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いのちとはなにか

立岩真也さんに聞く

立岩 真也 2009/11-12 『Fonte』
不登校新聞社 http://www.futoko.org/

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■1〜2

・関連書籍

◇立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,
◇立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360 [amazon][kinokuniya] ※ et. English
◇立岩 真也・有馬斉 2012/10/31 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 [amazon][kinokuniya] ※ et. et-2012.

『良い死』    唯の生    『生死の語り行い・1』表紙


◆2009/11/15 「尊厳死・安楽死――いのちとはなにか 立岩真也さんに聞く・1」
 『Fonte』278:2

――尊厳死・安楽死はいつから問題になったのでしょうか?

 病気を苦にした自殺・自死がいつ始まったか、といえば、それは古いには古いでしょう。病も昔からあるし、自殺も昔からできますし。ただ、日本で立法化が前面に出てきたのは1970年代の後半からです。1976年、日本安楽死協会(現・日本尊厳死協会)が設立され、いわゆる「尊厳死法案」が提出されました。法案は国会で廃案となりましたが、その25年後の2003年にも「尊厳死に関するよう法律案要綱」が、日本尊厳死協会から発表されました。この問題にまつわる詳細については『良い死』 『唯の生』(筑摩書房)でくわしく書いています。私は基本的に尊厳死法に反対する立場にいます。

――尊厳死について考えると、死ぬ間際に「苦痛」が長引くのはよくないだろうと思うのですが。

 もちろん苦痛を長引かせるのは、よくありません。痛いより痛くないほうがいいです。そしてたしかに医療によって苦痛を完全になくせることは多くありません。けれども苦痛を少なくすることはできます。すくなくとも昔に比べて痛みに対する対応はできるようになりました。このことについて尊厳死の推進派も同様の主張で、実際に苦痛を理由に尊厳死を求める声は少なくなりました。

――次に「経済的な問題」ですが、医療費を保障する医療保険への財政圧迫が指摘されています。

 まず、お金はかかります。これからもっと高齢者は増えるので、もっとかかってくるでしょう。しかし、人間はなんのためにお金を使うかと言えば、生きているために使うわけです。腹をくくるほうが健康的だと思います。
 国家予算レベルで言うと、どれくらい財政を圧迫することになるのか。いろんな試算がありますが、終末期医療(亡くなる一カ月前)にかかる費用は、年間8000億円や1兆円だという計算もあります。人口で割ると一人一万円。その百倍かかっても、みんなが震えるほど、社会を破綻させるほどの負担ではないと私は思います。
 すこし冷静に考えると、体が衰弱して動けなくなって手術をするような治療も必要じゃなくなってくると、医療費はそうかけようがなくなるという面もあります。福祉の関係についてもある程度そう言えます。大ざっぱに言って負担額はそれほど深刻なものではない、と言えます。
 それから私がよく言うのは、お金で換算するから足りない気がするんだ、と。お金ではなく「現物」で考えたほうがいいんです。現物は2種類しかありません。人と人以外の物です。物といったら例えば人工呼吸器ですが、冷蔵庫より鉄は使いません。次に人手の問題です。世の中を見渡すと、仕事をしたくてもできない人がいっぱいいます。高齢化というのは寿命が延びることと、動ける時間が延びるという両面の可能性があります。働きたい人がいて、人の動ける時間が長くなっているんですから、動けなくなった人へのケアする人手が、国内にかぎってもあるに決まっているんです。それともう一つ、費用がかかるからやめてよいのかということです。社会保障費の効率化だとか言って治療・救命を止めたらだめだという答えだってあります。その答えでよいと思います。
 しかし、実際のケア現場は、お金が足りず、人手も足りず、家族の負担も大きいものです。それは、高齢者や障害者を支えるための社会の仕組みがどこかおかしい、ということなんです。仕組みがおかしいのですから、仕組みを変えればすむことです。

