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自殺をどうとらえるか

立岩 真也・雨宮 処凛・岡崎 伸郎・浅野 弘毅(司会)
2009/01/25 『精神医療』53:8-33


『精神医療』53号座談会「自殺をどうとらえるか」
http://www.hihyosya.co.jp/
http://www.hihyosya.co.jp/category/books/10021/

立岩 真也  立命館大学大学院先端総合学術研究科教授
雨宮 処凜  作家 http://www3.tokai.or.jp/amamiya/
岡崎 伸郎  独立行政法人国立病院機構仙台医療センター部長
浅野 弘毅  東北福祉大学附属せんだんホスピタル院長(司会)

  cf.◇自殺精神障害・精神医療

*以下立岩の発言部分のみ。『精神医療』お買い求めください。
 →単行本化されました。お買い求めください。
◆浅野 弘毅・岡崎 伸郎 編 20090525 『自殺と向き合う』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー24,197p. ISBN-10: 4826505043 ISBN-13: 978-4826505048 1890 [amazon][kinokuniya] ※ s01.

〔自殺の増加をどう見るか〕

浅野●

立岩● この座談会にお誘いいただいた時に、とにかく私はこの件に関しては不適格、不適切だと申し上げました。わけは簡単で、私は鈍感で幸福な脳天気な人間であって、死にたいとまじめに思うというリアリティーに欠けているからです。
  確かに言えること、確かにわかることから話す、書くというのは、それなりに学者として大切なことだと思っていて、わからないことをわかったように書くというのは、信義に反するというか、そういうこともあります。とにかくわからない。だから本当は何も言えないということに尽きます。ただ、だから知りたいというか、どんな感じなんですかという気持ちもあるので、それで今日は来させていただいたということが、一つです。
  ただ、自殺が、いわゆるお金の問題、経済の問題とリンクしているということは、これまた一方で確かなことでもあると思います。私は大学院というところに勤めていて、そこはなかなか先のない、先の見えないところでもあり、もともとちょっと社会不適応な人間が集まってしまうということもあり、入ったらやっぱり不健康なところですから、だんだん精神の状態がよろしくなくなっていくという人もいる。その他、自殺企図というんでしょうか、その関係の人間はいます。それで話を聞いたりはするのですけれど、でもやっぱりわからないという感じがあります。それから、その人たちに対して何を言ったらいいのかということも、本当のところはわかりません。ただ、電話があったり、直に会ったりして、その場凌ぎの無内容なことを言って、とにかく明日の朝が来るのを待っていなよとか、そんなようなことで凌いでいるにすぎないのですけども。
  それにしても、結局、その連中が仕事が見つかって月給もらえるようになったりすると、そこそこやっていけるというようなことも、やはり起こっているのです。そうすると、やっぱりお金、というか生活は関係している。
  長野英子さんがもう何十年と言っている話で、精神病には金が一番効くと。それはやっぱりそのとおりだろうなと思う。最終的には、私には、わからないところは残る、だけど、お金の問題は、本来であれば、解決可能です。改善可能です。だから、そこはできなくはない。できても、それでも人はたぶん死ぬでしょう。死ぬでしょうけれども、今よりは少なくなることは確実なわけで、それをやればいいという、これは誰でも思うし、誰でも言うことですけれども、それに尽きるといえば尽きます。
  政府の自殺総合対策大綱ですけれども、社会的なファクターというものが自殺にいろいろな形でかかわっているという認識は示されています。ただ、実際の社会的要因云々というのは、要するに、国の税金をどうやって取ってその税金を誰にどうやって渡すかという、社会保障の大きな話です。それをやればそれでいいのだけれども、おそらく今の流れでいけばそういう話にはならない。結局、大綱にどんなことが書いてあっても、そこの中でやれることというのは、自殺を考える人の中のごく一部が病院等に行って相談を持ちかける、そうすると、お医者さん、カウンセラーが、困りながらも、何か、当座言えることを言う。薬を出す。それだけ。それでもまあしないよりはしたほうがいいということがあるでしょうけれども。そんなこんなで事態が続くということにしかならないのだろうなと。

