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もらったものについて・5

立岩 真也 2010/09/10
『そよ風のように街に出よう』79:38-44


 *『そよ風のように街に出よう』はとてもおもしろい雑誌なので、ぜひ買ってみてくださいませ。

何をしようとするか+宣伝

 書かせていただくのもう五回目で、そしてまったく順不同というぐあいになってしまっている。ただ、こういうものでも読みたいという人がいくらかはいるようなので、そのうち整理しなおそうとは思っている。そこで以下繰り返しも多くなる。
 障害者運動(の歴史)のことについてはまだまだ少なくはあるが、それでもいくつか本が出されてきた。今度、私の勤め先の大学院で博士論文を出された定藤邦子さんのその論文は、関西の障害者運動、とくに「大阪青い芝の会」の運動・活動を記録したもので、知らないことがいろいろと書かれており、そしてなによりその運動とその歴史がおもしろいから、本にしてもらおうと思っている。ただそういう障害者の運動を捉えるためにも、それが置かれた時代や社会について、いくらかのことを知っておいてもらう必要があるように思うところがある。そこで今までいくらか、遠慮がちに、「体制」とか「反体制」とかのことを書いてきた。それをさらにすこし広い範囲で書いてみようと思った。
 その前に、またそのために、一つ宣伝をさせてもらいます。今度、この八月に、理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの一冊として『人間の条件――そんなものない』という本を出版させてもらった。このシリーズ、湯浅誠の『どんとこい、貧困!』とか、このごろ売れているらしい本では西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』 とか、もう五〇冊以上出ています。私のは一五〇〇円。これでも私がこれまで書いた本の中では一番安い本です。そして、中学生からすべての人にというシリーズだということで、小学校四年生以上の漢字にはみなふりがなが付いている。一〇〇%ORANGEの及川賢治さんのイラストがたくさん付いている。手にとって読んでいただけたらありがたいです。
 そこでは、だいたいは私が考えてきたこと、中でも「能力」について、「できる/できない」ことを巡って考えてきたことを、できるだけわかりやすく、そしてこれまで書いてないこともすこし加えて、書いた。そしてその中で、(障害者運動が関係した部分については)「詳しくはこの連載を見てね」みたいな言い方もしながら、なんで、そんなことを私が考えることになったのか、右往左往したりしながら結局どんなことを言うことになったのか、個人史というわけでもないのだが、一九七〇年代の終わりから八〇年代・九〇年代と大学生・大学院生などしながら、いくらか経験してきたこと、そしてそんなところから考えてきたことを書いた。ここのところはこれまでそのままのかたちでは書いたことのないところでもあり、そこそこにややこしいところでもあり、大人でも、人によってはすぐに腑に落ちるということにはならないかもしれない。しかし、そういうことも書いた方がよいように思った。

