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良い死/唯の生

立岩 真也 2009/11/10 『ICUとCCU』33-11:1-6(医学図書出版
特集:集中治療における終末期医療:新たな提案)
http://www.igakutosho.co.jp/magazine/icu-ccu/index.html


 *校正済

■要約(日本語・400字以内)

 第一に、日本救急医学会の「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」について、読んでもよくわからないところがあることを例示する。第二に、日本集中治療医学会学術集会のシンポジウムで著者が話したことでもあるが、その当のシンポジウムも含め、伝えられ教えられるべき内実が定かでないのに、そのことを飛ばして、応用と教育に議論が移されていくことには問題があると述べる。第三に、この主題に関連する筆者の著書『ALS』(2004)、『良い死』(2008)、『唯の生』(2009)についてごく簡単な紹介を行う。

■要約(英語・200字以内)

 This paper deals with good death/sole life and examines three things. First, the author focuses on "Guideline concerning terminal care in emergency medicine" which is published by Japanese Association for Acute Medicine and illustrates some incomprehensible parts. Second, the author poses a question of why many discussions skip the facts to be delivered and move to application and education, as the author spoke at the Annual Meeting of The Japanese Society of Intensive Care Medicine. Third, the author briefly introduces his three books of Immovable Body and Breathing Machine(2004), Good Death (2008) and Sole Life(2009).


勧告・ガイドラインについて

 二つの課題が与えられていると思う。一つは、勧告・ガイドラインについて、一つは学会のシンポジウムについて。まず前者について、ごく簡単に。
 以下に紹介する本を読んでいただければわかることだが、それらでは、あらゆる場合にあらゆることをするべきであるといった主張はなされていない。私の心配は、もっと長く生きられる人が、生きられないことになってしまっていることが、この社会に、現に、多くあることに発している。他方に、何をしても無駄であることはあり、無駄であるというだけではよくないことであると言えないとして、なされる処置がむしろ加害的なことがあり、よした方がよいことがある。だから、勧告とガイドラインの背景にあるものに、了解できるところはある。ただそのために、これまで存在してきた法・規範以外のものが必要であるのかは考えられてよいことである。また、誰かの選択・決定の問題であるのかも考えられてよいことである。むしろ、救命のために医療を行なう、救命のために益のないことはしない、そのことを明示すればよいのではないか。
 私自身、この春まで務めた倫理委員として、ある病院の規定の作成に関わることがあって、そうした議論をしてきた。その経緯は『唯の生』の第4章「現在」第4節「倫理委員会で」に記した。その委員会はずいぶん長い時間をかけて熱心に議論をしてきた。そしてそこで私自身も迷ってきた。ただそこに記した考えにも理はあるはずだと思っている。御一読いただければありがたい。
 ここでは勧告・ガイドラインの二つの一方の、そして一箇所についてのみ指摘しておく。日本救急医学会の「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」で、1「終末期の定義とその判断」について、「救急医療における「終末期」とは、突然発症した重篤な疾病や不慮の事故などに対して適切な医療の継続にもかかわらず死が間近に迫っている状態で、救急医療の現場で以下の1)から4)のいずれかのような状況を指す」として、4つがあげられている。例えばその2)は「2)生命が新たに開始された人工的な装置に依存し、生命維持に必須な臓器の機能不全が不可逆的であり、移植などの代替手段もない場合」と記されている。
 ここに記される「状態」と例えばこの2)の「状況」とがどのような関係にあるかである。「死が間近に迫っている状態」であり、〈かつ〉例えば2)のような「状況」にあると読めばよいのか、それとも、「間近に迫っている状態」の一つとして2)があると読めばよいのか。その前に、「生命維持に必須な臓器の機能不全が不可逆的である」なら、その臓器は生命維持に「必須」なのであるから、「新たに開始された人工的な装置」はその必須の機能を代理しているわけではないのだろう。となるとそれは何をしているのか。しかし、「生命は…依存している」と書かれているからには生命は維持されている、と解せばよいか。となると、それは「死が間近に迫っている状態」ではない。となると、さきの「状態」と「状況」とは別のものであって、「間近に迫っている状態」であり「かつ」と読むべきなのだろうが、それでよいか。また3)には「現状の治療を継続しても数日内に死亡することが予測される場合」と記されているが、「間近に迫っている状態」と「数日内に死亡することが予測される」とはどのように関係しているのか。「数日内」は「間近」なのか。他にも「など」「ような」といった表現があるが、これは何を指しているのか。こうした素朴な疑問が当然に生ずる。以上は一箇所についての例示である。
 死なずにすむ人が死ぬことになってしまうことを心配している人たちの心配もまたもっとものように思える。さきに記したように委員の一人として、こうした厄介で面倒な議論に私も関わったことがあるから、その苦労はわかる。なんと言ったらよいものやら困ってしまうことが多々ある。しかし、何ごとかを言おうというのであれば、やはり、これではよくないと思う。

