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全体討議コメント3

立岩 真也 2009/01/30
有馬 斉・天田 城介 編 『特別公開企画「物語・トラウマ・倫理――アーサー・フランク教授を迎えて」』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告5


 私はさらに手短に、そして単純なことをお話しします。
 聞くことをしなければ、あるいは語ってもらわなければ、そのままに消えていくかもしれない語り、事実を記録することの大切さを、一方で私は確信しています。院生のケアをしたり、COEの役を仰せつかったりして、なかなかできないのですが、それは大切なことだと思ってます。
 そして、いま私ができないからというわけでもないのですけれども、それはまさに、このCOEプログラムの目的の一つでもあります、すでに書かれ語られているものから、また聞かなければ存在しない語りを新たに聞くことによって、多くのものを受け取ってほしい。このことを、ここでも、みなさんに呼びかけたいと思います。そして、その際のさまざまな注意事項について、今日のフランクさんの話から多くを受け取ってほしいと思います。
 そのことを受け入れながら、なおその手前にある問題は残ると思います。単純な問いです。つまり、なぜ語ることがよいのか、語ってもらうことがよいのか。それはフランク先生のお話を受けて質問者が執拗に問うたことでもあります。そして、それはまた私の問いでもあります。そして、その問いについて考えるということは、まだここにおいても継続されている。そのように私は思います。

(三田地) 語ることがナラティブに考えているという。

(立岩) よいかです。

(三田地) よいか。語ることがよいか。

(立岩) なぜ語るということがよいのか。それには、いくつもの理由がありました。しかし、ここでは二つだけおうかがいします。そして一つ目については、ごく簡単に申しあげます。
 一つは私たちのために、あるいは社会のためによい、と言えると思います。つまり、私たちは社会の在り方を誤ってはならない。少なくともこれからは、そうであってほしい。そのために、人の語り、証言を聞く必要がある場合があります。ただ、このときに考えなければいけないことは、一つに、もし私たちが誰かの具体的な証言を得なくても、ものごとを判断できるなら、また本来はことのよしあしがわかるべきなのであれば、それをわざわざ語ってもらうに及ばないということです。今日いくつかの話にもありましたように、負荷、負担がかかるというふうにもなってしまう。できれば語ってもらわずにすむ、そういった在り方というものもまた、ここからは導き出されると思うのです。そして、このことについては、フランク先生は同意してくださるだろうと思います。
 もう一つ、自分にとって、あるいは人間という存在にとって、語ることがよいと答えられる可能性があります。

(三田地) それは勝手ですが、一般の人ですか。語る。

(三田地) 語るということが。

(三田地) 語っている人そのものが。

(立岩) まずは、その人自身にとって。そして次に、人間という存在にとって、常に。先生の最初の著作における記述に即せば、人は病にかかって混乱している。その混乱というものが、私自身にとって耐え難いものとなるかもしれない。そこ中から、脈絡というか、意味を見つける。そういったことが自らにとってよい。そういったことは、確実に、現実にあると思うのです。しかしながら、それと同時に自らにとっても、病の意味というものを見いだせない。あるいは、さまざまなことが起こって、それは散乱していく、拡散していく、拡散しきったままである、そういったこともまた当然、多々あるのだろうと思います。
 そうしたことを認めるのであれば、そのうえで、なお語るということを肯定するという在り方は、おそらく二つあるだろうと思うのです。
 一つには、とりあえず、そこに混乱があるのだけれども、それは何らかのやり方によって、あるいは語らせ方によって、しだいに何らかの意味を持つものになる。何か、どこか一つのことに収斂していく、そういう可能性です。その可能性があることを私は否定しませんけれども、しかし常にそのようになるということは、私には言えないと思います。
 そして、にもかかわらず、そこに意味が見いだされるのだとすれば、なぜそのように考えられるかを、質問のかたちとしては、お尋ねしてもよいかと思います。

(三田地) 先生、なぜそういうふうに思われたかを?

(立岩) 何らかの意味に収斂していく、収まると思えないけれども、それでも意味があるとするなら、それは一つに、描こうとすること自体に意味があるということでしょうか。とすれば、なぜそういうふうに言えるのか?

(三田地) そのとおりだと思うのです。おっしゃっていることで、同じ同意をします。

(立岩) そこには何も見つからないかもしれない。見つからない可能性もある。しかし、それを意味付ける、意味付けようとする、探究するという行ない自体に価値がある。人間が人間であることの価値、意味がある、そのように考えるという考え方だと思います。私は今日の先生のご講演を聞いて、そのようにお考えなのかなと思いました。

(三田地) はい。そうだと思います。

(立岩) 私がわからないのは、実はそこなのです。そういった意味を探すという行ない自体に格別の意味を見出すという、その理由が、私には見当たらないと思うのです。

(三田地) ちょっと、また戻ってしまうと言われるかもしれませんけれども。

(立岩) そうやって考えてみますと実際に、確かに人は何ごとかを語られてはいる。私は以前『ALS――不動の身体と息する機械』という本を書きました。そこに引用したその一部を、いま書いている本のなかに再引用するようなかたちで持ってまいりました。それを資料としてみなさんに見ていただけるようにしました。
 その中に、もちろんいろんな語りがあります。いろんな語りがありますけれども、少なくとも、ある場面に置かれた人たちは、自らの、あるいは自らの病、あるいはその病の意味を語るというのではなくて、自分の方向に思考を行かせるというのではなく、むしろ自分に遠いというか、ただ世界があって、その世界を受信している、あるいは受容している。そのことを語る。そして、やがては、それも語ろうとしなくなる。そういった現実があるのです。
 そしてそれは、私が見る限りにおいて、充分に肯定的なものであります。こういうふうに思うのです。いかがですか。

(三田地) すごいですね。ちょっと何と?