さらに遡ったところから始める

 この『そよ風』がその一翼を担っている障害者運動が出てきたのは一九七〇年のころからということになっている。そしてその時期は、「大学闘争」とか「大学紛争」とか言われるものが起こっていた時期とほぼ重なる。そしてそんなことが起こったのはこの国に限ったことではない。その時期にベトナム戦争があって、それに対する反戦運動が、泥沼の戦争を続けていた米国他で起こった。日本にもあった。また日本では、水俣病をはじめとする公害・公害病の問題が――やはり日本だけではないが――ようやく知られるようになったということもあった。障害者の運動もそうしたものと無縁ではない。どのように無縁ではないのか。
 私は、その盛り上がったことになっている時よりは約一〇年遅れて大学に入った。その時代の直接の体験者ではない。私が二十世紀の偉人であると思う横塚晃一――「青い芝の会」の活動を担った人たちの一人――が亡くなったのは一九七七年だったが、その頃、まったく私はその人のこと、その人たちのことを知らなかった。ただ一九七九年に大学に入った時、大学の自治会で「養護学校義務化」反対の人たちと賛成の人たちが争っていた。その反対の側の人たちにいくらか関わることになって、そうして横塚や青い芝の会や「全障連(全国障害者解放運動連絡会議)」のことをすこし知るようになった。そうしてやがて、いつの頃か、横塚の著書『母よ!殺すな』を読んだ。初版は一九七五年に出ている。増補版が一九八一年に出ている(ともにすずさわ書店刊)。絶版・品切れになって長かったその本を、生活書院がこれまで収録されていなかった様々な文章・資料とともに二〇〇七年に再刊することになった時、私はその「解説」を書かせていただいたのだが(この部分はHPで読めます)、もちろん、当時、そんなことになるなどといったことはまったく思いもしなかった。
 その一〇遅れのその時期に私(たち)がどうだったかは、この連載の第2回(七六号・二〇〇八年)「就学闘争のこと」「学校について思っていたこと」「変革、は無理そうだったこと」「もう少し考えていようと思ったこと」にすこし書いた。そこでは、世の中ひっくり返そうみたいな話があったのだが、どうもそれは無理みたいということになり、それで、「撤退」ということになったこと、私は「それで終わりかよ」と思い、途中で投げ出した人を恨みながら、というか、「途中で放り出してしょうがねえ人だちな」と思いながら、じゃあ自分ならどうするのか、どうしたもんやら、すぐにわからないで、右往左往というような話を一つした。『人間の条件』にもそのことを少し書いた。
 で、障害者運動の側には、そういう「革命」とかいった場から降りたみたいな、いや降りてないみたいな人たちが一定流れてきたということがあったことを、前回・第4回(七八号・二〇〇九年)の「気持ち」「「体制」」にもやはりすこし書いた。そして障害者の運動について言えば、世の中を根本から変えるのは無理だから、もとの「日常」に戻ろう、元通りの社会で生きていこうというのではすまないというところがあったことを書いた。ほんとのところは変わらなくもたいして困らない人は、威勢のよいことを言っても、やめることができる。勤め人になればよいのだ。だが、このままの社会で生きていくのが難しい人は、そんなことは言っていられない。だから、さぼらないで、撤退してないで、考えたり、ものを言ったり、行動したりしなければならない(第3回の「嫌いだが別れられないということ」)。すると時には妥協するということもあるし、そのことを責められることもあるだろう。そのように責める人ももっともだが、それでも、そうすることもある。では、べったりと現実に追つていくのかといえばそうではない、そうはできない。そんな感じでやってきた。それは大切なことだと私は思って、そういう動きを知ったり考えたりすることから、とにかく投げ出さずに「地道に」考えていくことなんだよなっと思って、それから考えてきたことを書いた。