――最後に「自己決定」の問題です。なぜ他人が死に際を決める権利を奪えるのか、最期は潔く死にたいと私は思うのですが。

 この問題は非常に大きくて、『良い死』では、多くの紙数を「自己決定」にまつわることに割いています。
 石井さんは、有名なミュージシャンや作家が、早くに亡くなったことを「かっこいいな」と思う。それはありだと思います。ただ、薬(やく)やって、喉にゲロ詰まらせて死んでしまったのを私たちは祭り上げてしまうようなところがありますよね。人間は観念で生きています。そういう観念として思うことと、いざというときに思うことは、ちがうことも多いと思いますよ。
 たしかにいまは、年を取って、体が動かなくなって、排泄も自分じゃできず、チューブにたくさんつながれる、そういう「自分は許せない」と思うかもしれません。「許せないのは自分なんだからいいじゃないか」と言うかもしれません。
 でも、その否定している対象は、想像のなかの「自分」なんです。いまの自分と、何十年後かの自分は連続していますが別人です。未来の自分をいまの自分が決めつけられるほど、いまの自分はえらいんでしょうか。
 動けなくなったら価値がない、死ぬに値する自分だ、と思うこと。それは「自分」のことではなく、そういう人間は、死ぬに値するほどいやだと思っているということなんです。私も自分が弱っていくことはいやです。いやだけれど、それと動けない自分は死んでもいいと思うことは別です。動けない自分は死んでもいいと思うことは、そういう状態で生きている人に対する侮蔑だとも思うのです。
 障害を持っている人は、この問題に敏感です。なぜなら、たとえば脳性マヒの人は、勝手に口が開いてしまったり、体がよく動かない。若い人が高齢者を見て「ああはなりたくない」と言うけれど、脳性マヒの人は「ああはなりたくないって言うけど、それはオレのことか」と。自分のことだから「自分の価値観でいいじゃないか」と言うかもしれませんが、その理屈がすべて通るわけではありません。そういう状態を「気持ち悪いと思うな」と言ってるわけではありません。けれども、その人の生存を否定することはダメなんだ、と。そう思うんです。
 自分が変わったらいやかもしれないけど仕方がない。そして変わったとしても、その生存が、なんら否定されるわけじゃない。そう思えるほうが、本人にとっても楽だと思いますし、社会システムもその価値観に沿っていったほうが、いいと思っています。


◆2009/12/01 「尊厳死、家族の判断――いのちとはなにか 立岩真也さんに聞く・2」
 『Fonte』279:2

――前号でお聞きした話で、尊厳死・安楽死に反対されている理由が掴めてきました。

 安楽死・尊厳死に反対するのは、もっと現実的な話でもありす。去年、介護をしている大学院生から、こんな話を聞きました。
 60歳ぐらいの男性が、ALS(筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経疾患)にかかり、医者から告知された。男性は独り身のために家族のケアも期待できない。男性は「じゃあ治療はもういいです!」と病院に言ったそうです。ALSは進行性の病気で、介護、そして呼吸が苦しくなれば人工呼吸器なしでは生きられません。でも、男性が介護者にこぼしたのは「もういいですって言っちゃたけどさあ……」と。
 この男性は「もういいです」と、死を自己決定したとも言えます。私は絶対自殺しちゃいけない、とは言いません。そして最終的に自死は他人には止められません。しかし、なぜ自死を選ぶのか、そこには理由があります。誰だって他人から「もう死にたい」と言われたら理由を聞ききます。その理由が、なんとかなりそうなものなら、その人のために努力します。人は理由もなく、他人の「自分の決めたこと」を認めてないのです。
 ならば他の自殺の場合だけでなく、高齢による病気や障害の場合も同じはずです。「もう充分に生きた」「残される家族に迷惑をかけたくない」と思い、命を絶とうと思うことはあります。その思い自体は否定しませんが、「そんなことはしなくていい」と応じていく道筋があるんだ、と思うわけです。
 尊厳死・安楽死の場合は、「自己決定ならば」と理由も聞かずに死を認める。じゃあ、誰がまっさきに自己決定を迫られるか、それはやっぱり動けない人、高齢者であり、障害者なわけです。そこに問題を感じているわけです。

――重篤で本人の意志が確認できない場合、家族に判断が委ねられる問題については、どう考えられていますか?

