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もらったものについて・4

立岩 真也 2009/02/20
『そよ風のように街に出よう』78:38-44

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  *『そよ風のように街に出よう』はとてもおもしろい雑誌なので、ぜひ買ってみてくださいませ。

  昔の話をしてしまっている。これまで三回、一九八〇年代の半ばごろまでのことを書いた。なんでこの文章が連載のようになってしまっているのか、われながら変だとは思うのだが、さらに続ける。
  最初の共著の本『生の技法』(藤原書店、一九九〇年、増補改訂版、一九九五年)を出した頃から、年をとった人だと思われることがけっこうあるのだが、そうでもない。一九六〇年の生まれなので、本が出た時は三十だった。私は、なにかと騒がしかったりした一九七〇年前後からしばらくの時期の社会運動、障害者運動に関わった人たちの次の世代ということになる。その時期が終わる頃に大学に入って、それからしばらく、おもに大学の中でのほとんどまったくぱっとしない動きにいささか関わっただけだ。
  このところ、私が務めている大学院の院生で、この時期やそれより以前、一九五〇年代から六〇年代あたりのことを調べて文章にする仕事(研究)をする人たちがいる。とくにそのようなことを勧めているわけではない。ただ、現在のことを書き出すことは、今のことなのだからやればできるようで、そうでもない。意外と難しい。今を描くためにも、その前がどうなったのかを知っておいた方がよいということがある。そしてそんなに昔のことでもないし、古文書や外国語を読まなければならないこともないから、調べることはそう難しくはない。また、調べていくとそれなりにおもしろいことも出てきて、人によったら、はまってしまう。それで調べている人がいる。私の勤め先に限らない。こないだ(二〇〇九年九月)、障害学会という学会の大会がやはり私の勤め先であったのだが、そこでもそんな報告がいくつかある。三つあげておく。HPで報告を読める。堀智久「自らの専門性のもつ抑圧性の気づきと臨床心理業務の総点検――日本臨床心理学会の一九六〇/七〇」、阿部あかね「一九七〇年代日本の精神医療改革運動に与えた「反精神医学」の影響」、 臼井久実子「「ともに働く」の追求――大阪エリアの障害者運動(一九八〇−九〇年代)を中心に」
  ただ、そうして調べている人たちも含め、あらたに障害やら病気やらに関わる運動や政策に関心をもってはいるという人たちと話していて、私(たち?)にとっては当たり前と思うことが、頭に入っていないのだなと感じる。それは具体的な様々なこと――それなら私も知らないことはたくさんある――でもあるが、もうすこし大括りなもの、また雰囲気のようなものものでもある。それでこの原稿も書いてしまっているところがある。
  一つ、この四十年ほどの間に、この障害者運動業界ほかのところで考えられ語られたことに、思想的・社会的な意義があると思う。それは、私が捉えるところの「近代」の思想・価値の基本と異なった思想・価値である。それは学問として体系化されたものというより、むしろ人や社会に対する構え、気持ちのようなものである。ウーマン・リブという言葉があった時代に活躍した(今でも活躍しているが)田中美津という人に『かけがえのない、大したことのない私』(インパクト出版会、二〇〇五年)という題の本があるが、こんな題のような気分である。あるいは、スローガンとしては「優生思想反対」みたいなものだ。それは各国の当事者の運動にもある。だが、とくに欧米の場合には、その近代の思想・価値が真面目に信じられているところがあるから、なかなかそれを口にするのも難しいところがある。それに比べたら、日本のように、その「近代」があまり真面目に信じられていないところの方がよいとも言える。そして、それは「近代化」などとも言われる「発展」が一息ついたあたりの時期に現れやすい。公害などいろいろと問題が生じもするとともに、ある程度は豊かになって、とにかくがんばって発展し近代化しなければと真剣に思わなくてすむ時期に、そんな言葉は生じやすいやすいものであるとも思う。その時代の社会思想・社会運動には、今となっては、という部分も含め、なんだかだめだという部分も多いのだか、だからといってみなだめだということにはならない。私が思うに、残ってよいと思うのが、こんな部分なのだ。
