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ためらいを一定理解しつつ税をなおす

立岩 真也 2010/12/01
『生活協同組合研究』2010-12 (財)生協総合研究所  http://www.ccij.jp/

last update: 20170428



 *以下はお送りした原稿で、編集部が手を加えてくださったので、実際に掲載されるものは少し異なったものになります。『生活協同組合研究』は生協総研の維持会員になると年間12冊購読できます→http://www.ccij.jp/

本に記したこと

『税を直す』表紙  二〇〇九年の九月――当方としてはその頃にあった選挙に合わせて刊行したつもりの――『税を直す』(立岩真也・村上慎司・橋口昌治、二〇〇九、青土社)で、税について、むろんその全般についてということではないが、ごく基本的なことは書いた。
 税が基本的にどうあるべきかを言うためだけであれば、本1冊はもちろんいらない。後で、そのことについて書いたごく短い文章を再掲しておく。ただ、私としては、なぜいつのまにかこうなって――税の機能が弱くなって――しまったのかを確認しておきたいという気持ちがあった。そして、税制の概説書や実用書やあるいはその歴史書はあり、それらの他にその時々の現状を語りあるべき方向を提言する本は多くあるのだが、それらを並べて、人々が何を語ってきたのか(語ってこなかったのか)を記し、そして考えてみるといった書きものが意外にないことにも気がついた。税(の研究)が本業の人は自分たちを外から眺めてみることをしないし、他方、外側にいる人たちはとっつきにくい、専門外だからと遠ざける。けれども、税のことは大切だと私は考えるし、また、後述することでもあるが、この二〜三十年の社会全体の推移・変化が気になっており、そのこととも関わることだとも思ったから、本を百冊余り買い込んで、並べて、見ていった。そこで紹介されたことごとは、まずそれとしててふまえてもらった方がよいことだと私は思う。「税」が背表紙についた本を書棚にたくさん並べる代わりに、読んでいただけたらと思う。
 そして、一冊の本に収録できる情報量には制約がある。また本が出た後に起こったこともある。当方のHP(http://www.arsvi.com、「生存学」で検索→「税」)に人や本、本からの引用等、書籍なら三冊分ぐらいの情報がある。本の方で「筋」をつかんでもらいながら、ページを見ていくといった使い方がある。また、この本を書いた後、『現代思想』(青土社)でさせてもらっている連載――『税を直す』もこの連載の一部がもとになっている――の第54回(二〇一〇年五月号)「『税を直す』の続き」もそこからリンク・掲載されている。政権交替後の動きにもいくらか触れている。また、依頼されて『月刊公明』の二〇一〇月十月号に書いた「多くあるところから少ないところへ、多く必要なところへ」も読んでいただくことができる。

