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最低限?

唯の生の辺りに・2

立岩 真也 2010/06/01 『月刊福祉』93-8(2010-6):60-61
全国社会福祉協議会 http://www.shakyo.or.jp/

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◇せめてこのぐらいはという話

right"『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権』表紙"  この三月に私が監訳者ということで、トマス・ポッゲの『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権』(生活書院、三一五〇円)が出た。ちかごろ、といってもそう最近のことでもないが、「グローバル・ジャスティス」という言葉があり、一国内のこととして語られることの多かった正義について、世界・地球という大きさにおいて、何をどのように言うことができるのか、何をするべきなのか、そんなことを考えていることになっている。ポッゲはその代表的な論者の一人で、この本は彼の主要な著作の一つで、またこの分野の重要な著作の一つとされている。二〇〇二年に初版。今回翻訳されたのは二〇〇八年の第二版。原題は訳書の副題。「なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか」は、この本の翻訳にあたった私たちの大学院の大学院生とその修了者たちが付けた。こんなテーマに関心のある人、義務があるとしてではどうすればよいか、どの程度のことをすればよいか、そんなことに関心のある人はこの本を読んでください。
 さて、監訳者としてなにほどのこともしなかった私は、その本の末尾に「思ったこと+あとがき」という文章を書いている。その本に書かれていることをなかなかもともであると思いつつも、いくつか書いたのだが、その一つが、「悲惨」や「最低限」についてだった。
 こんなに「最低限」を下回る「悲惨」な人たちがこんなにたくさんいて、それをそのままにしておくのは正義にもとるから、しかじかしなければならない。そしてそれはそんなに難しくなくできることだ。それはその通りだと思う。
 ただ、私は、基本的には、別様に考えてもよいのではないかとも思っている。ではどんなことを考えているのか。またそのうちに、と思う。といってそうもったいぶることでもない。最初のところでは、皆がおおむね同じだけ受けとるという状態から始めてよいのではないか。それではなぜいけないのか。その上で、働く人はよけいに取ることはよいことであり、また時にしかたのないことである。
 そう考える。すると、働けない人、働けない人は、働く人よりも少なく受けとることになる。この場合でもたしかにその人の受け取りは「最低」にはなってしまう。ただ、普通に言われる「最低限」はそれとは違う。例えば「健康で文化的な最低限度の生活」(日本国憲法第二五条)と言われる。たんに生きていられるだけというのでは足りないとされる。私だってそれでよいとは思うのだ。ただこの場合、いったいその「最低限度の生活」とはどれほどかということになる。そこで例えば、これは必要、これも必要と、足していくことになる。

◇悲惨を言わねばならなくなる

 するとそれは贅沢だという人たちが出てくる。その人たちは、その制度がなければ税を払わなくてすむ人たち、制度が小さければ少なくしか払わなくてもすむ側の人たちだから、そんなことを言いたくなるのもわかるのだが、そう言う。
 すると、そうではない、これは贅沢ではないと言い返すことになる。それが得られない生活がどんなにか悲惨であることを言わねばならなくなる。しかしこうした反論もまた、増額の要求(むしろ近頃では減額への反対・抵抗)とセットになっているから、今度は相手から、要求するために、要求を通すために、それを言っている、おおげさに言っているとさらに返されることにもなってしまう。
 するとさらに、それが「真のニーズ」であることを挙証しなければならないということにもなる。「本当の悲惨」がそこに現実に存在することを、力を込めて、語ることになる。訴えることになる。それは公的な制度の場合だけではない。むしろ、人々の感情・自発性に訴える募金の活動であるとかの場合には、さらにそんなことになる。例えば「かわいそうな(しかし純真そうな)子ども」の写真が使われたりする。
 私たちには、それに心を動かされたりすることもありながら、それはよいことなのだろうかと、いくらかそのような構図に反対したいところがあると思う。その時私たちは何を思っているのだろうか。
 一つに、その人たちは、たしかに貧乏だが、悲惨ではない、あるいは幸福であるのではないか、なのに悲惨な存在にされている、といったことだろうか。
 それは時に間違っている。というのも、実際、飢えは生きていることの全体を覆い暗くさせることがあるだろう。ただ、それほどでもなければ、その人たちはたしかに不幸ではないことはある。不幸な金持ちより幸福な貧乏人はいる。
 ではその場合には、とくにすることはない、しなくてよいのだろうか。これは「総合評価」の問題であり、これも一つの問いとしてある。後で考えることがあるかとも思う。そして、その手前で、いわゆる経済的な生活に限ったとしても、それは悲惨な生活ではない、しかし貧乏であるといった場合があるだろう。悲惨であることはたしかにいけないことであるとして、より多くを得るために、悲惨であることを人々に言わねばならない、そして自ら認めなければならない。そのことがおかしいと思っているのだと思う。さて、ではどう考えるか。
 4月に、こちらの博士課程修了者の齊藤拓との共著で『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(青土社、二三一〇円)を出してもらった。この本もまたそんなことを考えながら書いた本だ。次回、それを紹介ながら、と思う。

◆立岩 真也・齊藤 拓 2010/04/10 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』,青土社,ISBN-10: 4791765257 ISBN-13: 978-4791765256 2310 [amazon][kinokuniya] ※ bi.


UP:20100415 REV:20100916 
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