◆2010/07/23 「どのようであることもできるについて」,加藤秀一編『生――生存・生き方・生命』,岩波書店,シリーズ自由への問い・8,pp.218-244
どのようであることもできるについて
立岩真也 2010 32000
■1 どのようにもという語
○自由について新たに書こうとすれば、きっとたくさんのことを書かねばならないだろう。それはここでは無理だ。そこで当初考えたのは、労働しない自由について、別言すれば労働の義務についてだった。ただそうして書かれた文章は、本書が出る前に、共著書『ベーシックインカム』(立岩・齊藤、二〇一〇)の第5章「労働の義務について」として収録されてしまったので、ここに収めてもらう必要もまたなくなった。
○そこでここでは、これまで書いてきたことから幾つか記し、そしてそれとつながり、まだまとまってはおらずこれから考えたいことを、幾つか述べていくことにする。
もう二冊、自由という言葉を題に含む本を書いてきた(立岩、二〇〇〇・二〇〇四a)。そしてたしかに自由は大切なものであると思ってきた。その場合の自由は世上思われている自由とそう違うものではない。ただ、すくなくとも「学問」において語られる自由とまるで同じものではないようにも思う。
例えば「あなたはどのようであることもできる」という言葉がある。その言葉が喚起してきたものがある。ただ、それは実際にどんなことでもできる、どのようでもあれるという意味において「自由」であるのかといえば、そんなこともないだろうと思う。実際には私たちはどのようであることもできはしない。ただ、その言葉で示されているのは、またその言葉が喚起したものは、そんな当たり前のことの反対の非現実的なことではないと思う。それは、この社会において規定されるあなた以外のあり方や生活があるのだと、それでよいのだというメッセージだったと思う。それと、「あなたは勉強して努力すれば、何にでもなれる可能性がある」というのとは違うように思う。そんな違いについて考える必要があるようにも思う。
■2 強く主張しつつ引くこともあったこと
社会運動の中で「自己決定」(という自由)の主張に「あられもない」とか「身も蓋ももない」といった言葉を冠しながら、私は、それを強く主張する側に、他に芸はないのかというほどそれを繰り返して主張する側に与してきたと思う。「自立生活運動」などと呼ばれることのある障害者たちの運動・主張である(安積他、一九九〇→一九九五)。近年、もっと「微妙」な――例えば本人とその人を介助する人の――関係に着目したりする研究がいくつも現われ、というかそれよりずっと以前から、もっと「泥臭い」「ずぶずぶ」の関係を大事にしようという流れがあって、それはそれとしてわかりながらも、基本的にその位置を取り続けている。
そしてまったく同時に、今記してきた運動は、その「決定」「自由」のある部分に懐疑的であってきた。端的に言えば「死の自由」を肯定しなかった。それをどう考えるのか。それが少なくとも一つの大きな主題であることは、最初の著書だった『私的所有論』(立岩、一九九七)の序で述べているし、このことについての私の考えはその本と、その後に続く何冊かの本で述べていて、変わっていない。そうややこしいことを言っていないから、そのことについては、それらを読んでもらえばよい。
ただ一つ、それらに書いたことにも関わりながら、自由を巡って思ってきたことは単純なことでもあって、それは、普通に考えれば、あるいは考えなくとも、私(たち)が世界に対してなすことよりも、世界から受けとるものの方が大きいということだった。そして世界のそのほとんどについて私はなにごともできはしないが、そのことはなにほどのことでもない。(しかし、そのように世界を感受しているのは私であるために、その私は私が生きていることへの執着から脱することは、残念ながら、できない。)もちろん、何を今日は見たいだとか聞きたいだとか、そんなことはあって、その「選択(の自由)」はときにとても重要なことである。重要だから大切にするべきである。そして振り返って見れば、さきほどあげた「あられもない」自由の主張も、たいていはそんな、自分の身体を自分が見たい世界の方に――例えば遠くの山が見える窓の方に――向けたいといったまったくもっともで慎ましい主張であったのだ。その上で、私には「受けとる」ことの方が大きなことであると思い、それを誰にとっても当たり前のことだと思いながら、しかし自分でもいくらか懐疑しながら、実際にはどんなものなのだろうと思って、それでいくらかを調べて『ALS』(立岩、二〇〇四b)といった本も書いた。
以上からだけでもごく基本的なことは言える。人の行ない、行ないを指示する決定、決定の自由がずいぶん大きなものにされてしまっているということである。そんな素朴な視点からでも、今言われていることについて、ずいぶんたくさんのことは言える。言えるはずのことが言われていない。それことについてだけ書いてもよかったかもしれない。ただ、すこし先に進もうと思う。
■3 むしろ不要なものを外すこと
私にとって――得られるべきだと思い、気持ちを喚起するものとしての――自由とは、具体的には、一つに、自己の生産物の自己による取得という規則Aから逃れることであり、そして別の規則のもとで生きられるようになることであり、そして自分のなすことが自分の存在の価値を規定するという価値Bから逃れることだった。
