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発言と応答

立岩 真也 2009/06/00
(財)日本宗教連盟シンポジウム実行委員会編『いま、いのちを考える――脳死・臓器移植をめぐって』
日本宗教連盟第3回宗教と生命倫理シンポジウム報告書,pp.4-8,25, 28-30,35-39,41-42


*日本宗教連盟第3回宗教と生命倫理シンポジウム
 「いま、いのちを考える−脳死・臓器移植問題をめぐって−」
 平成20年12月3日(木) 日本青年館「中ホール」

■立岩 紹介をいただきました立岩です。今日は脳死・臓器移植にかかわる法律の改定ということがメインの議論になるだろうと思います。ちょうど今まさにそれが議論になってしまっているという情勢でもありますので、それは当然のことです。そしてこのテーマについては、私自身には何ほどの蓄積もありません。次に光石さんがお話しになりますので、その話は私のほうではおいといて、もう一つ主題として挙げられている安楽死・尊厳死についてだけ、すこし話をさせていただきたいと思います。
 ただその上でも、レジュメにも書きましたが、これは、考えていくといろいろなことを考えなければいけないテーマで、このことに関わる全般をここで限られた時間でお話しすることは不可能です。二つだけ、簡単に申し上げます。
 一つは、いま島薗さんがおっしゃったように、少なくとも日本においてはここ20年近い時間の中で、脳死をどう考えたらいいのだろうかという議論がなされてきたわけです。それは、欧米諸国の多くがこの問題をわりあいあっさり片づけてしまって、むしろその後、今になっていろいろな問題が起こって、やはりあれはもう少し考えなければいけなかったことではないかという状況にあるのに比べて、いろいろ紆余曲折もあり、中には混乱した部分もあったでしょうが、評価されてよいことだと思います。
 それに比べて、という言い方はよいかどうかわかりませんが、安楽死あるいは尊厳死についてはどうであったか。安楽死・尊厳死が想定される状態は、普通に考えれば、脳死の状態と完全に地続きといいますか、つながっている出来事だろうと思います。そして、我々の社会が脳死について、これまで議論してきたことを考えるならば、まさに直接につながったこととしてこの主題が、皆さんの関心事、考えるべきこ<0004<ととしてあるだろうということをまず一つ申し上げます。
 脳死の状態は、死んだ状態であるということにされるわけですが、そうなった時にに実際になされることは、医療処置、延命処置がそこで中止されるという出来事です。尊厳死、安楽死はいま生きていて、そして死に向かう処置ということになり、そこでもさまざまな方法があるわけですが、やはり一つの医療処置、俗に言う延命処置が終了されることによって即座に死がもたらされるという出来事であるわけです。生きること、生きるためのことをもうしなくもよい、それはいつなのか、なぜなのか。問題は同じです。少なくとも我々は、脳死についてさんざん悩み考えてきたことを、このテーマについても、なかなか厄介なことではありますが、考えていく必要があると思います。まず申し上げたいことの一つは、そのことです。
 考えてみれば、脳死という状態も一義的に決まるようで、ある意味原理的にうかがい知ることのできない部分が残っています。それが厄介さだと思いますが、また尊厳死、安楽死にかかわっていれば、さらに多様な身体の、その人間の状態がそこにあります。
 例えば、一般には末期の苦痛に満ちた状態という言われ方がよくされるわけですが、脳死の状態がいつ、どういう状態なのかということと同様に、「末期」と僕らは簡単に言ってしまうけれども、それは何かということになるわけです。ところが、人によって本当に話が違います。2時間3時間という時間のことなのか、2日3日のことなのか、人によっては、半年あるいは1年とか、そういった状態をもって末期と言うことさえあるわけです。
