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もらったものについて・3

立岩 真也 2009/04/25
『そよ風のように街に出よう』77:**-**


 *『そよ風のように街に出よう』はとてもおもしろい雑誌なので、ぜひ買ってみてくださいませ。

調べ始めたこと

 一九八五年、「自立生活」についての調査を始めることになった。修士課程の二年が終わり、できのわるい修士論文が通るには通って、博士課程に上がって、たしかその時の大学院生主催の新入・進学者歓迎のコンパのようなものの時、石川准からその誘いのようなものがあった。それで聞き取り調査を始めた。書く機会があったら、その辺りのことは別に書こう。そうして聞き取りを始めて、たくさん聞き取りをした。そうして聞いてまわってわかることがたくさんあって、それで、一九九〇年に出た(そして一九九五年に増補版が出た)『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店)が書かれた。ただその本では、その聞き取りの結果は直接にはあまり出てこない。ずいぶんもったいない作り方をしたのでもある。
 そして、とくに私が担当した部分では、文字資料を使っている。話を聞いていくと、やがて、もっと前からの様々があったことがわかってきて、それで文献を調べることになった。大切な本はいくつもあったが、私たちが調べようとしていた部分を主題的に書いたものはなかった。とくに「社会福祉」の関係の本には何も書いてなかった。ほんとうにそうか、大学の図書館やなにかで、かたはしから本を見ていった。たいへんなことだと思う人もいるかもしれないが、そんなことはない。熟読するわけではない。ざっと見ていくだけだ。そして多くの本には同じようなことが書いてある。そうして見ていくと、まったく出てこない。「批判しても否定してもいいが、無視するのはよくなかろう、だから自分たちで書こう。」そう思ったのでもある。
 おもには機関誌や雑誌をあたることになった。本は場所さえわかれば借りてすませることもできなくないが、雑誌は難しい。買えるものは買い、買えないがコピーできるものはコピーした。本誌『そよ風のように街に出よう』は一九七九年の創刊で、また『(季刊)福祉労働』(現代書館)は一九七八年の創刊だから、以前から存在は知っていて、読むことはあった。ただ手元にそうなかったから、まとめてバックナンバーを買いこんだ。『福祉労働』は神田三崎町の現代書館に直接に出かけて行って、担当の小林律子さんからまとめて買った記憶がある。『そよ風のように街に出よう』はまとめて送ってもらったと思う。
 そんなことの何がおもしろかったのか。よく覚えていない。かくも人は(というより私は、だが)なんでも忘れるものか、というぐらいだ。しかしかなり熱心ではあった記憶はある。例えば横浜市にある神奈川県社会福祉協議会の資料室に何日か通って、大量にコピーをとって、といったことをした。熱心にきちんと資料を整理されている方がそこに勤めておられたので、資料がそろっていた。そんなことがないと、ほんとうに消えてしまうものは消えてしまう。私はもともと資料を集めて書くというような種類の研究をきちんとする人間ではないのだが、それでも、「資料の収集・整理は大切だ、集められるものは集めておきましょう」、と言い、それをいくらかでも進めようとしているのにはそんなこともある。(一昨年は、尾上浩二さんがDPI日本会議の事務局長に就任することになり、大阪から東京に引っ越さざるをえないといったことがあって、何箱かの資料を送ってくださった。いま私たちがやっている「生存学創成拠点」なるプロジェクトの書庫に並べさせていただいている。資料・情報提供つねに歓迎です。どうぞよろしく。)他に、東京の山の手線の田町駅から歩いて行くとある、港区三田の東京都障害者福祉会館の資料室に、あまり整理はされてなかったが、いくらかのものがあった。そして、飯田橋の駅すぐのビルに東京都社会福祉協議会の資料室があって、そこにもいくらかの、おもに行政関係の資料があった。他に立川社会教育会館でも地域の機関誌等を見た。手当たり次第に近く、コピーしてファイルした。
 やってみればわかることだが、かなりの割合の人は、テーマがなんであろうが、なにか調べ始めるとかなりの「おたく」になる。コピーしたりファイルしたりするのにはまってしまう人がけっこういるのだ。集めている機関誌のバックナンバーに欠けたのがあると悔しい、とかそんなことである。本誌の創刊ゼロ号もコピーで手に入れた、コピーだがまあいいか、という感じだ。そして、「ゼロ号はコピーですけど、『そよ風』のバックナンバーそろってますよ。けっこうすごいでしょ。」と同好の人に自慢したりするのである。それはたぶん人間しかしない行ないである。すくなくとも猫ならしない。妙な性癖ではある。

