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政治に関わるに際して

立岩 真也 2010/12/25
『季刊福祉労働』129:13-25


※以下で「二〇一一年に青土社から出る本」と記した本は2012年に刊行されました。

◇立岩 真也・堀田 義太郎 2012/06/10 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』 ,青土社,342+17p. 2400 [amazon][kinokuniya]

『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙

急ぎは急ぎで、+

 その推進会議や専門部会というところで何がなされているのか、私はほとんどわかっていない。たくさんの人がいて、様々な話が様々になされていると聞く。これをまとめたり、法律までもっていくのは、とてもたいへんなことだと思う。ごくろうさまです、よろしくお願いいたしますとしか言いようがない。中心にいる人たちが長年言ってきたこと、してきたことをいくらか知っている私は、その人たちを信頼していられるので、そう言う。ここではすこし別のことを書くことにする。ただその前に二つ。
 一つ、すべてについてここしばらくの間に具体的な方向を定める、方針を出すというのは、とうてい無理だと思う。必要に応じて、メンバーいつまでも同じというのもたいへんだから適宜交替するなりして、優先順位を決めて、急ぐことは急ぎながら、あとはずっとやったら、つまりある程度恒常的な組織としたらよいのではないかと思う。「審議会」という名称・位置づけがよいのかどうか――実際そんな話も出ているようだが――判断できかねるところはあるが、一時的なものでないという点ではそれも一案だ。時間をかけるべきことはかけたらよい。むろんまた政権が変われば事情は変わっ<0013<てくるだろう。しかしいったん今度のように「本人」を多くした組織を、そうでない方にまた変えることの正当性を主張するのは難しい。だから今のうちに恒常的なものとして位置づけておくというのはありだと思う。

記録はしていこうと

 一つはこちら(筆者)側のこと。会議や部会自体は、実況中継やら議事録やらきちんと出ているようだから、それはそれとして、政策やそれに関わる運動・報道の推移は、押さえていこうとは思う。二〇〇三年初めに「ホームヘルプサービス上限問題」というのが持ち上がって、その時はこれはやらねばと思って、私自身、一日四回ぐらいHPを更新したりといったことがあった。(それはいったん収まったのだが、その後が、知っている人は知っているように、苦難というか厄介事の連続だった。)そうしてその時に集めたものは、結果としてその時の記録にはなっている。ただ、その後私には時間がなくなり働くことができなくなって、そして引き継ぎもうまくいかなくて、何年分も穴が空いてしまった。ただいつまでもそうしているのはよくないわけで、こちらでそれを「研究」しようという人に情報を集めて掲載してもらうことにした。「生存学」で検索(http://www.arsvi.com)→「暮」「障害者と政策」のところをご覧ください。今のところ(この原稿を書いている時点では)たいしたことないが、そのうち(本号が出る頃には)役に立つものになるだろうと思う。またそこに、以下に記すような「論点」に関わるような文章も掲載(リンク)していこうと思う。研究者・研究機関ができることすべきことの一つは記録することである。そこのところは、忙しくてなかなかそんなことをやっていられない運動体とうまく協力してやっていければと思う。