(立岩) 私の生の意味を問う、あるいは、それを探し続けるということに意味を感じているというふうに、その病が起きているという人もいるでしょう。しかしきっとそうでない人もたくさんいる。そして、そこから私たちは、充分に肯定的なものを感じられる、その人が肯定されるというふうに思っているという事実があります。と、言いました。

(三田地) だけでなく、何を思っているのかという?

(立岩) 例えば私が病にかかっている、あるいは自分が死に至る手前にいる。そのことがどういうことなのか考え、それを探し出す。結果は探し出せないかもしれないけれども、探し続ける。そういった営みと、別の営みがある。と、言いました。

(三田地) シルエットにすると、別のというのは何か。例えば、それが。

(立岩) それはとても単純なことで。例えば自分の身体に日が当たっているということであったり、食物や水が自分の食道を、胃を通り過ぎていったり、あるいは窓の外に山がある、そんなようなことです。そんなことを多くの人たちが語ります。

(三田地) これは、いい比喩でもあると?

(立岩) それは比喩として語られているのではないのです。ただそのことが語られるのです。

(三田地) そう思ったらいいの?。

(立岩) 時間もなくなってきますので急がねばなりません。少なくとも、そこにも確かに語りはあるわけです。しかし、その語り、それから、その語りから受け取るものというのは、ずいぶんいろいろとあるということなのです。
 それを私は、必ずしも、文化の違いといったもので片付けたくはないのですが、しかし現に差異があります。そうしますと、語ることの社会学を社会学とすると言いますか、そういった営みというものの意味というものも、またあるのではないか。つまり、語ることを意味付けていくというできごとは、いったいわれわれにとって、どういうことであるのか。それを考察する意義があるだろうということです。

(三田地) はい、すみません。語ることの社会学、原語になっているんですね。

(立岩) なぜ、われわれは語ることを肯定したり、あるいは回避したりしてしまうのか。そのことを考えるということです。

(三田地) これはもっと褒められるんだとかの?

(立岩) そういうこともある。

(三田地) こういう感じですか、立岩さんの。はい、こんなんで。

(立岩) とにかく私は、いまフランク先生の話を聞いて、まだ終わっていないと思ったということです。語るということを、われわれがどのようにに考えたらよいのか。それについての議論が継続されうるし、また継続されるべきである。そういうことを、あらためて思っています。とくに質問というかたちを取りませんでしたけれども、私がお話ししたかったのは以上です。

(三田地) それで、最初の5分を語らすのがよいことという、その前提のところを取りましょうということでよろしいですね。前提を取りましょうということ。

(立岩) うん、そうだね。

(三田地) はい。

■資料

  立岩真也『良い死』(2008、筑摩書房)第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」第7節「肯定するものについて」の全文・注(pp.199-209,232-233)

  1 世界の受領
  安らかな死などと言わず、生者の悲惨から出発しもしながら、その人の存在を認めることがあったと述べた(第4節)。そして認める時、また自らの生を認めよと主張する時、それは、誰をも、どんな誰をも認めることになるのだと述べた。ひとつひとつの好悪の感情と別のところで、人の生存・生活を肯定しようという態度がある。それは天から降ってくるものだと考える必要はない。そうした態度をとることを人が欲望している(第5節)。同時にもちろん、人は様々を纏い、そうして纏っているものを気にすることから逃れられないし、逃れる必要もない。ただ、都合のよいように自らの基準を変えたり、何かを忘れたことにすることはできるし、そうすればよいと述べた(第6節)。
  ただそれにしても何を肯定するのか。私(あなた)がなんであれ、あなた(私)がどう思うのであれ、私(あなた)を生かせ(生かせよ)というあり方があることはわかったとしよう。しかし、そうして、なんであっても、と言って条件を取り外していって残るものは空白なのだろうか。私に様々な事情や感情があっても、それをそのままあなたに通してならない押しつけてならないと私が思っているという事実は認めた上で、そうして通さないことによって何が保存されるべきだと、何が肯定されるべきだと私は考えているのだろうか。また私はどうして私のしかじかによらず私が生きられるようであってほしいと思うのか。
  生きたい理由、生かせたい理由は、具体的には様々ある。それをここで集めて分類したりする必要はない。人の属性から、また人の属性に対する選好から、人を肯定することが必要でないことを述べたのだから、肯定されるべき属性を数えあげる必要はない。ただ、そのことは踏まえた上でも、なお幾つかをあげることはできよう。あるいは今まで述べてきたことから言えることがあるはずである。
  生物は本能として生存を求めるといったことも言われる。そういうものなのかもしれない。そして、人間たちが観念として死を知ってしまったことがある。そのことに関わる恐さがあり、それをふだんはそう気にしないとしても、例えばその到来の確実な時がわかってしまうといった場合にはやりすごすことも難しい。そのことは、とても当たり前のことではあるが大切なことであって、尊厳死を巡る議論において、こうして素朴に観念的な恐れがしばしばないかのごとく話が進むのは不思議なことでもある。
  どんな私であれ私がこの世に生息できるなら気が楽だと思うのではあるが、生き死にのことはやはりより深刻なことではあるのだから、そのことは忘れてはならないと、ごく当たり前のことを述べた。ごく当たり前だが看過されてしまうから述べた。よいことがべつだんなにもないとしても、恐いものは恐いのだから、そのことをないかのようにして話を進めるべきでないということである。そのことは忘れないようにした上で、より積極的な理由について。
  別の本に書いたことも含めこれまで述べてきたのは、そして次の章でも述べるのは、生がどれほどよいことであるのかと別に、それを(自ら)否定するその理由がさほどの理由でないということである。基本的にそのように考える方がよいと思っている。生を肯定する理由が失われた時に、死んでもよいということになる。生を肯定する理由が死を肯定する理由にもなってしまう。私に、また他人たちにそのような条件が付与されることを望んでいないことを前節までに述べてきた。
  ただ、そのことは、肯定するなにごとをも言えないということを示すものではない。例えば第4節で身体への加害を指弾した人たちは、人の身体を含む自然を肯定していたのだった。第1節に述べたことをみな受け入れ引き継いだ上でなお、破壊すること、あるいは破壊しなくても改変することがよくない、そのような意味で「自然」を言うことがある。世界があったらよいという感覚が私たちにはある。
  その感覚は何に発しているか。よくはわからない。幾つかがあるはずだが、それぞれがどれだけを規定しているのかはわからない。
  ただ一つに、人間は自然をけっして凌駕することはない。この事実は否定できない。人々はなにがしかのことをするのだが――そしてそれはたしかにときに途方もない効果、例えば全生物の死滅といった効果をもたらすこともできるのではあるが――それは常に、自然の全体の中で起こっていることの中では、ほんのわずかなことでしかない。その総和としての自然にけっして達することはできない。これは自明である。人間は自然を破壊することはできるのだが、それでも常に自然は人間たちよりも大きい。あるいは精妙であったり複雑であったりする。このことは私たちに畏怖の念を起こさせる。
  もちろん私たちはそれをそのままに受け取っているわけではない。たんに自然であるからではなく、美しいからよいものだと思うことがある。つまりもう一つ、人は自然が美しいと思ってしまう。同時にある部分を忌避してもいる。選別している、例えば腐ったものを避ける。生存に都合のよいようにそのように感じることになっているのだと言われると、そのようにも思う。では美しいと思う方はどうなのだろう。同様の説明があるのかもしれず、それはいくらか当たっているのかもしれない。またその「美意識」によって選択したり整形したりすることがある。そして手を加えない、偶然性に委ねるといった営みそのものが人の選択であり営みであったりもする。また、自然は暮らすための手段でもあるから、手を加える。それは必要なことである。そしてそうして変形された自然を、英国の風景にしても、日本の里山にしても、見ている。このことをもって、天然の自然といったものがないことが指摘されることはあり、それはその通りである。しかし、だからといって、そのことが自然の優位を覆したり、自然への畏怖をなくしたり減らしたりするなどということはない。
  そして、まったく明らかなことなのだが、この意味での自然への畏怖や世界に対する愛着は、生きていられる時間を短くすることを、その意味での「自然な死」を肯定することには結びつかない。その自然・世界を感受していることが長く続けばよいと思うからだ。死後に今の世界とはまた別の世界があって、そこでまた受け取れるものがあるとしても、そのことについて多くの人は十分な確信を持てているのではない。また、十分に信じられる人にとっても、その信心はこの世における世界の受領を止めたいと思わせることはない。
  『ALS』に「その先を生きること1」という章があって「世界の受信」という節がある。
  