なぜそれらはよくないのか。まずは単純である。規則Aについては、その規則があるために、すくなくとも他の人よりも(自由に)生きがたい人たちが現われるからである。生産が(たくさん)できない人が、したいことが(たくさん)できないということである。ただ、したいことがたくさんできたらよいとしても、得たいものを得るためには自分であれ他人であれなにがしかのことをせねばならない。また、働くこと自体が快である部分はあるが、そうでないこともある。とするといくらでも求めて得るというわけにもいかない。「自由の平等」というあたりが「おとしどころ」だろう。自由と平等とは対置されるがそんなことはない。『自由の平等』(立岩、二〇〇四a)にそのことを書いた。
価値Bについて。私は何かであるという認識はたいがいの場合にある。そして私は何かでありたいと思うこともある。そんなことから逃れることもない。そしてその中には、何かを自分が行なうこと、何かを自分が達成することもある。人がそんなことに熱中してしまうことがあることを否定しないし、またできない。ただそれを超えて、手段が存在を「凌駕」するという言葉を使うのだが、そんなことが起こることがある。生きるためにできることはたしかに必要なのだが、ここで、できることは手段であり、大切な手段であるのだが、手段でしかない。ところができないことが自分の生存を否定することになる。それはおかしなことであると考える。そんなことが実際にあるだろうかと思われるかもしれない。しかしある。それがはっきりと現れるのは、さきにすこしふれた死の決定の場面、みじめな自分(の生)よりも死を選ぶ時である。『弱くある自由へ』(立岩、二〇〇〇)に収録された「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」でいくらかのことを、『良い死』(立岩、二〇〇八)『唯の生』(立岩、二〇〇九)で長々と、述べた。この時代に言われてきてしまったこと、なされてきたしまったことを振り返った。
では代わりに何があるのか。それを積極的に言う必要はない。「唯の生」がその位置に置かれることになるとも言えるのだが、つまりそれは、そこになにか特別の内容が規定されないということでもある。しかしそれでいけないだろうか。私たちには、その人のことを私の都合で決めたくないところがある――そしてそのことが私のためであることがある――のだし(立岩、一九九七)、また自分がどうとでもあるようにして生きられるのがよいと思っているのだし――規則A・価値Bの否定はなにも「利他心」からだけ導かれるのではない、「私のために、から届く」(『自由の平等』第3章「「根拠」について」第1節)――、そのことが実現されることがよいと考えてきたはずなのだ。どのようであるかにかかわらず、生きていられるようにする。(ここから言えることはAとBの否定だけではない。ただ、ここからAとBがだめだと言うことはできる。)
自由という言葉には様々な――そのままに受け入れたくはないものも含む――意味が込められているから、その語を第一のものとして使うのがよいのか迷うが、しかし自由を最初にもってくる言葉として使うのなら、そんなふうに生きられることこそが自由ではないか。すると、私たちの社会にある規則と価値とはそれを阻害する。だからやめよう、それが無理ならいくらか軽くしよう。たったそれだけのことだ。私たちはもっと自由であってよいという主張に共感し、私を自由にしてくれといった言葉に感じいってきたのは、結局そういうことだと思う。
以上は、次に述べる選択の自由と同じものでない。規則Aがあることも価値Bがあることも、規範や価値のある型が設定されているということにおいて、自由ではないとは言える。他のあり様がありうるのにそれが一つに決められることが問題だと、そんなふうに言って批判することもできなくはない。しかし、それがA・Bが否定されるべき基本的な理由ではない。
様々な選択肢が等価なものとして目の前に並んでいてその中から選ぶといった構図自体、実際にはありえない。そのことをこれから述べる。そんなことが求められているのではなく、この社会にあって生を苦しくしているものがなくなること、なくならないとしても減ること軽くなること、そしてそうでないものがあることがよいことだと、それが――自由と呼ぶなら――自由だと私は考えてきた。そうである必要がないのに、そのことによって生が制約されることによって、もっとよく生きていけないことが問題であると思う。規則Aに対置されるのは規則がないこと、あるいは様々な規則が選ばれるものとして並べられることではなく、Aでない規則が立てられることである。価値Bに対置されるのも同様である。多様な価値が並列されることでなく、Bでない価値がある――そのことはずいぶんと多くの価値を包摂するのでもあるが――ということである。
■4 なぜ決めること選ぶことがよいのか
ただ、自由についての「学」で言われていることは、こんな簡単なこととは違う。人生について、人生の様々について、より多く選んで決めることがよいと言われる。決められる幅が広い方がよいと言われる。それが自由であると言われる。なるほどとも思うが、しかしそう単純でないのではないか。直感的にそれは違う、すくなくともいくらかずれているような気がする。所詮人生は自由にならないのであるから、それに甘んじろといった人生訓のようなことを言うつもりはない。選択は大切である、決めることは大切であることをおおいに認めながら、いくらか述べる。