浅野● 

雨宮● 

浅野● 

岡崎● 

立岩● 岡崎さんの話について二つあります。一つは、精神医療の業界が期待されているという話について。私は、自分たちの仕事としてこれは到底背負い込めないというふうに返したほうが、かえって基本的なスタンスとしてはいいような気がするんです。何でもお任せくださいということじゃなくて。自分たちの商売でやれることもあるけれども、それは極めて限定的なことなので、いろいろなことをうちらにやってくれと言われたって、それはかくかくしかじかで無理難題ですというのが基本のスタンスだろうというのが一点です。
  ただその場合、精神医療の内部でやっている限りは、大綱に何が書いてあろうと、医療で話は止まってしまうのですから、精神医療の方がちゃんと投げ返せるようになっているということが大事です。医者が自分の懐から金を出すというわけにもいかないでしょう。生活苦で死にたいって言って来る患者に生活費渡してたら、それは商売にならないでしょう。だからやはり、それをではどこにつなげていくかみたいなことを実践するということにしかならないと思うんですけどね。そうしないと本当にそこで止まって終わってしまう。精神医療の現場で止まって終わって、うちに帰って終わりって感じになっちゃう。
  それからもう一点は、とは言え、という話なんですよ。ついこの間もちょっとひどくなった人がいて、友達に連れられて病院に行って、医者の見立てではまあ大丈夫だというので帰されて。たまたまその時には友達がフォローして、まあ何とかなったんだけども。こいつは大丈夫というプロの見立てというのもあるんでしょうし、それがおおむね当たるだろうことは否定しませんけど、それでも、ちゃちゃっと見て、こいつは大丈夫だというんで、というより、病院として一晩でも受け入れる体制がないということで、帰される。とりあえず今晩は病院に泊めてというようなこともできてなくて。そういうベタなレベルでの精神医療の対応力みたいなものは、法律になんて書いてあろうが大綱になんて書いてあろうが、圧倒的に不足していると言わざるをえないというのが、先ほどの話に対して思うことですね。

〔自殺と「自死」〕

浅野● 

岡崎● 

浅野● 

立岩● その3万人いる人の中で、そのような美しいというか、そういう死というものは、あったとしても微々たるものであるとは思います。ただ、安楽死だとか、尊厳死だとか言われるもののすくなくともある部分は自殺なのであって、それは精神的に錯乱しているとか困窮の極みにあるというのとは違う形で早目の死を選ぶということではあります。ではそれをどういうふうに考えるのかということは、考えてきたつもりです。
  それで、『良い死』(筑摩書房)という本を書いたんだけれども、それについては二つあって、一つは、日本がそうだけれども欧米とかでは必ずしもそういうものではないというのとも、ちょっと違うとだろうということです。むしろ、かくかくしかじかになったら、ある意味で潔いやり方として、死を選ぶ、早目に死ぬというのは、近代社会の中でのある種の美学として、日本でとくにというのでなくて存在している。それは、自分のアイデンティティというか一貫性とか自己意識であるとか、能力であるとか知能であるとか、そういったものが保たれているうちに、それが失われる手前で死を選ぶ、それが美しいという価値はあり、それに由来する自殺、自死、安楽死はあります。実際に死を選ぶかどうかはいったん別に、ときにそこまで行ってしまう価値がある。それはどこにも、とくに北米や北西ヨーロッパに、強固に、ほとんど疑われる可能性も知られずに、存在している。
  もう一つは、その価値・美学と、さきほどのお金のこと生活のこととの関わりについてです。両者はまったく別種類の死であるかといったら、私はそれは違うだろうと思うんです。つまり、そこで願われている死というのは、自分が何かしらインテグリティというか、統合感みたいなのを持っていて、自分で自分をきちんとコントロールできて、その上で自分のために、あるいは人のために何事かができる、そういった能力を自分が有していることが生きているあかしであり価値であると。そしてそれに反する状況が予見された時には、人は死にたくなってよいし、死ぬことが許されるべきだという考え方が出てくる。自分の能力で稼いだ範囲で暮らせという規範・現実と、能力のある稼げる自分が自分であるという価値とは、まったく同じものではないけれども、つながっており、互いが互いを強めるような関係にあります(『私的所有論』、勁草書房)。職がなくてつらくてという場合も、たんに金がないからつらいというだけではない。職がなく、金を得られないことについての価値が大きく関わっています。そういう意味で言えば、さっき言った経済的な困窮とかそういったものによる死と、自らに関わる価値、美意識のようなものに発する死というのは、まったく地つながりになっているだろうと思います。

〔心理学的剖検〕

浅野● 

岡崎● 

浅野● 

岡崎● 

浅野● 

〔精神科医療とセーフティネット〕

岡崎● 

立岩● 外来医療中心とか地域ケア中心というのは、基本的にそれでいいわけですよ。さっきの話で言えば、次の日の朝まで泊めといてくださいと。やっぱり一人暮らしとかしているわけじゃないですか、とくに若い世代は。本当は一晩泊まるのは精神科の病院でなくてもいい、対応するのは必ずしも医者でなくてもいいと思うんです。そういう感じなんですよね。だから「長期入院v.s.地域ケア」という話ではなくて、基本的に一人暮らししたりするのはそれはいいのだけれども、時たまというか、すごくつらくなって、ちょっと自分一人じゃ一晩もたないというシチュエーションがあったときに、他にどこかあればいいけど、なかったりしてとりあえず病院に行くと。でも帰されてしまう。そういうのはなんとかしてよというぐらいのことで。こうしたことがかなりのところで起こっている。