  「見るものといえば病室の天井だけという状況に置かれつづける人がいる。そして、呼吸器を付けると天井を見たままずっと過ごすことになる(過ごすことにしかならない)から人工呼吸器を付ける付けないの決断はよく考えた上でした方がよい、と言う医師もいるし、学会のガイドラインにもそんなことが書いてある[499]。もっと率直な人の中には、呼吸器を付けて生きていてよいことはない(「低いQOL」しか得られない)、だから、付けない方がよいだろう(死んだ方がよいだろう)と言う人もいる。
  もちろん、それに対しては、もっと別のものが見られればよいではないか、「花鳥風月」に接することができるようであればよいではないかというのが、より素直な答である。
[419] 西尾健弥[269]は、日本ALS協会の事務局長をつとめた松岡幸雄に、生きていれば「春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が楽しめるではないですか」と言われたという[269]。それがどれほどに受け止められたのかは書かれていないが、西尾の死後も残されている彼のホームページ(西尾[-1999])には庭の雪景色の写真と「(これは我家の庭の雪景色、この景色を眺めながら入浴します。)」という短い解説が付されている。
[420] 土屋とおる[247]。山梨県立中央病院。「病室で富士が見えるようになったのも、看護婦さんのはからいであった。長いこと天井ばかり見ていたのでは、気が滅入ってしまうからと寝台の位置を変えてくれたら、全く別の世界がひらけてきた。そこには富士が見えていた。」(土屋[1993 : 9])
  そしてむろん感覚は視覚だけでない。
[421] 知本茂治[399]。一九八八年七月、鹿児島大学医学部付属病院。「四年半ぶりにお茶が喉を通ったとき、いま使っているこのパソコンを初めて使ったときに覚えた興奮と同じ興奮を覚えました。それは『生活が広がる』という予感だったのです。」(知本[1993 : 135])
  一九九二年八月。「スズムシたちもじっとして動かない昼過ぎの一番暑いとき、病室に来た看護婦の赤松さんが、涼しげなガラスのコップを用意し、クーラーのスイッチを切り、お盆だからという変な、それでも私にしてみればうれしい理由によってビールを飲ませてくれました。[…]コップのビールはガラスの注射針で私の口の中に注がれ、食道に冷たい感触を伝えながら元気な泡と一緒に胃袋に入っていきました。[…]毎日お盆であればいいのにとも思いました。」(知本[1993 : 273])」([2004f : 275-276]、[ ]内の数字は『ALS』で引用した文章につけた通し番号)