滑った後の人々を相手にせねばならない<0014<

 仕事としてもう一つ、考えて言う仕事もある。以下、すぐ個々の具体的な政策につながるわけではないが、確認しておいてよいと私が思うことを、既に他に書いていることを繰り返して、いくつか並べる。そのために、このところの依頼原稿はすべてそうなのだが、私の書きものの広告のようであることをお詫びし、おことわりしておく。そしてその話は、結局、金の話になる。そして金のことは今回の会議・部会と別の場で決まる。実際にはそこが主戦場だということだ。そして会議・部会でいろいろと議論をしている間にも現実は動いていくし、動かさねばならないのだから、まずは言っておいてよいと思う。
 民主党がどの政党とどの政党がくっついてできた――私ももう記憶にない――全体としてよくわからない政党であるということはよく言われるし、そのとおりなのだろうが、既にそんなことも知らない人たちが政治家になったりしつつある。いま国会議員になっている人たちのかなりの部分は、(公的)介護保険開始(二〇〇〇年)以後に政治という世界に入った人たちであったりする。また、既にベテランの域に達しようとする人たちの中には、一九九〇年代、その制度を実現しようと尽力してきた人たちがいたりする。誤解ないように言うと、私は介護保険はないよりあった方がよかったと思うし、それを作ろうとした人たちの真面目さ、誠実さをまったく疑わないし、その後もよい仕事をしてくれていると思っている。
 ただ、この制度に象徴されるここ二十年ぐらいのできごとは、「小泉改革」とか「ネオリベ」とか括ればよいだけのことではない。つまり、社会保障とか社会福祉というものが、「互助」→でなければ「救貧」、「保険」→でなければ「セイフティ・ネット」といった言い方で語られるようになり、そういうものであるということにされてしまったのだ。年をとって自分がどうなるかわからないから、「要介護状態」になるかもしれないから、その可能性に備えて保険をかけるという。その可能性は一人ひとりでだいたい同じだから、保険料も一人あたま同じ額でよいということになる。実際――税金も使われているからそう単純ではないが――介護保険はそういう制度だ。もちろん加えて、貧困・格<0015<差の問題があることは自覚され、何かすべきであるとはされ、それなりの対策は打たれる。けれどもそれはあくまで「最低限」をなんとかしようという筋の話になる。
 これと、障害者(運動)――に限らないと思うが――が主張・要求してきた「人並み」「普通」「必要なもの」の要求とは、全面的に対立するというほどではないとしても、同じではなく、うまくかみあわないところがある。他の人たちと違って既にあってしまっている障害を、等しい将来の可能性・リスクと見ることには無理があるし、最初から保障されるべきを「最低限」と決められても困るのだ。
 障害者の――というか「能力」に関わる――問題は、基本的には「体制」の問題になるはずであり、その生活はその「体制」によってまったく変わってくる。このことは――人々がどんな「体制」を支持するかとは別に――事実だとしか言いようがない。かつての「革新政党」の人たちであれば、どこまでまじめに考えていたのかはともかくとしても、「平等」ぐらい当たり前だと、問われれば答えたはずである。賛成か反対かはともかく、それが政治の「主題」ではあったと思う。それが、「新自由主義」とかそういうものではなく、すくなくともそれだけでなく、むしろあきらかな善意・良心のもとで、地滑り――その「歴史」については次節に記す税金の本と『唯の生』(二〇〇九、筑摩書房)に書いた――が起こって、「皆が同じだけ出し合って共に生きる」みたいな土の上にいまの新しい(そして「保守」の側ではない)政治家たちがいてしまっているということは、一つ、押さえておいてよい。こういう議論に賛成とか反対するとかいう前に、そういう「発想」を知らずに政治の世界に入ってきた人たちがいるのだ。
 それはまずいと思って私はものを書いてはいる――新しい、中学生以上にどうぞという「うたい文句」の本として『人間の条件――そんなものない』(二〇一〇、理論社)――のだが、もちろん、書けば伝わるなんていうことはない。いろんな言い方で言い、伝え方で伝えていくしかないと思う。例えば、障害があろうがなんだろうが「並みの暮らし」をというのは、基本はごくわかりやすい話ではあるはずだ。そこを基本に置いて、違うことを言う人がいたら、むしろなぜそんなことを言うのかと問<0016<うことはできる。とこかく、ここで引いてしまう必要はないまるでわけで、この場所から、もっと具体的にものを言うこともできるし、誤解を解くこともできるということだ。