嫌いだが別れられないということ

 それにしても、それだけというわけではない。どんなところがおもしろいのか。いくつか言い方があると思う。一つの答は、「社会に反対しながら、社会から得るしかないものがあるから」、というものだ。
 世の中が嫌いだが、そこから離れることもできない。本人にとってはひどく煩わしい迷惑なことだが、はたから見ている分には、とてもおもしろい。そんな人のことを追っかけていくと、この世がどんな世なのか、また、どうしようがあるのかわかるように思う。
 一人である場合。条件がそろえば逃げることはできる。あるいは今のままでやっていける。そしてそれは、本人にとって面倒でないから、よいことだ。まず、蓄えを使って慎ましくやっていくなら、あるいは自給自足でやっていくつもりなら、俗世を離れてやっていけるかもしれない。他方で、自分で稼げるなら、今の社会のままででもやっていける。しかし、障害が(十分に)あると、逃げるにせよ、混じるにせよ、簡単なことではない。
 次に徒党を組むことに関して。この社会が気にいらないとして、そこから離れてそれでやっていけるのであれば、分離主義という道もある。実際、いくつかの社会運動についてはそんな流れもなくはなかった。例えば、男が敵だということに決まれば、女だけで暮らしていくという道はある。文明が敵だということになれば、自然の中で生きていくという手もある。集団内での生産・消費が可能であり、差異が理由とされる抑圧があり、また自らのものを大切にしていきたいと思う場合に、その集団だけで独立し、独自の「国」を作っていくという道筋はありうる。実際にはそこまで行かないにしても「デフ(聾)」の主張にはその方向への傾きがある。
 しかし、「できない」という意味での障害が一定以上である場合、障害者だけで暮らしていくことはできない。支援する人たちが少数であっても、きちんといれば、その範囲でやっていける場合もある。しかし、その中にいる人たちは、その外側にいる人より明らかに疲れる。実際、そんな集団は自壊することがおうおうにしてある。そして広がっていくことが難しい。皆が救われるべきだという「大乗」の立場をとるのであれば、この道は行けないということになる。
 この社会で自分たちは最もわりを食っている、その限りでは、この社会は敵であるのだが、しかし、同時にそこにいる人に手伝わせたりしなければならない。強い批判を向けながら、しかし、そことやっていかなけれはならない。どうやってやっていくのか。すくなくとも「社会科学」をやっている人にとっては、これはおもしろい。そこから受け取れるものがあるはずだと思う。
 そして私の修士論文で詰まってしまったのも、そしてそしてその後続けたかったのも、いろいろと文句を言った後で、話をどこに「落とす」のかということだった。「文句はわかった、で、どうするの?」と言われる。そのことを考えることでもあった。
 幾度も書いてきたことだが、私の、団塊世代などと呼ばれる私の前の世代に対する気持ちは、「よいことを言ったけど、その続きがないじゃないか」というものだ。それは、問題がたしかに難しかったからでもあるのだが、続きを考えなくてもすんだからでもある。つまり、「世の中が変わればよい」とか言っても、言うだけで実際には変わらなくても生きていけたのだ。つまり、就職すればよかったのである。しかしそうはできない人たちは、続きを続けざるをえない。言うだけでなく、実際になにかせざるをえない。ならばそれは、続きを考えようと思う私にも何かをくれるはずだ。
 と、そんなことを思って調査を始めたわけではない。そしてそれからの数年間、調べてまとめるのに手間がかかり、アルバイトも忙しく、私は一九八八年と一九八九年には論文を一つも書けないということにもなった。ただその過程で、その後にもつながるいろいろなものをもらったと思う。
 「自立生活」などという場合、そこにあるのはまずは暮らしなのであって、そこに思想やら政治やらがくっつく必要もなく、むしろそれはうざったくもある。しかし、そういうものが絡まらざるをえないところもあってしまう。そしてそんなごちゃごちゃした場所から、言葉が発せられる。それは、辻褄を合わせることが目的とされているわけでもないから、ときになんだかよくはわからない。しかし、ぐるぐる回ってしまっている、みなが消耗しているような議論のなかにも、大切なことも含まれているような気がする。なんだか深くなってしまう。と同時に、そう粋がってもいられない。そして今は語るのも虚しいようにも思われる「政治状況」もそこに絡んでいる。それが、当時既にあった「自立生活」という言葉の入った本――そのうち紹介しよう――も含め、「障害者福祉」という括り方の本には出てこない。好き嫌い、よしあしは別として、それはよくないと思った。