  2 私に向かわなくてもよいこと
  その本では、その後もいくつかの引用を連ね、そして次の節は「送信」という題で、そのことについて記した。受信と送信とどちらが大切か。これは妙な問いではあり、そしてどちらも大切だというのが正解なのではあるだろう。ただ、送信は、痒い時にかいてくれと伝えるというように、まず手段として必要である。そしてその手段が自動的にうまく調達されているのであれば、つまり痒いと伝えなくてもかいてくれるのであれば、あるいは痒くなることがないのであれば、送信の必要もまた減ることにはなる。
  それ以外に、人は交信したいから交信する。それは多くの人にとって大切なことではあるだろう。この場合には、送受信の双方を要する。ただ――普通の意味合いにおいては――受信しかできない時にも、たとえば呼びかけられているなら、そこに呼びかけられそれを聞いている感じているという関係は成立している。
  それ以外に何があるだろう。自らを表出する。自らについて、また自らに起こっていることについて、なにごとかを考え、なにごとかを語る。そんなことをしたいことはあるし、またあってよいだろう。ただ、この場合でも、仕方なく語らねばならないということがある。つまり、相手が間違ったことを言うことがある。とくに自分に関わることについて、自分のことについて、間違いを語ることがある。それは間違っていることにおいて不快なことであり、その結果自らによくないことが起こることにおいて迷惑なことである。だから、本人が自ら違うことを、間違っていないことを語らなければならない。ただこの場合にはやむをえず語っている。先方が間違ったことを言わないのであれば、こちらとしても抗弁する必要はない。
  それ以外に、語りたいから語る。語りたいという思いがこの世にあること、そんな思いをもつ人がたくさんいるのは確かであり、そしてそれもよい。ただ、考えたり語ったりする営みに、それ以上の、それ以外の意義があるように言われるなら、よくわからない。
「語り」「ナラティヴ」が肯定され、称揚されることのわからなさの一つはそこにある。他人が、例えば医療者が、なにかおかしなことを言う。他方で、自分の言うことは聞かれない。それでは困る。そこで自分が語るからこちらを聞いてくれと言う。これはよくわかる。うれしいことがあったので、語りたくて語る。混乱しているので、辛いからそのことを語ったり、いくらかは楽になるかと思って、その混乱を語る。そんなこともある。それもよい。
  けれども、生きていることについて、病みながら生きていることについて、生きているが病んでいて、死に向かっていることについて、そのことを、あるいはそれがどんなことであるかを考えたり、考えたことを書いたりすること、自分にそして他人に向けて語ること、それらはみなわるいことではないが、格別によいことではない。またなされるべきことであるとも思われない。さらに、それが生きていたり、病んだり、死んだりすることの意味を与えるものであると思われない。
『唯の生』でも述べることだが、私は、生命が維持されていることそれ自体に格別の価値があるとは考えない。その意味では、絶対的な生命尊重の立場――が本当に存在しうるとして――には立たない。その生命になにかがあるから、なにかよいことがあるから、その生命はあった方がよいと考える。しかし、そのよさが、自分が何かを保っていること、自分を探したりわかったり伝えたりすることにあるとは考えない。自らを探求して何かが見つかることがあるかもしれないけれども、そうたいしたものが見つかるわけでもない。あるいは探求自体に意味があると主張されるのだろうか。とすればなおわからない。なぜそれがなされるべきなのか。その理由が、私にわかるように示されたことはない。
  世界の方が常に私よりも大きいし豊かである。だから、それを享受することの方がより大きくよいことだと考えるのが当然であると考える。そしてその世界は私の身体の内部でもあり、その世界の感受とは、身体の内部がいくらか暖かい感覚であったり、液体が体を通っていく感触であったり、体表に光が当たっていることを感じていることであったりする。私がいなくなっても世界は残るのだろうけれども、私において存在する世界は、私がいなくなったときに消えてしまう。それが惜しいと思う。
  他方に、無に向かう傾性といったものもまたあるのかもしれない。しかし、死は無の無でもあるのだから、無を望む人は死を望んでいるわけではない。多く、無の状態、というより静寂な世界が望まれている。世の中に様々なことが起こってしまうそのこと自体ではなく、起こっていることの中身が気にいらないのだ。この世には様々なことが起こり、そして疲れてしまう。そこでこの世から逃れたいと思う。人間界が辛いので、あるいはその世界に愛想をつかして、そこからいなくなろうとする。そしてそのようにこの世に起こり人々を煩わせている出来事は、人間的な出来事であり、さらに私に関わり私に貼り付いてしまった出来事である。忘れようとして忘れられない出来事もある。例えば強制収容所での体験があり、それから逃れることができず、そのために自死するしかなかった人がいる。その体験がなければよかった。しかしもうそれは起こってしまった。そのことから逃れるすべのないことはある。ただ、それはすくなくとも人間たちの問題である。
  起こらないこともできたのに起こってしまい、そしてそのことを、自分もまた人間であることによって、完全には切り離すことができない。それは、自らがどうすることもできなかったとしても人の行ないであったことによって、その人は打ちひしがれている。そこから逃れる術が確実にあると言えない。そして、ある人が死の手前でその経験を語ることは、証言・警告として有意義である。また、それを語ることを人々が懇願することもあって、そのことは、控えめであるべきではあるとしても、認められてよいことであるとしよう。ただ、その時でも、語るべきであると言えるかどうか。語られないと、人はまた悪事をしでかしてしまうだろうから語るとよいと言えるとしても、しかし、本来、具体的な証言がなくてもことのよしあしはわかるはずなのであって、ならば、やはり強く求めることはできないはずである。
  この近代という時代も始まってしばらくが経って、自らを保ち、育て、そして何かに打ち克つという物語がいくらか下品なものであることは感じられるようになった。そしてすくなくとも衰弱し死に向かう過程において、この物語を語ったり受け入れたとして、よいことはそうはない。そのことは自明である――自明であるにもかかわらず、とても多く語られているのだが。ただそのことをよくわかりながら、別の語り方によってではあろうし、その語り方は固定されていないのだろうし、その目標も定められることはないのだろうが、探求すること、そして語ることが推奨されることがある。そしてそのような語りが、近代の次の時代の語りであるとされることもある。
  しかし、語ってよいこと、事態を悪くしないために語るべきことがあることを、以上述べたように、おおいに認めるのだが、やはり、それを求める必要はないのだし、語りたくない人は語らなければよいのだし、語りようのない人は語りようがないと思えばよいのだし、既に語られない人は黙って生きていればよい。そして考えてみれば、この時代における自己とは、ずっと、なにか固定されたものでなく、探求される先に見出されるかもしれないもの、あるいは探求していくという行ないそのものが指し示すところのものではなかったか。だから私には、ここになにか格別に新しいことが起こっているとは思えないのだ★33。
  知ること、探すこと、探し続けることはわるいことではない。それがよい人には、よいことであるかもしれない。しかししなければならないことではない。自らの病の意味を探すことが病を抱えて生きていることの意味であるとされても、探しても見つかないことはある。その場合には見つかることが最重要なのでなく見つけようとすることが大切だと慰めてもらえるのだが、しかしそれでも何かが見出されると思えないし、その営みに意味があると思えないことがある。そのように思うのはもっともである。そして探す気力もないことがあり、すでにその種の営みを終了してしまった人がいる。病人に推奨される探求と表出の営みは、既に非力であり自身の身体や世界に対する物理的制御能力を失いつつある病人に配慮した営みではある。それでも、その奨めはよい奨めではない。自分のもとにあるものを探し出すより、自分を囲むものの中にいた方がよい。
  そして、世界をそのようにして受け取っているのは生きている一人ひとりである。その人それぞれに世界がある。人によって見えようが違うということはあるだろうが、同時に、それぞれの世界はそう大きくは違わないのかもしれない。しかし、繰り返すが、違いのあるなしとそれぞれが固有のものであるか否かとは別のことである。その世界に特別に存在するなにかによって、その世界の固有性が存在するわけではない。それは固有であるしかないものである。生命が終わるということはそのことが終わるということであり、消えてなくなるということである。それを失わせることはよくない。
  そのように考えず、別の準位に肯定されるものを置くことによって、ただ世界があってそれを感受している人の存在が否定される。そうして死が肯定される。それらが私たちの社会にあって選ばれる死のなかのどれだけに関わっているのかはわからない。ただ、様々を失う中での、あるいは失うことが予想される中での死の多くに、それは関わっている。そしてもちろん、まったく現実の困窮による死がある。その困窮は私たちの社会における所有・私有の制度のもとでの困窮である。それと接しながら、自らに対する不満による死が、いかほどかはあるようだ。しかし、それは自らを――満足せず自足せずしかしよりよき方向に向かうことも含め――肯定することがよいという教説――死の方に向かいがちな人の「自己評価」を高めることでそれを予防しようといった策も含む――のもとに発することではないか。それよりは――人間が世界に絡んでしまうとしばしばなかなかうまいぐあいにことは運ばないのではあるが――世界においてその受信者となっている方がよい。
  こうして、自然―人間界の様々なものを好きなようにすることは控えるべきではあるが、一身の生存のためのことは、いくつかのことに気をつけながら、した方がよいのだという、陳腐といえばまったく陳腐な処世の術が導かれる。