税の基本を再確認する手間もいる

 政策とは結局どれだけの金を(どこに)使うかだと述べた。そして、会議や部会では具体的なお金の話にはなっていないのだろうし――金を出す方の側がそこにはいないのだからそれも当然のことだ――、そのうち何かよいことを言っても、それを実現するためには金がいるわけで、すると相手は「ないものはない」としか言わないはずである。役人としてそう言わざるをえないことはよくわかる。だが、こちらとしては、前節に述べたまさにそのことが税制において起こったことを知った上で、「地滑り」が起こった後で政治家になったような人たちにものを言っていく必要がある。
 この国がかけるべき金をかけていないことを言う時、幾つかの言い方がある。一つは、他の国では障害者関連にどれだけ使っている、それに比べて日本は、という、普通の言い方でものを言うことである。これは効果的ではあると思う。私はそれに加えて、税金というものの「本義」を忘れてきたことを書いてきた。
 つまり、日本――に限らないのだが――の税金はこの間「多くあるところから少ないところへ、多く必要なところへ」というものでなくなり、「会費」のようなものに成り下がってきた。それはいくらか極端な言い方であるとしても、所得にせよ資産にせよ多くをもつ人が多く(多い割合で)払うという累進性がだんだんと弱められてきた。そして税収が減らされてきた。その経緯とその時に付された――金持ちが働く気がなくなるとか、海外に逃げるとかいう――理屈とそれをどう考えたらよいのかについては、『税を直す』(立岩真也・村上慎司・橋口昌治、二〇〇九、青土社)に書いた。お互い→自分のために各自同額の「会費」を支払うだけなら、強制・権力は必要ない、政治も政府もいらない、そんなことでではだめだから、税をきちんと機能させ、きちんと使おうということだ。<0017<
 もちろんはこれは大きな話である。けれども、現実をその方向にいくらかでももっていくことはできるし、実際そのような議論もなされてはいる。今の首相もそのことを口にしたことはあるし、現在の――そして前政権の――税制調査会でもそんな話は出ている。というわけで、まったく現実性がないというわけではない。このあたりのことについては『ニーズ中心の福祉社会へ――当事者主権の次世代福祉戦略』(上野千鶴子・中西正司編、二〇〇八、医学書院)も見ていただければと思う。この本で、基本的には私と同趣旨のことを書いている大沢真理は現在の政府税制調査会専門家委員会の委員長代理でもある。その本には、かなりおおざっぱではあるが、予算と支出についての試算もある(『税を直す』の方には、所得税をもとの税率に戻した場合の税収の試算がある)。

分権はよい、と決まってなどいない

 もう一つ、これもまた前々節と前節に書いたこととつながっているのだが、「分権」というとそれだけでよいものだと思う人がいる。その度合いが、現在の与党と以前の与党とどちらがどれだけ強いのか知らないが、しかし感じとしてはむしろ今の与党の人たちにおいてより多く、地方分権ならよいことになってしまっている、予めそれがよいことであるとされているように思う。
 その土地の人がよく知っていて、その土地の人が決めた方がよいことがあることは認める。また、地域によって事情が違っているもの、というよりは、違った方がよい場合があることも認めてもよい。しかし、例えば介助(介護)の水準が住んでいる地域によって変わってよい理由はどんなに探しても見あたらない。他のことについても、いろいろと考えていっても、かなりの部分は同じことが言えるはずである。にもかかわらず分権がよいとされている。そして現実に、「地域間格差」でひどく苦労している人たちがたくさんいる。苦労しているどころではなく、たまたま、例えは千葉県の某市に生まれ住んでいたがゆえに、長時間の介助を得られず、呼吸器をつけて生きていく生活を展望でき<0018<ず、死なねばならないといったことが全国各地で起こっている。だからこのことははっきり言っていくべきだ。
 とくに自前でやっていけると思っている地方の首長たち(や議員たち)が自分たちが決める範囲(権限)の拡大をもたらす分権を求めるのはもっともなことである。しかし私たちまでがその話にあらかじめ乗ってしまう必要はまったくない。金のあるなしは土地によっても違う。それを補整することはその土地の中ではできない。高齢者の割合など人口の構成も違うし、産業も違う。地域間に格差が出るのは当然である。もちろんそれは補正すると言われるだろうが、本当に分権化された各(地方)政府間の交渉によってはそんなことはできない。田舎は田舎でやっていけるためにも、「社会サービス」に金を出し、人を雇うという今度の政権の基本路線――なのかよくわからないのだが、たしかそんなことも言っているはずだ――は正しいと思う。そのために、税は、広くから集めて、少ないところに、多く必要なところに渡す。本来は――税の安いところへの逃避のことを考えても――その単位は国家でも狭すぎるのだが、とりあえずは国がその単位になる。そして基本、建物や事業でなく、人に、個人に渡す。そうしたらよい。
 そして、さらに問題なのは、さきに述べた保険的なものと分権とが「込み」にされているということ、かぶってしまっているということだ。つまり、例えば介助、「ケア」といったものは、「身近」なのものであり、それは「お互い」のものであり、だから「地方分権」の対象であり、そしてその財源は「地方税」ということでよく、そしてその税は「定額」あるいは「定率」の徴収によって「支え合う」ためのものであるというのである。そしてそんな言い方で――国税については累進課税を維持するのはよいが――地方税については、定額、ということにはさすがにならないとしても、定率の負担でよいということを、今度の政権側、それに近い研究者たちもまた言ってしまっている(『税を直す』第4章10節「分権について」)。
 これらの言葉は、なにか「しりとり」のようにつながっていることはつながっている。しかしすこ<0019<しでも考えてみれば、この話がおかしな話であることは言える。ここもけっして後退したり妥協したりしてならないところだと思う。

