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「「いのち」をめぐる断章」

立岩 真也 20090612
高草木 光一編『連続講義「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,pp.216-224


『連続講義 「いのち」から現代世界を考える』表紙    『良い死』表紙    『唯の生』表紙

◆高草木 光一 編 20090612 『連続講義 「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719 2400+ [amazon][kinokuniya] ※

  「「いのち」のことはわからない。終わり。
  結局はこれに尽きていますが、すぐ終わってしまう話をどう終らせないかという話になると思います。
  私は一九六〇年の生まれです。ですから一九七〇年は一〇歳、六八年は八歳、小学校二年生です。そして私は佐渡島に一八歳までおりました。都で何が起こっているのか、ぴんときていなかった。六八、九年あたりの最首さんたちのご活躍は、リアルタイムにはほとんどわかっていなかったです。
  ただ、そういう世間知らずの私でも、七〇年前後に水俣の人たちが東京に筵旗(むしろばた)立ててやってきたのをテレビかなにかで見たという記憶はあります。あとで文学部に行く、社会学、社会科学をやがてやることになる、それにはその記憶が関わっているだろうと思います。
  どんなに田舎に住んでいても、中学生から高校生くらいになると、いかなる出来事が起こって、そこで何が言われたか、すこしは知るようになります。私の場合、社会科学よりも、音楽やアートからやってきたものから、面白そうなことが起こってきたという感じはしていました。基本的にそこで言われたポジティブなことは、「いのち」や「生」を大切にしましょう、というものすごく単純なことであったかもしれません。しかし、それが可能である<0216<ために社会は組み立てられなければならないし、組み換えられなければならない。最も短く言ってしまえばそういうメッセージだったと思います。私は一回り遅れている世代ですが、とくに「学問」に限定しない出発点、根っこでは、その時代、その世代から、そのようなまったく実も蓋もないメッセージといいますか、を受け取ったという気持ちが確かにあります。
  私が大学へ入ったのは七九年ですが、いわゆる「学生運動」、それより広く「社会運動」と言われているもののある型のものは、七〇年代に入ってからだんだん退潮していきました。そういうものからある部分をもらったという確かな思いと同時に、その次をその人たちが考えてくれなかったという思いがどうしてもあります。つまり、ベースにある基本的な価値は、曖昧でありながら確かなものであるわけですが、その曖昧な部分をどう整理していくか。さらに、その次のために社会をどう組んでいくのか。それが問題であったはずです。過去何百年、さまざまなアイディアは出されてきました。そうしたものを継承し、あるいは否定し、破壊する思想もあったわけですが、途中で止まったしまったり、なんだかよくわからないことになってしまった。そんなところに立たされているように、だんだんとですが、私は思いました。
  それで、けれども、というか、だからというか、かえって、ベースのところから、積み木を積むようにものを考えていけば、言えることと言えないことの限界も含めて、なにごとかは言えるのではないか。そんなふうにやはりだんだんと思うようになりました。夢見がちな人たちの熱い思いはそれとして受け止めながら、冷たく、できるだけ散文的に、考えようと。そんなふうに思って、仕事をしてきています。
  そうやって考えていることは「いのち」の問題だと言えば言えますけれど、そう言ったらすべてをその言葉のもとに括ることもできます。そして、その「いのち」の中の、とりたてていま時の、なにやら新しいことであるとか、あるいは病気に関わることであるとか、そんな部分にとくに興味があるわけでもなく、それらについてものを考えてきたわけではありません。ですから私は、「生命倫理学」や「医療社会学」といったジャンルの研究者であるという自己認識を、過去も現在もまったくもっていません。専門を問われれば「社会学」と答えています。社<0217<会のありようについて考える、あるいは、いささかでも別の社会のありようを構想する仕事をしていると思っています。
  さらに、私は「生命とは何か」を考えたことがない。自分がいまとりあえず生きているのは確かである、そして、やがて死ぬのもどうやら確かであるという以外に、何をどう語っていいかわからない。にもかかわらず、私は「いのち」に関わるものを書いてきたことも事実だし、また、これからも書いていくだろうと思います。これは何だということになります。
  「安楽死」「尊厳死」に関わる本を筑摩書房から最終的には三冊出そうと思っています。とりあえず二冊出します。一冊は『良い死』(二〇〇八年)というタイトルで、このタイトルは一種のジョークですが、そう思ってくれない人が多いので困っています。もう一冊は『唯の生』(二〇〇九年)です。一冊目が死のことを、二冊目で生のことを書いたとかということではありません。二冊並べて格好がつくように題を付けました。三冊目は、本を紹介する本になると思います。共著にするかもしれません。
  そんなたくさん本を出す私が言うのもひどい話ですが、こういう本は書きたくはないし、「生」や「死」について語られていること自体が好きではありません。最近はとくに「死」についてあまりにおびただしく多くのことが語られて、正直うんざりしている部分があります。書物だけではなく、より社会的な舞台で、法律をつくる、シンポジウムを開催するといった動きがここ数年の間に次々に起こっていて、まあ私もそれに加担してしまっている部分もあるのですが、全体の成り行きを見て気に入らない部分が多い。それで仕方なく書いているという感じです。
  ポジティブなことを言おうとすれば、本当に二〇字か三〇字で済んでしまうことで、それ以上何も言う必要がないのかもしれません。しかし、そのことをめぐって世の中にはさまざまなことが起こり、語られてしまっている。聞かず、読まずに済めばそれでいいのですが、どうもそうも行かない。言葉を立ち上げる、言葉を紡いでいく必要がやむを得ず現れてしまう。そして解析し、批判していくと、何やら話はいささか複雑にもなり、そしてまた長く<0218<なってしまう。
  解析し、批判するために考える。そのときに必要なのは、普通の論理です。「この話からあの話になんでつながるのか私にはわかりません」とか、「この話からは、こういうふうに考えれば、あの話につながるはずです」といった、論理で問題を解きほぐしていく仕事です。ただ今日は、その中身について、問いに対する答の部分についてはお話しすることはできません。その部分は本を読んでいただくしかありません。幾つかの問いの存在、所在を、以下列挙するに留めさせていただきます。
  […]」

◆高草木 光一 編 20090612 『連続講義「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719 2400+ [amazon][kinokuniya] ※

◆最首悟・立岩真也 2009/06/12 「対論」,高草木編[2009:225-231]*,

■言及

◆2014/06/13 https://twitter.com/ssaishu/status/477215933966995456">
 「最首悟 ?@ssaishu 深くは考えたくないについて。深くはどうしたって、焦点とか収斂など狭める方向で、しかも結論は最初から胚胎されているのだ。考えると、とめどなく横滑りしたり発散したりすることが予感されるなら、深くは考えたくない。いのちは考えてもわからない、はい終わり(立岩真也)。そこから始まるものが。」



UP:20090515 REV:20101106, 20140613 
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