 まずおおざっぱにはそういうことがある。そしてこの件については、もう一つ、「反体制」の側の内部に対立があったという事情が関わっている(このことについても少し書いたのだが、いかにも中途半端だった)。それは日本共産党とそうでない部分との対立だった。後者は、以前あった社会党のある部分でもあった。また、そうでない「新左翼」とか「過激派」とか言われていた人たちもいた。とてもたくさんの数の「党派」があって、だいたいその人たちがかぶっているヘルメットの色とかマークとかで区別されていた。あるいは「全共闘」と名乗っていた人もいた。それは「党派」と関係があったりなかったり――ないことの方を強調する傾向があったが――した。関係がない人たちは「ノンセクト」などと言ったり自分たちで言われたりした。「ノンセクト・ラディカル」といった言葉もあった。
 そういうものがいったいなんであったか。そういうことを一切合財知らない人と、「過激派」の指名手配のポスターとかでなんかそういう人たちがいるらしいと思う人と、そういえばそういうこともあった、そんな時代があったなと思う人と、そういうことに関わったが忘れることにした人と、そんな人とじつはあまり変わらないこともあるのだが、なにか俺(たち)にも元気な時代があったと思う人といる。そしてそのおもに最後のグループの人たちのために、「懐古録」「武勇伝」みたいな本がけっこうたくさん出ている。ただそうしたもののほとんどには、障害者運動との関わりは出てこない。
 それは一つに、そういう本では、何色のヘルメットの人と何色のヘルメットの人が喧嘩してみたいなことが多く書かれ、そういう争いには、障害者のことはほとんど関係がないということもある。実際には、その「党派」のある部分は、その運動に関わってはいた。そして障害者の側も、他に人手がいない時には、たしかに頼りにせざるえない部分もあった。ただ、それはたいがいその「党派」の戦略・策略の中に位置づけられ、そしてそれらの中にはときに暴力的な対立関係にあった諸党派もあったから、それはけっこうはた迷惑なものだった。そこで、むしろ、障害者運動の方にしても、また一人ひとりの生活者にしても、そういう諸党派の影響力の排除に気を使うことになった。そしてそれにはけっこうな時間がかかったのだが、まあだいたいなんとかそれに成功してきた。この時期――その前からだし、その後もそうだったが――共産党や共産党系の組織は、それと主張を異にする部分、というか共産党に反対する人たち・集団を「極左冒険主義」「暴力集団」などと言って攻撃していた。そして障害者に関係する部分についても、そういう言い方、攻撃の仕方をしたのだが、それにはいくらか曲解という部分があった。むしろ運動側は諸党派の影響を排除しよう軽減しようと努めていたところがあったからだ。
 ただそのことは、共産党(系)の組織・人たちとそうでない人たちの間の主張の違い、対立が重要でなかったということではない。むしろ私は重要だったと思う。さきにけっこうこくさんあるというその当時を回顧した本たちには、たいがい「新左翼諸党派」の間の主導権争いだとか、衝突だとか、また警察の機動隊とやりあった話であるとか、そういう勇ましいというか血なまぐさい話が書いてあることが多いので、障害者運動の関係のことは出てこないのだが、それと別に、障害者運動、医療や福祉に関わる様々な批判的な運動、できごとについて、さきにも書いたように、私はかなり「遅れてきた」人なので、現場的にそう知っているわけではないのだが、けっこう共産党系とそうでない「左翼」の側との争いは大きな意味をもっている。そこのことにほんのすこしは触れてきたのだが、もうすこしちゃんと言っとかなければならないと考えた次第だ。
 ただ、そのことを含めて、いったい日本の障害者運動(の一部)がどんなものであったのか、あるものなのかを言うためには、さらに、遡ったところから言っておかなければならないようにも思った。そういうわけで、ますます順序が無茶苦茶になってしまう。すみません。