★33 この項をアーサー・フランク――二〇〇八年に立命館大学大学院先端総合学術研究科での集中講義・グローバルCOE「生存学創成拠点」主催シンポジウムのために来日――の『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』(Frank[1995=2002])を読んで書いている。その第6章「探求の語り」が私にはよくわからなかった。わからなかったというか、必ずしも受け入れる必要のない前提を共有して始めて理解できる章であるように思った。
   こうしたことを、たとえば「ポストモダン」の側にいると自らを規定する人たちについても、幾度も感じてきた。そんなこともあって『自由の平等』の第6章は書かれている。
   「第三に、もう一度自由が登場する。そこでは、行うことと在ることの両方から離れ、どこからも脱する自由という規定のされ方がなされる。その時点で、それはもう単純なリベラリズムではないのかもしれない。私が行うことは生産活動に限られず、もっと広いものを包接するものとして語られる。あるいは自己が生産に方向付けられることを批判する。それでも、信じることにしても、よいとするものにしても、それが自分の選択としてある限りにおいて認められるとするその論は、能産者でありすなわち所有者であるような私を私として残存させることになる。あるいは自己を表象する自由と言うとき、それがどこかを目指したものではないとしても、やはりそれは作り出そうとする。自己の実在を、またその獲得の可能性を素朴に信じないこと、支配し制御する方に行ってしまいがちな所有という言葉を使わないこと等、いくつか「進歩」はそこに見られる。そして与えられたものを脱ぎ捨てようとする。やがて、何にせよ作ってしまったらやはりそれは作られたものだとして、自らが何かであることから逃れることもまた言われることになるのだが、それもやはり破壊的であるとともに生産的なことなのであり、それによって私は駆動されることにもなる。」([2004a : 273])
   「そこに見られる」に以下の註を付した。
   「「人格とは、決して一度も充たされることのありえない計画=投影であるがゆえに、一つの願望なのである。」 (Cornell[2000:19=2002:34] )
  けっしてその願望を否定しないが、そうでなければならないものなのか。このことばかりを、この章で、他に[2000e]等々で、私は述べてきた。」([2004a : 346])
  ドゥルシラ・コーネルもまた同じ大学に講演にやってきた人であり、その時に同じことを質問した(質問してもらった)のではあるが、よくわかったというふうではなかったような記憶がある。「文化の違い」ですませたくはないのではあるが、いくらかの違いはあるのかもしれない。
  語りたくないのであれば、そして/あるいは語ってよいことがないのであれば、語らずにすませるためにも、私たちは、たとえば歓迎できない出来事が起こってしまった時に何を語ってしまうのか、それを分類し、並べ、それぞれの得失を計算したりする必要がある。山口真紀[2008]がその仕事を始めている。

Tateiwa, Shin'ya Yoi-Shi (Good Death ?) (2008, Chikuma-shobo, Tokyo)
Chapter 2. Natural Death, and Life as Reception of Nature, section 7. Regarding what is affirmed (pp.199-209,232-233)
translation by Robert Chapeskie

*1 Receiving the world

Without using phrases like "a peaceful death", I have describe how there can be recognition of a person's existence while they depart from the suffering of being alive (section 3). I also stated that when we make this acknowledgement, or when we assert that it should be made, we acknowledge that it should be made of everyone, whatever sort of person they are. There is an attitude that holds we should try to affirm the existence and ways of life of other individuals in a sense distinct from our own positive or negative feelings towards them. We need not think of this attitude as something that falls out of the sky; acquiring it is something that people can actively desire (see section four). At the same time we cannot, of course, get away from the concerns raised by the various values we have ourselves adopted, nor is this necessary. As I state in section five, we can change our standards or decide to forget something in whatever way best fits the situation at hand.

