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正義は語られた方がよいのだがどんな具合に語られているのだろう

立岩 真也 2010/10/15 『週刊金曜日』819:26-27
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 * 実際に掲載されたものは、編集部の手が入っており、以下の私がお送りした原稿と一部異なりますので、ご参考のため、原稿を掲載します。『週刊金曜日』お買い求めください。

 世間でどんな「正義」の話がされているかについては、今話題であるらしい書籍たちのことも含めて、ほとんど知らない。よくないことだと思うけれど、時間がなく、仕方がない。だから解説も論評もできない。ただ、すくなくともここ四〇年前から――そのあたりからおもに米国で「正義」や「規範」を語る、というか語り直そうというか、そんなことが始まったということになっている――そう大きく世の中で語られることは変わっていないだろうと思う。「自由主義」と訳されたりする「リベラリズム」や「共同体主義」と訳されたりする「コミニュタリアニズム」について、解説書の類はいくつも出ていてそれらを読めば、どんなものであるらしいかはだいたいわかると思う。むろん私にも言いたいことは幾つかあって、それはこれまでの書きもの――前者については例えば『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、二〇〇四)で、後者については例えば『良い死』(筑摩書房、二〇〇八)――に書いた。ここでそれを繰り返す紙数はない。
 で日本ではどういうことになってきたのだろう。やはりよくは知らないのだが、正義なんて「あつくるしい」という感じがあった――というか、そういうふうに人は受け止めるものだということになってきた――のだろうと思う。それで、歴史学も、人類学も、そして社会学も、なにか言いたいことがほんとうはあるのだが、それは表に出さず――さて表に出そうとすると、はてなんだろうということになったりもするのだが――「絡め手」でいろいろ言ってみるという時期が二〜三〇年ぐらい続いたように思う。もちろん、そうでない人たちもいて、例えば井上達夫は「正義」を語ることが気恥ずかしいことになっているけれども、私はがんばると言って、ものを書いてきた。そしてさらにもちろん、政治の世界やらでほんとうにあつくるしく様々が語られることは続いてきたのだし、ゆえに、多くの人たちはそこから引いてきたのでもあるだろう。
 私は、彼の地での――ときにたしかに精緻でもある――議論がよいと、とっかかりから、あるいは結果として、思わないところがあるので、格別の敬意を払っているわけでもないし、他方で日本の状況についても、そうなってしまった事情は――ここでは略すが――いろいろとあって仕方がないのかもしれないと思いはした。ただ、私自身としては、そういう、何がよいとよくないとかそういう議論の方に最初から関心があってきたから、どうもそんな人は数多くはないようだと思いながら、その仕事をしてきた。たしか、最初に出してもらった『私的所有論』(勁草書房、一九九七)が出た時の新聞のインタビューで「これからは正義――という言葉は使わなかったかもしれないけど――について論ずることが流行るんです」といったことを言った。それはたぶんこれからはそういうことでいきましょ、というはったりでもあったが、そうならなくもないだろうという予感のようなものもありはした。あるいは二〇〇六年の『希望について』(青土社)のIは「天下国家」で、そこには「たぶんこれからおもしろくなる」(書いたのは二〇〇〇年)といった文章が収録されてもいる。
 さてそれでおもしろくなったのかどうか。いわゆる政治・経済畑でそれを専門にしている人以外の人たちも、なにか「社会像」のようなものについて、あまり臆せずものを書くようにはなってきたように思う。それには、いくつかのまじめでまっとうな理由・事情とともに、ためらうことが作法であるという作法にも飽きてしまい、直接によしあしを言うことを避けて変化球を投げるという所作もなにかパターンが決まってしまってそれにも飽きてしまったということもあるだろう。また、人間というもの、年を取るとなにか怒りっぽくなったり、世の中に向けてなにか言いたいことが出てきてしまって、かつてはそんなふうでなかった人たちがそんな場に登場してくるといった事情もあるのかもしれない。そしてその「論壇」というものを、よくないことであろうとは思いつつ、私は追えていないのだが、いくらか心配な気がするところもないではない。そのことをすこし説明しよう。
 私は、「あつくるしい」と思われたその時代の議論の流れをむしろ継ごうと思ってやってきたのだと思うのだが、ただそこで言われたことは「粗い」と思えた。それで退屈であっても、議論は順番にやっていこうと思ってきた。そしてその点では、英語圏の議論の――最初のところがどうなの、という感は常に残るのだが、その後の――積み上げ方には一定の敬意を払ってきた。心配、と記したのは、そういうところが今どうなっているのだろうかということなのだ。もとは違う畑を耕していた人が、ある日から「正義」を語ったりすると、そのかつての畑での仕事の立派なこととは別に、危なかっしいことがあってしまう。そんなことを以前はよく目にしように思う。今はどうなっているのだろうといったことを思うのだ。
 さて、その私自身がどんな話をしているのかについては、簡単にもできるが、「自由の平等」とかあまり簡単に書くとすぐに終わるし、他方すこしでも説明しようとすると長くなってしまう。もうしわけないが、これまで書いてきたものを読んでいただくほかない。ここ二・三年の間のものとして、「死の決定」といった主題の本、「生命倫理」といった領域のものということにもなるのだろうが、『良い死』『唯の生』(ともに筑摩書房、二〇〇八・二〇〇九)を出してもらった。ただ、前者の本ではさきにもすこし書いたように、「共同性」だとか人と人の間の「距離」だとかそんなものをどう考えたらよいのかといったことについても書いてみている。またこの二つともが、この数十年というものをどう捉えることができるのか、それを書いてみた本でもある。また、政策について、とくにお金を巡る政策について、いずれも共著で『税を直す』『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(ともに青土社、二〇〇九・二〇一〇)を出してもらった。お金(の分け方)の話はとても大切だと思っているのでその話をしているのだが、やはり、これらにも、この時代におけるよしあしの語られ方がどんなものであったのか、あるようになったいったのか、それを追ってみようという気持ちがある。だから「安楽死」やら「税制」に強い関心があるという人でなくても、読んでもらえたらと思う。
『人間の条件――そんなものない』表紙  そしてもう一つ、この八月に『人間の条件――そんなものない』という本を出してもらった。ハンナ・アレントとも五味川純平とも――読んでいないのでなんとも言えないところもあるのだが――直接の関係はない。連載時に編集部からいただいた題をそのままにして副題を加えた。「中学生以上すべての人の」と謳う理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの一冊。漢字にはみなふりがながついている。恥ずかしながらだいたいこんな道筋で考えることになりましたという部分も含め、できること/できないことがこの世でどういう具合であって、それはどう考え直したらよいのか、これまで考えてきたことのかなりの部分を、わかりやすく――と本人は思っているのだが――書いてみた。ここで「正義」の中身の話ができなかった、その代わりに、読んでいただけたらと思う。


UP:20101016 REV:20101023 
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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