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順序について

―なぜ家族は優先される/されないことがあるのか―

立岩 真也 2008/12/05


 京都市児童福祉センター職員研修会講演会
 於:京都市児童福祉センター,
 http://www.city.kyoto.jp/hokenfukushi/kodomosos/jidosodansho/aboutus/index.html

  参考資料:立岩真也『私的所有論』(1997、勁草書房、445+66p. \6300!)より

■第4章「他者」の第4節「生殖技術について」の3「偶然生まれる権利」

  □3 偶然生まれる権利◇29
 「子」(と「親」との関係)について。これまでの考察では子を当事者として検討してないが、これを考えた場合にはどうか。自分の(産みの)親が明らかでないことに、また産みの親と育ての親が異なることに悩んでしまうのではないかというように、出生した子の(親への)帰属(意識)の問題として語られることがある。こうした感覚がこの社会にあること、「出自」が現実にはそれなりの重みをもつことがあることは認めよう。しかし、それは何に発しているのだろうか。それを血縁や家族へのこだわりとだけ言ってよいのだろうか。
 子が生まれるという事実に子自身は関与しない。これは親の決定である。誰が自分の親であるかについて、自分の属性自体について、その当人もまた自己決定はしていない。このようにして誰もが生まれる。そしてその子は自らの起源を気にしないかもしれないし、またそれを辿ろうとするかもしれない。しかし、辿ろうとする行いも、自分が自分でしかない時に、自分が現われてきた自分でないものを探そうとする試みなのではないか。だから、自分が所持しているもの(の総体)をもって自分と言うのであれば、その子は自分を探しているのではない。
 その子は「場所」を探している。そしてその場所は、「私」がそこで作動していないような場だと言えないか。ここでその「私」はその子という「私」だけでない。その場所は、そこに「人」がいない場所ではないだろうか。
 技術を肯定する者は、「偶然」に左右されるよりは、人為的により優れた道具を(その者のために)揃えておいてあげたいと言うかもしれない。しかもこの決定は子にとって「不利益」な決定ではないかもしれない。このことから考えれば、親(となろうとする契約者)の決定によって作為されることが、認められることになる。しかし、その者に対して行う行為が仮に「その者」のためであるとされても、その者はその時には不在なのであり、想定される利得は親にとっての親の利得とは違うにしても、その「善意」をいささかも疑わないにしても、やはり親において想定された利得なのである。自己=親の延長としての他者=子。そのことに他者は不快を感ずる。その者の因果のもとにあること、人間的な因果のもとにあること、そのものの不快である。
 「積極的優生」について検討する第9章6節でもこのことを述べるが、ここでは代理母の場合について。ここに不快が生じうるとして、それは産みの親と育ての親とが違うこと自体にあるのではないと考える。養子の場合にも、離婚して再婚しても、二人の親がいる。ただ、養子の場合には、やむを得ない事情があり、産まれた子を譲った。あるいは親はいなくなった。また離婚して再婚して親が二人になった。産みの親と育ての親が違うことはいろいろな混乱や悩みを生じさせることがあるかもしれないが、現実にはいくらでもあることなのだから、それをうまく受け入れるしかない。だが代理母契約では、あらかじめ譲渡を目的として譲渡が行われる。代わりに出産することの全てが問題だということではないだろうと思う。ただ、先述したように、自らの身体の不快と子にかかわる快とを犠牲にして、得るものを得るために譲渡が行われるなら、このような人間的な事情がまとわりつく中に生まれることが、子にとっての不快なのである。全ての有償の代理出産でこういうことが起こるわけではないだろう。ただ起こりうることではある。ならばそれを制約する理由がある。
 ドイツやフランスの法律のように、「生命の不可侵」「身体の不可侵」と、ただそう言えばよいではないか(第3章注05〜07・92〜94頁)。そう思う人がいるだろうか。私自身、幾つかの国での規制のあり方に大きな異論はない。そもそも私はそれらと別の選択を正当化しようと試みたのではなく、そのように規制させているものが何なのかを考えようとしたのでもある。また、これらの主張は簡潔であるためにわかりやすいように思われる。ただ、少なくとも私は、それだけを言われるのではわからないことがあったし、わからないことをはっきりさせたかった。その中に現われる言葉、用いられる論理をそのまま受け入れようとは思わなかった。ある意味で「身体の不可侵」を私達は認めていないのだし、また認めるべきでもない。まず、身体の不可侵とは私的所有を正当化するために持ち出される道具でもあり、もし私的所有を全面的に認めようとしないのであれば、この道具をそのまま用いるわけにはいかない。他方に、「身体」ではなく、それを制御するものとしての「精神」を第一に置く議論があった。この場合には、身体や生命は特権的なものでなくなる。このことをどう考えるのか。これらのことをもう少し正確に言いたかった。さらに、「遺伝子」「遺伝情報」が特権化されることがある。しかし、言うべきことはこのことではないとも思った。なされるべきことは、介入の否定である。両者は同じことではない。