  そしてそれは、――今記したことと関係はあるのだが――「革新勢力」の内部での対抗関係の中で、言葉にされていった部分があるとも思う。その対立には、対立のための対立という部分がずいぶんとあって、なかなかに消耗なものであった。うんざりするような部分がたくさんあった。そして、他の要因も合わせて、思想と実践は、内向的なものになり、その分暗い部分もある。だが、その暗い部分も含め、それもまたいくらかの意味をもつものだったと思う。こんなことをこれから説明してみようと思う。

気持ち
  何がどのように移ってきたのか。変わってきたのか。そういえば、このたび(二〇〇九年八月)「政権交代」があった。そのことに関して新聞に載った短文の他に少し長い文章を一つ書いた。『現代思想』の二〇〇九年十月号の特集が「政権交代」で、その雑誌で私ははてしのない連載をさせていただいているのだが、その号では、特集に便乗させてもらって「政権交代について」という文章を書いたのだ。もちろん、政治学者や評論家や思想家や様々な人たちによって、これまでたくさんのことが言われてきたのである。五十五年体制がどうとか、冷戦構造の崩壊がどうしたとか。実際、その通りのことが起こったのではあるだろう。その人たちが知っていることの多くを私は知らないから、私が何か言うようなことではないのかもしれない。しかしすこし異なるように言えるとも思う。
  社会運動というものはいつもいくらかはあるのだが、前の世紀に一定盛り上がったとされるのが、一九六〇年の日米安全保障条約改定に関わる運動の次は、一九六〇年代末から一九七〇年代初めあたりだとされ、その後しばらく、その時の服装他を踏襲したものが続いた。「大学闘争」とか「大学紛争」とか、「全共闘」とか「新左翼」とかそんな言葉があった。いくらか盛り上がったその当時の人たちが、今は、下は六〇歳ぐらいからもっと上といった具合になっている。そんな人たちが過去を回顧した本がたくさん出ているようだ。だいたい、複雑怪奇な、人々・組織の集合離散、対立のことが書いてある。何色のヘルメットをかぶった人たちと何色のヘルメットをかぶった人たちが、どこで喧嘩して、といったことが書いてある。陣取り合戦のようなものも、それはそれで懐かしくおもしろい人がいるのだろう。ただそれだけだけといえばそれだけだ。
  どれだけの現実的な影響を与えたのかというとはなはだこころもとないものがある。実際の社会運動、とくに学生のそれは、たいていいいかげんなものある。そう胸をはれるようなものでもなく、書いて晴々とするということもない。とくにそこに様々な「課題」があれば、その一つひとつをそう勉強しているわけではない。一度にいろんなものに反対していたりするから、個々のことについてはよく知らなかったりする。そして多くの場合、たいして成果はあがらない。
  それでもやる。それを動かしたものは一つに、単純な正義感というか、判官贔屓というか、「強きをくじき弱きを助け」みたいなものだったと思う。そして実際、そうした心情を揺り動かすできごとがたくさんあった。私は、そういう単純な行動原理でやっていって、ほとんどの場合にはよいと思う。そんなことをして、多くの場合、そんなに得することがないことが多いのだから、わざわざそんなことをする人たちを尊敬もする。それはいつでもあるし、いつまでも、大切なものだと思う。
  昨年の秋、二人へのインタビューで構成した『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』という本を生活書院から出してもらった。一人は、八王子市の小児科医で「障害児を普通学校へ全国連絡会」等でも活動してきた山田真さん。一人は、かつて「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」で、今は「アフリカ日本協議会」で仕事をしている稲場雅紀さん。稲葉さんにはアフリカのことを聞くとともに、今のまたこれからの社会運動について話をした。山田さんにはこれまでの話をおもにしてもらった。山田さんは、一九四一年生まれ。医学部から始まった東大闘争に医学部生として関わった人で、そんなあたりから話を聞いた。稲場さんは一九六九年生まれ。彼の活動も同じ大学(彼は文学部だが)での無党派(ノン・セクト)の運動から始まっているところがある。もう一つ、共通点といえば、山田さんは山谷の診療所で働いていたことがあり、稲葉さんは寿町の日雇労働者運動に関わったことがあることだろうか。