所得/社会サービス/労働

 こうして、税のことにしても、分権のことにしても、善意の人たちが――とくに強い政治信念に基づいてというのではなく――間違えている部分がある。そういう場所にずっといると、自分(たち)まで間違えてしまうことにもなる。だから基本的なところはときどき確認しておかねばならないと思って、言わずもがなの――と私は思う――ことを書いた。
 その上でその先を考えていくことになる。一人ひとりがいくらでやっていくことにするのか。ごくごく基本どうするとよいと思うのかについては、『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(立岩真也・齊藤拓、二〇一〇、青土社)、第1部第1章「此の世の分け方」の第2節「此の世の分け方についての案」に、ごくごくおおざっぱなことなら、書いた。それは、たしかに「絵に画いた餅」ではあるが、それはそれで意味があるとは思う。現実的でなくても基準があれば、そこから現実を測り評価することができるからだ。
 所得保障について。私は、障害基礎年金を変えていくという線がどの程度現実的に今あるのかどうか判断できない。年金の財源を税財源の方に変えるべきだという話には基本賛成だが、それはそれで大きな話だ。またいっそ「ベーシックインカム」という主張もある――その案に私は大賛成というわけではなのだが、そのことはいま紹介した本に書いてある。そういう大きな話も忘れないようにしながら、まず、公的扶助・生活保護をもっと容易にきちんととれるようにするという差し迫った課題がある。そしてこれについては、障害者というジャンルではない人たちと連帯できるはずで、そこでやれることはいろいろとあるだろうと思う。
 では、介助(介護)等、「社会サービス」についてはどうか。『現代思想』の連載に書いてまだ本に<0020<なっていない部分に少し書いた(二〇一一年に青土社から出る本に収められるだろう)。そうしたサービス以外の分をいったん別にして妥当な所得水準が決まったとして、その所得をどう使うかは各自の好みに委ねるとし、その使用に際して介助等が必要であれば、かかっただけ税金から出すということでよい。
 これはすこしも難しいことではない。総額一定のもとで、他の消費を削ってでも外出したい人、旅行したい人はすればよい(引きこもって別のことをしたければすればよい)。そしてその旅行について介助が必要なら、旅行に一度行く人は一度分、二度行く人は二度分、税から支出されるということである。それが私の案だ。というより、障害者の運動が言ってきたことを言い換えれば、言い直せばそうなると思う。もちろんそれは制度の現状とは距離がある。しかしここでも基準線がここにあると考えることはできる。
 労働はどう考えるのか。私は労働市場・職場における能力による選抜・選別を「認める」立場に立つ。それは一三年前の『私的所有論』(勁草書房)第8章「能力主義を肯定する能力主義の否定」から変わっていない。しかし第一に、その結果としての不平等は是正されて当然と考える(→所得保障)。ただ所得の(再)分配以外何もしなくてよいと考えているわけではない。第二に、職場・労働市場への介入も一定認める。詳しく書けないが、今政策としてなされていることはおおむね続けて広げてよいだろうと思う。いくらかのことは『希望について』(青土社、二〇〇六)に入っている「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」に書いた。
 ここでは一つ、米国や英国の法律のような差別禁止立法(だけ)でうまくいくと思うなら、それは甘いということは言っておこう。そうした法律が結局は能力主義的なものだということを言いたいのではない――それはまったくその通りなのだが、それはそれで仕方がないと私は認める。その差別禁止法の基本的な枠組みは、当該の仕事の「本質的な機能」に関わる選別は認めるが、それ以外の事情(ここでは障害)によって雇用の有無や待遇を変えてはならないというものだ。教員なら、教える<0021<ことができる/できないで選ぶのはよいが、例えば足での移動に支障があるとか、「本業」以外の事情を見てはならない、さらにその部分を補うのは雇用する側の義務とするというのである。
 しかし、その案を基本認めるとしても、実際にはその通りに機能しない。このことは実証もされているし、調べなくても想像はつく。それ以外の部分にかかるコストを雇用する側が気にするなら、雇用をためらうことはある。それは差別として禁止されているとしても、「別の人の方がその仕事に適していたのでそちらを雇った」と言えばすむ。それに抗議するとして、その挙証責任が雇われなかった側にあるなら、雇われなかった自分が雇われたその人と同じく、さらにその人より仕事ができることをこちらから証明することは至難の業になる。だから、この案を基本よしとしても、費用負担の仕方などさらに工夫しないと、それは実効的なものにならない。こうした議論も、まだなされていないようだが、必要である。