◇29 「偶然生まれる権利」という言葉は加藤秀一が言ったのだと思う。なお本項後半で念頭に置いているのは、生命・身体はそれ自体(その当の者の意志に反してでも)守られねばならない等として、自己決定の制限を擁護しようとするJonas[199=1993]等。


■第9章「正しい優生学とつきあう」の第6節「積極的優生」の2「積極的優生は不愉快だから禁止される」

 □2 積極的優生は不愉快だから禁止される

 人々が新しい環境で生きていかなくてはならない時、あるいは現在とまったく違った環境で生きていくことを決意する時、そのために必要な能力を身につけようとし、それが仮に可能だとして、それを遺伝子の改変によって行うことがあるかもしれない。例えば今の陸地が海中に沈む時、水中で暮らすためにはえらが必要だから、えらをつけることがあるかもしれない。これらのことを否定しようと思わない◇28。だから、すべてを否定しようとするのではない。しかし、何か私達にとって「よい」ものを遺伝に関する知識と技術に基づいて他者に与えようとする行いは否定されうると私は考える。以下、先にあげた第一点から第三点について答え、このことを述べる。
 第一点について。優生はある属性・能力をもつ/もたない存在を存在させること/存在させないことであり、必ずその存在の外側にいる者が行う行いである。この点は重要である。あなたはあなた自身を変えることができる。それを認める。それは、変えることが何かよいことであるからではない。それを引き受けるのはあなたであり、そのように思い、行うあなたを、私が凌駕することができないから、凌駕しようとしないからである。このような意味で、私はあなたの「自己決定」を認めるだろう(第4章)。これに対して、積極的優生においては、それを行う時、その人はまだいない。私がそれを行おうとする時、それは、私の、私でないものに対する行いである。
 それは何に発しているか。対象となるその人はまだいないのだから、当然、その人がよいと言っているから行うのではない。そうではあっても、私はその行いを、いまだ存在しないあなたの「最善の利益」を考えて行うかもしれない。しかしそのような場合でも、そのあなたの最善の利益とは、あなたが私達の社会に生きていく時に、有用・有益とされるものをより多く有することによる利益である。たしかに私が最善の利益を考慮したことによってあなたは利益を受け取るかもしれない。けれども、この場合でも、あなたに対する行いは、結局のところ、私達の価値によって(それがあることを前提にしたあなたの「最善の利益」によって)行われている。このような意味で私(達)が変えるのである。だからこれは、私の価値に発する行い、時には私個人のではないにせよ私達の価値に発する行いだ。他者であるあなたは私の(欲望の、希望の)模像として存在を始める。その時に私にとってあなたは他者として存在すると言えるだろうか。その存在は、制御しようとする私の欲望のもとに置かれている。同時に(失敗した場合には)私の失望のもとにおかれる。あなたが他者であるという性格は失われている。その時に私は、私にとってあなたがあることの基本的な意味を消し去っている。あなた自身においても、あなたが私にとって他者であることができるというあなたのあり方が侵害されている。そのようにして生まれてきたあなたは、その決定の内容に関わらず、私によって決定されること、私の私性が自らに侵入してくることに不快である。
 多くの子が、何かしらの期待はされて生まれてくるだろう。しかし、「父親」の知能指数が記載されているカタログを見て、精子銀行から取り寄せられた精子によって生まれてきたあなたは、それがあなたに対する親の真実の思いに発しているとしても、――その実際の「効果」のほどはきわめて疑わしいのだが、その効果の実際などとは関係なく――あまりに直截にそこに私(達)の欲望が刻印されていることに対して――不愉快なのである。
 このように考える時、積極的優生学が否定されるのは、それが人間の尊厳を構成する「大切なもの」を奪うからではない。例えば「背の高さ」は「人間の尊厳」に関わるだろうか。関わるものではないと言うこともできるだろう。単に生きていくのに便利である、格好がよいというぐらいものであるかもしれない。であれば、たかだかそういうものでしかないのだから、その方向に向けて変えることには問題がないだろうと反問されるかもしれない。これに対して、変えられるもの、作られるものが、たかだか手段であるものであろうとそうでなかろうと、あるものをよしとし、あるものを便利だとする、そういう私達の価値によって、作られることに対する抵抗があるのだと、だから些細であろうとなかろうとそれは駄目なのだと言う。
 第二点について。いつも私達は「教育」する。ここでもなされているのはそれと同じことではないか。ならば、問題はないはずである、あるいは教育全般が否定されるべきだということになる、そのいずれかではないか。しかし違いは、その違いはわずかではあるが、ある。あるいは、ありうる。すべてが当の子供の意向を尊重してなされるべきだといった呑気なことを言うつもりはない。私達は、人を殺すなとか、友達をいじめるな、といったことを、いろいろな理屈をつけることもあるにせよ、結局は有無を言わさず、押し付ける。しかしそれ以外で、私達は、何が生きていく上で便利であるかを知らせ、その手段を提供するが、そこから離脱することを認めている。あるいは認めていないとしても、現実に、その場には既にその者がいて、その者の抵抗に会うことができる。私達は様々なことをその者に押し付けようとするのだが、それは完全には成功しない。しかし積極的優生においてはそのような可能性は想定されていない。現場にその存在はいないのだからその可能性は封じられている。両者はこのように異なる。このことは同時に、出生前だけが特権的に問題になるのではなく、ある種の早期教育といったものもまた、否定の対象になりうるということを意味する。私達に都合のよいように他者があるべきでない。そのように考えている、そのように考えているとする時にだけ、私達は、積極的優生を否定する。奇異な言い方のように思われるかもしれない。しかし、「よい優生」に抵抗するとすれば、それは、結局、このような態度からしか導かれない◇29。そして、このように言うのは実はそんなに奇抜なことでもない。例えば、私は身長の高い人の方が好きだけれども、身長の高い人間を生産することはすべきでないと思うとすれば、その人は既に述べてきた場にいるのである。
 第三点について。この行いを制限したり禁止したりすることはできるのか。できる、と考える。まず、今述べたようなことは、あなたがそう主張しているだけであって、私がそれに従う必要はない、という反論があるかもしれない。しかしそれは違う。私とあなたは子という他者に対して同じ位置にあるのだ。国家によって行うことは認められないとしよう。他方で、親がそれを行うなら認められるだろうか。こう考えるなら誰もが特権的な存在ではありえないのである。第8章で、能力が手段として用いられる場にあっては能力によって選抜することを認めたけれども、それ以外の部分を評価することが禁じられると述べた。そこでは、義務を課しているし、義務を履行しないことを禁止している。それと同様に積極的優生も、同じ理由で、すなわち他者が他者であることを奪ってはならないという理由で、禁ずることができる。選択的中絶について結局のところ禁止すべきだとは言わなかったのに比して、積極的優生を禁止してよいと主張するのは奇妙のように思われるかもしれない。何にせよ、こちらは生まれるくるのであるから、よいではないか、問題は少ないではないか。しかし逆である。生まれる者があるからこそ、その者に不快が生じうるのであり、だから積極的優生は否定される。◇30