政治

 そこで「政治」について。これについては、かつてそれにはまってしまっていた人たちが、あまり語らなくなっているということがある。その「てらい」のようなものはわかる気もしながら、ここでもあったことがなかったかのように思われてしまうのもよくないと思い、たいした関わりのなかった自分の方が言いやすいこともあると思って、すこし書いてみる。私自身には懐古するような過去はないし、長くしようと思えばいくらでも長くなってしまうし、ここでは短くしたい。
 しかし本当は長い詳しいものも大切だとは思っているので、追加情報を。書いてあることを集めることも必要だし、知っている人に話してもらったりすることも必要だと思っている。そんなこともあって、昨年秋、稲場雅紀・山田真・立岩真也『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(生活書院、二三一〇円)という本を作った。二つの対談、というかインタビューを収録したものだ。アフリカ日本協議会の稲場さんの話も、これからの社会、社会運動を考える上で重要なものだが、東大医学部でのいざこざ、大学闘争を振り出しに、様々、「障害児を普通学校へ全国連絡会」等々にも関係してきた小児科医の山田さんの話のところも読んでほしい。そしてそこに大量の注をつけた。ここを(ここも)読んでほしい。
 さて、むろん、福祉に関わっては、「慈善」を大切にする宗教的あるいは非宗教的な人の集まりもあり、そのある部分は「保守」の側に色分けされるものだろう。また、実際に政権に近いところに金に関わるものごとを決める力はあるのだから、そちらに近いところにいた方がよいという計算も働くから、どこを支持するか、それは一様ではない。今でも、専門職の大きな職能団体が、自分たちの要求をかなえやすいと思って、政権を担当する政党を支持すること、議員を送り込むといったことはある。
 ただ、その上で、社会福祉の仕事・学問、たとえば「ソーシャルワーク」と呼ばれる領域には、もともと、現にある社会をよしとしないという傾きはある。そのうえで、福祉は「飴と鞭」の飴のようなものであって、かえって革命を遅らせるものだという理解もあったから、全面的に肯定ということにはならないこともあるのだが、そのような道筋で考えなければ、基本的にはすなおに肯定される。例えば、いっぺんに変えようとしたって無理なのだから、だんだんとよい社会にしていけばよいのだと考えれば、やはり福祉は大切だということになる。そしてそれは常に不足しているように思われる。だからそこからの変化が求められる。また、社会が変わらないと社会問題も減らないのだからと、やはり変化が支持される。そして福祉の仕事の場合、実際に仕事をするその相手は、また政治活動においてその支持基盤となるのは、実際に生活に困っている人たちである。そんな事情がある。そんなこんなで、一つに「革新」の部分とのつながりは強い。
 そして本人たちにしても、いくらか考えれば、問題は社会の方にあると思えるから、それが変わってくれないとやっていけないと思うから、今あるものがそのままでは困ると思う。そう思う人たちは変化を支持することになる。
 次に組織。組織は必ずしも必要なものではない。しかし時には必要とされる。あるいは既にある組織が、例えば自らの勢力・影響力の拡大を意図して、組織化に関わることがあり、既にある組織に関わることがある。「支援」する側と、「本人」たちと、どちらが組織されやすいか。これは時と場合による。ただ、前者はそれを仕事とする。職場があり、給料がもらえる。組合もできる。また教育がある。教師がいて、学校がある。そんなことで、組織化しやすいところはある。そしてこういう人たちにまず親たちが関わることがある。子を連れていく病院・施設や学校をきっかけの場として出きていくものがある。比べて、本人たちの方が難しいことがある。障害を仕事にしているわけではない。金がない。暮らしている場所もばらばらだ。(だから、ハンセン病とか結核とかで施設に集められたしまった人たちから本人の運動が始まったことにもわけはある。)とはいえ、共通の利害はあって、それを伝えたり実現しようとしたりする。
