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対論

最首 悟立岩 真也 20090612
高草木 光一編『連続講義 「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,pp.225-231


◆高草木 光一 編 20090612  『連続講義 「いのち」から現代世界を考える』 ,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719 2400+ [amazon][kinokuniya] ※


最首 […]

立岩 最首さんがおっしゃった「みんな殺して生きている」ことをどう考えたらよいのかという間題は確かにあるんだろうと思います。褒められたものではない存在として、肯定されるほどのものでない存在として人間があってしまうことはどんなことなのか。私にはそれをどう考えていけばよいのかわからない。ただ、それが考えるに値する、考えざるを得ない間題だという気はします。
  東大出版会の『死生学』シリーズ全五巻が刊行されはじめましたが、私も一つ原稿を依頼されて、「人命の特別を言わず/言う」というタイトルの文章を書きました(武川正春・西平洋編『死生学3――死とライフサイクル』、東京大学出版会、二〇〇八年)★03。ここで気になっていることの一つは、いま最首さんが言われたことと同じです。私自身がどう考えるのかも少しは書いてあります。けれど、最首さんの「初発の」というか「根っこ」の問いに私は直接には答えられていません。その手前のところで、妙にすっきり爽やかに割り切っている議論を、ちょっと気持ち悪いなと思って取り上げているぐらいのことです。たとえば、ピーター・シンガー(Peter Singer,1946−)は、自然環境保護論者で、動物の権利の主張者で、ベジタリアンです。ブッシュ批判の本も書いています。なおかつ、障害をもった新生児を殺すことには賛成の人です。彼の言っていることは、ある意味ではすっきりしています。「誰が生きるに値するか」という問いを立てて、知性をもっている者、もっと下がって感覚くらいは持っている者は○、そうではない者は×という、単純な論理です。いま名を出した人に限りません。よくある筋の話です。「パーソン論」などと括られたりします。そうすると、ある種の動物の権利は保護されることになりますが、同じ種である人間のなかでも、そこから外れる人は殺して0Kとなってしまう。
 こういうスタイルの議論は別に珍しいものではなく、むしろ私たちの社会・時代のスタンダードだとも言えます。そうした議論が、自然保護や動物保護の主張にもなるというのは不思議な気もしますが、しかしそういう具合になっている。そしてさらに、彼はそれを「脱人間中心主義的倫理」と言うわけです。私は直観的にそんなはずはないだろうと思ったので、そういう議論を批判してみました。そこまではわりあい簡単にできるのですが、しかし、その先にどう進めるかです。
★03 この文章は、他に書いた文章と合わせ再構成され加筆されて『唯の生』第一章「人命の特別を言わず/言う」となった。その第四節が「別の境界β:世界・内部」、その二が「人間/動物」。

最首 […]

立岩 最首さんの提示された間題がどう解かれるのかが、杜会の仕組みの間題を考えるうえで影響があるのかどうか。今日明日からの杜会のあり方を考える杜会科学の立場では、もし影響のない議論ならば、限られた時間のなかで考えることはできるだけ省略したいと思うものです。「たしかに殺しながら生きているけれども、それは仕方ないではないですか、それは勘弁してもらいましょう、では次の話題へ」という感じです。そうしたい部分が私にはあります。
  ただ、予感としては、ここのべ一スの部分の議論の組み立て方によって、その先の話は変わってくる可能性はあるのだろうと思います。いま最首さんとお話しをしていて、そういう感じがしています。しかしどんなことが言えるのだろうかと。

最首 […]