 そして、また苦痛という契機があります。確かに従来、苦痛が大きな位置を占めてきたということはあるでしょうが、少なくとも苦痛の緩和がさまざまになされうる我々の社会の状況において、苦痛がどれだけ重要なファクターになるのかといっこともまた見ておく必要かあります。
 そしてさらに、この間なされてきた議論は、古典的なというか、末期の苦痛に満ちた状態というだけではなく、現実に、例えば認知症の人について、あるいは意識は清明であるけれども体が全く動かなくなった状態について言われています。そういう意味でいえば、脳死のわかりにくさと同じ部分を含みつつ、さまざまな状態、事情にある人について、死にゆだねることがどういうことであるのかを考えるに際し、脳死に関して我々が費やしてきた以上の力、時間が求められるということを、当たり前のことですが、申し上げます。
 では、それについてどう考えたらいいのかについては、もちろん私見ですが、私自身は、先ほど島薗さんが紹介してくださった本(『良い死』、筑摩書房、2008)、それから迷惑なことにもう1冊そのうち出るはずですが(『唯の生』、筑摩書房、2009)、そういった本の中でどう考えるべきか述べております。結論だけ言えば、私は、この<0005<件に関して極めて慎重な立場をとるべきであると考えています。そのわけも長々とその本で申し述べています。その長々したところはそういったものに譲らざるを得ないといったところです。
 私は生命倫理学者でも何でもなく、多分社会学者だと思います。我々の現実を規定している状況あるいは力について、二つ目の話をしたいと思います。通常、特に尊厳死が議論されるときには決まり文句のように、医療の過剰、過剰な医療といったことが言われて、それに対する抵抗としての死の選択が置かれる。こういう流れ、こういう図式でこの間ずっと語られてきたわけです。私は、そういった言葉に対応する現実がなかった、現在もないと言いたいのではありません。たしかにそのようなことはあります。けれども、医療の本性として、医者はとかく人の命を延ばすためなら何でもするものであり、それに対して患者の側からの抵抗として死を配置する、そういった図式だけが専ら持ち出されることに関しては、端的に言って、それは現実とは異なるだろうと思います。そのことはぜひとも申し上げたいと思います。
 例えば、1970年代に老人病院が雨後の筍のようにできて、そこの中で点滴とか、その他さまざまなこと、無駄というよりはむしろ加害的な行いがなされたことがあります。ただ、そのときも一体どういうことが起こったのかといえば、そういった処置・措置に対して保険の点数がつくといった中で、経営のためにやらなくてもよいことを行い、それが医療に対する批判になったということがあったわけです。現実が変わった部分もあるにもかかわらず、その図式が今に引き継がれているという感がどうもするわけです。
 そのとき確かに医療はそういうことを行いました。ただそれは、医療が、あるいは医者がそういうことを何でもかんでもしてしまうものだというよりは、そういった場面においてはむしろ経済的なというか、その行いが病院の経営にとってプラスになったという要因のほうが大きかったのだろうと思います。そして、それは当然のこととして批判を受けたわけですが、そういったもっともな真っ当な批判と同時に、「無駄」とされる部分をなるだけ切り詰めていってということがその後ずっと起こってきたわけです。