シンポジウムについて

 次にシンポジウムについて。そこでの発言の記録はないから、まず、「報告要旨」として送った文章を、要旨の体をなしたものではないが、以下に再掲する。

 「拙著『良い死』『唯の生』(ともに筑摩書房、2008・2009)で考えた。また『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)でもいくらか述べた。その中からいくつかを取り出しお話しすることになるだろう。例えば一つ、「無駄な延命」「機械による延命」「スパゲッティ症候群」といった言葉のこと。集中治療室という語も病院が否定的に語られる時にその象徴として持ち出される。もっともである。たしかに居づらい病院の中でも集中治療室は居づらい。しかし、それにただ「自然な死」や「畳の上での大往生」を対置するというのも、ずいぶんと乱暴ではないか。あらかじめ否定的なあるいは肯定的な価値の与えられた言葉がいくつもあるのだが、その何がよく何がよくないのか。一つ、「事前指示」について。自分のことをよく知っているから自分が決めるのはよいとして、自分の知らない状態を決めることはどうか。そしてもう一つ、またそれを言うかと言われるのではあろうが、それでも挙げる。たしかに居づらい病院に、それでも仕方なく人は行くしかないのだが、行けなかったり、辿り着いてもすぐ追い払われる。やはり順序としてはこのことが先に考えられるべきではないか。」

 実際には、時間の制約もあり「いくつか」も述べることはできなかった。そして、そのシンポジウムの編成について、また、そこでの話のなされ方について思うところがあったので、そのことにはふれた方がよいだろう思ってそのことを述べた。このシンポジウムに言及した文章を再録する。『看護教育』(医学書院)に本を紹介する「医療と社会」という連載を行なってきた(2001年〜2009年)。そこでさきの二冊の拙著を紹介させてもらったのだが、その一回、2009年6月号に次のように記した。なお以下の引用中にはそのシンポジウムについての『Medical Tribune』の記事からの引用もはさまれており、いささかややこしいことになっていることをお断りしておく。