◇28 安部公房[1959](加藤秀一[1991b→1996]、森村進[1987]に言及がある)。
◇29 「優生学や遺伝学の介入は、原理的には表現次元という日常性や関係性を超えた遺伝子次元へとなされる。そこは主体が主体的に自身で働きかけが不可能な次元である。日常的な表現的主体は遺伝子次元に直接・間接に主体的調整という関わりは持てず、そこへは医師や遺伝学者が主体から見ると不条理な形で、しかしながら学的に正当化された形で侵入する。具体的には身体への加害、能力の剥奪がなされ、論理的には日常性や関係性の無視や主体性の解体がなされる。それをなす力は、そもそもそういう場を設定してしまう優生学・遺伝学の論理を基軸として内蔵されており、それを…「加害性」、あるいはその一部と考えている。…「加害性」には歴史的に優生学がなした具体的「加害性」と、優生学の理論に内在的である「加害性」の二つがあり、前者は後者ゆえに現象したとここでは考えている。」(斎藤光[1991:308]、第6章注44・265−266頁での引用も参照のこと)
◇30 積極的優生を支持するグラヴァーの主張を検討する(Glover[1984]、他の著書としてGlover[1977]、Glover et al.[1989]等。以下は森村進[1987]の紹介による)。
 @「性格とか高い知性といったものは遺伝ではなく育った環境の産物なのだから、積極的遺伝子工学は無意味だという人がいる。しかしこの批判は論点をそらしている。」
 A「関連した批判として、「良い遺伝子とか悪い遺伝子などは存在せず、遺伝子は環境によって具合が良かったり悪かったりする」というものもあるが、人間はけっして環境の真空地帯に発生するのではなく、特定の環境の中に生きるのだから、人間が生活するものとして現実上問題になる環境の中での良し悪しを考えれば足りる」
 B「遺伝形質の多くは、単一の遺伝子ではなしに多数の遺伝子の間の複雑な相互作用によって決まるから、遺伝子工学は実用的でないといわれるかもしれない。だが」単純な組合せに形質が依存している部分もあるかもしれないし、技術の発展もありうる。
 C「積極的遺伝子工学は親と似ない子を作りだすために、…親子や家族についての見方を根本的に変えてしまうかもしれないという不安もある。だが、これも十分な反論たりえない。第一に、親子の間の相違は育った場所と時、受けた教育などの環境の産物でもあるが、それだからといって世代の断絶を防ぐために環境を固定せよとは主張されない…。第二に、親子観や家族観は時代とともに変化し、われわれの慣れ親しんでいるものも別に絶対のものではないから、その変化を阻止するためにはなにか強い理由が必要がある」
 D「不自然」「神を演ずるもの」という批判に対して、「放っておけば死んでしまう病人を救う医療は「不自然ではないののか? 自然さや神意に訴える議論は、あまりにも漠然としていてとらえ所がない。そのうえ、神を持ち出す議論は、神の存在を信じている人にしか意味を持たない。」
 E政策的統制に対する危惧については、「子供にいかなる遺伝子を与えるかは、親となるべき者が決めればよい。…遺伝子操作の自由化は、人々が恐れるような人間性の画一化とは逆にその多様化へと向かうだろう。」
 F「現在の人類はこれ以上、改善の余地がなく、その遺伝子は進化の究極というわけではない…から、遺伝子工学は進化に逆らっているわけでもない。」