 そして今どういうことになっているかといえば、少しだけ皆さんも周りのことを振り返ってみればおわかりになることです。今の医療あるいは社会は、人を医療から撤退させているという状況にあると思います。長いこと病院にいたい、あるいはいざるを得ない人たちに対しても、病院にいられる日数が限られてしまいます。あるいは、それに係る保険の点数がだんだん低減していきます。そのことによって、必要な人であっても病院に置くことのメリットが少なくなっていき、やがてそれは病院の側にとってみれば赤字ということになっていきます。そういった中で、いま医療の場から、あるいは福祉の場からも含めて、人に<0006<のいてもらおうという流れ、風、力といったものがむしろ現実の大きなところを規定しているのだろうと思わざるを得ません。
 そうした中で、例えば脳死という状態にしても、あるいは脳死という状態に至らない、これはどういう状態だろうということがわかるようでわからない、あるいはわからないにもかかわらず、わかるかのように語られています。他方で、容易にわかるはずのこと、例えば末期の状態になろうが、高齢の状態になろうが、栄養が止められれば、言葉に表わすことができるかどうかわかりませんが、おなかはすくわけですし、水分が補給されなければのどが渇きます。それはもうろうとした意識の状態であっても、そういうことは思うはずです。あるいは、呼吸器を止める処置にしても、普通に考えれば、呼吸ができなくなればだれだって息苦しいわけです。そういっただれにでもわかるようなことが語られず、わかりにくいことがさもわかったように語られます。そういった状態をどうしたらよいのか、どちらにも転ぶような状態に対してどういう風が吹いているのか、どういう力がかかっているのか、一考していただきたいと思います。
 そういった状態に対していま働いている力、これは一貫して我々の社会に働いている力ですが、それは、お金がかかる状態であるならばなおさら、人手がかかる状態であるならばなおさら、早めにこの世から去っていってもらおうという力です。端的に言えばそういうことだろうと思います。それは言葉だけのことではなく、先ほど申し上げたように、現実のこととしてそういうことになっている時に、例えばそれに対して、本人がそれを決めたからそれに応じて、それを是としてそのままにしてよいのでしょうか。問題の本質はそういうことだと思います。
 確かに人の意思を尊重することは大切なことであるに違いありませんが、それは多くの場合、その人の決めたことはその人にとってよいことであるからです。そうすると、いま起こっていることはその人にとってよいことなのか。そういうことを考えてみます。お話した状況の中に決定があってしまっています。そういったことを考えていくならば、脳死の問題のみならず、安楽死、尊厳死と言われている事態に対して、我々はよほど慎重に扱って考えていく必要があるかと思います。
 私は、ありとあらゆる医療をありとあらゆる場合に続けるべきだという立場には立ちません。しかし、そういった意味での過剰、過剰というより加害的な医療は、例えば現行の医事法においても十分に対応可能なはずです。それにもかかわらず新たな決まりを、例えば法律という形で決める必要があるのだろうかと考えたときに、私はそうは思えない。結論としてはそうなります。
 今日申し上げたいのは、まず脳死ということを皆さんがお考えになってきたのであれば、安楽死、尊厳死に向かう状態をどう考えるのかということに同等の関心を払っ<0007<ていただきたいということが一つです。それから、そういった微妙な厄介なことを決めざるを得ないときに、社会の風向き、力がどちらからどちらのほうに向かっているのか、そのことにぜひご留意願いたいのです。そのことだけをここでは申し上げて、お話を終わらせていただきます。(拍手)<0008<