決定の自由は、さきに見た規則A・価値Bとそのまま同じものではない。さきには自分ができなければならなかった。しかし、ここでは決めること選ぶことが大切であるとされる。それもまたたしかにできることの一部ではあるが、決めたことの実行は、他の人に委ねてよいともされうる。一般には、積極的自由/消極的自由を分け、思うことの実現を他人・社会に請求できる積極的自由を「行き過ぎ」であるとし、(自力による)実行を妨げられない消極的自由だけが認められるとされることも多いのだが、そうは考えないなら、それは例えば身体が動かない人にとっては歓迎してよいことになる。実際、その人たちはそんな意味での自己決定を旗印に掲げてきたのである。
その上でも、選択肢が多いとよい、幅が広いとよいと言われると、怠惰な人はためらってしまうはずである。選ぶのに手間がかかって仕方がないというのである。ただそれについては、何段階かに決定を分けて、おおまかな方向を決めてから細かなところを決めればそう手間はかからないだろうといった反論のされようはあるだろう。
それは認めた上のことなのだが、その人が決めることがなにゆえによいのかと考えてみよう。例えば足が動かない人がいる。他方に足が動く人がいる。前者は車椅子を使う。後者は自分で歩くこともできるし、車椅子を使うこともできる。選択の幅は後者の方が広い。よって、後者の人の方がよい。あるいは、例えばある人の方がある人よりも職業の選択肢が広いということはある。すると前者の方がよいということになるか。そんなことを考えるためには、なぜ当人が決めること選ぶことがよいのかを考えることである。
まず、第一に、決めること選ぶことそれ自体が、そしてさらにそのことを行なえることが、そしてそのことを行なえる人がよいと言えるだろうか。そんなことを言う人はいるが、私にはその理由がわからない。例えば決めたり選んだりすることは人間に特有の行ないであるとされる。そうかもしれないしそうでないかもしれない。言葉の定義によるだろう。だがここでは、そうだと、つまり人間に固有なことであるとしよう。だとしても、だからといって、そのこと自体がすばらいしいことであるとは言えない。人間に固有なことがすばらしい、その理由がわからないからである。(『唯の生』の第1章「人命の特別を言わず/言う」などでこのことを述べた。)
すると、決めること選ぶことがよいのは、それが誰かにとって、誰かにおいてよいからよいということになる。そして、その人に選ばせるのが他人たちにとってよい――多くの場合には逆であり、本人に選ばせるのは他人たちにとっては面倒なことである――という理由を措けば、決めること選ぶことは本人にとって、その本人についてよいからよいという理由が残る。
するとたしかに、第二に、その人にとって自分が選ぶ方がよい。人には好き嫌いがあって、その人が選べる時には、その人は自分が好きな方を選ぶだろう。するとその方がその人自身にとってよいだろう。だからその人が決めた方がよい。そしてそれは、他人による妨害を防ぐためでもある。他人に決めさせるとその他人は多く、その他人の都合のよいように決め、それはしばしばその人に害をもたらすだろう。だから本人が決めるのがよい。
第三に、その人を尊重するべきであるとしよう。そして、その人が決めること選ぶことは、その人がいて生きていることの一部であり、その人の自らの望みの表出である。とすれば、その人が決めること選ぶことが尊重されるべきであるとなる。
こうして、決めること選ぶことがあらかじめよいことであるとしないなら、その人にとってよいから、またその人に対してよいからよいということになる。とすると、第一点から、また第二点から、もし本人の選択・決定が、本人にとってよい結果をもたらさないことがあるのであれば、その人の決定をそのまま受け入れる必要はないこと、受け入れない方がよいことがあると言える。つまりパターナリズムが正当化されうることが示される。また、他人たちが本人を侵害しないのであれば、また侵害しにくい仕組みをうまく作ることができるのであれば、代理決定もまた認められてよいことが示される。人間が政治的人間であること、政治的決定主体であることはよいことであるのだが、しかしそんな存在・主体でなければならないとも言えないことになる――「本題」が『人間の条件』ということになった本(立岩、二〇一〇)のT「できなくてなんだ」の7「他人は信用できない、から自分で」の後に[補]として「民主主義」という節をおいて、このことを述べた。
パターナリズムという言葉はあらかじめ評判の悪い言葉だが、しかしそれを全面的に否定できる人はじつはいない。人がよいと言うことが実際によいか。そうでないことはしばしばある。そんなことがあることはすべての人が認める。ただ、正しく情報が与えられており、かつその人が理性的であり、その人の言葉がある場合にはどう考えるか。ここから立場は分かれていく。
まず社会的な環境が決定を左右することはよく言われる。例えば、金がないので死のうとする。それは社会の問題であり、状況を変えることはできるのだから、その言葉をそのまま受け取れない。それはそのとおりであり、このことの認識は大切である。そして認識だけしていても仕方がないのだから、実際に変えるべきものを変える必要がある。たださらに価値についてはどうか。その人の価値が死を導くとき、そのことについて何が言えるのか。その価値が社会的に形成されているからという言い方では、十分ではない。形成されていることはほぼ事実であると言ってよいだろうが、価値が社会的に形成されていること自体は、それがよいこともよくないことも示さないからだ――「社会的――言葉の誤用について」(立岩、二〇〇六、二五六頁以下)。とすれば、その価値自体について考えそのよしあしを言うことになる。この時、その人においてその価値がどのぐらいその人の身についてしまっているかは考慮せざるをえないことではある。とくにその人においてそれが深く信じられている時、それを否定することは、その人を否定することにもなりうるからである。ただそんな場合にも、その人に対してなにも言いようがないわけではない。