仕方なく知ってもらわねばならないこと

 こうして考えていけばいろいろと「深い」話にはなってしまう。ただ、もう一つ、たんに知らないというところで現実が動いているのも事実ではある。私は、なぜどれだけ困っているかをいちいち大きな声で言わねば現実が動かない社会を悲しいと思うけれど、しかし、それは現実の社会・政治において仕方のないことではある。そしてけっこう細かなところで生活・生存は左右されてしまう。そしてそうした事々について、政策決定に関わる人たちは、たしかに知らないことがとても多く、その部分は、知らせればわかってもらえるということがある。いまなされている会議や部会での大所高所に立った議論も必要でありながら、日々、行政や議会の関係者に理解を求めていく必要のあることがある。
 『ALS』(二〇〇四、医学書院)を書いて以来の成り行きもあって、しばらく「医療的ケア」に関わる動きを傍で見ているのだが(関連情報は、やはり当方のHPをご覧くだ<0022<さい)、たぶんこういう部分も、普通にまじめな、しかし知らない人にはわからないのだろうなと思う。自立生活センターなど、これまで学校や試験や資格を条件にしなくても、そこで働く人たたちに介助の仕事をきちんとやってもらえてきた。利用者本人やそうした組織・事業者が教え、働いてもらいながら覚えてもらってきた。けれども、資格化が言われる。いま議論されているのは所謂医療的ケアだが、それに限らない。全体としてそういう流れにある。一定の資格をもった人でなければならないとされる。そんなことは現実に無理だとなると、専門職の人たちの「指導」を必須とするといったことにされる。
 だから、まず、実際にそんなものなしでどこまでうまくやれてきたかを知らせねばならない。今そうやってやれていることができなくなったらどんなにひどいことになるかを――介助する人がいなくなって生活が成り立たなくなることを――知らせねばならない。
 知らせればわかってもらえるから、面倒ではあるが仕方がない。希望は、その人たちが、とくに「新進」の議員その他の人たちが真面目で前向きな人たちであることだ。知らせればわかってくれる。だから知らせる。ただやっかいなのは、一方の人たちは、その「専門職」の仕事で収入を得ており、「ロビイング」もその仕事の一部なのだが、他方は手弁当でやらねばならないということだ。こうして、推進会議や専門委員会でこの国の施策の「青写真」を描く作業に参画しつつ(参画させられつつつ)――基本的にはよいことではある――、他方では単純な誤解を解くべく走り回らねばならない。面倒なことではある。