 いろんな場合があります。言葉ではなくとも本人の意志が伝わってくる場合もあります。意識はあるけれとも、その意志を外から確認できない場合もあります。ないのだろうけれとも、そのことの確認ができない、あるいは難しい場合もあります。そしてその意志や気持ちを推量するしかない場合はあります。
 僕たちは本人を見て、いろんなことを思います。もう見ているのがつらいとか、苦しそうだかとか。でも、それはあくまでも、他人の私が思っていることだとわきまえないといけません。誰もがその意志がわからず、わからないなりに推量するとき、家族に優先権があるとすれば、それは、本人を以前から知っていてその推量が他よりあてになるかもしれないということだけによります。家族だから、という理由ではありません。
 ただし家族というのは本人と最大の利害関係を持っています。この20年間ほど、ずーっと言われてきたのは、本人は治療を望んでいないのに、家族が生きさせたがっている、というシチュエーションです。たしかにそういうこともあります。けれども逆の場合も多いんです。家族が本人の生存を望まず、その方向に仕向けようとするといったことは、私が実際に知っている範囲でもあります。
 家族にとって、本人を生きさせるのはお金がかかったり、時間をとられたり、身体が疲れたり、たいへんなことがあります。死んでほしいと思って不思議ではない。ですから、家族に任せておけば本人にとってもOKだ、という発想は神話です。
 本人の気持ちを推量するしかないことはあるでしょう。それでもわからない場合は、「人間は生きているあいだ、たいがいは生きたいもんだ」という、そもそもに立ち戻ればいいわけです。それはおおむねまちがえません。

『良い死』   唯の生

■3

・関連書籍

◆立岩 真也 20130520 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※

◆2009/12/15 「出生前診断・選択的中絶――いのちとはなにか 立岩真也さんに聞く・3」
 『Fonte』280:2,

――胎児の異常を判定して中絶する「出生前診断・選択的中絶」についても、著書で指摘されていますが

 出生前診断・選択的中絶が議論になったのは1970年代以降のことです。具体的には、障害者運動の側から、出生前診断は優生思想に基づくものであり、障害者の抹殺につながるという批判が起きました。女性運動からも出生前診断が優生思想に基づくものだとして批判が起きる一方、出産に関する権利、親の「産む・産まないの自由の保障」が主張されました。双方の間で議論もありました。この主題については『私的所有論』(勁草書房)で考えてみました。こちらのHP(「生存学」のHP、http://www.arsvi.com)にもいろいろと資料など掲載されています。
 非常にシリアスな問題や選択を含む問題なのですが、私の考えを一言で言えば、出生前診断はよいことではない、と。何がいけないかと言えば、どういう人間が生まれてくるかを他人が決めているからです。どういう人間が世の中にいてよいかを決めることは、究極的には自分たちの都合や好みによるところだからです。実際には自分たちの都合や好みで、他人のことをいろいろと制約していますし、コントロールしたいという欲望も否定できません。だけど、人のありようを人が決めること、それは基本的にダメで、なるべくしないほうがいいことなんだ、と。
 他人とはどんな存在であるのかと言えば、それは、自分が決められない人、決められても決めない人、決めたくても決めてならない人のことである、と思います。自分がその人のなにもかもをコントロールできたら、それは他人ではなく自分です。私たちは、他人をコントロールしたいという欲望を持ちつつ、他人が自分じゃないから、うれしくも思えるんじゃないでしょうか。もし、自分だけ、私だけがこの世界に存在していたら、それはすごく退屈なことです。
 こういう考えからもう一歩踏み込んでみると、自分のことを自分で考える、自分で決めるというのも、大切なことですが、ときには退屈なことでもあるんだと言えます。

――最後に「いのちとはなにか」という質問をさせてください。

 去年、慶応大学で最首悟さんと講義をしました(『連続講義「いのち」から現代世界を考える』岩波書店)。そこで最初に話したのが「いのちのことはわかりません、おわり」と。今回もそういうことです。
 「○○とはなにか?」という問いは、よくわからないことがあるんです。その問いに意味がある場合、ない場合、何を問うているのかわからない場合、答えてもしかたがない場合、答えないほうがいい場合、いろいろな場合があります。
 すくなくても、私には生きているということがどういうことなのか、よくわかりませんし、わからなくてよいようにも思います。そして、いのちとはなにか、その問いに答えようとする欲望が私には足りません。また、いのちとはなにかという問いに、答えがなくてもよく、一つじゃなくていいとも思っています。べつにいのちの大切さやすばらしさなどをいっしょうけんめい言わねばならないとも思いません。死ぬより生きているほうがいいだろう、というぐらいのことです。だけど、もっともらしいことを言って、他人に「死んだほうがいい」などと言っている人たちには、「それはちがう」と言ってきました。それを説明するのは私の仕事です。

――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)


UP:20100101 REV:20140818 
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