次に、以上からは、選ぶこと決めることの幅、自由度がよい大きいことがよりよいことであることはそのまま肯定されない。その人においてよいことがあるために選択はあると考えるからである。わかりやすいのは、その人を毀損するような選択肢がある場合である。それも含めて選択肢が増えたとしても、それがよいことだとは言えない。そのように言えば、選択を第一に置く人たちから、そんな場合は想定していないと言われるか、あるいは、そのよしあしの判断は各自に委ねればよいと言われるかだろう。たしかにことのよしあしを容易に決することのできないことはある。また、述べたように本人に代わって他人たちが決めるなら、その他人たちの利害が入り込むことがおおいにあることも認める。ただそれらを認めた上でも、選択肢の形・内容がどんなものであれ、あればあった方がよいことを示すものではない。ここまではまず言える。
次に、さらにもうすこし立ち入ったことを考えてみたい。以下のようなことを言うと、わりあい簡単に自由を語る人も、それを聞けばそれはそうだとわかってくれるのかもしれない。またそんなこまごましたことまで考えて自由を語っていないと言われるかもしれない。ただ、私は、そうしたことごとを確認していくことが大切だと思っている。
■5 選べないものを選べるものであるかのように語る誤り
選択や決定を肯定的に一般的に語る人たちの中には、人はつねにどちらにも偏っていないスタート地点にいるといった想定があるように思われる。だが現実に私たちには、身体においてまた私たちが住まう個々の社会・場所において、不如意なことがたくさんある。そしてそのあり方は人々において異なる。既に人は身体をまとっているし、既にしばらく生きている。私たちは同時に二つの人生を生きることはできない。ある様式の生をしばらく生きれば、それがその人の様式になる。その様式が板についてしまう。よくもわるくもなく、そういうものだ。例えば成長につれて、選択肢が広がることもあるだろうが、例えばその地の生活の環境に慣れることによって、狭まることもあるだろう。としたら、狭いこと、狭まることがいけないことだと言えるのだろうか。
もちろん私たちは、与えられたもののすべてを受け入れたいなどとは思わない。また受け入れろなどとは言えない。その中には逃れたいもの除きたいものがある。例えば病から逃れたいと思う。それが可能なことも不可能なこともある――可能である時にはそれはすでに所与の動かしがたいものではなくなっている。だがそれほどの危機をもたらすものではなく、そこにあるものもある。あるものはあるのだから、それ以上のことを考えても仕方がないから、たいていの人はそのことのよしあしなど考えない。そしてその中に自分が大切だと思うものはないかもしれないが、ある場合もある。それも選んだのだと言うこともできよう。ただ、すくなくとも中身の選択はしていないし決定もしていない。そんな部分が、人が生きていることの相当の部分を占める。まずそれは事実である。
ある人Aにとって選択肢が三つ、ある人Bにとって選択肢が四つあるとして、Bの方がよいと言えるだろうか。ここで、選択を正当化するのは、選ぶことがその人にとってよいからよいということであったことを想起しよう。選択肢があることがよいのはその人にとってだった。しかしその人は既にそのようである。しかし、いま「よりよい」と言われる時には、その人が今あるあり方と、そのようにはなりようのないあり方との比較がなされている。しかし、そんなことを言われたって仕方がない。既に選択肢が三つあり、そして四つはないAがいる時、この比較は意味をもたない。
選びようがないのに、もし選べたらとしたらどうするかとか、選べるなら選べた方がよいかなどと言われたら、それ自体がおかしなことである。仮に選択肢があったらその方がよいと言われるとして、しかし仮の話は仮でしかない。
経済学や政治哲学の論者は個々人間の比較不可能性をよく言うのではあるが、しかしこの場面について言われることがないのは不思議だ。比較に意味がある場合、比較がなされるべき場合はたくさんある。比較して大きなそして不当な差があり、そしてその差のあるもについてある人からある人に移動されることによって、減らすことができるなら、それはなすべきである。しかし、そんなことが想定できない場合には、それはおかしな営みになってしまう。しかしそのことに気がつかれないのか、気にされないようなのだ。これは奇妙なことである。規則Aをうまく修正したり解釈しなおして平等の方に向かおうとし、「弱者」への配慮を口にする人たちにおいても、与えられたものの扱いが下手ではないかと思った。例えば「ハンディキャップ」のある人に対してなにごとかはした方がよいとして、しかじかの金を積まれたらその状態を引き受けてよいと、架空のこととして、誰か一人が言ったら、その額の金を社会は支払う、それをもってなされるべきことがなされとするといった議論があるのだが、それはおかしくないか。私はおかしいと思う。そのことを(立岩・齊藤、二〇一〇)の第6章「差異とのつきあい方」で述べた。