  どこでどことどこが喧嘩したみたいな本はたくさん出ていると言ったが、そうした運動の中に――たしかに部分ではあったとしても部分として――あったもの、そしてそれがどのように受け継がれたのか、そんなことを記した本があまり(に)ないので、だからこの本を作ったというところもある。そこで昔話をしてもらっている山田さんは、知ってる人は知っての通り、基本シンプルな人であって、難しいことはようわからんかったけど、不正は不正だと思ったからやったんだと話している。そんなことが様々あって、やはりそれは大切なことだったと、これからも大切なことだと私は思う。
  そしてこの時期(以降)のことついて加えれば、やはりその本で山田さんが、上にいる人たちにでも誰にでも文句を言ってもよいのだという気持ちがあったことが大きかったと述べている。このことは、横田弘さんの対談集『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』(現代書館、二〇〇四年)のために横田さんと対談した時、横田さんが私に話してくれたことでもある。横田さんが属していた(今も属している)当時の「青い芝の会神奈川県連合会」の活動と、学生運動との直接の関係はない。また横田さんは学校に行っていない(行けなかった)。ただ、その対談の中で、当時の「学生さん」たちの反抗が自分たちを勇気づけることはあったといったことを話している。もちろん反体制運動というものはもっと前からあったのだが、そこで想定されている敵は、国家とか、資本家とか、強大ではあるが比較的に狭い範囲のものだった。医者であるとか学者であるとか、そうした人たちが責められることはなかった。だが、この時、否定してはならないとされているもの、良いとされているものも疑ってよく、偉いとされているものにも反抗してよいのだということになった。
  そしてさらに「自分(たち)がやらねば」という思いが強い場合には、それは実際の行動につながりやすいだろう。このことは、この時期「までの」学生運動について、よく言われることでもある。こんなふうに言われる。大学生という存在がまだ全体の中では少数であり、いくらか特権的な存在であり、そして社会や未来に対して責任を負う存在であると見なされていた、あるいは自分で思いこんでいた時代があった。すると、人々のために自分たちがやらねば、ということになる。学生が「左翼」になることについては、流行・意匠という部分もあったのだが、その流行・意匠にそんな気負いのようなものがいくらかあったのだ。「インテリ」は「左傾化」し「赤」になる可能性が高い(から気をつけなければならない)という時期があった。それがその後の大学(生)の「大衆化」によって変化し、気負いがなくなる。それで運動が退潮に向かった。そして、この後述べる「体制」の問題が後退したとされることもあって、すくなくともしばらく「正義」といったことを語ることがなにか、間の抜けたことであるように、格好の悪いことであることのようにされたということもあった。だいたいこんなことが言われる。
  たしかにそんな要因はあるだろうと思う。おおむね当たっているとは思う。ただこの時期、既に、エリート的なものに対する自虐というか自嘲というか、肩の力の抜けたところというか、そんな部分もあった、現れてきていたと思う。そしてそれが何もしないことに結びつくのではなく、行動に結びつくことがあったと思う。このことについては、次回――というものがあるのだとすれば――「自責」「自虐」について述べるところでもう少し続けるとしよう。

「体制」
  こうして憤りや義侠心や反抗心があったのだが、同時にそこには、悲惨の理由を説明し、違うものを示し、その実現への道筋を示す、大きな理論・理屈もいろいろとあった。革命を起こし、体制を転覆させ、別のものに取り替えるという案があった。それはずいぶん前からあって、そしてその中にも様々なヴァージョンがあった。それが行き詰まっていた。というか、最初からそんな感じだった。おおまかには次のように言われている。その時の(その時も)「体制転覆」はうまくいかなかった。それどころか、「内ゲバ」と呼ばれる抗争が起き、陰惨なできごとも起こり、直接に参加していた人々のほとんども退き、多少の共感をもっていた人もそこから離れていった。それらのできごとについては、一部の「過激」な人たちによる愚かな行ないとして切って捨て、よりまともな「革新勢力」は依然だいじょうぶなのだと言われることもあった。ただ、もっと全般的な、世界的なできごととして、「ベルリンの壁の崩壊」であるとかしかじかがあって、それでいよいよ、そんな話は終わった。おしまい。こんな感じだ。