討論・質疑応答

■立岩 まずは手短に。もらって生き続けるということに関していえば、そのこと自体を否定することはできないというか、しなくてよいだろうと思います。もとはといえば、血液であった血液製剤を使って生きている血友病の人もいます。そういう意味でいえば、そういうことはあります。そしてあってよいと思います。問題は、あげなければいけない側にもたらされることが何であるのかということです。それが苦痛であることもありますし、場合によったら死であることもあるわけです。とりあえずは、そういう単純な答えになるだろうと思います。
 それから、ケース・バイ・ケースという話ですが、確かに時と場合によって対応が異なるということは大いにあることだと思います。ただ、どういう場合にはこうで、ああいう場合にはああでという指針を出すのが倫理規則であったり、あるいは場合によったら実定法だったりするということになるわけで、ケース・バイ・ケースが必要だということと、ある種の原則が必要であるということは矛盾しないし、むしろそれが不在であることによって、これも時と場合によるわけですが、まずいことがいろいろ起こるということもまた事実だと思います。<0025<


■立岩 大きな問題ですね。なんで今そうなっているのでしょうか。一方で撤退、過少があり、一方で、少なくともだれかから見れば過剰ということがあります。それが同時に存在しているというのが我々の社会であり、それはなぜなのかという問いです。それについては幾つかのことが言えます。何に我々は熱心になっていて、同時に、何から退こうとしているのかという、その現実を見てみればよいということがあります。それは光石さんも関さんもおっしゃったことであり、どういうものを我々の社会が求めてしまっているのかということから説明はできるだろうと思います。これ以上は長くなるので、その話はそれきりにしておきます。
 もう一つの問いは、それをどう評価するかということです。つまり、テクノロジーに関する、何かしらありがたい気持ちと懐疑的な気持ちと我々は両方持っているわけですが、それは一体何に由来するのかということだろうと思うんです。
 一つに、テクノロジーがテクノロジーであるがゆえに、それをネガティブなものとして見るのはやはりナイーブにすぎるだろうと思います。何ゆえに我々はそれを肯定し、時にそれに対して懐疑的であるのかを考えなければいけないということが一つあるのだろうと思います。それに関してどう考えるかに関しては、この間書いた本の真ん中ぐらいのところに書いてはあるのですが(『良い死』第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」1節「人工/自然」)、これ以上は申し上げません。ただ、テクノロジーがテクノロジーであるがゆえに、あるいは先端的なものが先端的なものであるがゆえに、それは反人間的なものでよろしくないという単純な話はできないだろうと思っています。ある意味では当たり前のことですが、それが一点。
 それから、テクノロジーとコマーシャリズムの話もしばしばつなげて我々は考えるわけですが、とりあえず別途に考えたほうがいい。コマーシャルなベースに乗っているものと、そうでないものがあり、これは医療全体の問題に関わっていて、医療機関の経営をコマーシャリズムが規定することについて、例えば株式会社が病院を経営するといったことについて、私はおおむねネガティブでよいと考える立場ですが、それを全部否定する、つまり商品世界というものを全部否定するという話にもならない。そうすると、コマーシャルラインに乗るものと、乗らないものをどこら辺で分けるかという話は常に出てきます。
 いずれについても、テクノロジーをどう評価するのか、コマーシャリズムをどう評価するのかという規範論的な接近が、一つ必要です。
 それから同時に、なんで今こうなっているのかという、それ以前に今どうなっているのかという、ある意味で社会科学的な接近が一つ、両方必要だろうと思います。私<0028<は最初の話では、この間数十年、末期医療とか終末期医療という世界の中ではクリシエ(cliche)、一つの決まり文句として、医療が過剰であるというのが大前提になって話が転がっていくことに関して、我々はもっと神経質にならなければいけなのではないか、事態を現実のままに見なければいけないのではないか、それはことの半面だけれども、別の半面をきちんと見ておくべきだろうと申し上げました。例えばそんなことを確認しながら進む必要があるだろうと思います。<0029<


■立岩 私の最初の話の言い方が舌足らずであったならおわびしたいと思います。むしろ同じように考えている部分がたくさんあります。一つには、医師・医療者個々人の問題ではないと思っています。今年になって、読売新聞社と我々の大学院と一緒に<0029<終末期医療に関する調査をやったのですが、個々の医師たちはいろいろなことに非常に悩みながらけっこう過酷な中で頑張っているという感じが、この調査の中からもうかがえますし、また、例えば病院の倫理委員会といった場でもそのことは感じます。ですから、そういう意味で言ったわけではなくて、むしろそういった板挟みになってしまってさまざまに悩まなければいけない状況になっているところが、この間の現実というものを規定しているのだろうということです。決して医療者個々人の問題ではない。これが一点です。
 もう一つ、私が申し上げたのは、過剰なというよりはむしろ過少なというか、やるべきことがやられていないことにかかわる経済というか、社会の状況という側面です。もちろんそれは、余計なというか、むしろ本人にとって加害的なことがなされてしまっている現実がまた別にあることを否定することではありません。
 ということで、医師個々人の問題、あるいは医師個々人の利益追求という話ではありません。では、病院も利益追求しているかというとそんなことはないわけです。例えば国公立にしても何にしても、基本的には利益追求のために病院は存在しているのではない。おおむねそう言っていいだろうと思います。むしろ大きな規模の病院であればなおさらです。
 ただ、経営自体は維持しなければいけないわけです。赤字を出したらつぶされるとか、つぶれるということがあるわけです。そういった中で個々の医師は頑張ってやろうとしているけれども、病院の経営を考えたときに、これはもうやれないということが今は広範に起こっているわけです。それは利益追求ではなく、ある意味そうしないと経営がもたないというか、病院がつぶれてしまう、そういう状況なのだろうと思います。<0030<