これは狭い意味での身体的な差異に関わるだけだろうか。あらかじめすべて決まってしまっているわけではなく、「社会」がその選択肢を与える場合にはどうか。その場合であっても、必ず常に選択肢が多い方がよい、選択の幅が広い方がよいと言えるか。このことをどのように考えていったらうまく言えるのかまだ私にはよくわからない。ただ、今思うことを記しておこう。
たとえばある人がある地域に生きる。そうすると嗜好がそれに規定されていく。それはその幅を狭めることもあるだろう。たとえば朝飯にはしかじかのものしか食べられない、食べる気がしないといったことになることがある。他方、そうでないより多様なメニューのある生活・居住の環境といったものもまたあるだろう。では後者の方がよいと言えるのだろうか。
だんだんとしかじかしか食べられなくなった。これは選択であるとも言える。どうしても嫌いなものがある人はいるのだから、ここでも選べることはやはり大切なことではある。その上で、だんだんと、ときには知らぬまに、嗜好・選好は決まっていく。すると、結果として幅が狭まることはある。するとそれはよくなくなったということなのだろうか。それは選択の「結果」であるから、その限りで、つまり選択肢の幅が狭まったことも、大切なことである選択によるのだから問題はないのだという言い方はある。そんな部分があること、あってよいことを否定しない。しかし、決めてそうなった部分はそう大きくはなく、なんだかわからぬまにそうなってしまったということ、そんな部分の方が大きかったりすることもありそうだ。そしてそれは住む場所によって変わってもくるだろう。
ではその時、やはり選択の幅がより大きいことはよりよいのだろうか。その経緯について、あの人にはこんな機会があればよかったのにと思うことはあるにしても、すくなくともその結果について、いずれがよいと言えないように思う。その人はその地で暮らしてきたという事実があって、そのこと自体は、その人の選択肢を減らしたとしても、それはよくないことであるとは言えないように思う。ただ、では与えられたものを受け入れればよいということになるのだろうか。それもまた違うように思える。こんなところが考えどころなのだろう。
例えば、男ならしかじかしなければならない、女ならしかじかするのだが当たり前だといった規範があるといった場合はどうだろう。少なくない人たちがそれを制約として受けとってきた。そしてそこからの自由を求めてきた。それはもっともなことだと思う。ただここでも、その主張が、選択肢がより多い方がよい、選択の度合いより大きい方がよいという主張であるのか、それは微妙だと思う。
ある人たちは決まりきった、と見える人からは見える生活を送っている。そうしてその様式に固着しているのは、選択を行なったその結果であるといった理屈を言うこともできよう。ある文化圏にいる人なら、「ライフスタイル」を選んだ結果だと言うこともあるだろう。しかし、そんなことは思いつかないしまた言わない人たちもまた大勢いることだろう。なんとなく、狭まって、そんな人になってしまった。ただそれだけのことであることもあるが、本人はそれにいくらかの愛着やこだわりをもっているといったこともある。そしてそうした人がいること、そうして暮らしていることがなにかいけないと考えるなら、それは違うのではないか。
そんな場面のことが気になる。人々もまた気にしてきたはずである。決定・選択を当然と認めた上で、なにか違和感をもつとしたらなんだろう。それをうまく言うことを私たちはあまり行なえてきていないように思う。そんなことを考えるという主題があると思う。
■6 むしろ何をしてしまっているか
一つに、大きなものを選ぶとか小さなものを選ぶとか、そんなことをどのようにして決めているのだろかと思う。単純な数の問題でないことは明らかである。選択肢は、その料理に塩を一グラム入れるのか、一・二グラムなのか、等々、いくらでも細分化することができ、数はいくらでも増やすことができる。では幅なのだろうか。だが幅にしても、やはり定規で測れるようなものではないはずだ。
その基準をどこに置くのか。あらかじめは決まっていない。けれども例えば誰かと誰かを選択の度合いについて比較する時には、そこに基準はあるはずだ。でなければ比較できない。まず、その本人の選択などと言いながら、そのことをどのぐらい自覚しているのかである。
さきに、選択が支持されるのは、選択自体に価値があるというより、その選択がその人に対して有する意義・価値によるのだと述べた。このことが認められるなら、結局、基準は、その人においてという、その場所にあることになる。その人にあるものが、またその人の周りにあるものがその人自身にとってどんなものなのかである。ではそれは、その人が語ることを受け入れることと同じだろうか。近いがまったく同じでもない。これはさきにすこし記したパターナリズムという主題になる。その人の言葉を常にすべて受けいれるということにはならないはずである。その上でしかし、その人にとってどこまでが手放せないものとしてあってしまっているのか、そのことに対していくらか敏感であること、あるいは、それがわかるかどうかはひとまず別として、そのことを認めるということだ。
そして一つに、その制約が、誰か力の強い側の人たちの都合によって定められていることがあって、そんな場合に、私たちは強く反撥するのだろうと思う。だから問題は、狭められるあるいは決められるということが、その人を害して不当に利を得ようとしている、そこからなされている場合には、それはいけないことだとし、それを非難しようとしているということではないか。