+やはり基本的なことは

 現場のことは現場で知ってもらうしかない、その上で、最後にもう一つ、新進の政治家の皆さん他の皆さんにやはり「基本」は押さえておいてもらいたいと思う。「当事者主権」などと言われて「はいそのとおり」と簡単にうなずくその人々は、しばしば、同時に、「専門家」とか「資格」といった<0023<ものに予め肯定的であり、両者の間にある緊張に気がつかないようなのだ。
 品質管理は必要である。そしてそのために資格化が必要な場合はある。しかし、それはあくまで「次善」の策であり、使う側がうまく管理できていればそれで問題はない。どんなことをしても事故の可能性はあるが、それはそれとして別途対応することができる。そして、過去から現在、「縄張り」の維持・拡大を、各種業界は、ときに「実利」から、ときに「こけんにかかわる」的な動機によって、「プライド」を賭けて、追求してきた。そういうことは古手の政治家の方がかえって体感的にわかっているのかもしれない。そういう「政治」をまずはわかってもらって、(普通の意味での)政治をしてもらわねばならない。
 他方、「当事者」の方もふまえておくべきことはある。つまり、「専門家」対「当事者(本人)」という図式があってきたのだが、それがどんな場合に「対」になるかということである。
 場合による。つまり一方では、「本人」たちがやってくれることを、人々は、そして「専門家」たちも、競合しない部分では、歓迎する。それはそうだ。手間が省けることがあるからである。例えば酒や薬の依存症について精神医療なりができることは限られている。そこをセルフヘルプグループなどが対応してくれたらありがたい。だからいつも「(従来の)供給者」たちと「本人」たちが対立するわけではない。対立が起こるのは、一つには、先に述べたように競合が生ずる部分・場合である。そこを見分けておかないと、一方では(したくないことを)押しつけられ、他方では(したいことから)遠ざけられることになる。
 そしてもう一つ、当事者であろうが本人であろうが、「供給側」に位置するようになれば、そこには固有の利害が生ずるということだ。かつて「相談員」といったものを、大きな障害者団体が実質請け負って、なにがしかの予算がついた(が、たいして機能しなかった)といったことがあった――いまは知らない。つまりいったん供給側に立つ(立てる)なら、そしてその金は政府から出るなら、その行動パター<0024<ンは、従来、「当事者」側が批判したものに近づいていくことになりうる。そして、政治・官僚側としても、個々の細かい「事業」にならいくらか金を出すことはできるという事情もあり、個々人に配って「不正」「事故」があった場合に役所が責任を問われるより委託した方がよいといったこともあり――さきの「医療的ケア」についても同じ事情が働いている――そういう方向に事態は進みがちなのだ。このたび「政策立案」に携わることになった方々・各団体におかれては、こうした可能性・危険性にも自覚的であることをお願いする次第だ。個人ではなく、組織・事業に政府の金を出すべき場合はたしかにある。しかしその場合には、その理由をきちんと説明できなければならない。そのことを怠ると、結局自分たちが批判したものに自分たちが近づいてしまうことにもなってしまう。


◆立岩 真也・齊藤 拓 2010/04/10 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』,青土社,348p. ISBN-10: 4791765257 ISBN-13: 978-4791765256 2310 [amazon][kinokuniya] ※ bi.
◆上野 千鶴子・中西 正司 編 20081001 『ニーズ中心の福祉社会へ――当事者主権の次世代福祉戦略』,医学書院,296p. ISBN-10: 4260006436 ISBN-13: 9784260006439 2310 [amazon][kinokuniya] ※ a02. a06. d00. t07. ds.


UP:2010 REV:20131013 
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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