■立岩 ちょっと込み入った話になってしまうかもしれません。言葉自体が、例えば積極的安楽死とか尊厳死とか一定ではない<0035<ので、それもまた困りものですが、積極的安楽死という言い方で一般に言われるようなことに関しては、法制化というか、合法化というか、認められているのは今のところわずかです。アメリカに幾つかあって、それからオランダにあるとかというぐあいです。そういう意味でいえば、積極的安楽死に関して全世界的に肯定的である状況にはなっていないということが一点。
 ただ、日本で今だとちょっと言葉をぼやかして治療停止という言われ方で言われている部分に関していえば、北欧も含むヨーロッパ等々において、むしろ日本よりも一般化している状況にあることは事実としては申し上げておかざるを得ないかと思います。私自身は、このことについて、マジョリティである国々に合わせろということを言いたいわけでは全くなく、むしろ逆のことを言いたいのですが、事実はそうです。それが二つ目です。
 三つ目ですが、そういった流れの中で、それが多くの人において肯定されているというか、了解されているかとなると、そうではありません。ここのところは情報に関する若干のバイアスがあって、かの国ではみんな賛成だ、かの国ではみんなそうなっているんだというサイドの情報が専ら伝えられる傾向にあると思います。
 ただ、実際にはそうではなくて、例えばイギリスであっても、フランスであっても、北欧であっても、治療停止を自明とするというか、どんどん認めるという流れに対して批判的な主張をし行動をしている人たちも現にいます。ただ、それが報道されることはあまりない。これはバイアスがかかっているという意味でも、我々が事実を知らないという意味でもよくないことだと思っています。それが三点目です。
 では、どういう方向に流れているのかということになれば、もちろんいろいろな答えはできますが、例えば政治家という言葉があったと思いますが、そのレベルでいえば、人々はお金のことを心配しているわけです。そういった流れの中で現実が動いてきました。これは、高度の福祉を実現している国においてもそうです。
 そうすると、なおさら我々も仕方がないのかなと思ってしまう部分があるのですが、そこが少なくとも社会科学的なところでいえば踏ん張りどころなわけで、実際に終末期にかけるお金をきちんとかけて、ちゃんと死ぬまで面倒を見ようという社会を実現するためにどうしようもないほどお金がかかってやり切れないというか、現実には不可能だという話になるかというと、それは決してそうではないはずであるということがはっきり言えるだろうと考えていて、そのことを私は今度の本(『良い死』)でも書いてきたつもりです。
 なんとなく言葉にできないような部分も含めて、そしてそんなに具体的な数値を挙げてというのではないのですが、不安がある。もちろん他方に、医療費が何兆円だとか何億円だとか言う人はいますが、それもじつは何を意味するか必ずしもはっきりしない。結局非常に漠然とした不安とか懸念<0036<を語るということのほうが一般的であって、それが今の流れを後押ししているのでしょう。とすれば、そこのところはきっちり計算して、私の考えでは、それは乗り切れるというか、対応可能である、それを確認し、我々がそれを安心して受け入れることが、違った状況に向かわせることになるのではないかと考えています。<0037<