他方、そうでない場合もある。生活のために使えるものが限られており、それが動かしようのないものとしてあることがある。資源の制約などあって、選ぶ幅を用意できないといったことがあるだろう。その時、現にあるものまた現実に可能な範囲以外のことを考えないようにするというのはもっともなことではある。その場合には、むしろ制約があることを知らせた方がよい、存在する枠を超える選好を持たせることは酷であるといった場合があるだろう。
もちろんそれは、状況が変われば変わる。そしてときに微妙である。当人に決定・選択を与えないことの口実に使われる可能性がある。実際の可能性はあるのに、子を自分のところに引き留めたいその理由として制約が示されるといった場合がある。「どうせ無理なんだから」という言い方が、その人を引き止めるときに使われる。ただそんな場合ばかりではない。
以上述べたことは、次のような例によっても支持される。他人たちの都合のために本人に幅の広い選択肢を与えることがある。そうしてやる気にさせる。すると競争が働いて、その結果うまくいくことの方が少ないが、それでもうまくいく人もいる。役に立つ人材になる者も現れる。だから可能性を見せる。それが常によいかである。よいと判断しないのであれば、都合によって選択肢を与えなかったり与えたりして人生を左右する、そのことが不当なのだと考えられている。つまり、ここでは選択肢を与えること自体がよいこととされるのでなく、それがその人に何を与えるのか、誰がなんのためにその人に与えるのかが気にされているのである。だから、非難されているのは、他人たちの都合によって人のあり様を決めてならないという規範への違背なのである。
そして取られるべき態度は、選択される選択肢のメニューであるにしても、あるいは事実に関わる認識の枠組みであるにしても、それらはさしあたりのものであって、他にあるのかもしれないということではないか。それは端的に黙するということであってもよいのだし、わからないと言ってそのままにすませるということであってもよい。あるいはなにかの天変地異のようなものの影響とすることもできるかもしれない。少ない数の選択肢や認識の範疇しかそこに用意されていないとしても、それら「以外」のなにごとかが起こってしまうことがあってしまうことがあると考えられているのであれば、それでよいのだとも言える。ならば、近代・現代社会でない社会が、つねに範疇を固定させ、抑圧的であるのかどうかも即断できないということにもなる。
例えばある人に男でも女でもないという感覚がある。与えられた枠組みにうまく収まらない性的な違和がある。そのようでありたいことを願うこともあるとして、ここまではまず、どうもそうであるらしいという感覚がある。そんな現実がある。普通、男であることもまた女であることも、それが選択の対象であるとは意識されていない。ここでなされるとよいことは選択肢を増やすことではない。人がいかようであることもできるということではなく、人はどのようであるのかわからない、すくなくともその余地をいくらか残しておかなければならないということではないか。わからないことがある、決められないことがあるということであり、そんな余地があったらよいということではないか。
■7 相手に阻まれる時
以上は、何かが、自らにおいて選択の対象でないようなものとして現れてしまうことがあり、それを自分から切り離せないことがある時のことだった。ただ他方、私の欲望や行為は他者に対して差し向けられるものでもある。とした時に、その私の思いが相手に受け入れられないことがある。それはその相手から見れば、その相手である人にも選択の権利があると言うことはできる。ただそれは、私の側から見れば選択が実現されないということでもある。この時にどうなるのか。選択、決定という基準からは決められない。(双方において合意された行為だけが認められるという答の出し方はあるが、つねに合意が条件であるという立場を取らないのであれば、これは答であるとは言えないことになる。)こんな場合についても私たちはいくらか繊細さに欠けていると思う。
私(たち)の側の「恣意」が許される場があり、他方にそうでない(そうであるべきでない)場があるということだ。あるいは、許される部分とそうでない部分とが同時にあるということである。そんなことを考えないでどうして自由とか選択とか言えるのだろうと思う。
さきに、その人にあってしまうものについてそれを認めるしかない、認めればよいのだと述べたが、そのように人に対していない場面、そしてそれが許容されてよいと考えられる場面に二つがある。
それは一つに、労働・生産・交換に関わる場面である。たしかに私たちは、誰かに働いてほしいと思う時、働けない人を選択しない。そういう選択をしている。また一つに、好悪が許容される場がある。ある二者の関係は、相手が好意をもつことにおいて成立するがゆえに、その相手のたしかに恣意であるところの好悪が否定されない。好きでない相手をつきあう相手に選ばない。この時にも選んでいる。ここでも相手方の選択は許容されるのだった。そしてそれは、人々のかなり多くの幸不幸を規定しているはずである。私たちは、そのことを、そしてその次のことを考えるべきだ。