「左翼」

 「左翼」という言葉が、なにか最初から人をばかにする言葉、こいつはばかである――というのは差別語なんでしょうか――ことを言おうとする言葉として使われたりもすることがあるようだ。そのようなことを言う人たちにまったく関心がないのでよくは知らないのだが、よいことであるとは思わない。私自身は、もちろん――これから書くように、言葉の使い方によるのだが――穏健な左翼といったところだと――穏健でない人たちはそう言ってくれないかもしれないのだが――思っている。だからというわけではないが、あまり馬鹿にしてはならないと思っている。
 で、「左翼」って何か。各種辞典でも、HPならウィキペディアでもなんでも見てください。その語源はフランス革命革命後の国民議会で議長席から見て左側の席を、革命の急進主義を支持する勢力が占めたことにあるそうだ。
 で、中身としては、それは何か。それにはいろいろな意味の込め方があると思う。ただその一つの大きな部分は、貧困とか、不平等とか、いまどきの言い方では大きな格差のある現実に対して、そうではない社会がよい、そうでない社会にしようというところにある。(では「右翼」はその反対の人たちなのか。必ずしもそんなことはないところがすこし複雑なのだが、それはここではよしとしよう。)
 それをどのように言うのか。一つにそれは、資本家と労働者との間の対立を重要な対立だと考えるものだった。そこでは「搾取」という言葉が使われた。(今ではこの言葉もあまり使われなくなっている。この言葉を全面的に捨ててよいかというとそうでもないと私は考えてもいるのだが、そのことは、やはりここでは、おいておくことにする。『人間の条件』他に少し出てくる。)それは、労働者たちが十分に働けているのに、実際に働き、たくさんを生産しているのに、そうして生産されたもののからたくさん資本家が取ってしまっている、ピンハネしている、だから労働者は貧乏なのだと、それはいけないのだと、だからこの資本主義をやめてしまえばよい、別のものに取り替えればよいというのである。もちろんそのことだけを言ってきたわけではない。取り分(賃金)のことだけでなく、働き方・働かせられ方も問題にされたりした。そのことにも関係して、では資本主義とは別のものとしてどんなものがよいのかについてはいろいろと考え方があった。
 その一つのしばらくわりあい主流だったのが、労働者(プロレタリアート)を代表・代理する国家が企業を所有し、生産を管理すればよいというものだった。で実際にそういうことにしてみた国々があった。その最初が今はもうなくなってしまったソビエト連邦(ソ連)だった。その後いくつかがそんなことをしてみた。さすがにそんなことぐらいなら、中学校の教科書にも書いてある(のではないか)と思う。そしてそれがうまくいかなかったことについては、たいがいの人が同意する。生産・流通・消費がうまくこといかなかった。また、権力を集中させたことで、資本家ではないがしかし特権的な人たちが出てきた。そこでの勢力争いもあったた。体制を変えてもまだ敵が残っているとか、そんな理由で迫害も行なわれた。そしてそれはたんに被害妄想だとか、権力闘争だとかというだけのことでもなかった。そういう体制を支持しない国々の方が多数派で、そうした国々に包囲されて、革命がなされた後の体制を弱め覆そうというという力は実際に働いていた。それは経済を苦しくさせることにもなった。
 それでそういう体制がおおむね崩壊したのだということになっている。だいたいのところは認めてよいと思う。私にしても、中学や高校の時に、ソルジェニーツィンという人の『収容所群島』などといった小説を読んだりして、まずこの世で一番気持ち悪いというか、ぐったりした気分になったのはそういうできごとだった。ただ、そういう「弱点」「犯罪」自体は、相当に以前から、日本であれば第二次大戦で負けてたらそう経ってない頃には知られていたことではあって、その上で、「左翼」であるままで、そんなことにならないようにどうしたらよいのかということもずいぶんたくさん考えられ、試みられてきた。例えば国が全部管理するというのではなくて、一つひとつの組織を労働者たちが自分たちで管理するようにしたらよいといった案(「自主管理型社会主義」)もあり、実際にやってみたところもあった。また、結局、かなりの部分については自営・私営を認めるといった「妥協」もなされるようになった。市場経済を導入しようということになった。それでも結局うまくいかなった、だからそれは、例外的な幾つかを除いて、それなら普通に市場経済・資本主義でやっていった方がよいのではと思えるようなところなど幾つかを除いて、終わったのだという話になる。それも認めてよいところはあると思う。
 けれどまず、そういう失敗・不具合は、結局もとの経済体制に戻すのがよい、それが一番、ということにはならないこと、それが一つ。(私がものを書いているのも、もちろん、そんなことがあってのことだ。最近のものでは、さきに紹介した中学生以上向けのと、『税を直す』、『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、二〇〇九年と二〇一〇年、ともに青土社)。そして、抑圧的な政治・経済体制を熱心に批判してきた左翼もずいぶん前からたくさんいたのであって、ばかな人たちがとことん壊れるまでばかな体制に疑問を持たなかったということもない。そして、代わりにどうしたらよいものかという問いは、まだなくなったとも言えない。まずここまでのことを言っておう。この四十年ほどの間に様々になされてきた「協働」の試み、例えば「共同運(差別とたたかう共同体全国連合)」(→NPO法人共同連)がやってきたこと、やろうとしてこともそうした試みのある部分だとも言える。(当方のHPに機関誌の目次とかあります。青木千帆子さんが作ってくれました。「生存学」で検索→「arsvi.com 内を検索→「共同連」とかで出てきます。ちなみに「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」という短文を、二〇〇五年に『共同連』一〇〇号記念号に載せてもらったことがあり、それは二〇〇六年・青土社刊の『希望について』に入っています。)