立岩 最首さんが提起された「マイナスからゼロヘ」の過程をどう考えるかということと、思想の立て方としては違うはずなのですが、西洋思想のなかにも「罪」という観念があります。その「罪」は、まず基本的には、法あるいは掟に対する違背、違反です。法は神がつくったもので、具体的な律法に違反したら罪人であるという。それは律法主義です。ただキリスト教はそれに一捻り利かせていて、行為そのものでなく、行為を発動する内面を問題にすることによって、律法主義を変容させていく。
  フーコーは、そういう系列の「罪」の与えられ方に対して一生抵抗した思想家だと私は思っています。ニ一チェ、フーコーというラインは、そこでつながっています。自分ではどうにもならないものも含めて人に「悪意」を見出す、そしてそれを超越神による救済につなげる。つなげられてしまう。これが「ずるい」、と罪の思想に反抗した人たちは言うわけです。私はそれにはもっともなところがあると思います。そして同時に、その罪の思想においては、人以外であれば殺して食べることについては最初から「悪」の中には勘定されていない。そうした思想は、どこかなにか「外している」のかもしれません。
  「悪人正機」という思想は、それと違うことを言っているように思います。では何を言っているのか。親鷲の思想にはまったく不案内ですが、いくらか気にはなっています。吉本『論註と諭』という本(一九七八年、言叢社)は、マルコ伝についての論文が一つと親鸞についての論文が一つでできています。前者の下敷きになっているのはニーチェです。吉本とフーコーがそう違わない時期に独立に同じ方向の話をしている。そちらの論文に書いてあることは覚えていますが、親鸞の方はどうだったか。ずいぶん前に読んだはずですが、何が書いてあったのだろうと。二つが合わさったその本はどんな本だったのだろうなと。
  そして去年(二〇〇七年)、横塚晃一さんの『母よ!殺すな』という本の再刊(生活書院刊)を手伝うことができましたが、彼の属していた「青い芝の会」の人たちは、しばらく茨城の山に籠っていた時期もありました。そこの大仏空(おさらぎあきら)という坊さんの影響もあるとも言えましょうが、悪人正機説がかなり濃厚に入っている。それをどう読むか、それも気にはなってきていることです。
  「殺すこと」をどう考えるかは厄介です。否応なく殺して生きているということは、殺すことそれ自体がだめだということではないはずです。そして、ならば殺すのを少なくすればそれでよい、すくなくともそれだけでよいということでもないのでしょう。殺生を自覚し、反省し、控えるというのは、選良の思想のように思えますし、人間中心的な思想でもあります。最首さん御自身の「マイナスから始めよう」という案も含め、落とし穴がいくつもあるように思います。功利主義的な議論のなかでは、「殺すことがいけないのは苦痛を与えるからだ」という方向に議論がずれてしまう。だから、遺伝子組み換えで苦痛を感じない家畜をつくり出してそれを殺すのならば、少なくとも悪いことではないということになっていく。これはさすがに、多くの人が直観的におかしいと思うでしょう。
  こうした問題は、それはどんな問題であるかは、これまであまり考えられてこなかったように思います。西洋思想の系列にはその種の議論がないか薄いように思います。それでも、ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930−2004)とエリザベート・ルディネスコ(E1isabeth Roudinesco,1944−)の対談集(藤本一勇・金澤忠信訳)『来たるべき世界のために』(原著:二〇〇一年、岩波書店、二〇〇三年)のなかで、動物と人間の関係や、動物を殺すことについて少しだけ触れた箇所があります。ピーター・シンガーたちの動物の権利の主張について質間を差し向けられて、デリダはいちおう答えてはいますが、その答えの歯切れはよくないし、たいしたこと言ってないんじゃないかと。アガンベン(Giorgio Agamben,1942−)には、酉洋思想や宗教が動物と人間の境界をどう処理してきたのかという本(『開かれ――人間と動物』、原著:二〇〇二年、平凡社、二〇〇四年)もありますが、ざっと読んでみても、ああそうかとわかった気はしない。ただ、いま思想が乗っている台座を間うていけば、そんなあたりをどう考えるのかが大切なことのようにも思えます。どう考えたらよいのか、しょうじきよくわかりませんが。

最首 いま、吉本隆明の「マチウ書試論」(『芸術的抵抗と挫折』未來杜,一九五九年、所収)にまたもどってきているというか、「絶対」と「憎悪」と〈いのち〉というと、問題意識を少し言えそうな気がします。[…]

◆高草木 光一 編 20090612 『連続講義 「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719 2400+ [amazon][kinokuniya] ※

■言及・cf.