労働を得る場面で選択は許容されている。一つに仕事のこと。生活のための手段を生産することであり提供することである。その人の仕事・生産物が、他者たちに受け入れられないことはある。相手の好みはむろん様々に可変的でもある。また仕事に就ける就けないは様々な事情によって左右されており、その事情を変えるべきであること、例えば仕事を分割し分配するべきことは私も主張してきた(立岩、二〇〇六、一三八頁以下)。しかしその上でのことだが、人々がどんな仕事を必要とするかどんな生産物を必要とするか、そしてどんな人を必要とし必要としないか、そんなことは残る。人々の選好がどのようにも変わる、また変えるべきであるということではない。ある仕事をしても、それは相手たちに評価されない、仕事として評価されないということがある。そもそも仕事に就けないことがある。
仕事に就きたい人は、その仕事を選び決めようとする。しかしそれはしばしば果たされない。その理由は、その当人にしばしば選択できるようなものでない。他方、相手方は選択している。その行動を変えられないわけではない。しかし、そもそも必要なものを得ようとする時に、必要でないものを選ぶことには無理はある。
その意味では、誰もが知っていることだが、「職業選択の自由」といったものは、実際にはそのまま実現されることはない。その希望や選択は、このようにして遮断される。限界がある。まずそのことは事実として存在してしまっているのだということであり、この意味でどんな可能性もある、などと言えないことは言うしかない。ではここで話は終わるかということだ。
このような場面がこの世にいくらでもある。このことについて「自由」は何かを言うだろうか。きらいなものは選ばなくてもよいという相手方の自由によって、その選択は是認されるのだろう。しかし、そうして、この世界で、たくさんの「自由」は実現されないのもまた事実である。そんなことがたくさんあるのに、一方で自由を言いながら、しかし実現されないのは仕方がない、終わり、で、何か言ったことになるのだろうか。
ここで私たちが言えるだろうことは、その人が、またその相手が生活のための手段として必要としまた提供されるものについては、各々の必要に応じ、また各々の能力に応じてやりとりされてよいということである。それと同時に、その一人ひとりが暮らしていくのに必要なものの受け取りをどうするかは、それとまた別のことだということである。
つまりその人は、役に立つをものをもっていないのだが、そのことと別に、そのことから「自由」に、生活をすることはできるし、できてよいということである。そしてこのことはさきのA・Bの否定から導かれることでもある。仕事をするということは、多くの場合、たんなる手段と言い切れないところはある。そのことは事実として認めよう。そしてその仕事ができないのは、たしかにその人にとって残念なことであることはある。しかし、できないことを結局否定することはできない。とすると、そのことはそのこととして認め、同時に、その人はその人として在る、そのことを認めると言うしかない。価値Bはそれをあえてつなげてしまう。そのつながりを、基本的には、切断するべきだとしたのである。そのことによって、人は、他者による選択から、正しくは選択が規則Aと価値Bとを介して与えられる害から自らを防ぐことができる。
それはなにかずるいことだろうか。それは違う。それは規則Aを正しいことと置き、価値Bを真理として置いた上で、そこからの逸脱を「逃避」とする立場から言われることである。実際、その人がいることはいやおうのない事実としてあるのであり、そのことを認めようというのだ。このことによって、人が何かにならねばならないという圧力を減らすこと、それができることであり、またなすべきことであるということになる。
他方、今のように手段として人を求めるのではない場合はどうか。ここでは、その人と、その人のあり方とを切り離すことはそもそも困難であるように思われる。そもそもその関係自体が求められているからである。ここで相手方に拒否されてしまうことはある。これもまた仕方がないと言わねばならないことはある。それは選択がもたらすたしかな不幸であるが、しかしその関係自体がそのような契機とともに成り立っている。つまり、私の希望がそのままに実現する――そのままに実現するのであればそこに他人はいないのと同じである――と限らないことにおいて、その関係は成立しうるのだから、その契機を消滅させることもできないし、そうするべきでもないということになる。
とすれば、それはただ「甘受」されるべきことであるのか。この場面についてはそう言える。そう言うしかない。しかしそれでも、その場面においても、その同じ人が、世界の他の諸場面において、選択・選別の対象とされ、不利な立場に置かれることはないようにすることはできる。そのように社会を仕組むことはできる。つまり、どこかで私たちは個別の人々の「恣意」を否定できないし、またするべきでもないのだが、そのどこか以外のすべての場においては、それと別様にその人に対することができるし、また対するべきでもあるということだ。それはその人のあり様を毀損しないという価値によっている。
■8 境界
こうしてむしろ問題は「境界」を巡るものである。そして『私的所有論』でいちばん考え、苦労して書いたのは、そしてそのようにはなかなか読んでもらえないのが、このことについてだった。そこがいちばん大切だと思った。
私(たち)の考えでは、ある人が生産したものは、その人のものであるとはいえないということになる。しかし他方で、人は人に対する「不可侵」を認めているし、また認めるべきであるとも考えているだろう。となれば、その自由――他人たちが請求できるその範囲についての自由度といってもよい――の境界を別に引き直す必要があるということになる。あるいはこの言い方は正確ではない。実際には別のところに境界は存在するのに、私たちの社会と私たちの社会にある学説は、間違ったところに線を引いてしまった。そこで、もとにある線を探して、それを確認する。私がしたのはそのような仕事だったと思う。