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

立岩● 分業はけっこうというか、仕方がないところがあると思うんですよ。べつに精神科医に限らないけれども、分業の仕方が下手だと思うんです。このごろ神経性難病の関係の人と付き合いがあるんですけど、今、ある程度入院長くなると病院出されちゃうじゃないですか。それで退院させられて、どうするというところで、ほとんどの病院では、次のことを具体的にサポートするまでの力量がないというのが実感です。

岡崎● 

立岩● 人生相談というほどでなくてもよくて、医療や福祉の人が本来知っているべきことを知っていて伝えてほしいし、やってほしい。知らなければ知らないと言ってほしいし、自分が知らないなら他の人につないでほしいということなんです。知っている人を知っているということが大切なことがあります。知っている人の電話番号だけ知っている、でもいいんですよ。それすらもやれなくて、ただ帰しちゃったらそれで終わりになっちゃうってことあるでしょう。

岡崎● 

立岩● あらゆることを知っているなんてことは普通の人間じゃ無理に決まっているんで。でも自分の知らないことを、まず自分は知らないと認めて、そしてあの機関なら知っているとか、あの人は知っているとか、そういうレベルのことは、やれるだろうし、やれなければならないはずでね。

岡崎● 

〔国の対策をどう見るか〕

浅野● 

岡崎● 

浅野● 

立岩● 私も、座談会やるからというので大綱ざっと見てみて、思いつくことはたいがい盛られてはいるなと思いましたけどね。

浅野● 

岡崎● 

立岩● おっしゃったことは、やらないよりやったほうが多分いいのかなと思うんですけどね。ただ、今、現にある制度というのもあるわけでしょう。生活保護にしても、本来ならもっと使える人がいるはずだとか、使われるべきだという話が出てくれば、また少し変わってくると思います。そこのつなぎ方だと思うんです。

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

〔自殺の危険因子とアノミー〕

浅野● 

立岩● つながりがあったほうがいい、インフォーマルなつながりが大切だというのは、それはたしかにそのとおりでしょう。だけど、ではそれをみなさん作りましょうと言っても仕方がない。仕方がない中で、実際には何もなされない中で、掛け声と繰り言だけが繰り返されることになる。
  一人の人がなんで困っているのか、その困ったことに対してどういうふうに対応できるかという、そういう場所みたいなものがあって、その上で、そこに何らかの人のかかわりみたいなものが生まれるということのほうが現実的ではないかと。人が何の用もなく見知らぬ人とつき合いだすということも、もちろん、それはあっていいと思いますけども。
  それを、では明日から作りましょうという話にはならず、生活にかかわる部分のところで、どこかに、誰かに、つなげていく。例えば医療はそれを担いきれないけれども、担えない自分たちであるということを自覚した上で、それに関わる人であるとか場所であるとかというとこにつなげていく。そうするとそこで問題が起こるわけですよ。そういう人に実は制度が対応できていないといったことになる。そうすると、そこのところをもうちょっとなんとかせんといかんねと。そういう順番でやっていく以外ないのかなと私は思うんですけどね。

岡崎● 

立岩● 地域共同体と言われるものがどちら向きに作用するかですよね。この特集に寄稿することになっている藤原信行さんが、東北の、どちらかいうと田舎のほうの中高年の人たちの自殺についての研究をずっと続けているんですが、やっぱりたいへんはたいへんみたいです。

岡崎● 

立岩● かつて人々はそういう人にやさしかったとかという牧歌的な話ではないわけで。

岡崎● 

立岩● アノミーということですけど、これには二通り考え方があって、一つは普通の解釈で、ノルム、規範、紐帯、そういうものがあるうちは人間大丈夫で、そういうものがほどけちゃうと人間死にたくなるみたいな話に普通受け取られているんですよ。