 「書いたことについて、批判してもらえるなら、いくらでもしていただいたらよいと思う。ただ、気になるのは、今、この主題を主題として考えることを素通りして、「その次」に行こうとしている、そんな流れになっているように思えるということだ。
 そのことは『良い死』の最初の方で書いた。その本の序章は「要約・現況」となっていて、一つには、忙しい人のために、要するに私はどのように考えているのかを短く記した。『通販生活』に掲載された文章を使った。そしてもう一つに、今学問や言論がどんな具合になっていると私が思うのかを書いた。第3節が「考えてきただろうか」という題になっている。
 そこで、2005年11月、東京大学のCOE「死生学の構築」関連の催し「ケアと自己決定」で話したこと、同年の12月に熊本大学でのシンポジウム「日本の生命倫理:回顧と展望」で私が話したことから引用している。
 思うのはこんなことだ。哲学者や倫理学者がものを考えることをやめているように思われる。それでよいのか。よくない。学者であってもなくても考えるべきは考えるのがよいだろう。しかしなんだかそんなことはもう終わったかのようにされており、「応用」「教育」の時代になったかのようである。その教育の仕事をすることが学者の仕事であり、そうした教育を受けた医療者等が現場を采配していく、そういう仕組みを作ったり維持していくのが学問であるかのようにされている。教育も応用も大切なことに決まっているのだが、しかし、その手前で何を教えるのかである。それは実は曖昧である。あるいは、いくらかでも考えてみるならそのままに受けいれられないことが当然のこととされている。例えば、死の決定について、本人の意志、それがない場合には家族の意志に従うべきだとされる。しかしそれでよいか。そのことに関して、たくさん考えて言うべきことがある。であるのに、話は先に進んでいってしまっている。これはとてもまずいと思う。
 このことをこの3月には東京での集会でも繰り返し、その前の2月、大阪での日本集中治療医学会学術集会でのシンポジウムでも繰り返した。『Medical Tribune』にそのシンポジウムの概要が掲載されるということで、編集の方と幾度かやりとりがあって掲載された。ごく単純なことを述べたのだが、最初にいただいた原稿は私が話したつもりのこととすこし異なるところもあるように思ったので、すこし直したものをお送りし、ほぼ受け入れていただいた。こちらのHPにその原案も掲載している。以下掲載されたものを引用する。「医療の信頼を得ることが先決」という見出しになった。

 「立命館大学大学院総合学術研究科の立岩真也教授は、基調講演「良い死?唯の死」で、倫理原則が確認されていればそれを現場に応用するだけでよいが、「そうでないのが現状だと」述べ、「まず医療をきちんと行い、そのことを社会に向けて示すことの方が先決だ」と指摘した。」

 ここが概要の概要ということになる。さらに以下。少し略す。

 「治療停止・尊厳死といった厄介な面にどう対処するか、現場への応用や教育が大切であることは認めるが、教える原則がはっきりしていないなら、応用のしようもないはずだ」と述べた。さらに趨勢としては治療の停止を様々に認める方向になってはいるが、論理的・倫理的に議論の終わっていないところが少なくないと指摘した。
 「死にたい」と本人が言っているとして「それをそのまま受けとることがよいことなのか。自分はそうは思えないし、そのように社会も医療も対応してこなかったはずではないか、それは間違っていたのだろうか」と問いかけた。
 他方、家族の意思についても、「家族は確かに患者の一番の代理者ではあろうが、経済、心理、身体的な負担が少なくない状態に置かれてもいる」と分析。停止の同意に負担軽減という要因が働くことは否定できず、「家族の意向をそのままに受け入れるべきだとならないはずだ」とした。
 その上で、「医療側は社会に対し、何を最初に言わなければいけないのか」と提起した。過剰な医療による被害を避けるための患者側からの異議申し立てという図式があり、それは医療をより多く行うことが利益に結びついた時期には問題とならなかったが「医療が過剰より過少である現状では、むしろ救命・延命のためにするべきことをするという医療の基本を確認し[…]遵守し、そのことを社会にアピールすることの方が大切だろう」と述べた。そうして医療の信頼を得ることが先決とした。」

 直しきれていないところがあるが、おおむねこんな話をした。ここで私は、一つに医療の現実がどうなっているのか、それをふまえたら何を先に示すべきかを述べている。つまり、現実は「過剰」でなくむしろ「過少」である、だから、するべきをする、するべきことをできるようにする、このことを訴えるべきだと述べた。
 そしてもう一つが、基本のところが飛ばされている、終わっていることにされているという話だ。なぜその学会の大会に私を呼んでいただけたのか、わからないのだが、私はとにかく思うことを話すしかないから話した。
 ただ、その場の全体はまず、たくさんの人のたくさんの話が次々となされていった。遺族に対する所謂グリーフ・ケアの話もあった。(もちろんそれはそれとして大切なことである。ただ分けて、一つひとつに取り組んでいくことも大切である。)「本題」に関わるところでは、例えば「欧米」ではしかじかである――「尊厳死」は問題にされていない――という「事実」が示され、それ以上のことは言われず、そして次に「教育」のことが語られた。その学会としても「倫理に強い」医療者を育てる、認定するという仕組みを作ろうということであった。
 もちろん、医療者が哲学・倫理学を学ぶことに問題があろうはずがない。それはまったくよいことである。けれども何を学ぶのか。「生命倫理の4原則」か。しかしそれでは「解」が出ないことがある。4つのどれを優先するのかといった問題が生じることがあるのだ[…]。なのにどうして前に進めることになるのだろう。『唯の生』の第1章でとりあげたシンガーやクーゼといった人たちが言うことが正しいとされているからだろうか。だが考えてみるとわからないところがいろいろある。このことを私は書いたのだった。そうして書いたことのどこがどのように間違っているのか、示していただければ、私も話を終えることに同意するのだが。」