 組織のなかに政党がある。その革新政党の一つである日本共産党があった。その政党の福祉や教育の業界とのつながりは、すくなくともかつて、かなり強いものがあった。この政党の人たちの熱心さにはまったく頭が下がるところがある。職業にする人たち、そして親たち、そして本人たちの組織にも関係した。社会保障・社会福祉関係の学問・教育にも相当の影響力をもった。そしてそれは、この国の歴史について書かれることにも関わっている。たとえばたしかに重要な訴訟・裁判であった「朝日訴訟」のことは必ず取り上げられる(取り上げてよいと思う)のに対して、別のことはそうでなかったりする。誰が書いても偏りはできるから、それをとがめようというのではない。ただ、書かれたものに存在する「傾向」とその理由をまるで知らない人が多すぎるのはあまりよくないと思う。
 この政党と、そうでなくやはり「革新」を標榜する人たち、組織とは、長い長い確執・対立があってきた。差異、対立点とされたものは様々だが、それを私が解説したりできない。一九七〇年前後の大学闘争とか大学紛争とか呼ばれたものでも、その対立は引き継がれた。その後もそこそこ長いこと続いた。第一回でもそのことにすこしふれた。
 基本的に統制のとれた――そこがまた嫌われもしたのだが――共産党と違って、そうでない人たちは、ごちゃごちゃだった。「党派」を形成しない、あるいはそれらから距離をとる「ノンセクト」と呼ばれる、あるいは呼ばれたい人たちがいた。また、ヘルメットの色と印で区別されるような党派(セクト)が様々あって、その間にときに複雑怪奇な対立があった。諸党派の分岐は一九六〇年代からあったのだが、とくに七〇年代以降、外に向かう運動があまりうまくいかなくなったこともあり、党派間の争いが激しくなり、それが「内ゲバ」と呼ばれて有名になり、その陰惨さがその後の運動の退潮にも影響したとも言われる。まあそれはそうだろう。
 これらについて尋常でなく詳しい人たちはけっこういて、本もたくさん出ているようだから、略す。さて、私たちがいくらかは以前から知っていて、そして一九八五年に調べ始めた障害者の動きは、この時期のことに明らかに関わっていた。そして、そこにあったつながりは、基本的には非・反共産党という人たちとのつながりであった。そして、この「左翼」内での対立のあり方が、運動や思想の形成にも影響していると私は考える。むなしいだけのことではなかったと思う。このことはそれなりに大切だと思うから、古い喧嘩のことを蒸し返そうとしている。
 そんなふうに言ってしまうと、すこし誤解を与えてしまう。障害者の運動は、とくに学生の運動と、まずは、切れていた。まず大学生はただの大学生だった。そして障害者に大学生はとても少なかった。(それは米国西海岸での「自立生活運動」が大学生によって始まったとされているのとたしかに違う。)ただ、その上で、これは対談させてもらった時に横田弘さん(青い芝の会・神奈川県在住)も語っていたことだが、その時期の「学生さん」たちの騒動は、また「造反有理」といった気分は、誰でも、文句を言っていけないことになっていた人たちも、偉い人や社会相手に文句を言ってよいのだという気持ちを強めるものではあった。また訴える方法にもいろいろあって、時には「直接行動」もありだと思い、実際、「バス占拠」といったことをいくつかやってみたこととも無関係でないはずだ。