 ただここでは、すこし違うところから、もっと「根」のところから見ていきたいと思う。つまり、「働いているのに取り分が少ない」という言い方で、そこから話を始めてよかったのかということだ。それは、本当は仕事はできるし、実際にできているのだが、それに応じただけ報われていないという話だ。
 私は、わりあい最初から、この話には乗れないなと思っていて、むしろ今の方が、こういう言い方にもいくらか理があると思いなおしているぐらいだ。では、なぜ乗れないと思うのか。それは障害者のある部分にとっては当たり前のことだと思う。「働けない」人にとっては、働きの一部が取られている、その全部を取り戻そうといった話をされても、よいことはないということだ。もちろんしかじかの条件があれば働ける、十分に働けるという人がたくさんいるのもその通りのことで、だからそのための条件を整えるように要求することがなされてきたし、それは正しいことだと思うし、その成果があがってきた部分もある。それもよいことだと思う。しかしそれでもやはり、できないものはできない、こともある。いろいろとできるようにすることによって、できて受け取れるようになることになることもあるとして、しかしそれだけでは「浮かばれない」ものがあるということだ。
 もちろんいつの時代にも、不平不満はあったし、生活の困窮はあった。だから、とにかくなんとかしてくれという要求はあった。そして、その主張のもとのところに平等という理念はあったから、そういう要求は「左翼」「革新」からなされる。またそうした集まりには入らない人たちからも、なされる。憲法にだって「生存権」のことは書いてあるのだ。だから、もちろん、何も言われないわけではない。実際の政治を動かしているのは政権党だから、政権を動かしている政党にすり寄ろうということも当然出てくる。ただ、左翼も、そしてやはりもちろん左翼でない側の人たちにもしても働いて受け取るという図式が基本にある。私がここで言いたいのは、左翼の側にあった思想「にしても」、働いて受けとるという枠組み(から受け取りが少ないことを言う)を受け入れていた、だから基本的には「体制」の側に乗っているということなのである。そうすると、この枠組みに乗らない人たちは、仕方がないのだ、こんなに困っているのだと、大変なのだと、悲惨なのだと、自らからや、あるいは「親(自分)亡き後」の子のことを訴える。救済を求める。そうするとその一部の要求は受けいれられる、施設でも作ってあげましょうということにもなる。そしてその前に、とにかくできるようになれば今よりはよくなるのだから、その方向での実践がなされる。
 そういう枠組みを変える、少なくとも疑うことがなされるようになることをこれから見ていくのだが、ただ基本は、今でもそうは変わっていないということもできる。逆の順番でもう一度言えば、すこし、いくらか、変わってくる。そんなことに関係することが、これから述べる時期にもあった。例えば一九七四年三月、今までよりは広い範囲で労働運動をやった方がよいということになって、「国民春闘」ということなり、そこで障害者団体との共闘が始まる。障害者行動実行委員会(障害者団体、春闘共闘委等)が福祉要求で統一行動を行なう。このあたりの、乗るには乗るが、しかし信頼しきることはできないといった気持ちは、さきにあげた横塚の『母よ!殺すな』の中にも出てくる。そして結局、春闘共闘は賃上げ三万円、障害者一時金二千円で妥結し、批判される。やはり、問題はこの社会の基本的なところにあるということになる。
 私の場合、そんなことを思ったのは、べつに障害者運動のことを知ったからというわけではなかった。むしろ、どんな人でも、いろいろなことが、様々な度合いで、できたり/できなかったりする。とすると、この社会では、そのことに関わって損得が違ってくる。その意味では、ある人たちとは言葉の使い方が違うかもしれないが、すべての人が様々な場面でいくらかずつ、障害者であると言ってよい。そしてそのことは、その損得の度合いが、人によって人が置かれている社会のあり方によって著しく異なることを軽視してよいとかいうことではまったくない。もちろんその損得の度合いは、その人の能力によって、そしてどんな能力を社会がどの程度必要とするかによって大きくは変わってくる。だが、小さいにしても大きいにしても、その損得の差があることがよいとは思えなかった。そういうあたりが私の出発点になっている。そういう場から考える人にとって、そういう考えを自分のものにしていると思うのが、日本の――ととりあえず言うことにするが――さきに記した時期以降の障害者運動であり、そしてその当時に現れてきた社会運動だったと私は思った。直接に影響されてということではないと思う。ただ私と同じことを思っている人たちがいると私は思い、そしてそういう人たちのことを知ったり、やってきたことを調べてみようと思ったりしたのだ。