 G「その環境において通常よりも著しく不利益な状態に子供を故意におくことが許されてよいとは思えない。/しかしながら、そのような危害を子供に与えないとしたら、親が子の遺伝子を操作するのはなぜ悪いのだろうか。親は、子供が成長さえすればよいと考えて育てたりはしない。ある種のタイプの人に育てようとするのである。…それは、特定の方向づけと、逆の方向の可能性の排除とを意味している。子供を正直な人間に育てるということは、子供が率直であるように動機づけ、子供が不正直になる可能性をつみとることである。親が子の成長にこのようにして影響を与えるのは不当だ、とは考えられていない。私的家族という制度を是認する以上、親が子の育成について圧倒的な権限を持つことは認められねばならない…。/もっとも…子の基本な生理的・精神的能力や身体の完全性を損うような操作は禁止されねばならない。」
 H「子孫や第三者に対して重大な危害を与える危険が大きい」という理由は、十分な重みをもつ。しかし「危険性は遺伝子操作の慎重さの問題であって、全面的禁止の問題ではない」(以上、森村[1987:120-127])
 @ABCDHを認めよう。Eについて、多様化に向かうかどうかは疑問だが、少なくとも、積極的優生が、国家管理的なものであるとは限らないという論点は認めうる(第7節2)。Fについて、何が人類の進化なのか私にはわからないが、一応認めておくとしよう。残るのはGだけである。これについて本文で答えた。
 なお次の引用文中のグローバーはグラヴァーと同一人物であり、ノージックについては第2章2節、第4章注19、第5章3節で触れた。「グローバーは、一つの選択肢として、”遺伝子のスーパーマーケット”というアイディアを提案している。/グローバーが哲学者のロバート・ノジックのアイディアからヒントを得たという計画によると、これから親になろうという人たちが、遺伝に関する選択リストから、自分たちの子供のためにどんな特徴をとり、どんな欠点を矯正するかを、あたかもスーパーで買い物をするときのように、自由に選ぶことができるというものだ。/ある夫婦は自分の子供のために、音楽の才能とガンにかかりにくい体質という二つの遺伝子を選ぶかもしれない。別の夫婦は、彼らなりに考えた別の遺伝子を選ぶだろう。コントロール板によってすべての人間を統轄するような中央の管理方式さえなければ、遺伝子の多様性は減るどころか、むしろ増えるはずである。」(Shapiro[1991=1993:339-340])
 また永田えり子は次のように言う。「そもそも、個人に命の質を選ばせない、というのは恐ろしいことだ。それを優生学だといって批判するなら、まずは自由恋愛を禁止すべきだということになるからだ。/われわれは日常的に命の質を選んでいる。才能があるからといって仕事を依頼する。性格がよいからといって友だちに選ぶ。そして配偶者選択においては、この社会で評価されている特性をもつ人を選ぼうとする。…そして自由恋愛を通じて、結果的に個人は自分の未来の子供の質を選んでいる。例えば頭のよい子が欲しいから頭のよい人と結婚しよう、などというのがそれだ。/われわれはどうしようもなく社会から影響を受けている。そもそもどんな人に性的魅力を感じるかということでさえ、社会の影響を無視しては語れない。被差別者の結婚難問題はそもそもここに起因する。/だが、だからといって個人の自由恋愛を禁止すべきだろうか。特定の人を愛することは差別であり偏見であるからやめることにして、例えば配偶者選択は無作為抽出によって「かけあわせる」ことにする、といったことが可能だろうか。/遠い将来にはそうした「かけあわせ」が正しい、とみんなが考える社会も到来するかもしれない。だが現時点では無理である。自由は大切であり、とくに恋愛や生殖が、個人の自由の中でもっとも守られるべきプライベートな領域であるとわれわれが考えている以上は、恋愛や生殖を通じて個々人が「命の質を選んで」ゆくことは避けられないであろうし、また避けるべきでない。」(永田[1995a:140-141])このような主張についても、第8章および本章で答えた。