But if this is the case what is being affirmed? Let us assume it is understood that I (you) should want you (me) to let me (you) live, no matter what the situation and no matter what you (I) think. But in saying "no matter what the situation" and removing all conditions, are we not left with something of a vacuum? If someone holds to the idea that they should not foist their own ideas and attitudes directly on another person, what is it that they think must be preserved or affirmed by not imposing their own will? And why should I want to continue living no matter what my circumstances may be?

In actuality there are many different reasons why people want to live or want others to live but there is no need to list and classify them here. As I have claimed that there is no need to affirm people based on their attributes or our preferences regarding their attributes, there is also no need for me to list attributes which should be affirmed. While we should keep in mind this fact that such a list is not necessary, it should be possible to describe several examples of such attributes. It should also be possible to say something about such attributes based on what has already been discussed.

It has been said that living creatures have an instinctive desire to survive. This may be the case. Human beings also have a concept of death in addition to this will to live. The idea of death is frightening, and while we normally do not dwell on it we have trouble dealing with being told exactly when our death is going to occur. This is an obvious point but one which is very important, and it is odd that discussions of death with dignity often proceed as if this conceptual fear of death did not exist.

It seems clear that I would be relieved to be able to continue to exist in the world, no matter what kind of "I" I am, but since questions of life and death are such a serious matter I state this extremely obvious fact in order to make sure it is not forgotten. I do so because while extremely obvious it is something which is often overlooked. Even if there is nothing especially good about living, what is scary is scary so we must not proceed as if this were not the case. Not only must we not forget this, but we must regard it as an active reason people want to go on living.

As I have said in other books and as I will discuss in the next chapter, putting aside the reasons for claiming that life is a good thing, in any case the reasons for rejecting life are not very persuasive. Basically this is how I think we should address this question. If we focus on the reasons for affirming life and these reasons are lost then dying becomes acceptable. The reasons for affirming life can also become the reasons for affirming death. As I stated in the previous section, I do not want such conditions to be applied to myself or others.

This does not mean, however, that nothing can be said to affirm life. For example, the people who reject violence against the body discussed in section four affirm all of nature including the human body. Even if all of the assertions described in section one are accepted, a definition of "nature" still emerges which decries destruction and even change which does not destroy. We have the sense that it is better for the world to exist than for it not to exist.

Where does this sense come from? I don't really know. It seems likely there are many causes, and it is not clear to what extent each of these is fixed.

One thing which is clear is that humanity is in no way superior to nature. This fact cannot be denied. People do all kinds of things - some of which may have extraordinary and unintended consequences (for example, humans could carry out actions which would result in the destruction of all living things) - but all of these things never comprise more than a small part of what occurs within the whole of nature. Humanity can never equal the sum total of the rest of nature. This is self-evident. Humanity can destroy nature but nature is always larger than humanity, and also more subtle and complex. This fact instills in us a sense of awe.

Of course we cannot always accept this fact stated exactly in these terms. We sometimes think things are good not because they are a part of nature but because they are beautiful. In other words, another reason given for why we value nature is that we find it beautiful. At the same time we shun some parts of it; we are discerning, avoiding, for example, things which are rotten. I can agree with those say we have come to feel this way because to do so aids in our survival. So what about our finding things beautiful? There might be a similar explanation which might also be to some extent correct. There are also those who turn to things like plastic surgery out of an "awareness of beauty". And those who do not intervene but leave things to chance do so as part of a way of living which is itself a decision and an activity. There is also intervention because nature is a means of survival. This is necessary. We can see this kind of modification of nature even in English scenery and Japanese "satoyama" (areas which appear wild but are actually managed/altered by people living near them). This has lead to the assertion that there is no longer any "purely natural" nature, and I think this is true. This fact does not, however, usurp the superiority of nature, nor does it destroy or diminish our sense of awe.

This sense of awe we feel towards nature and affection we have for the world, as is perhaps obvious, does not lead to an affirmation of dying a "natural" death, in the sense that the latter shortens the time we are alive and the former encourages us to continue experiencing nature and the world for as long as possible. Even if we consider the possibility that there is another world to be experienced after death, most people lack sufficient confidence in the existence of such an afterlife to warrant dying sooner than necessary. Even in those whose belief in life after death is very strong this belief does not encourage them to want their experience of this world to cease.

I included a chapter entitled "To go on living 1" and a section called "Receiving the World" in my earlier book ALS:
"There are some patients who are left with only the ceiling to look at, and there are some doctors who encourage patients to consider, when deciding whether or not to be put on life support, the fact that once they are put on an artificial respirator they will have nothing else to do but spend their time staring up at it. This kind of statement can also be found in associations' guidelines. Some who are more frank state directly that it is better not to use an artificial respirator (it is better to die), because life on a respirator holds nothing to look forward to (only a very low QOL can be expected)"
There is of course a straightforward reply to this which states that the problem can be addressed by moving the patients so that they can see a wider variety of scenery and experience nature and the changing of the seasons.

[419] Ken'yta Nishio [269] said to Yukio Matsuoka, then working as the head of the Japanese ALS Association, "If I stay alive, won't I be able see the cherry blossoms in spring, the sea in summer, the changing leaves in autumn and the snow covered landscape in winter?"[269]. I did not write about to what extent this idea was carried out, but after his death he left behind a website ?iNishio?m-1999] ) that still contained pictures of a snowy scene in the garden of his house and beneath them a brief description: "This is a picture of my garden in the winter. I look at it while taking a bath.