岡崎● 

立岩● デュルケームという人自身が書いてるのもまあそういうことだろうと。ただ、彼がアノミー的自殺と言っているものを見ていくと、むしろ、我々の社会の中での規範を、過剰にというか、まじめにというか、受けとめてしまったがゆえの自殺というふうに解することもできなくはない。
  つまり、さきに申し上げたことです。社会が、自分がなにほどのものであるのか、あることができるのかを気にさせられてしまうような社会である時、そのような規範・価値が存在していることが、人を死の方に向けさせることがあるということです。しかじかの決まりを遵守さえしていればよいというのが伝統的な社会であるとすれば、近代の社会では何をどれだけ実現すればそれで十分ということはない。そして現実には、人の達成というものは常にたかがしれている。そこに不全感や焦燥感は生じやすくなる。規範の不在ではなく、規範の存在が死の方に向かわせる。そしてどんな集団にせよ、この近代社会のあり方と無縁ではない。その集団は人を死から防護することもあるでしょう。しかし、ときには、その人を直接に知ることができ、批難したり陰口をたたくことができることによって、あるいは、その可能性をその人が知ることによって、かえって死に向かう力を強めることもある。
  人間についての基本的な見立てのようなものも絡んでいて、意見が分かれるところですが、私は、人間は強い紐帯とか、濃い関係とかそういうものがないとだめで、なくなってしまうと死ぬというか死にたくなるというのは、ちょっと眉唾だと思ってます。
  つまり、人間というのは自分が生きることを妨げる何がしかがなければ、そこそこは生きられるようになっていて、プラス何か、死の方に向かわせる規範というか仕組みというか、死ぬということに対するドライブというか、そういうものが加わると死にたくなるようになっているんじゃないかというふうに私は思っているんですけどね。

浅野● 

立岩● 現代社会の孤独とか、都会の孤独とかすぐ言うんだけど、そんなことでというか、それで人は死ぬのかなとどこかで思っています。でも、最初に言ったように、人の死にたい気分というのは本当にわからないところがあって、確信がないんですよ。確信がないんだけど、ちょっとそういうふうに思うところがある。

岡崎● 

立岩● 孤独、つらい人にはつらいとは思いますけど。とことん孤独が好きでわざと一人になるというのでなければ、田舎だろうが都会だろうが、ほとんどの場合、なにかはあるはずだと思うし。
  さきほど、自殺志願者にお医者さんが個別に対応していて、そういうノウハウも集積されていないという話がありましたけど、雨宮さんもおっしゃっていたけど、何を言ったらいいものやら、困るわけですよ。死にたいという人を前にして、相対的にはですけれど、どういう言い方が効くのかというのはあるんですか。

浅野● 

岡崎● 

雨宮● 

立岩● なるほどね。

雨宮● 

立岩● だいじょうぶ、とにかく暮らせる、というのは大きい。

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

〔人はなぜ自殺をするのか〕

岡崎● 

立岩● それはわかる気がするんですよ。統合失調症で一時期わけわかんなくなって、めちゃくちゃな時って、死のうとか死にたくないとかも、わけわかんないみたいなところもあるでしょうから、そういう急性期の、かーっとするときはそうなるしかなくて、それがほとぼりが冷めてというか、ある意味冷静になったときにというのは、あるんだろうなという気がしますね。

岡崎● 

立岩● その感じっていうのは何となくわかるんですけど、でも何となくしかわからなくて、何となくしかわからないところもあるし、その何となくわかる、でも何となくしかわからない。そういう状態の人に何をするというか、どうするのという。どうやって暮らしていくのと聞いていくというのは、そのとおりだと思うんです。社会学をやっているからというわけじゃなくて、そのことを除いてもそうだと思うんだけど。でも、何かそこからがわからないんですけどね、何かプラスっていうか、何かあるのかないのかっていうあたりがね。

岡崎● 

立岩● それはそうだし、最終的にはわからないと思うんです。最終的には、誰も説明できない、自分も説明できない、ということは残るとは思うんです。それは仕方がないと思うんですけど。例えば、知ってる人にリストカッターがいて、その人はそのことで論文書いている。それはよくできてはいるけれども、ではそれを読んでわかるかというと、やっぱりわからないところは残る。最初に言ったことだけど、わからないんです。そういう輩に対して、説明してわからせられるかどうか、わからないですけど、でも何か言うことあったらっていうか、どうなんでしょう。

雨宮● 

立岩● 今のお話受けてですけど、人が自分を責めて、自分に対して暴力を向けるということは、私は明らかにおかしいと思うんですよ。正しくないというのか、間違っている。そうすると、それを外に向けるということが、本当はどこまで当たっているのかというのはわからないところがあるけれど、とりあえずはいいことだと言ってしまおうと。内に向けるのが間違っている限り、とりあえず外に向けてみましょうと。それがどこまで本当か、例えばアメリカ帝国主義が私を苦しめているかどうかは、本当はわからないところはあるんだけれども、差し当たって、内に向けるということが明らかに間違っている限りにおいては、外に向けたほうがましだ。僕はそう思いますね。