「誘因」のこと

 本誌から与えられた主題は「労働インセンティブ」と「国外逃避(流出)」についてなのだが、たしかにこの二つが、いくらか単純化すれば、この二つだけが、税率とその累進性を引き下げようという時に言われたことだった。本の方を読んでいただければ、この二つが夥しくほとんど同じ調子で繰り返し語られてきたことがわかる。
 そして調べいて、すこしおもしろくも思い、しかしそれはため息をつきながら、といったことであったのだが、このようにして世の中は推移していくのだろうとなと思ったのは、誰でも普通に考えれば別の可能性があるのだが、そして、当然にもあるいは賢くも、そのことは――例えば経済学者であれば八田達夫らによって――けっして言われていないわけではないのだが、しかし、結局片方だけが前面に出され、それが繰り返されきたということだ。その様子についてはその本を読んでもらうのが一番よいのだが、まずその誰でも思いつくことをたんに繰り返す。
 「労働インセンティブ」について。税が上がって手取りが少なくなるとその人は働く気がなくなるかもしれない。だが他方、手取りが少なくなったのでもっと働こうとする気になるかもしれない。経済学者なら、この話を「代替効果」・「所得効果」といった言葉を使って言うのだろうが、経済学など知らない人であっても誰でも思いつくようなことである。両方の可能性があり、どちらに傾くかは予め決まらない。とても簡単な、誰でもわかることである。
 さきに紹介した本では、いくつか実証研究もあげている。実際にはなかなか調べにくいことであるが、それらによれば、前者を示す結果はなく、つまり税をあげると「労働インセンティブ」に負の影響が出ることは証明されず、後者を支持していると解釈できるというデータがあるという。けれども、片方(前者)だけがたくさん語られてきた。だから税(の累進性)を低くすべきであるとされ、実際そのようにされた。このことについては本に書いたので、ここでは繰り返さない。
 もちろん他にもいろいろと考えられることはある。まずどちらに転ぶかといった手前に、とくに給料取りにとって、労働の量を増やすとか減らすとかいったことがそんなに自由になるのかといえばそうでもないという事情もあるだろう。あるいは、たくさん働きもし、またたくさん稼いでもいた人が、仮に、税が多くなって働く度合いが減ることがあるとしよう。そしてその多く払った税は、より所得の少ない部分にまわることになるとしよう。また、労働力はこの社会においては既に過剰なのであるから、そうしてその人(たち)の労働が仮に減ったとして、その部分は別の働きたいが職がない人が参入することで補われるかもしれない。そしてそちらの方が好ましいかもしれない。あるいは、手取りの格差がとても大きな社会と、そうでない社会と、どちらの方が、とくに収入が少ない方は働く気持ちになるだろうか。それは、さきに記した、手取りが少なくと働く気がでるとか失せるとかいっただけのことではない。それぞれ苦労して働いているのだから、それで受け取れる部分についてはそう大きな差がない方が働く気になるという、労苦と受け取りに関する公平さに対する感覚もまた人々にはあるだろうということだ。だとすれば、このことからも、税とその再分配を含む分配策を採用した方がよいということにもなる。そんなことも考えてよいはずなのだが、そんなことにはならなかったと。それがここ数十年のことだ。

「逃避」のこと

 もう一つの方、税の低いところに移動していく可能性はあり、これは「労働インセンティブ」に比べればいくらか現実的な問題である。ただまず、個人と法人とを分ける必要がある。
 個人については、実際どこまでの人たちが逃げるのかという問題がある。逃げる人はいるだろうし、実際にもいなくはないが、とくにこの国の場合は、言語等の違いもあって、そうそう多くはないだろう。そして結局は差し引きの問題で、全体として増収になればよいと考えれば、税を多くすることで(累進性を保つことで)税収が多くなる分から、税を多くすることで逃避する人が出てくることによる減収分を差し引いても、プラスになると考えることもできる。これも現実にはなかなか実験し実証することのできないことではあるが、そして国と国の間にどの程度の差があるものとするかにもよるのだが、さほど極端な差を設定しないというのであれば、増収になると考える方が常識的であるように思う。そしてやはり、その類のことは、もちろん誰でも気づくことだから指摘する人はいないではない。だがやはりこの数十年、税を低くしようという流れの中で、表にあまり出てこないといったことが続いてきた。
 加えれば、現物の人間は依然として(大部分)この国に暮らしながら、資産その他を別のところに移す等といったことも可能ではあり、その類の指南書の類もたくさん出されてきた(そんな本も集めてみて、リストに加えてある)。ただそれが例えば所得税について国内にあるしかない資産や国内で消費されるしかない消費にどれほどの影響をもたらすかということもある。また、いわゆる「タックス・ヘイブン」については――むしろ次の組織・企業に対する課税の方が大きな問題になるのだろうが――様々な方策がこれまでとられてきたのでもある。これは基本的に技術的な問題だが、それはそれとしてその筋の専門家たちがきちんと対応し、そして少なくとも多くの国々にとっては歓迎されざることであるのだから、協調して対応することもできるし、そうした動きが現になかったわけでもない。
 他方、組織・企業については、たしかに生身の人間ほど場所へのこだわりがあるわけではない。そして起こりうるのは「逃避」というだけの問題ではない。「競争力への影響」といったことが実際に懸念されている。
 それぞれの国家間に差異がありつつ(差異を許容しつつ)同時に財や人のやりとり、流入・流出があるという状況が、適切な分配を困難にすることは理論的には認めざるをえないし、その現実もある。そこから論理的に導かれるのは徴収と分配の範域をより広げることであり、それが困難であれば(たしかに困難である)、それに近似した効果をもらたすものとしての「国際協調」だが、それもたしかに困難ではある。その現況を所与とすれば、引き下げ競争に参加することが合理的である場合はある。
 ただ、一つ、ひとまず直感的にはわかるようには思われるこれらの契機(が与えうる影響)について、単純に国別の税率を比較しても――課税の範囲・仕組みが違ったりするから――さほど意味がないといったことも含め、その筋の人たちにきちんとしたことを調べて言ってもらわねばならない。
 一つ、とれほどうまく行っているかは別として、税の引き下げ競争が各国の財政にもたらす悪影響を懸念して、すくなくともいくらか「国際協調」の動きもまたあってきたこと――すこしだけ私たちの本でも紹介している――も知っておく必要はある。
 そして、もう一つ、これは今どうするかという課題にとっては迂遠なことではあるが、そしてその本を書くに当たっていくらか調べてわかっていくらか驚いたことでもあるのだが、法人税の正当性について、じつはその専門の領域においても確かなことが言われていない。その正当性は怪しいのだが、これまで実際に存在してきたものではあるので、適宜使い続けることになるのだろうといった調子の論が多い。私は、そんなことはないだろう――正当化は可能であろう――と思い、そのことを書いてみた([補]「法人税について」1「正当化できないともされるがそんなことはないこと」2「二重課税という指摘に対して」3「所得税との関係」4「誰の負担になるか定かでないことについて」)。反応・反論の類はいただけていないのだが、基本的には間違っていないことを書いたつもりではある。