◆立岩 真也 2009/06/12  「「いのち」をめぐる断章」 ,高草木編[2009:216-224]

◆立岩 真也 2011/01/01 「人間の特別?・2――唯の生の辺りに・9」,『月刊福祉』2011-1

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版

「◇09 『唯の生』([2009a])でも(問いの部分だけ)紹介したが、デリダとの対談(あるいはデリダへのインタビュー)で、ルディネスコが次のように語り、問う(言及されているのはCavalieri & Singer eds.[1993=2001]
 「ピーター・シンガーとパオラ・カヴァリエリが考え出した「ダーウィン的」計画[…]の骨子は、動物たちの権利を制定することで彼らを暴力から保護するのではなくて「人類ではない類人猿たち」に人間の権利を与えようというのです。その論法は私の目には常軌を逸したものと映るのですが、それが依拠している発想は、一方では、類人猿には人間と同じように言語習得を可能にする認知モデルが備わっているから、というものであり、また他方では、狂気や老化、あるいは人間から理性の使用を奪う器質性疾患などに侵された人間などよりも、よっぽど類人猿の方が「人間らしい」から、というものです。
 かくして、この計画の発起人たちは、人間と非人間とのあいだに疑わしい境界線を引き、精神障害を人間界にはもはや所属しない生物種へと仕立て上げ、類人猿を、人間に統合されるけれども、たとえばネコ科の動物よりも優等な、あるいは哺乳類であろうとなかろうとそれ以外の動物たちよりも優等な、もうひとつ別の生物種へと仕立て上げるのです。その結果、このふたりの発起人は、どのような新しい治療的ないし実験的取り組みも、動物実験をまず行なわなければならないとする、ニュルンベルク綱領の第三条を非難するのです。あなたはずいぶん以前から動物性の問いに関心をもたれていますので、こうした問題についてご意見を伺えればと思うのですが。」(Derrida & Roudinesco[2001=2003:91-92])
  それに対して、問われた人はいくつかのことを言っているが、言っていることはあまりはっきりしないように思う。例えば以下。
 「もっとも権威づけられた哲学や文化がこれこそ「人間の固有性」と信じた特徴のいかなるものも、厳密には、私たち人間が人間と呼ぶところのものの占有物などではないということが証明されうるでしょう[…]」(Derrida & Roudinesco[2001=2003:98)
 「私がしばしば引用するのを好むジェレミー・ベンサムのある言葉があります。それは大体次のように言っています。すなわち、「問題は彼らが語りうるかではなく、苦しみうるかである」。そうです。私たちはそのことを承知していますし、誰もそれを疑うことなどできません。動物は苦しむのであり、その苦しみを表明するのです。動物を実験室の実験に用いたり、さらにはサーカスでの調教に従わせたりするときに、動物が苦しんでいないなどと想像することはできません。ホルモン剤で飼育され、直接牛小屋から屠畜場へ送られる数えられないほど多くの子牛たちが通り過ぎる場面に出くわしたとき、子牛たちが苦しんでないとどうしても想像できましょう? 動物の苦しみがどのようなものであるか私たちは知っており、感じ取っているのです。さらに言えば、産業による屠畜行為のせいで、以前よりはるかに多くの動物たちが苦しんでいるのです。」(Derrida & Roudinesco[2001=2003:103]、言及されているベンサムの言葉は「The question is not, Can they reason? nor, Can they talk? but, Can they suffer?」。(第2版(1823)第17章脚注にあるという。Bentham[1789=1967]ではこの章は訳されていない。その本の出版前後のことについては土屋恵一郎[1983→2012:169ff.]。)
 人間と人間でないものとの境界についての考察として知られているものとして『開かれ』(Agamben[2002=2004])がある。そしてその人にベンヤミンの影響があったことはよく知られている。ベンヤミンは次のように書く。
 「人間というものは、人間のたんなる生命とけっして一致するものではないし、人間のなかのたんなる生命のみならず、人間の状態と特性をもった何か別のものとも、さらには、とりかえのきかない肉体をもった人格とさえも、一致するものではない。人間がじつにとうといものだとしても(あるいは、地上の生と死と死後の生をつらぬいて人間のなかに存在する生命が、といってもよいが)、それにしても人間の状態は、また人間の肉体的生命、他人によって傷つけられうる生命は、じつにけちなものである。こういう生命は、動物や植物の生命と、本質的にどのような違いがあるのか? それに、たとえ動植物がとうといとしても、たんなる生命ゆえにとうといとも、生命においてとうといとも、いえはしまい。生命ノトウトサというドグマの起原を探究することは、むだではなかろう」(Benjamin[1921=1994:62-63]