自分にとって手段であり、制御でき譲渡してもよいと思うものは――きまりA・価値Bが言うのと反対に――その人固有のものではなく、他人たちもまたそれを請求して受け取ってよいものである。難しいことではない。自分が売買の対象にしてよいものは自分にとっての手段であり、譲渡を予定しているものであった。そこで生産者による生産物の取得という図式がいったん否定されるなら、その人にとって手段であるものを、その人だけのものにするべきだという理由は残らない。
他方、その人にとって制御する対象でないもの、そして切り離し、譲り渡してしまいたいと思わないについては、他人もまたその譲渡を要求してはならない。もちろん実際には、仕方なく、人は、生活のために売りたくないものを売ってしまうことはある。しかし、そうせずにすむなら、つまり手段がうまく分配されているのなら、そんなこともせずにすむ。
つまり、自由にならないもの(でその人がそこに置こうと思うもの)についてはその人のもとに置かれる、自由にでき譲渡の対象にしようとするものについては、分配の対象になる。簡単に言うとそういうことである。
こうして、人々が本当に――とあえて言うが――信じており支持しているものは、規則Aは価値Bとはまったく別のもの、むしろまったく裏返しになったものだ。
妙な話だと思うかもしれない。しかし、よく考えていくとこれは理にかなったことであると思う。そのことは証明できる。例えば価値Bについて。人が消費するための手段を生産すること、生産できることが、その人の価値を示すという考えはやはり、おかしい。まず、その理由を聞いたことがない。そして、生存のための手段が生存を超えてしまい否定してしまうのはやはりおかしい、倒錯している。
また普通に言われるのは、自分が作り、作るがゆえに自由に処分してよいものこそがその人のものであるということなのだが、私は逆に、そういうものこそがその人固有のものではなくて、分配の対象になると言っているのである。手放そうとするものは、その人においても他に人に使われることが予想されていたのだから、もしその人に独占的な権限がないのであれば――ないと言える――それは他の人々に分けられ使われてもよいものだというだけのことを言っている。
ともかく、こんなことごとを考えないで、どうして自由について何かを考えると言えるのか、私にはわからない。
■文献
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也,藤原書店、一九九〇、『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』、藤原書店 →一九九五 増補改訂版
立岩真也、一九九七、『私的所有論』、勁草書房
――――、二〇〇〇、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』、青土社
――――、二〇〇四a、『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、青土社
――――、二〇〇四b、『ALS――不動の身体と息する機械』、医学書院
――――、二〇〇六、『希望について』、青土社
――――、二〇〇八、『良い死』、筑摩書房
――――、二〇〇九、『唯の生』、筑摩書房
――――、二〇一〇、『人間の条件、――なものない。』、理論社
立岩真也・村上慎司・橋口 昌治、二〇〇九、『税を直す』、青土社
立岩真也・齊藤拓、二〇一〇、『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、青土社
■文献解説
*僭越ながら拙著だけを取り上げさせていただく。
◆立岩真也、一九九七、『私的所有論』、勁草書房
「生命倫理」に関わる本として紹介してもらうことが多いのだが、そしてたしかにその主題に関わるのだが、この本で一つ言えると思って言ったのは、本文に記したように、世界にあり人々にあるものの何がその人のもとに置かれ、何が人々の間に分けられものとしてあるのかだった。
◆立岩真也、二〇〇四、『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、青土社
序章「世界の別の顔」であってよい社会のあり方について項目を列挙した。第1章から第6章の章立ては「自由による自由の剥奪――批判の批判・1」「嫉妬という非難の暗さ――批判の批判・2」「根拠」について」「価値を迂回しない」「機会の平等のリベラリズムの限界」「世界にあるものの配置」。
◆立岩真也、二〇〇八、『良い死』、筑摩書房
翌年に出された続篇にあたる『唯の生』とともに、死の決定、死の自由であるとも言える安楽死・尊厳死について考え、このことを巡って言われなされきたことの歴史を追った。それが、自らが決め、自然でもあり、他者たちをも思う営みであるあるとして、肯定できないこととその理由を述べた。
◆立岩真也、二〇一〇、『人は違うものを信じている』、理論社
本文総ルビ入りという「よりみちパン!セ」シリーズの一冊。だから、できるだけやさしく書こうとした。ただ、学生の頃からを含め、なぜこんなことを考えているかを書いた。そんなこともきっと必要なのだろうと思ったからだが、結果、それはこの本の中で難しい部分になったかもしれない。