 あの場に限らず、わからないことが様々にあるのに、それはなかったかのようにされて、「応用」と「教育」に話が滑っていくことが、とくにこのところ、とても多くあるように思う。このようなことを言うと、すぐに「そんなに悠長なことを言ってもらっては困る」と批判されそうだ。私も「慎重に議論を尽くすべき」といった「識者」のコメントが責任逃れでしかないことがよよくあることは感じている。時間稼ぎをしている場合ではなく、急ぐべきことが様々あることも承知しているつもりだ。しかしこの件についてはどうか。例えば臓器移植についてなら、それを待っている人がいるという主張には――移植についてどのような立場に立つかは別にしても――もっとなところがある。しかしここでの主題についてはどうか。新たな規定を作ることがどれだけ病者に寄与することになるか、それがないことによってどれだけ困るのかと考えてみよう。そう考えてみれば、有害な引き延ばしという論難は当たらないと私は思う。

『良い死』について

 論点は多岐に渡り、考えられるべきことが多くある。それを上記した二冊の筑摩書房の本で考えてみた。基本的なことをまず考えて述べたのは『良い死』の方だ。今流行であるのは「他者を思う自然で私の一存の死」だから、そのおのおのを考えみようとした。まず、自分の死は自分が決めることだと言われる。また、人工的な延命より自然な死がよいと言われる。そして、人の数やお金のことを考えると、人を生かすのにも限界があると言われる。むろんみなそれなりにもっともなのだが、そのままに受け入れるのは違うのではないか。かなり長い序章の後、第1章「私の死」、第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」、第3章「犠牲と不足について」という3つの章を置いて、考えたことを書いた。詰めきれていないところ、言い足りないところはいろいろとあるけれども、基本的に間違ったことは書いていないと思う。
 第1章で、多くの場合その人の決定を大切にすることは大切だが、生死の決定の場面でそれだけを言うのは間違っていると述べ、その理由を書いた。決めることが大切であると同時に、決めなくてよいこともある。他人が口を差し挟むことが正当である場合がある。
 第2章では、人工物を使った生きている私たちが人工物を否定するのはおかしいと述べ、次に、自然・世界が大切であるなら、自分は何もできなくなっても長生きすればよいと書いた。人だろうと物だろうと使うものは使いながら、同時に、ただ世界を受け取っているのでよいではないか。そんな具合に死ぬ前の時間を生きていられるようにすればよい。それ以上・以外の人生を送るのもよいことであるとして、基本はそこに置けばよい。
 すると、それでは社会はやっていけないなどと言われる。このことについて第3章で考えた。他人を大切にすることは大切だが、そのために身を引くことを称揚することは、その大切なものを裏切ると述べ、さらに、金や人が足りないから仕方がないという話については仕方がなくはないと書いた。
 これで終わりだ。しかし終わらせてもらえない。「あなたのように思う人がいてもかまわない。しかし人はそれぞれだ。すきなようにさせればよいではないか。」こう言われる。話はもとに戻される。それで引き下がることにするか。第1章にまた戻り、そこに述べたことを繰り返してその人に言うことになる。
 全体として、救急で運びこまれてくる人たちそれに対応せざるえない人たちというより、その手前であれこれ思ったり言われたりなされたりすることについて考えた本ではある。ただそれらの全体が救急の場を規定しているのでもある。手前から考えてみる必要はやはりあると思う。