岡崎● 

立岩● 今、そんなことも気にしながら文章を書いてまして(月刊『みすず』に連載中の「身体の現代」)。現在起こっていることというのは、岡崎さんがおっしゃったように、一捻りきいているという感じはするんです。つまり、自分のせいじゃなくて何かのせい、病気のせい、社会のせい、何とかのせいにするという、たんにそれだけのことかというとそうでもなくて、基本的にそうでもしないと自分に向かってしまうという方向の力が強いということがまずある。それに乗ってしまったらまさに自己破壊的になってしまうというときに、じゃあ、これはうつだとか、これはアメリカ帝国主義のせいであるとか、矛先を変える。自己責任を強く言う社会の方が、これは自分のせいではないと言う人、言いたい人は多くなる。強く大きくそのことを言う人たちがたくさん出てくる。すると、おまえのそれはいくらなんでもおおげさだと、ずるいと、言いたくなる気持ちが、私自身にもなくはない。

岡崎● 

立岩● なくはないんですけれども、それで自己責任の話に戻っても仕方がないわけで。一つは逆効果でしょうね。個人の責任を強く問う社会ほど、自分のせいじゃないと強く言う人がたくさん出てくるということであれば。そして、やはり基本を考える必要がある。本来自分でいろいろなことの責任を取らなきゃいけないというのが根本にあって、それがつらいので他に向かうというふうになっているとすれば、正攻法というか、自分のほうに向かこうとする力を弱くするしか解決法はない。

岡崎● 

立岩● 当面の策としてはそうだと。まずやってみるべきことはそうなのかもしれないと思うし、そのもっと前に、本当はいろいろなものが自分に向かってしまっているというような仕組みを、なくせるかどうかはわかりませんけど、軽くするといいますか、そういうことなんじゃないかという気がします。

雨宮● 

立岩● そうですね、アルコホリックのセルフ・ヘルプ・グルーフにも、つまりは、みんな私が悪うございますみたいなことを毎日唱和しながらやっていく、そういう部分はありますよね。それで効果があったりもするわけですよね。外に向かって吼えているより。
  ここはなかなか考えどころだと思います。山口真紀さんという大学院生が「なにかのせいにする」ことについて研究をしていますけど、まだ結論が見えているわけではない。ただ、アルコリックのことは外して、まず直感的に、自分のせいでないことを自分のせいだと思うことにしようというのは、変ではないかと。

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

〔セルフヘルプグループ〕

浅野● 

雨宮● 

浅野● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

〔自殺の心理〕

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

立岩● それって、本当に私はよくわかんないというか、そういう人がいるというのは知っているんだけれど、結局何なんだろうなという感じがずっと残っていて、聞いてもわからない話かもしれないけど、何だろうなと思うんですよね…どうなんでしょう。

雨宮● 

浅野● 

立岩● その手前でもいいんですけれども。

浅野● 

岡崎● 

雨宮● 

立岩● わからないところは多分、何やってもわからないというか…

岡崎● 

立岩● 残ったっていいっていうか、残るしかないんだろうと思うんだけど。でも、わりとわかりやすい話もいっぱいあるわけですよね、自殺をめぐってはね。で、難しい話はおいおい考えることにして、わかりやすいところからやればいいじゃんというのが、そう言ったらすごい雑でしょうけど。

岡崎● 

浅野● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

岡崎● 

雨宮● 

浅野● 

立岩● すくなくとも今までのところは外行って稼ぐのは男、という要因はあるでしょうね。そして、男のほうが、どこかにSOSを言いに行きにくいっていうのはあるのかもしれない。死にたいとかというメッセージを発しにくいというのがあるのかもしれない。

岡崎● 

立岩● 私の身の回りのことだけに基づいて言っているので、そんな根拠があることかわからないですけど、そんな感じはしないでもないです。言えないとか言わないとかっていうのはあるでしょう。
  そしてそれは、たんに男役割がどうというだけではなくて、この社会の仕組み自体か関わっているのだろうと。このことはわりあい確実に言えるだろうと思って、今日言ってみたわけなんですけれども。

岡崎● 

立岩● そういうのは、ないではないと思いますけど。我慢しないで言えば、言った当座はとりあえず何とかなるというのはあるのにね、一晩ぐらいね。

雨宮● 

浅野● 

□文献

◇立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 2940 [amazon][kinokuniya] ※ d01. et.,


UP:20081228 REV:20090526
自殺  ◇精神障害・精神医療  ◇立岩 真也
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