税についての5月の短文

 この二月、その本を読んでくれた朝日新聞社の人から依頼があって、短い文章を書いた。幾度かやりとりもあり、実際に掲載されたのはずいぶん遅くなり、五月二七日だったのだが、「私の視点」という欄に、先方が決めてくれた「所得税の累進性強化――どんな社会を目指すか議論を」という題で掲載された。縮めればどのようなことを伝えようと思っているのか、おわかりいただけると思うので、再録しておく。

 政府と政府税制調査会は、所得税・相続税を見直し、収入・資産の多い人から税をより多く得る方向(累進性の強化)をはっきりさせてきている。今月6日には、民主党がその方向の公約原案を示した。
 今まで、政策遂行のために予算はいる、しかし余裕はない、無駄を削ろう、だが限界がある、では結局消費税の引き上げか。そんな枠組みで議論がなされてきた。ようやく別のことが現実的に語られている。
 税の大きな意義は、市場で多くを得た人から得られなかった人に、また、得る必要のある人に渡すことにある。そうでなければ、政府が強制して徴収する税という仕組みを取る必然性もない。その機能を果たす直接税、とくに累進的な所得税の役割がここ二十数年の間に低下した。その方が経済によい影響を与え、税収も増えるといったことが語られた。ところが、税収は減り、なすべき政策ができなくなった。昨年の所得税収は27年ぶりの低水準だった。
 じつは所得税を立て直さねばならないことは、政権交代前の政府税調でも認識されていた。だが消極論もあった。増税は敵をつくるという思惑もあっただろう、政党は選挙で争わず、報道でも経費節減と消費税にもっぱら焦点が当てられてきた。ただ1987年の税率に戻すと所得税収が1・5倍になるとの試算もある。
 政権が代わった昨年秋から事態は具体的に動き出した。10月に首相の諮問があり、12月に税制改正大綱が発表された。そして税制調査会の専門家委員会の顔ぶれを見ても、委員長ほか所得税の役割をより重視するべきであるという立場の人たちが多い。改革の方向は明確である。だが、異論も出されるだろう。累進性を強くすると高額所得者が働かなくなる。海外逃避が起こる。そして経済が悪くなる。根も葉もないことではないが、うのみにする必要もない。
 勤労意欲の喪失という懸念には、理論的にも実証的にも根拠のある異論がある。むしろ格差が大きすぎない方が多くの人は自分の仕事にまじめに取り組むはずだ。
 他方、国境を越えた逃避の可能性は考慮すべきことではある。ただ、税率をしばらく前に戻す程度のことで、税収の総額を減らすほどの国外逃避が起こることは考えられない。税制の安定は国際的な課題でもあり、既に長く逃避の規制はなされているし、国際的な協調・協力体制も十分ではないにしても存在する。
 政権の選択とは、基本的にはどんな社会にするかの選択である。公正・平等の方向に行くのかそうでないか。対立軸をはっきりさせた方がわかりやすい。本当に財源が足りないなら必要なものも我慢しよう。だがそんなはずはない。この素朴だがまともな認識からこれからの社会を構想しよう。税制の改革はその重要な一部である。