  それで、人々は、終わった話を、もう終わったのだから、しなくなる。すると、その後の人たちはそれを知らない。知らないことが前提になった上で、話がなされることになる。もちろん社会科の教科書にはなにがしかのことは書いてあるのだが、そこには、今述べたようなことが、もうすこし詳しく書いてあるだけだ。そして、たしかに位置づけにくいものである当時の「騒動」についてはほんのわずかふれられるという程度のことになる。
  そして当時の人たちで、不正なこと不当なことがあると思うからことを始めた人たちで、その後もそれをやめてしまうことのなかった人たちにしても、それを、「体制」「革命」といった言葉とともには語らなくなる。一つに、「地域」だとか「現場」の方に行くことになる。介護(介助)とか障害者運動に入っていった人にもそんな人たちがそこそこいる。そんなあたりと関係のある本として、かつて大阪に住んでいて今は千葉県の淑徳大学の教員をやっている山下幸子さんの『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(生活書院、二〇〇八年)がある。とくに本誌『そよ風のように街に出よう』の成り立ちにも関係する大阪の運動がとりあげられ、介護(介助)者・健全者の集団としてあった「グループ・ゴリラ」やそこに関わった人たちが出てくる。その人たちと障害者本人たちとの関わり、起こったこと、思ったことが書かれている。それはそれで意義あるもので、読んでもらいたい本なのだが、私の場合は東京でなのだが、そういう場にあった気分のようなものを末端の方ですこし感じていた私には、やはり、「体制」という枠組と、そこからの離脱という要素があったよなと思うところがある。幾人か、そんな人たちの顔を思い出すこともできる。
  まず、いくらか「体制」関係の運動に実際に関わった人もいる。それに肯定的なまま、しかし組織の方が衰退したりして、続けるにも続けようがなかったという人もいる。またそこで言われていることが空虚であると思ったり、自分でも演説などしたことはあるのだがわれながら空虚であると思って、気持ちも離れていく人たちがいる。多くの人たちはその後、普通に就職などする。「日常」に回帰していく。ただ中には、信条として、心情として、あるいは偶然のようなことで、あるいはそのすべてが絡み合って、そうはならなかった人たちがいる。また、派手にやっている人たちを横目に見ながら、あんなことをしてもだめだろうと思いつつ、気分としてはいくらかを共有し、「日常」に行くことにならなかった人たちがいる。しかしこれらの人たちも、飯は食わねばならず、金を得なければならない。
  いくらかの人たちは、いくらかはその思想・信条・心情に関わる部分を混ぜこんで給料・収入の得られる仕事をしていった。小学校や中学校、高等学校や大学の教員だった人、それを続けた人たちがいる。そして、医療や福祉関係の仕事、出版関係の仕事をする人、公務員、労働組合の専従職員等々。ただ、そこに乗らなかった人たちもいる。その中のある部分が、やがていくらかの金が出るようになった介護の仕事をして、とりあえず食いつなぐ。専従で仕事をするようになる。なんとか食べられるようになる、そして今は自立生活センターなどでそれなりの役を担っている、そんなことがある。
  そうした人たちにとって、「体制」はなかなかに微妙なものである。「武勇伝」を語る人もいる。あまりくどい話でなければ、私もそんな話をうかがうのは好きなので、うかがう。どこぞの空港――などと書いているとわからない人がいるので、「成田空港」――関係の仕事で――などと書いているとわからない人がいるので、農地を取り上げ空港にするのに反対する運動が長くなされてきた――どこぞに何か月か寝泊まりして云々、といった話であるとか。もう亡くなった方なのでよいと思うのだが、ビールを飲みながらの歓談の場で、日本赤軍がどうであったとか、銃がどこぞに隠してあるかといった話をうかがったこともある。