『ALS』について

 そして自分の病気・障害のことを気にし、あれこれ考えている当人たちもいる。さきに書名をあげた『ALS』にそんな人たちがでてくる。ALS(筋萎縮性側索硬化症)になってしまったこの人たちは、本来なら救急車で運ばれてくるような人たちではない。だが、人工呼吸器を付けてやってこの先いけるだろうかといったことを思い迷ううちに、呼吸困難になって担ぎ込まれるといったことにもなる。するとその人たちはどうなるのだろう。
 今回の勧告・ガイドラインは、普通に考えれば、普通に読めば、進行は速いにしても慢性的な病・障害があって生きている人たちには関係のなさそうなものである。しかし、それでもICU に担ぎこまれることはある。となるとどうなるか。とりあえず人工呼吸器が付けられたとしよう。すると、さきほどの2)「生命が新たに開始された人工的な装置」に依存しているとは言える。「生命維持に必須な臓器の機能不全が不可逆的」であるというその臓器が肺のことであれば、それにも――正確には肺を動かす筋肉が弱くなっているということなのだが――当てはまるかもしれない。となると、さきほどの「状態」と「状況」との関係がどうなっているのかなど、気にならざるをえないのだ。
 どうするか、あらかじめ決めておいたらよいか。死にたくないが付けないと「決めてある」――もちろん付けなけれは死ぬ――人たちもいる。その人がものを言うことができた時のその言葉の通りにするべきか。では家族ならどうか。その人が生き続けることで、この社会においてはだが、大きな負担をしょわねばならないのは家族なのだが、その人たちに決めてもらうのはよいことなのか。
 この本は、その当人たちの言葉を拾って集めて作った本である。長々とした論述が延々と続くといった類のものを受け付けない人であっても読める本になっている。安楽死・尊厳死・治療停止・不開始…といったことについて考えたい人、考えたくなくても考えざるをえない人には一度読んでもらえたらと思う。

『唯の生』について

 『良い死』に続く『唯の生』は、おおむね別々に読んでもらえる9つの章がある。一つ、生と言うに値する/しないという「線引き」に関わることを第1章に書いた。この章でも、じつにすっきりした話をするシンガー、クーゼといった人たちの論がうまく行っているかも検討している――うまく行っていないと主張している――のだが、他の章でも幾人かの論者の論を検討した。第5章では、「自己決定」に「関係」「共同性」を対置する小松美彦の論を取り上げ、それはまっとうな考え方ではあるのだが、また限界もあるだろうことを書いた。第6章・第7章では清水哲郎・小泉義之の論を検討した。
 そしてこの本に書いたことの一つは、短い間のことではあるのだが、歴史についてである。30年ほどの間に何が起こったのか。忘れられている過去と現在について書いた第2章と第4章に挟まれているのが第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」で、そこでは私たちが生きてきたはずの間に何が起こったのかを記述しようとした。
 世の中が、と大きなことは言わないとしても、とくに高齢者の生活がだんだん悪くなっていると語る人もいる。私自身はそのようにばかり言うと、以前はよかったということになって、そういうことでもないだろうと思うから、そうは言わない。とくに医療施設や福祉施設の現場で働いている人たちが、依然として、とてもていねいに根気よく仕事をしていると思う。ただとにかく「限界」はある、それは仕方がない、そんな気持ちが広まってきたように思う。そして働き手たちは、しなくてよいことをしているかもしれないと自分たちのことを思うようになっているところがある。受け手の方も、控えめであった方がよいと自分について思う。思わなくても言う。どんな具合にそのようになってきたのだろう。ただお金がもったいない人が、足りない足りないと言いふらしたからというのではない。様々にもっともなことが言われてきた。良心的な人、まじめな人たちが、事態をよくしようと思って言ってきたこと、行なってきたことが関係していると思う。そのことを書こうとした。

◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,
◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et.

『良い死』   唯の生


UP:20091027 REV:20091128, 20091204
安楽死・尊厳死:2009  ◇安楽死・尊厳死  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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