 その『開かれ』には例えば次のような文章がある。
 「人間と動物のあいだの分割線がとりわけ人間の内部に移行するとすれば、新たな仕方で提起されなければならないのは、まさに人間――そして「ユマニスム」――という問題なのである。[…]われわれが学ばなければならないのは、これら二つの要素の分断の結果生じるものとして人間というものを考察することであり、接合の形而上的な神秘についてではなく、むしろ分離の実践的かつ政治的な神秘について探求するということなのである。もしつねに人間が絶え間のない分割と分断の場である――と同時に結果でもある――とするならば、人間とはいったい何なのか。」(Agamben[2002=2004:30-31])
 それはたしかに、常に自己批判的でもある哲学の営為、哲学の反省・反芻としてある。批判的でありながら正統な継承者である。したがって博識であり、それが披露される。けれど私はそこで言われていることがまだわかっていない。(この書については、美馬[2007]小松[2012]等でも言及されている。三島[2005]も人間・動物という構図に関わる。)
 高草木光一が企画した慶応義塾大学での(二人で順番に話し、その後対談するという形の)講義で最首悟(→○・○頁、その時の話は最首[2009])、最首は人が殺す存在であることから考えを始めるべきであることを語った。私もそんなことを思ったことがないわけではないが、考えは進んでいなかった(し、今も進んでいない)。次のように述べた。
 「最首さんが提起された「マイナスからゼロヘ」の過程をどう考えるかということと、思想の立て方としては違うはずなのですが、西洋思想のなかにも「罪」という観念があります。その「罪」は、まず基本的には、法あるいは掟に対する違背、違反です。法は神がつくったもので、具体的な律法に違反したら罪人であるという。それは律法主義です。ただキリスト教はそれに一捻り利かせていて、行為そのものでなく、行為を発動する内面を問題にすることによって、律法主義を変容させていく。
 フーコーは、そういう系列の「罪」の与えられ方に対して一生抵抗した思想家だと私は思っています。ニ一チェ、フーコーというラインは、そこでつながっています。自分ではどうにもならないものも含めて人に「悪意」を見出す、そしてそれを超越神による救済につなげる。つなげられてしまう。これが「ずるい」、と罪の思想に反抗した人たちは言うわけです。私はそれにはもっともなところがあると思います。そして同時に、その罪の思想においては、人以外であれば殺して食べることについては最初から「悪」の中には勘定されていない。そうした思想は、どこかなにか「外している」のかもしれません。
 「悪人正機」という思想は、それと違うことを言っているように思います。では何を言っているのか。親鷲の思想にはまったく不案内ですが、いくらか気にはなっています。吉本『論註と諭』という本(一九七八年、言叢社)は、マルコ伝についての論文が一つと親鸞についての論文が一つでできています。前者の下敷きになっているのはニーチェです。吉本とフーコーがそう違わない時期に独立に同じ方向の話をしている。そちらの論文に書いてあることは覚えていますが、親鸞の方はどうだったか。ずいぶん前に読んだはずですが、何が書いてあったのだろうと。二つが合わさったその本はどんな本だったのだろうなと。
 そして去年(二〇〇七年)、横塚晃一さんの『母よ!殺すな』という本の再刊(生活書院刊)を手伝うことができましたが、彼の属していた「青い芝の会」の人たちは、しばらく茨城の山に籠っていた時期もありました。そこの大仏空(おさらぎあきら)という坊さんの影響もあるとも言えましょうが、悪人正機説がかなり濃厚に入っている。それをどう読むか、それも気にはなってきていることです。
 「殺すこと」をどう考えるかは厄介です。否応なく殺して生きているということは、殺すことそれ自体がだめだということではないはずです。そして、ならば殺すのを少なくすればそれでよい、すくなくともそれだけでよいということでもないのでしょう。殺生を自覚し、反省し、控えるというのは、選良の思想のように思えますし、人間中心的な思想でもあります。最首さん御自身の「マイナスから始めよう」という案も含め、落とし穴がいくつもあるように思います。功利主義的な議論のなかでは、「殺すことがいけないのは苦痛を与えるからだ」という方向に議論がずれてしまう。だから、遺伝子組み換えで苦痛を感じない家畜をつくり出してそれを殺すのならば、少なくとも悪いことではないということになっていく。これはさすがに、多くの人が直観的におかしいと思うでしょう。