基本線

 いくつか加えておいた方がよいことはある。私は所得税だけをなおすのがよいと考えているわけではないし、最高税率を上げるといったことにいくらかの象徴的な意味合いはあるとはしてそうしたことだけでそう大きな効果が見込めるとも考えていない。消費税の引き上げにどうしても反対したいわけでもない。ただ、基本は今記したことである。
 様々な税に「取りはぐれ」が多いことはそのとおりで、比べて消費税は取りやすいと、また「水平的公平性」において優れていることも認めないわけではない。ただ、他の税のとり方がうまくいかないことには基本的な制度設計の問題もあるが、人手がかけられておらずなされるべき仕事がなされていないといった問題もある。取りにくいから他でというのも一案ではあるが、その前に、きちんと取ることが正しくまた可能なのであれば、そうしたらよいだろう。徴税に金をかければかけた分の五倍だとか十倍だとか税収が得られるとも言われる(『税を直す』五〇頁、六五頁・註11)。このごろなにかと費用・対・効果が言われるのだが、ならばこうしたことも考えられてよい、なされたらよい。
 次に、所得の配分・分配のあり方だけをとっても基本的にどうしたらよいのかという主題があって、税制はその重要な一部に位置づく。『税を直す』には「基本線」(二四−二八頁)という項がある。今年出してもらった齊藤拓との共著書『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(青土社)には「此の世の分け方についての案」(一六−二二頁)という項があり、おおざっぱではあるが、しかし同時に具体的なことを書いてみている。書かれていることはおおいに現状から乖離しているのであるが、しかし、そんなことは承知の上で、基本はこう考えてよいとはずだという線を引いてみることは意味のないことではない、あってよいことだと思う。
 さらにそのように私が考える「もと」の部分はどうなっているのか、それは幾度か書いてみていて、近いもの(そして易しく書かれたはずのもの)では、「中学生以上すべての人の」を謳うシリーズの一冊として『人間の条件――そんなものない』(二〇一〇、理論社)があるから、再説することはしない。
 ここでは一つ、さきの「国外逃避」について書いたことにも関係ずることを一つ、足しておく。そしてそのことは、とくにここしばらくは幾度も繰り返してきたことであり、それらの文章の一部をいくらか貼り合わせたものになっていることをお断りしておく。