■立岩 まず宗教者というところの手前で、脳死論議に関する議論がいつ盛り上がって云々という話は光石さんのほうがずっとよくご存じなので、すべて委ねます。尊厳死に関してはどうかです。20年前に議論がきっちりなされ、それが一たん終わってという話にはなってないのです。1970年代から80年代の初めにかけて安楽死法案が一回、日本尊厳死協会から出されました。安楽死協会といっていたのが尊厳死協会という名前になって。実は2005年、2006年という形で、いま出てきているものはそれに非常に似ています。そういう意味でいえば、歴史が繰り返されているわけです。
 ただ、1970年代後半から1980年代にかけ<0037<ては、さまざまな人たちがそれに対して反対ということは言って、法案自体は立ち消えました。今度出ているものは内容的にはあまり変わらないわけです。そうすると二択ですね。過去にあった、それはまずいんじゃないかという話が間違っていて、それを通すのが正しいか、過去において出された懸念、批判が正しくて、今度もそれに対しては同じ態度で臨むのがよいのか。基本的にはどっちかしかないわけです。そこでどっちか考えなければいけないわけですが、その前提として、例えばそういう歴史があったことを多くの人がご存じない。それはよろしくないと思って、2冊目の本(『唯の生』)ではその辺の歴史の話をしているのですが、そういうことは知っていただきたいと思います。
 それからもう一つ、今回の法案化にはさまざまな方々が熱心になっておられると思いますが、70年代から80年代にかけてそれを推進した日本尊厳死協会は依然としてというか、一貫してというか、そのサイドにいます。その性格は、20年、30年の間に随分変わった部分もあります。一言で言えば一般市民向けのものになりました。ただ変わってないところとは変わっていない。そして、70年代から80年代にかけて、あるいは80年代、90年代を超えて、協会の中で、認知症(昔は痴呆症)の人たちに対する安楽死、尊厳死を認めようという議論があったりもしてきました。そんなことを結構多くの方が知らないまま、まあいいんじゃないのという流れになっています。それはよろしくないと思います。
 そういう意味でいえば、やはり過去に何があって、どういう議論があったのか、尊厳死、安楽死に関しても最低限知っておく必要があるだろう。それは別に宗教者云々ということではなく、関心を持たれる多くの人たちに知ってほしいと思います。では、宗教者固有にということで、何か本当は言わなければいけないのですが、それは光石さんに言ってもらうことにします。(笑)<0038<


■立岩 日ごろ思っていることを二つ思い出しました。一つは、別に宗教者に限らず、そして今の光石さんの自己決定という話につながるのですが、人は「死にたい」といろいろな場面で言いますよね。そのときに、文字どおりにそれを認めるという話は、「はい、どうぞ」という話です。簡単に言えば、それがよいことかということです。
 宗教者の大きな役割として、そうやって人がやってきたときに、何であなたはそういうことを言うのだと聞いて、そういうふうに思うことはないのではないかと言って、それで話し合ってということが、宗教者に限らないと思いますが、周囲の人々の義務だと思いますし、なすべきことだと思います。そのことが一点です。
 それは言ってみれば、言葉を聞く、言葉に対して言葉で応答するということですが、もう一つ、具体的に人を助ける、死ぬまでちゃんと生きてもらうことに宗教者なり宗教者の組織はいろいろな場面で関われるだろうと思います。もちろん関わっている方も多数おられることは承知しています。ですが、自らがというだけでなく、様々な場での人々の活動を支援・援助するなど、さらにできることもあろうかと思います。そして、今の状況は政治経済的にもたらされているものでもありますから、その部分に対する発言もまた必要でありまた可能であろうと思います。死ななくて済む人がたくさん死んでいるのが今の状況だとすれば、そうでない方向に、宗教者、宗教者の組織が果たせる役割もまた大きいだろうと思っています。<0039<


■立岩 信心のない私が言うのもなんですが、関さんが今おっしゃった存在の価値に関していえば、宗教はもちろんたくさんあ<0041<って、分立していて、時には対立しているわけですが、生において手段的な価値よりも存在それ自体に価値があるということについては、ほぼあらゆる宗教がその価値を共有している。そういう意味では、普遍的な価値は各宗教に共有されている、存在していると僕は思っています。<0042<


UP:20081231 REV:20090213, 0623
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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