 こうした問題は、それはどんな問題であるかは、これまであまり考えられてこなかったように思います。西洋思想の系列にはその種の議論がないか薄いように思います。それでも、ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930〜2004)とエリザベート・ルディネスコ(E1isabeth Roudinesco,1944〜)の対談集『来たるべき世界のために』のなかで、動物と人間の関係や、動物を殺すことについて少しだけ触れた箇所があります。ピーター・シンガーたちの動物の権利の主張について質間を差し向けられて、デリダはいちおう答えてはいますが、その答えの歯切れはよくないし、たいしたこと言ってないんじゃないかと。アガンベン(Giorgio Agamben,1942〜)には、酉洋思想や宗教が動物と人間の境界をどう処理してきたのかという本(『開かれ――人間と動物』)もありますが、ざっと読んでみても、ああそうかとわかった気はしない。ただ、いま思想が乗っている台座を間うていけば、そんなあたりをどう考えるのかが大切なことのようにも思えます。どう考えたらよいのか、しょうじきよくわかりませんが。」(最首・立岩[2009]における立岩の発言)
 それに対して最首は次のように応じている。
 「いま、吉本隆明の「マチウ書試論」(『芸術的抵抗と挫折』未來杜,一九五九年、所収)にまたもどってきているというか、「絶対」と「憎悪」と〈いのち〉というと、問題意識を少し言えそうな気がします。」
 「マチウ書試論」(吉本[1959]、マチウ書=マタイ伝)の最初の部分は一九五四年に発表された。第6章注1・418頁で引いた「喩としてのマルコ伝」は一九七八年に書かれた。吉本はこれらの新約聖書(福音書)についての文章についてニーチェとマルクス(「喩としてのマルコ伝」では加えてヘーゲルとエンゲルス)の仕事に、とくにニーチェに言及している――「マチウ書試論」のあとがきには「キリスト教思想に対する思想的批判としては、ニイチェの「道徳の系譜」を中心とする全著書が圧倒的に優れていると思う。わたしに、キリスト教思想にたいする批判の観点をおしえたのは、ニイチェとマルクスとであった」と記されている(cf.Nietzsche[1885-86=1970,=1993][1887=1940,=1993]他)。フーコーの『性の歴史』の第一巻は一九七六年(Foucault[1976=1986])。吉本とフーコーは後でかみあわない対談をしていて、吉本[1980]に収録されている。(印象のその記憶だけを辿れば、当時フランスその他で普通に受容されていたヘーゲル的なもの、その歴史観を一方で受けとめる人がおり、他方の人はそうしたものへの反発からものを書いてきたということがあったように思う。そしてたしかに、吉本が例えば(歴史的な状態として)「アジア的」と言う時――他にもわからないことはたくさんあるのだが――私にはよくわからないところがある。)
 『論註と喩』(吉本[1978])は「喩としてのマルコ伝」と「親鸞論註」によりなるが、それ以前に吉本が親鸞を論じた著作として代表的なものに『最後の親鸞』(吉本[1976])。そこには次のような文章がある。
 「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そこから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することができるというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能に近いので、いわば自覚的に<非知>に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。」(吉本[1876:5→1987:164])※「そのまま」(3箇所)に傍点
 この注の最初に戻すと、「例外状態」とか「ホモ・サケル」といった言葉はたしかになにごとかを、ある種の情緒を喚起させる。だが、だからそこは冷静に考えてみた方がよいと思う。その方向にも幾つかあると思うが、その一つに稲葉振一郎[2008]。」(立岩[2013:800-806])


UP:20090515 REV:20101106, 201300801
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