税は保険でなく分権という語には慎重であった方がよい

 税の機能の低下とほぼ同時期に、というよりそのできごとを包括するような動きとして、社会保障・社会福祉が、そして政治・政府の機能が、「互助」→でなければ「救貧」、「保険」→でなければ「セイフティ・ネット」といった言い方で語られるようになり、そういうものであるということにされてしまった。そしてそこに「地方分権」の肯定が絡んでしまっている。この数十年についての私の基本的な見立てはそういうものだ。『税を直す』で税に関わる言説を辿って記したこと、『ベーシックインカム』でも触れたこと、そして『唯の生』(二〇〇九、筑摩書房書房)の第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」で述べたのはそのことだった。
 「公的介護保険」はその象徴的なできごとでもあった――誤解はないと思うが、私はその制度はないよりあった方がよい制度だと考えている。年をとって自分がどうなるかわからないから、「要介護状態」になるかもしれないから、その可能性に備えて保険をかけるという。その可能性は一人ひとりでだいたい同じだから、保険料も一人あたま同じ額でよいということになる。実際――税金も使われているからそう単純ではないが――介護保険はそういう制度だ。もちろん加えて、貧困・格差の問題があることは自覚され、何かすべきであるとはされ、それなりの対策は打たれる。けれどもそれはあくまで「最低限」をなんとかしようという筋の話になる。
 こうして、日本――に限らないのだが――の税金はこの間「多くあるところから少ないところへ、多く必要なところへ」というものでなくなり、「会費」のようなものに成り下がってきた。それはいくらか極端な言い方であるとしても、所得にせよ資産にせよ多くをもつ人が多く(多い割合で)払うという累進性がだんだんと弱められてきた。
 そしてこのことに分権の議論が重ね合わされてきた。保険的なものと分権とが「込み」にされ、かぶってしまっているということだ。つまり、例えば介助、「ケア」といったものは、「身近」なのものであり、それは「お互い」のものであり、だから「地方分権」の対象であり、そしてその財源は「地方税」ということでよく、そしてその税は「会費」のようなもので、「定額」あるいは「定率」の徴収によって「支え合う」ためのものであると言うのである。そしてそんな言い方で――国税については累進課税を維持するのはよいが――地方税については、定額、ということにはさすがにならないとしても、定率の負担でよいといった話が、守旧派というより改革・革新を標榜する側、標榜するだけでなく実際に熱心に押し進めようという側から言われることがある。現金給付/現物給付、所得保障/社会サービスという分割が中央政府/地方政府という分割に重ね合わされ、この時代に後者の重要性が増しており、よって地方政府の重要性も増しているといった論調がある。これらは、なにか「しりとり」のようにつながっていることはつながっている。しかしすこしでも考えてみれば、この話がおかしな話であることは言える(『税を直す』第1部第4章10節「分権について」)。
 その土地の人がよく知っていて、その土地の人が決めた方がよいことがあることは認める。また、地域によって事情が違っているもの、というよりは、違った方がよい場合があることも認めてもよい。また、とくに自前でやっていけると思っている地方の首長たち(や議員たち)が自分たちが決める範囲(権限)の拡大をもたらす分権を求めるのはもっともなことである。しかし私たちまでがその話にあらかじめ乗ってしまう必要はまったくない。
 まず、経験的・直感的にありがたい感じが私にはしない。例えば、いくらか私が関わって、知っているのは、介助サービス(のための費用)を引き出そうとするのだが、各自治体に支給の決定が委ねられ、多くの地域でまったく不十分で、それを拡大するのに各地の人たちが個々の場で多大の労力を費やさねばならないで来たこと、それでもなかなかうまくいかないで来たことだった。現実に、この「地域間格差」でひどく苦労している人たちがたくさんいる。苦労しているどころではなく、たまたま、例えば千葉県の某市に生まれ住んでいたがゆえに、長時間の介助を得られず、呼吸器をつけて生きていく生活を展望できず、死なねばならないといったことが全国各地で起こっている。
 こうした活動に携わってきた人たちにとっては端的に分権の何がよいのかわからない。私もそれを横から見てきたから、やはり不思議だ。例えば介助(介護)の水準が住んでいる地域によって変わってよい理由はどんなに探しても見あたらない。他のことについても、いろいろと考えていっても、かなりの部分は同じことが言えるはずである。にもかかわらず分権がよいとされている。
 そして、国家と国家との間にも起こりうるし実際起こっている格差、そして分配のあり方によって生ずる流入・流出の可能性、それに(再)分配策が制約される。さきにふれた国境を越えた「逃避」「流出」の問題も基本的にはこうした問題である。そして言うまでもなく、金のあるなしは土地によっても違う。それを補整することはその土地の中ではできない。高齢者の割合など人口の構成も違うし、産業も違う。地域間に格差が出るのは当然である。もちろん、分権推進論者たちも格差のことは承知しており、それをそのまましてよいとはせず、その調整・補正の必要は言う。ただ、本当に分権化された各(地方)政府間の交渉によってはそんなことはできない。
 田舎は田舎でやっていけるためにも、「社会サービス」に金を出し、人を雇うという今度の政権の基本路線――なのかよくわからないのだが、たしかそんなことも言っているはずだ――は正しいと思う。そのために、税は、広くから集めて、少ないところに、多く必要なところに渡す。本来は――税の安いところへの逃避のことを考えても――その単位は国家でも狭すぎるのだが、とりあえずは国がその単位になる。そして基本、建物や事業でなく、人に、個人に渡す。そうしたらよい。
 そしてまちがった「分類」「連想」「しりとり」をしないことだ。所得保障と社会サービスとは、制度としては分けた方が合理的な場合はあるが、なにか質的に異なるものであると考える必要はない。そのことは『税を直す』第1部第2章11節「所得保障と社会サービスは別のものではない」、また『ベーシックインカム』第1部第4章4「社会サービス」他で述べてきた。
 例えば、前者が現金給付で後者が現物給付であると決めてしまうこともない。前者にしてもその現金で「もの」が購入される。後者についても現金を政府から受けとり、それでサービスを購入することもできる――これが現物給付に比べてつねに優れていると主張したいわけではない。現に医療は、現金を受けとるというかたちにはなっていないのだが、政府が現物を給付しているわけではない。
 そして現金給付であれ現物給付であれ、(対人的な)社会サービスの供給を地方(政府)でということにはならない。地域によって必要が異なるといったことが言われる。だがこれも疑問だ。地域によって同じ生活をするのに要する金額も異なり、公的扶助についても地域によって差が設定されている。対人社会サービスの必要度の違いはむしろそれより小さいかもしれない。それと別に、サービスをする人の賃金が異なっているし、異なってよいという考え方はありうるが、それを受け入れるとしても、分権は必然ではない。
 もう一つ、近いからよくわかるといったことが言われる。ただ仮にそうだとして、(どんな水準の)地方政府にしても、そこそこに大きい。個別の事情をわかったり微妙に調整する必要がある場合があるとして、そのことは分権がよいことを示すことにはならない。これも繰り返し述べてきたことだが、財源を徴収し給付する主体と、その「現物」を提供する主体とは別に立てることができるし、多くの場合に分かれていた方がよいことも多い。そしてそれを提供する主体は、地方政府といった、かなり小さくなったとしても結局はそこそこに大きな組織である必要はない。そしてそのための資源(税)の徴収と配分は大きな単位でなした方がよい理由がある。
 にもかかわらず、国税と地方税とが別の原理によって支持されるものとされ、現にそうなってしまっており、そのことが是認され、地方税(的なもの)の方が主流になってよい、なるべきであるという言い方がなされる。今、(再)分配機能の低下が指摘され、それを改革するべきことが言われるのだが、それを主張する人たち自身もまたその改革されるべき現実を作るのに加担してきたとも言えるのだ。つまり、「会費」的な――つまり一人ひとり定額の、せいぜい所得比例的な――税によって――最低限の所得保障以外の――政策を行うことが正当化され、その方向に事態は進んできたのである。ここには、大きな、意図的ではないのだろうが、しかしいくらかでも考えれば気がつくはずの錯誤がある。それは正す必要がある。