[420] Toru Tsuchiya [247] , a patient at Yamanashi Central Hospital, writes: "It was thanks to the care taken by the nurses that I became able to see Mt. Fuji. I had been staring up at the ceiling for a long time, and when they changed the position of my bed because they thought I was getting depressed a whole new world opened up for me. I could see Mt. Fuji". (Tsuchiya[1993:9] )

And of course sight is not the only sense.

[421] Shigeharu Chimoto [399] wrote the following in July of 1988 at Kagoshima University Hospital. "When I tasted tea for the first time in four and a half years I felt the excitement as when I first began to use this computer. It was the excitement of sensing that my life was about to become richer" (Chimoto[1993:135] )

He writes in August of 1992 "In the hottest time of day, when even the bell crickets stop moving, a nurse called Akamatsu came into my room, prepared a chilled glass, turned off the air conditioner, and proceeded to give me a drink of beer, offering the strange but from my point of view happy explanation "it's Obon" [a Japanese holiday in which the dead are remembered]. . . she poured the beer into my mouth using a glass needle, and I felt its coolness and lively bubbles slide down my esophagus and into my stomach. . . I wish every day were Obon". Chimoto [1993:273] , The numbers in square brackets refer to paragraphs from ALS)

*2 We need not go toward us

In the same book I included several more quotes after the ones listed above, and in the following section discussed the topic of "sending messages". Which is more important, to be able to send messages or to be able to receive them? This is a somewhat strange question, and the correct answer would seem to be that both are important. But as a means to an end, for example, communicating that you are itchy so that someone will scratch you, sending messages seems to take priority. The need to send messages would diminish, however, if such problems could be dealt with by other means, e.g., if you could be scratched automatically whenever you are itchy or if you could become no longer capable of being itchy.

Apart from such basic concerns, people also enjoy communication for its own sake. Communicating is no doubt a very important activity for most people. In this case being able to both send and receive messages is important. However, even if a person can only receive messages they are still able to develop relationships - in the normal sense of the word - in which other people speak to them in the knowledge that there is someone there who can listen and feel.

What else is there? Expressing yourself. Being able to relate things to other people about yourself, what is happening inside you, and what you are thinking. These are things people want to do and ought to be able to do. And there are some things which people say not because they want to but because they must; there are cases where our interlocutor makes mistakes which must be corrected. We feel the need to talk about these mistakes, particularly in cases where they concern ourselves or people/things connected to us. Mistaken statements make us uncomfortable as incorrect assertions, and as they involve us directly they may also cause bad things to happen to us. As a result it is necessary for individuals themselves to be able to provide alternative accounts which are not mistaken. In such cases we cannot help but share our views. If no one made mistaken assertions in the first place there would be no need for us to defend ourselves.

Apart from such cases we speak because we want to. It is indeed a fact, and furthermore a good thing, that there are many people who have the desire to talk about things happening in the world and their thoughts regarding them. I do not understand claims that the activities of thinking and speaking must have some other significance above and beyond this.

This is one of the things I don't understand about the affirmation and praise of "talking" and "narrative". Another person, for example a healthcare provider, says something that sounds wrong or does not listen to what you say. This is a problem for you. Here you can say that they should listen to you because you are speaking. This sense of speaking being important is easy to understand. When something makes you happy you want to talk about it. When you are confused about something you talk about it because it bothers you and you think that talking about it will make you feel better. Such situations occur in which speaking is indeed a good thing.

However, when it comes to thinking and writing about topics like living, living with illness, and being alive but very ill and considering death, or about what the nature of these topics might be, and speaking about these things regarding oneself and others, while it is not the case that all such activities are necessarily bad it is also not the case that they are especially good. They cannot be thought of as necessary activities, and they cannot be thought of as giving meaning to living, being ill or dying.

As I state in Tada-no-Sei(Tateiwa, 2008), I do not think that the preservation of life itself is something of particular value. In this sense I cannot take the position - assuming it exists- of absolute respect for life. I think life should exist because it has something within it, or there is something good about it. But I do not think that this goodness is something we ourselves maintain, or something found in examining, understanding or speaking about ourselves. We may find things if we search within ourselves, but they cannot be expected to be things of great importance. Some may also assert that such self-examination is itself meaningful, regardless of what may be found. I find this even harder to understand. Why is this something that must be done? The answer to this question has never been given in a way that I can understand.

The world is always bigger and richer than I am. So I think it is natural to suppose that what we can receive from the world is bigger and better than what we can find within ourselves. And the world also includes the inside of my body, so experiencing the world also includes the many warm sensations found within my body, the sensation of liquids passing through it, and the feeling of sunlight on the surface of my skin. The world might continue to exist after I am gone, but the world that exists in my experience will disappear along with me. For me this is regrettable.

On the other hand, there may also be a human tendency to pursue nothingness. Death, however, obliterates even oblivion and so ought not to be pursued by those in search of nothingness. Most are in search of a tranquil world rather than genuine non-existence. It is not living in a world in which various things occur itself but rather the specific things which actually occur that they dislike. The many things that happen in this world tire them out. They want to escape from this fatiguing existence. They no longer want to exist because they find the human world unpleasant or are sick of social life and human interaction. The occurrences that cause people to worry or suffer in this way are human events; they are things which are related to us and stick to us. There are some things we cannot forget even if we try. For example, there are people who could not escape from their experiences of being in a concentration camp and felt they had no option but to die. They should never have had such experiences. But they did, and there is no way for them to escape from them. Whatever else this might be, it is clearly a human problem.

Things happen which don't need to happen, and the people involved, being human beings, cannot completely separate themselves from them after the fact. Even if the person who commits an act feels they had no choice, their actions can leave them debilitated. There is no sure technique for getting rid of such scars. If a person with such experiences speaks of them before dying, this relating of past events may be meaningful as a kind of testimony or warning. People may also entreat someone to share such experiences, and while it is obviously an area in which caution must be exercised let us assume that this is something which should be accepted. But even in such cases, can we say that someone should be compelled to speak about what they have done and experienced? It may be claimed that if they do not tell their story people will likely commit the same crimes again in the future, but even without being given concrete examples of bad actions people have a fundamental idea of what is right and wrong, and if so there should be no need to demand people relate experiences if they are not inclined to do so.

