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多田富雄さんのことから

唯の生の辺りに・5

立岩 真也 2010/09/01 『月刊福祉』93-(2010-9):
全国社会福祉協議会 http://www.shakyo.or.jp/
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◆2010/07/01 『現代思想』38-9(2010-7)  特集:免疫の意味論――多田富雄の仕事,青土社,ISBN-10: 4791712153 ISBN-13: 978-4791712151 [amazon][kinokuniya] ※

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『現代思想』38-9(2010-7)   201007 特集:免疫の意味論――多田富雄の仕事

多田さんとリハビリ闘争

 多田富雄さんを御存知だろうか。著名な免疫学者で、著書に『免疫の意味論』(青土社、一九九三)他多数。一九三四年生。二〇〇一年に脳梗塞で倒れ、右半身不随になり声を失った。リハビリテーションを続けてきたが、二〇〇六年、リハビリテーションを受けられる日数が一八〇日等と制限されると聞くと、それに憤り、この問題を人々に訴える文章を多く発表するなど、上限撤廃を求める運動に参画。『わたしのリハビリ闘争――最弱者の生存権は守られたか』(青土社、二〇〇七)、最後の本になった『落葉隻語 ことばのかたみ』(青土社、二〇一〇)等に関連する文章が収録されている。
 青土社の月刊誌『現代思想』の七月号の特集が「免疫の意味論――多田富雄の仕事」だった。もちろん、そこに文章を寄せた多くの人たちは、医学者・免疫学者としての多田さんの業績について書いているのだが、そういった領域の素養も読書歴もまったくない私は、以前、ごく短くだが、多田さんのリハビリテーションを巡る発言にふれたことがあるためか、依頼をいただき、そのことについて書いた。なんの予備知識もなかったのだが、すこし調べ始めると、なかなかおもしろいかもと思えて、掲載してもらった文章では終わらなくなってしまい、続きはまた次号ということになってしまった。
 この数年に起こったのは楽しいことではない。「リハビリ難民」といった言葉が現われ、知られるようになった。多田さんたちは、そのことを、「小泉改革」と呼ばれた政策の一部として、社会保障、福祉・医療の予算が削られる中で、大きく状態が改善することが見込めない、とくに高齢者のリハビリテーションが狙われたと捉え、それを実施した官庁や官僚を批判し糾弾した。その限りではわかりやすい話である。そしてその通りに捉えてまちがいはないと私も思う。
 ただ、基本その通りであることはわかりながら、もうすこし見ておいてもよいのかなと私は思った。それは「過剰」か「過少」かという問いに関係している。

足りないという人/余計だという人

 福祉や医療に関わる人たちは、だいたい、自分たちの仕事が足りない、仕事にかけられるお金が足りない、もっと増えるべきだと思っている。そしてそれは利用する人、受けとる側の人にとってもほぼ同じだ。だんだんと増えていくことがよいことであり、技術が増えていくこともまたよいことであると考える。その歴史は発展の歴史であり、ときに予算が削減されることがあったりするとそれは後退ということであり、嘆かれることになる。このたびリハビリテーションについて起こったこともそう捉えられる。
 ただ、他方には「過剰」という捉え方もまたある。私は社会学をやっているのだが、社会学の中に医療社会学というものがあって、それをやっている人たちの全部ではないのだが、多くの人たちには、そんな構えがある。例えば「医療化」という言葉があるのだが、この言葉は、なにかよい変化を言う言葉ではない。事実を記述する言葉であるとともに、そこにはなにかよくないことが起こっているという意味が込められることが多い。
 他方、医療の業界の人たちはそんなことは知らないから、話がかみあわないことにもなる。すこしわかると、あの人たちは自分たちをわざわざけなそうとしているのかなどと思ったりする。
 ただそれは、なんでも「相対化」して喜んでいる社会(科)学に限って起こっていることでもない。学問の場所にだけ起こってきたことではない。なにか余計なことをされているのではないかという感覚を私たちもときに持つことがある。以前は病気だということにはなっていなかったものが、病気だということにされて、病気の数が増えていくのだが、それはよいことなのだろうとか、そんなことを思うことがある。
 こうして「過剰」なのか「過少」なのかという問いがここにあることになる。

リハビリテーションの過剰?過少?

 なんでこんなことになっているのか。これをきちんと説明しようとするとすこし長くなる。このたびのリハビリテーションに限ってみるとどうなっているか。
 まず一つ、じつは、リハビリテーションを行う期間は限定されてよいという主張が、リハビリテーションの利用者たち自身からなされたきた歴史がある。となると、この話と足りないという話とはどこがどうなっているのか。
 もちろん、よいものが少ないのはよくないし、わるいものが多いのはよくない。それが正解ということでよいはずなのだが、なにがどれほどあるのがよいのかと少し考えてみてもよいかもしれない。
 そしてもう一つ、このたびの「上限」設定については、リハビリテーションの世界の著名な人たちが関わった研究会、そこで出された報告書が、限度を設けることを正当化した、というか正当化するものとして利用されたという事情もあった。となると、「業界」の人たちは、たいがいの場合、自分たちの仕事の意義を強調し、それを増やすことに賛成するはずだという捉え方では捉えられないかもしれない。さてどうなっているのだろう。ただ予算を節約したい官庁・官僚に利用されただけなのだろうか。しかし、すくなくとも当初、業界団体は強い反対を表明しなかった。どうなっているのだろう。そんなことを考えてみようと私は思って、原稿を書いていたら一回で終わらなくなってしまったのである。

◆立岩 真也 2010/07/01 「留保し引き継ぐ――多田富雄の二〇〇六年から」,『現代思想』38-9(2010-7): 資料

UP:20100701 REV: 
多田富雄  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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