■第9章「正しい優生学とつきあう」の第7節「引き受けないこと」の3「私から遠ざけること」(この本の最終部)

 □3 私から遠ざけること
 出産・育児は今、ある程度は個人の「趣味」に属することとしてある。そして人口や労働人口のことにしても、そうした個々人の欲望から離れてはいない。それらを「支配」や「独裁」――この主題に関してはなにかと「ナチズム」が引き合いに出される――とだけ関連づけるのだとすれば、それは事態を見誤っているのだと思う。欲望は、個々の人に発するのでないとしても、個々の人に分散して現われている。だから、産むことについて国家の決定よりは個々の親の決定が優先されるべきだと一般的には言いうるとしても、それで終わりはしないということである。結局、子供を産んだり子供を持ったりすることは趣味としてしか成り立たないのかもしれないし、それはそれでよい。うむを言わさぬ強制としてこのことがあるのよりはよほどましである。しかしその趣味が、他者を自己の範囲の中、自己の観念の範囲の中に置きたいという趣味として現われる時、それは良い趣味なのかと問うことはできる。
 負担を回避し貢献を求めるという道を、少なくともその道だけを、選ぶのでないのなら、私達が、誰であろうと他者として現われることそのものに条件をつけない、選択しないという選択、選択のための情報を得ないという選択を承認することである。そしてそのようにして生まれてきた者すべての生活を支援していくことである。選択しないという選択を支援するやはり私達の選択として、現実に生きていくことのできる状態を確保することである。
 このように言うことは、何か浮世離れしたことだろうか。しかし、もし、技術的に可能であるにもかかわらず、それを行わず結果として負担の大きい子が現われた時、それは親の過失だから他の者はその子に対する責任を負う必要がないとは考えないなら、医療費を減らし医療保険の保険料を安くするために検査を義務づけようとはしないなら、その上でその負担を私達が負おうとするなら、あるいは、検査に応ずる者に報奨金を出す、税金を安くするといったことを行おうとはしないなら、それは、このように考えているからなのである。
 一人の私が、私による制御という観念を越えて、他者を生かそうとするのは、この社会にあってそう容易なことではない。ただ、産み育てるという行為に関わる当の者は、ある者を統御しようとしても、そのことの不可能性を知り、最もその存在に近い者でありながら、むしろそれゆえに、他者が他者であることを知っている存在ではないか。私達は、しばしばこうした事実を見る。このような事態を承認しようと思う時、周りにいる者ができることは、子が「私」に属するという思いをいくらかは軽くし、その者達とその者達の関係を支えるためのいくつかの手立てを取ることではないか。
 個別の一人としても、集合的な決定の決定者の一人としても、私達は、選択肢が与えられていることを必然として受け入れる他なく、それをどう扱うか、考えることを迫られている。といって、そう深刻にならなければならないわけではない。何かとてつもなく不幸なこと、人の運命を決するようなことが起こるのだと思うことから脱すれば、人の未来に何かを与えなければならないという思い、その何かを設定する私の思いが、それほどたいしたものではないのだと思うなら、つまりはこの私から離れた何かが起こることを見守っていればよいのだとすれば、そう深刻にならなくてもよいはずなのだ。さらに、現実に生じるだろう様々な徒労を、何かができなかった私への悔恨として屈曲させず、他者が他者として生きることの方へ指し向けていければ、押し潰されずに、私も、その他者も生きていくことができるはずだ。


UP:20081126 REV:20160619
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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