  他方に、むしろ同時に、空論に対する空しさ、理屈に対する反感あるいは拒絶感もある。もともとの性格としてという人もかなりいると思うなのだが、寡黙で、黙々とたんたんと自分の仕事、例えば介護の仕事をする人がいる。何も考えてない人もいるし、何も考えないことにする人もいるし、考えているがそのことを言わない人もいる。すると、「当事者」がもっぱら語る、主張する、それに基本的には口をはさまない、支援に徹するという構図は、そうわるくないということでもある。
  そして、語る人書く人もいる。いるのだが、その人たちの中には、かつての「硬直した思想」を反省的に語り、「理屈やない、現場や」みたいなことを言う人がいる。例えば、精神医療業界・学界の改革に関わった人に小澤勲さんがいる。二〇〇八年に逝去された。当時の著書として『反精神医学への道標』(めるくまーる社、一九七四年)、編書として『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』(田畑書店、一九七五年)がある。また『自閉症とは何か』(悠久書房、一九八四年)という大著がある。これは二〇〇七年に洋泉社から復刊された。その小澤さんは、後に『認知症とは何か』(岩波新書、二〇〇五年)がよく売れて、その方面の人としてよく知られることになった。翌年の編書『ケアってなんだろう』(医学書院、二〇〇六年)で、「新進気鋭」の社会学者(私の同僚でもある)天田条介さんと対談をしているのだが、こんな感じだ。
  天田「ただ先生、いくつかの価値が同居しつづけるためにはそれなりの足場があるのかなと思うんです。」
  小澤「足場ねえ。わからないけど、やはり生涯、ずっと現場に居つづけたということでしょうかね。」(二〇三頁)
  そして他の箇所でも、かつての自分の「政治主義」が自省される。そして、山田真さんも基本おしゃべりなので、たくさん書いたりしゃべったりするのだが、『流儀』のインタビューでも、やはり「わりきれないこと」について、「寄り添う」ことについて語っている。
  しかし、では、「体制」の話はここで終わりになっているかというと、それもそうではないのだ。そうでないのに、流行らなくなってしまったのはよくないことだと思って、それで考えているようなところが私にはある。
  変わればよいと思った人たちがいた。そう思ったことの基本は間違っていないと私は思っている。ただ実際にうまくいかなかったのも事実ではある。そこをただ考えてどうなるものでもないということはわかっている。しかし、そんな当たり前のことはわかった上で、もうすこし考えて続けてみようと、もとの方から考えようと思ってきた。それでいくらか「前の世代」に対する不平不満のようなことも、幾度か、言ってきたのだ。始めたことを中途半端に放り出してしまった、それはよくない、だから仕方なくこちらが考えたりしなければならないというわけだ。
  それは、まったく新たに考えるということではなく、いまの引用で小澤さんが「足場ねえ」と言った、その「足場」を、なにかして言ってみることだったりすると思う。さきの『流儀』という本でも、私は、山田さんに、やはり山田さんたちが「体制」が問題だと言ったのは、基本、正しいはずだと言っている。そしてその足場を確認しながら、社会を構成する様々な部品について、部品の組み合わせについて考えることだと思っている。
  そしてこの時、障害者に関わる動きは、「大きな話」にうんざりしたところから始まっている部分もありながら、しかし、「国家」に関わり、「体制」を問題にせざるをえないところがある。まず、障害者が損をしているのはこの社会のもとでのことであることは直観され、間違いのないことだと思われる。そして社会運動に関わっていた人のある部分が障害者運動の方に流れてきたのも、このことが関わっていると思う。その人たち(のある部分)は革命を巡る理屈、空理空論を信じることはできなかったのだが、社会に対する憤り、不満は持っていたし、そこから行動も発しているのでもあった。この時、障害者に関わる運動、支援の活動等は、社会の不正と運動の正当性がはっきりしているように思われる。