■さらに本に記されていること

 最後にもう一度広告を。その『税を直す』という本は三部構成になっていて、私が書いたのは第1部「軸を速く直す――分配のために税を使う」。第2部は「税率変更歳入試算+格差貧困文献解説」でその第1章「所得税率変更歳入試算」でこちらの大学院の修了者で経済学を専攻する村上慎司が、所得税を一九八七年の税率に戻した場合に、二〇〇七年度について得られる税額がどうなるかという試算を行なっている。二〇〇七年度、実際に得られた給与額に関する源泉所得税が八兆七五七四億円、申告所得税が三兆七九七八億円であるのに対して、税率を戻した場合の増加分は六兆七五九三億円ほどになるのだという。その数字をどのように受けとってよいの私にはわからないところもあるのごだが、ともかくそういう試算をしてくれている。
 また、第2章 「格差・貧困に関する本の紹介」は、やはり同じ修了者で、各地にぼつぼつと出てきた(多くは非正規雇用の若年層の)個人加盟の労働組合の研究を続けている橋口昌治が、格差・貧困について、古いものもいくらか取り上げつつ、主にはここ十年ほどの間に出された本、なされた議論を紹介している。それに私がにわか勉強のために集めた税金・税制についての本を加え、文献表には六三〇ほどの文献があげられている。どんな流行廃りがあったのか、どんな言論とどんな言論が――時に互いを知らず、あるいは無視して――ある時期に並存していたのかといったことを見てもらうために、この本の文献表はあえて発行年順に並べた。(それだけではやはり不便ではあるので、著者名別の文献表はHPに置いてある。)有意義なものになっていると思う。手もとに置いていただければと思う。

◆立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009/09/10 『税を直す』,青土社,350p. ISBN-10: 4791764935 ISBN-13: 978-4791764938 2310 [amazon][kinokuniya] ※ t07, 


■この文章への言及

◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社


UP:20101018 REV: 20170428
税・2010  ◇税・税制  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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