やがて、という話もあるにはあったが

 するとなぜ、労働と労働者を基本に置いて前面に出して闘い、その立場から別のものを作ろうとしてきた運動と別のものが、同じ「左翼」から出てきたのかということになる。
 ただ、その前に、「労働者の王国」という方向の発想とは別に、というか同時に、それとはいくらか違う、というよりずいぶん違う社会像が、同じ運動の中にあったこと、同じ人にあったことは言っておかないと公平ではない。
 カール・マルクス(一八一八年〜一八八三年)という人がドイツに、イギリスにも住んでいたが、いた。私は今までにたぶん一回だけその人の書いたものにふれたことがある。『自由の平等』(二〇〇四、岩波書店)という本でだった。それは「ゴータ綱領批判」(一九八五年)という文書だった。と書いて、その自分の本を見たら、そうではなかった。たしかに註でその文書のことは出てくるのだが、そこではその内容を直接に紹介していない。
 ただそれと別のところの本文に、私の文章として「人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行う。人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行う。」というところがある。「ゴータ綱領批判」にある文章はそれとはすこし違うのだが、だいたいそんなことが書いてもある。
 それは、労働者が働いたものをほんとは全部受けとってよいのだという主張とは別の方向のものであることはわかってもらえるだろう。ではなぜ、そんな違う趣向の話が、同じ人の中にあったのか。私はその人の専門家でもないでもないので、よくは知らない。ただ、その人自身の話の中で、あるいはその後のその人の話の解釈として、最初は、まず「労働者の王国」を打ち立てるのだと、そのために企業だとかそんなものをみな、労働者を代表し代理する国家・政府が接収し、運営する。そうやってやっていくと、だんだんと生産も増えていくし、人々の意識も変わっていく。すると、やがて、「働く人は働く、受けとりたい人は受けとる」という社会ができる。そんな筋になっていた。そして前者の、第一段階が「社会主義」の社会であり、後者の、その次の段階の社会が「共産主義」の社会である、だいたいそんな粗筋になっていたと思う。
 するとまず、その先の社会を夢見ながらも、まずは第一段階を、ということになる。マルクス主義という思想・主張は、いろいろな面をもっているが、だいたいはそんな感じだった。だから、理想・夢想と、その前にやっておくべき戦いの主張・戦術とが両方ある、そんな感じになっていた。
 となると――おおかれすくなかれみながそうだとは言ったが、しかしそのおおかれすくなかれの度合いはずいぶん大きくもある――障害者たちにとっては、それまで待っていなさいということになる。それで納得した人というのがいたのかどうか。いたのかもしれない。しかし、なんでやがてそうなるのだろう。やはりそこはわからない。わからないので、私には現実味のないことだと思えた。
 そしてそんなことを私が思っていたその手前の時代に、「左翼」ではあるのだが、労働・労働者を、生産・生産者を前面に出すことをためらう、別のことを言おうとする人たちが現れた。それがさっき述べた、一九七〇年の前後のことだった。続く。

◇立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◇立岩 真也 2008/08/05 「もらったものについて・2」『そよ風のように街に出よう』76:34-39
◇立岩 真也 2009/04/25 「もらったものについて・3」『そよ風のように街に出よう』77:,
◇立岩 真也 2010/02/20 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44,


UP:20100722(原稿送付) REV:20101112
『そよ風のように街に出よう』  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇立岩 真也
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