 一九七〇年に横浜で脳性マヒの子が殺され、それに関わる減刑嘆願運動への反対運動を神奈川県の青い芝の会の人たちが始める。また府中療育センターを巡る問題が表面化するのもこの年である。これらの事件、抗議の運動は、この時期だから起こったわけではない。ただいくらか関係はしているし、その後も関係は続くことになる。
 まず組織、党派、人の関わりについて。神奈川の青い芝の会の組織はこじんまりしたものではあったが、その運動は、その会が主体となり主導した。ただ、施設で暮らす人たちの中のごく少数の人による施設への抗議といったものはより困難だ。党派が協力し介入してくることのやっかいさを当初は知らないし、とにかく人手はいないから、誰でもどうぞということにもなる。結果、利用されたり、党派間の対立にまきこまれて、迷惑を被った人たちもいた。そういう「引き回し」を嫌って、運動の自律性を確保しようということにもなる。なかなか複雑な動きがあった。党派としても、「当局」を糾弾するのに加担して騒いでというだけでもなく、また例えば成田闘争とか別の運動に動員しようというだけでもなく、たしかに障害者の生活の現場に「資本主義の矛盾」は見えるのだから、外向きの運動の退潮の時期、それなりに真面目に律儀に支援を続ける部分もなくはなかった。こうして、まったく無縁であったかというとそうでもないのだが、総体として障害者の動きは、こういう人たちを敵とする人たちが宣伝するほど「過激派」の運動ではなかった。
 むしろ、そんな所属先が嫌いな人たち、そこから離れてきた人たちがこの運動・生活の場に居着くことになった。聞かされた大きな話には実現の展望もないし、かといって普通に就職する気にもならないし、といった人たちがいて、「支援」に入ることになった。その人たちの中には、法螺を吹くのが嫌になった人、聞くのにあきた人、あるいははじめからそういうものになじめない人もいて、「裏方」にまわることをよしとした人たちもいた。ここにはいくらかの屈折がある。理屈を信じられない、言葉を信じないといったところがありもする。同時に、以前からの争いも引きずっているから、きらいなものはきらいでもあって、ときに批判の言葉を駆使することもある。障害者運動の世界がそんな人たちの「受け皿」になったところがある。同じような気質をもっている人たちは今なら「引き籠り」ということになっているのだろうとか、言う人もいる。
 そして、もう一つ関わりがあったのは、学問批判、医療・福祉批判、専門職批判…の流れである。その批判・反省の「成分」にもいろいろがあって、複雑で、かつ整理されていないのだが、具体的には例えば東京大学での騒ぎは医学部から始まったということもあった。その業界・学会で病者・障害者に対してよいことをしてこなかったという批判もなされる。それは一時期の学会改革運動、とくに精神医学や心理カウンセリングといった領域での運動に連動し、精神障害者たちの運動の展開と関わることがあった。そしてこの運動に関わり、主導権を争い、一時期この動きを進めたのも、非・反共産党系の人たちだった。そのことにいちおうの理屈は付けられていて、(人民のための)科学を肯定し、そしてその科学を担う人を基本的に肯定する旧来の左翼と違って、自分たちは科学技術の問題性をもっと根本から問題にするというのだった。その話がどうなったのか、その運動がどうなったのか、あまりその行く末は芳しいものではなかったとも思うのだが、ともかく、そんな流れはあった。そしてその中にも、別のものを打ち立てるのだといった言い方をする人と、理論(的なもの)に見切りをつけて、現場へ、実践へという人がいた。その一生の中でも変化のある人がいた。いちおう学問にとどまる人と、まったくそこから離れていく人がいた。

