd in "Disability Movement / Studies in Japan 9: Women" on our site. See http://www.arsvi.com/ts2000/20100099-e.htmm (English), http://www.arsvi.com/ts2000/20100099-k.htmm (Korean)).】
★13 立岩[2002]でも引いた箇所だが、例えばピーター・シンガーは次のように言う。
[ここは原文にあたります→訳者様]「動き回るためには車椅子に頼らざるをえない障害者に、奇跡の薬が突然提供されるとする。その薬は、副作用を持たず、また自分の脚を全く自由に使えるようにしてくれるものである。このような場合、障害者の内のいったい何人が、障害のある人生に比べて何ら遜色のないものであるとの理由をあげて、その薬の服用を拒否するであろうか。障害のある人たちは、可能な場合には、障害を克服し治療するための医療を受けようとしているのだが、その際に障害者自身が、障害のない人生を望むことは単なる偏見ではないのだということを示しているのである。[…]
歩いたり、見たり聞いたりできること、苦痛や不快をある程度感じないでいられること、効果的な形で意志疎通できること、これらはすべて、ほとんどどのような社会状況でも、真の利益である。これを認めるからといって、これらの能力をすべて欠いている人々がその障害を克服し驚くべき豊かさと多様さを持った生活を送ることがありうるということを否定することにはならない。」(Singer[1993:54=1999:65])
土屋[1994a]でこの部分が訳され、検討されている(関連して土屋[1994b])。引用したこの文章において得られるものに伴う不利益がない――「副作用を持たず」――とされていること、そして、「歩いたり、見たり聞いたりできること、苦痛や不快をある程度感じないでいられること」と、本稿でまずは分けてみようとした幾つかの契機が列挙され【一括りにされ】ていることに留意されたい。
★14 星加[2007]がこのことを正当に指摘している。星加は、私と同様に、問題は事実の水準の問題ではないこと、原因という事実の水準の問題でないこと、この部分に錯誤があると指摘する。基本的に私が星加と同じ立場を取ることは本文に述べた。ただ、英語で「のせいで(due to)」という言葉が使われる場合、それはただある事象が生起する(あるいは生起しない)原因・要因を指すだけではないだろう。なすべきことがなされない(あるいはなされるべきでないことがなされる)「せいで」しかじかが起こってしまう(あるいは起こらない)といった使われ方もされる。例えば本連載前々回の最後に引いたマイケル・オリヴァーが示す例もそのように解することはできる。ただその上で、どこに問題の核心があるのかについて曖昧さの残る記述・主張がなされてきたことは問題にされてよいと(私も)考える。
それとともに、星加は立岩[2002]における社会モデルの把握について批判をしている。本文に述べることはそれに対する応答でもある。星加の論の紹介とその検討は別途行なう。
★15 医療や(狭義の)リハビリテーションによってなおすことと社会的に補うこととの両方が必要であるとことを言い、後者だけを主張するのは誤っていると言う、革新的で良心的なリハビリテーションの指導者たちの言論――前々回◆に引用した――は、それ自体が間違っているとはいえないと考える。しかし、まず一つ、そのように極端とされることをなぜ言うことになったのかである。そして一つ、両方が大切だから併用すすればよいとか、本人に決めさせればよいという主張が、現実に何をもたらすかである。このことについての検討が十分になされないなら、それはよくない。そして、その部分が曖昧にされるなら、あるいは言論の水準においては十分に正しいことが言われたとしても、その言論が実践の場に移されていったり、政策化されていく場合に、たんに偶然的にではなく、「現場」で言われること、なされることは別のものになっていくだろう。
多田富雄たちのリハビリテーションの打ち切りに対する反対運動(とリハビリテーション業界・学界やその指導者たちとのいささか複雑な関係)についての文章(立岩[2010b]をも受けてここしばらく書いている一連の文章は、このことを述べ、それをより具体的に明らかにするものになるはずである。【And I think that it is necessary to examine the relationship between their assertion and the assertion by eg. DPI that the term of rehabilitaion should be limited (cf.Tateiwa [2000:254-255, 335]). Tateiwa [2010c] takes up this topic, and wil】 またそれは、本連載の第56回(本年7月号)「過剰/過少・1」に課題だけを示した、医療や福祉の「過剰」「過少」を巡るいささか錯綜したあるいは混乱した言論を整理し、結局はどんなことを言えるのかを言うことにもなるはずである。
★16 ヴァン・パリースの「非優越的多様性」という解法――ここでも機能的な差異だけでなく様々がいっしょにされ、むしろ美醜を巡る差異が例にあげられた上で、劣位に置かれる(とされる)人について、(ベーシックインカムと別に)付加的な給付を加えていって、これだけの給付があればその境遇を受けいれるという人が一人出てきた時に、その給付を停止する、つまりそれだけが給付されるようにすればよいという案――に対する批判は立岩[2010a]で述べた。そして本連載第53回「差異とのつきあい方・2」(本誌4月号)でそこに述べたことにいくらかを加えた。