Since shortly after the current era began, narratives of educating and taking care of oneself and thereby conquering or overcoming something have begun to feel somewhat crude. And at least in the case of accounts of the process of growing weaker and facing death they have not seemed particularly worthy of telling or hearing. This is obvious, but nonetheless such tales have proliferated. While the problems with telling such stories have been well understood, there has also been the idea that there are different ways of relating these narratives, that neither their forms nor aims are fixed, and that new ways of telling should be sought out. This kind of narrative has also been considered a new narrative for the era following the modern.

However, while I agree to a considerable extent with the idea that there are narratives worth telling and which should be told in order to prevent bad things from happening as I state above, there is indeed no need for us to demand such narratives be told; those who do not want to tell them need not be obliged to do so, we should not expect everyone who wants to tell them to have the capacity to do so, and those who cannot tell them or give up on telling them should go on living in silence. Furthermore, it can be claimed that the concept of "self" long held in the current era does not refer to something fixed but rather to something which may be discovered through searching or is perhaps the act of searching itself. As a result I cannot see anything especially novel in the pursuit of these narratives (33).

Learning, searching, and continuing to search are not bad things. They may be good things for people who want to pursue them. But they are not things that everyone must engage in. Even if searching for the meaning of one's own illness represents a way of embracing living with a disease, in some cases such a meaning may not be found even if it is looked for. In such cases people are comforted by being told that the act of searching itself is more important than what is found, but still cannot expect to discover anything by doing this and the effort of searching seems pointless. This is a reasonable conclusion to draw. There are also people who do not have the energy required to carry on with such activities. This introspection and self-expression being recommend to people who are ill is an undertaking that is considerate of their already weak bodies and diminished ability to physically control and interact with the world around them. Even so, the recommendation is not a good one. It is better to exist within the world around you than to search for things within yourself.

The world is received differently by each individual who lives in it. Each individual has their own world. Each of us no doubt sees the world in a different way, but at the same time these differences are probably not that great. However, as I have already stated, whether or not there are differences between these views of the world is a separate question from whether or not they are proprietary and belong to individuals. The proprietary nature of these inner worlds does not depend on some special thing existing within them. These worlds are necessarily unique. They end when life ends, ceasing to exist when the individual who creates them dies. Allowing these worlds to be lost is not a good thing.

If we do not see things this way and rearrange the order of what is affirmed, the existence of someone who simply experiences the world passively can be rejected. Death is then affirmed. It is not clear to what extent this way of thinking is connected with the choosing of death in our society. But it can be connected to most cases in which death is chosen due to an actual or expected loss of various things/abilities/opportunities. There are of course also cases in which death is caused by economic distress. This distress has its roots in our society's system of ownership and private property. This problem is connected to many cases in which people choose death out of an apparent dissatisfaction with themselves. Does this tendency not emerge, however, from the doctrine of affirming oneself, a doctrine which includes the idea that one should try to improve in the areas where one is lacking and which has been used to improve the self-image of those who may be inclined to choose death? It is better to become a recipient of the world than to struggle in this way, even though it is often difficult to arrange things to your liking once you are entangled in the world around you.

This could be said to amount to the clich? advice that you should do whatever helps you survive, keeping in mind that some restraint must be exercised in how we treat both the natural and human worlds.


Note.33 I wrote the this section after reading The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics (1995) by Arthur Frank , who came to Japan in 2008 to attend a seminar organized by the Ritsumeikan University Graduate School of Core Ethics and Frontier Sciences/Ars Vivendi: Forms of Human Life and Survival Global COE. I did not understand chapter six "The Quest Narrative", or at least it seemed to me that it could only be understood if certain premises which need not necessarily be accepted were assumed.

I have often felt this way when reading thinkers who classify themselves as belonging to "postmodernism". I talk about the same kind of thing in chapter six of "Freedom and Equality".

"Third, freedom appears once again. It is defined as being separate from what exists and what occurs, a freedom independent of all else. At this point it might no longer be considered pure liberalism. Here talk of my actions includes a wider range of activities and is not limited to actions related to production. The directing of the self towards production is criticized. But this theory, even if I believe its assertions, assume it is a good approach and can accept it to a certain extent as my own choice, still involves me as one who is able to produce and therefore an owner trying to survive as myself. Freedom of expression, too, even if it has no ulterior aim is itself something to be created. Here we can see several signs of "progress", such as people no longer naively believing in the authentic existence of the self or the possibility of its acquisition and no longer using words like "ownership" with their tendency to lead to control and coercion. There have also been attempts to cast off what is given. Ultimately, no matter what is made, as a made thing this made self can again be said to be something to be escaped from. This is both a destructive and creative process and becomes something I am driven by.

The following footnote was inserted at "here we can see":

"A Person, in other words, is an aspiration because it is a project that can never be fulfilled, once and for all." (Cornell[2000:19=2002:34] ) I in no way reject this desire, but can it really be said to be necessary? This is the point I try to make both in this chapter and in other writings such as [20001127] .

Drucilla Cornell once visited this university to give a lecture, and at that time I asked her (had someone ask her) about this but recall having the sense that she didn't really understand. I don't want to dismiss this lack of understanding as simply being due to "cultural differences", but there could indeed be such differences at play here.

In order to avoid speaking if we do want to speak and/or have nothing which ought to be said, it is important to distinguish, list, and evaluate the positives and negatives of what we say when something we do not welcome occurs. Yamaguchi Maki [2008] has begun this work.


「開会の辞」
「あとがき」

◆有馬 斉・天田 城介 編 『特別公開企画「物語・トラウマ・倫理――アーサー・フランク教授を迎えて」』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告5


UP:20081231 REV:20090101, 30, 20090213
声と姿の記録  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇Frank, Arthur W.  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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