メディア

 そして、伝える側、受け取る側のこともあった。その動きを伝える文章が少ないとさきに書いたし、それはその通りなのだが、それでもさきの二つの事件のことは新聞には載ったし、府中療育センターと東京都を批判した新田絹子の手記「わたしたちは人形じゃない」は『朝日ジャーナル』に載っている(一九七二年一一月、当方のHPに全文掲載している)。また、青い芝の会のこともNHKの番組『現代の映像』でとりあげられている(「あるCP者集団」、一九七一年二月)。またさきに紹介した『流儀』に注をつける際、医療、薬害…に関わる古本をいくらか仕入れたのだが、その過程で、朝日新聞社編『立ちあがった群像』(一九七三年、朝日新聞社)という本が見つかった。この本は「朝日市民教室・日本の医療」全六巻の第六巻である。ここに横塚晃一「CP――障害者として生きる」が入っている。「本原稿は、横塚晃一氏の口述、妻りえさんの筆記によって機関紙『青い芝』に掲載されたものを転載させていただいた。」と注記があって、「母親の殺意にこそ――重症児殺害事件の判決を終って」、「施設のあり方について――施設問題への提言」が収録されている。そして、一九七四年刊行の『ジュリスト』五七二(臨時増刊 特集「福祉問題の焦点」)には横塚「ある障害者運動の目指すもの」が収録されている『母よ!殺すな』に再録)。このことは、調査を始めた当初に気づいたことで、専門的・業界的な本にはほとんど出てこないことからすると、こんな「堅い」雑誌にと、不思議な感じがして、記憶に残っている。ただ、同じ調査の過程で見かけたところでは、例えば全国社会福祉協議会が出している『月刊福祉』にしても、ある時期はけっこう硬派な記事が並んでもいたように思う。こんな雑誌も含め、なにか知らせねばと思ったメディアの人はそれなりにいたのではある。
 そしてやはり追加情報。昨年、それまで面識のなかった中央大学他非常勤講師の種村剛さん(以下三名について敬称あり)から連絡をいただき、民放(TBSと東京12チャンネル)で放映されていた『東京レポート』という東京都の広報番組で二度、青い芝の会関係の人が出てくる番組が作られたことを教えてもらった。一九七二年五月のは、「はばたきたい」という題。江東区四肢不自由児訓練施設「青い鳥ホーム」で親や職員が熱心に脳性マヒ児を訓練する様子が映し出される。それだけならそれだけなのだが、続いて寺田良一へのインタビューがあって、そこで「世の中に積極的に迷惑をかけてでも生きるんだという人間になっていくことが必要だという気がする」といったことが語られる。一九七三年五月の番組は「子にとって親とは…」という題のもので、横塚晃一の家の夫・妻・子の日常が映され、晃一が「親はエゴイストだ。やっぱり抑圧者ですね。」といったことを語る。そんな番組があったのだ。
 種村さんがたまたま入って行きつけになった東京都府中駅近くの「玲玲」という薬膳料理屋・飲み屋の主人が赤羽敬夫さんで、その店で飲み食いしている時にこの番組の演出・構成を赤羽さんが行なったことを種村さんが聞いて、そのお店で小さな上映会をするということになって、私も呼んでいただいたのだった。とてもおいしい料理と酒を出すその店で、私たちは赤羽さんのお話もいくらかうかがうことができた。青い芝の会の人たちのことをそう詳しく知っていたわけではないが、またとくに「政治的主張」をしたいとか、またある主張を支持したいとかいうのではなかったが、報道でその人たちのことを知り関心を抱いて、それで取材・撮影に入ったのだという。十五分の短い番組ではあるが、かなり長い時間、聞きやすいと言えない寺田・横塚の言葉が流れ、顔が映し出される。東京都の広報番組であるが、かなり現場の裁量でできた部分もあって、赤羽さんは、「子どもの日」に合わせて、横塚親子の番組をと思って作ったのだという。
 その上映会は二〇〇八年七月二〇日に行われた。その日はまったく偶然、一九七八年七月二〇日に亡くなった横塚の三〇周忌の日だった。その前年の二〇〇七年に『母よ!殺すな』の再刊を果たした生活書院の高橋敦さんがそのことに気がついて、私と高橋さんと皆はそんなことにも感じいってしまったのだった。といった話をし出すと、これはたしかに特異なマニアの話になっていくのではあるけれども、しかし恥ずかしくとも、書いておく。
 まずこんな感じの「陣容」だったとしよう。では、何が争われたのか。また、その争いにも影響されて形成されていったものは、どんな性格を有していたのか。その中身を書かなかった。機会があったら、書くことにしよう。


◇立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◇立岩 真也 2008/08/05 「もらったものについて・2」『そよ風のように街に出よう』76:34-39
◇立岩 真也 2010/02/20 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44,


UP:2009 REV:
『そよ風のように街に出よう』  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(運動)史のための年表
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