  そこで始め、続ける。それは面倒なことでもある。他の社会運動であれば、それをやめても自分は本当は困らないというところがある。で実際にやめてしまうことにもなる。しかし、暮らしていくために、国家に要求したり拒否したりすることを、やめたくてもやめられないという部分がある。障害者絡みの運動は、その人たちが生きる限りはなくならないので、放棄ということにはなからなかった。そしてその国家との関係は、たんに拒否し、独立すればよいということでもない。正義感に発するものの多くで、反抗心からなされる運動の多くで、国家は敵として、拒絶の対象として現われる。勝ち負けは別として、構図は単純である。そして負けたらやめればよい。実際にやめられる。しかし、個々の人はともかくとして、障害者運動は、その総体としては、「体制」を、すくなくとも国家から逃れることができない。これが、前回、「嫌いだが別れられないということ」という見出しの箇所で述べたことである。生きるために受けとるものがあるとしよう。そして、いやいやながらであれ、積極的にであれ、「公的介護保障」を言うなら、それは国家の税を使って保障せよということである。すくなくともこの立場に立つのであれば、国家を否定できない。しかしそれは敵でもある。どうするか。ともかくつきあわねばならない。
  それは、いったん社会運動、国家に抗する運動をやった後に、そこから退いて、「普通の生活」に入っていったあるいは戻っていった人たちと違うところだ。その人たちは、普通に就職して仕事をすればそれで生きていけた。けれどもここではそうはいかない。国家との関係、社会との関係を考えていく、というか、作ったり、作ろうとしたりしていかなけばならない。ここが他の運動と違うところだ。やめたり、逃げたりできている分には、体制の問題は終わったなどとのんきなことも言っていられるかもしれない。しかしそんなことを言っている場合ではない人がいる。その運動は、自らがやっていることを、その都度言葉にしていくことはないかもしれないが、それを行ないで示しているから、それを私なら私なりに言葉にしていくことができる。まずそんなことがある。
  そして同時に、どこまで「国家」だとか大きなものとの関係でものが言えるのか、そして、どの程度のつきあいをするか。基本のところも問題にされる。これは、「障害学」でいうところの「社会モデル」がどのぐらい使えるのかという問題にも関わっている。そしてまたそれは「体制」の問題としてどこまでが捉えられるかという問題でもある。
  例えば「障害者差別」はどこから来るのか。「資本主義」とか「近代社会」とか言いたくなるところはある。そしてそれは、すくなくともかなりの程度、当たっているはずだ。職場で雇用しないのは企業であり、その企業が活動している市場である。しかし、そのもとを辿っていけば、結局は個々の人間がいるのではないか。たとえば横塚晃一の『母よ!殺すな』 (すずさわ書店、一九七五年、増補版、一九八一年、すずさわ書店、新版、二〇〇七年、生活書院)を読んでみよう。すると差別は、この近代・現代社会、資本主義社会のゆえであると言われるとともに、ずっと差別はあって続いてきたのだと、それは人間の「性(さが)」のようなものだとも書いてある。となると、横塚はここできちんとものを言えていないのか。そうは思わない。ではどのように言うか。そんなことを考えることになる。(この本の終わりに「解説」を書かせてもらっているのだが、そこでこのことにすこしふれている。)
  そしてそれは、ここで念頭においている時期の社会運動にもう一つあった、「敵」でなく「自分(たち)」を責める、反省するという契機を考えることにもつながっていく。そのことについて、書けるなら、書くことにする。


◇立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◇立岩 真也 2008/08/05 「もらったものについて・2」『そよ風のように街に出よう』76:34-39
◇立岩 真也 2009/04/25 「もらったものについて・3」『そよ風のように街に出よう』77:,


UP:20091105(1007原稿送付) REV:20100226(書誌情報記入)
『そよ風のように街に出よう』  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(運動)史のための年表
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