HOME
>
Tateiwa
>
まずうかがったら
立岩 真也
20080622
2008年度全国自立生活センター協議会(JIL)総会全体会
「あなたは「尊厳死」を選びますか?――「生」と「死」の自己決定を問う」
13時半〜17時 於:大阪・千里ライフサイエンスセンター 5F ライフホール
*以下は、もう2年前――1年前のような気がしていました――『DPI われら自身の声』に載った短文です。その年の6月の第22回DPI日本会議全国集会大阪大会でこのテーマがとりあげられ、その時にすこしお話をし、そしてこの原稿を書きました。その後いろいろ変わったこともありますが、そのときのままで再掲させていただきます。
このごろのできごとについては、「生存学創成拠点」のHP(http://www.arsvi.com)→
「良い死」
等をご覧ください。(グーグルでふつうに「良い死」で検索していただいても、このHP内の
「良い死!研究会」
が出てくるようです。
もう一つ、この8月あたり、
『良い死』
という本が筑摩書房から出ます。それと同じ時期、あるいはすこし遅れて『唯の生』という本がやはり同じ出版社から出るはずです。さらにもうすこし遅れて、こういう関係?の本を紹介した本をやはり同じ筑摩書房から出してもらうことになると思います。読んでいただければありがたいです。
わからないから教えてくれと聞いてまわるのがよいと思う。
立岩 真也 20060811
『DPI われら自身の声』22-2:21-23(DPI日本会議)
特集:障害者の「生」と「尊厳死」――尊厳死って?
昨年1月、尊厳死法を作ろうという話が表に出てきて、今年の3月、富山県の射水市民病院での事件があったりして、このところ、たいへん不幸なことに、このネタでたくさん文章を書いています。長いもの短いもの、まわりくどいものストレートなもの、各種あります。ほとんどホームページに載せてあるので、どうぞおすきなのを読んでください。転載もどうぞ。(御一報いただければありがたいです。)
ここでは中身はだいたい略し、《DPI(日本会議)は、とにかく「なんでですか?」「それでいいんですか?」と聞いて回るのがよいと思います》、ということだけ書こうと思ったのですが、それでも、すこしは中身について。
『通販生活』(カタログハウス)のこの秋号の「通販生活の国民投票」というコーナーに掲載された意見を引用しておきます。ただ掲載されたものそのままでなく、最初に送った原稿の方にします。その方が私の感じに近いので。『通販生活』は180円だし、ご存知のようにけっこう楽しめます(このコーナーが、ではありません)。他に意見を言っている人は、中川翼、永六輔、松根敦子、山口研一郎、中島みちの各氏です。冬号で投票の集計結果が発表されるそうです。買って読んで考えてみて、送料無料の葉書が綴じ込んであるので、意見など送っていただくとよいのではと思います。では私の「意見」
「延命措置」という言葉は、このごろ最初から悪い意味の言葉になっています。でも、まずそれは、栄養の補給であり、呼吸の補助です。いくらかでも感覚があれば、おなかはすきますし、喉は渇きますし、呼吸が困難なのは苦しいです。周囲の人にはその状態はよくわからない。本人ならどうか。その時点では本人は意志をはっきり伝えられないから事前に決めておくことになっているんですが、事前には本人にも実感としてわからない。その時にはどうしたいか伝えられない。しかし事前に言ったとおりになってしまいます。
次に、たしかに病による身体的な苦痛はとても大きな問題です。でも、ていねいな対応が大前提で、日本の医療はそれが下手ですが、それをなんとかすれば、かなり少なくできます。
他方、意識がなくなっていれば、その状態は、本人にとって、よいこともないと言えるとしても、その状態が続いてわるいこともありません。
すると、その当人自身にとって、早く死にたい理由はなくなってきます。
それでもなお、治療を控えたり止めたりするのがよいと人が思うのは、苦痛を与え、効果のない処置がなされているからかもしれなません。効果が見込めないのに心臓に強い電気ショックを与え続けるとかです。それはやめてよいと思います。本人に益がないのですから。しかしそれは、今ある法律の範囲内で可能なことです。
一つ補足します。回復に効果がないというのと、生きるのに効果がないというのは別です。回復しないからといってなんでもやめていったら、病や障害をもちながら生きている人はどうなりますか。残念ながら回復をもたらさなくても、生命・生活の維持に役立つ処置を否定する理由はありません。
それでも、実際、遷延性意識障害、いわゆる植物状態から回復する人もいます。脳死についてはずいぶん議論があったじゃないですか。尊厳死で問題になっているのはもっとずっと死から遠い状態なのに、簡単に認めることにしようというのは変だと思います。
それ以外に「延命」を拒否する理由があるとしたら、大きいのは、周囲に迷惑をかけたくないという理由です。それは立派な心情のようにも思います。しかしそれを周囲がそのまま受け入れたら、それは「私たちのためにありがとう、どうぞ死んでいってください」と言うのと同じじゃないでしょうか。
私自身には、その人が決めたとおりでよいだろうという思いもあります。けれども、最低、社会の側の問題があって、それで人が「自分が決めた」とおっしゃって亡くなっていこうとされるのを、「自己決定」だからとか言って、そのまま「どうぞ」と言うのはおかしい。尊厳死に賛成する人の多くも、負担のこと、医療や福祉にかかるお金のことで決定が左右されることはよくないことを認めます。なら、どう考えたって、昨今の流れは順序が逆です。生きたいなら生きられるという条件がきちんと整えられてから、死ぬのもよしということにするべきです。
以上、説明不足ですが、もう少し詳しくは、7月に出版された拙著
『希望について』
(青土社、2310円)に収めた文章に書きました。また私のホームページ(http://www.arsvi.com/)にもいろいろと情報を載せています。ご覧いただければと思います。
だいたいこんなところ。あと《安楽死・尊厳死法制化を阻止する会》という会が昨年の6月にできました。そしてもっとずっと軟弱な「研究会」として《良い死!研究会》というものを今年の2月に作ってしまいました。メーリングリストでの情報交換が唯一の活動に近いですが、たまに研究集会のようなこともやっています。いずれもやはり、私のHPに情報がありますので、どうぞ。トップページから、《「安楽死」2006》という、センスが疑われるネーミングのところに行ってください。みなそこからつながっています。よろしかったら参加してください。両方とも、既にたくさんのDPI関係者が加入されています。
さて、最初に書きかけたことです。たしかにこれはやっかいな問題で、考えると疲れます。学者は考えるのが仕事なので仕方ないですが、暗くて難しいことを考えるのは、基本的には、損です。だけれども、いま起こっていることはこれでよいのか。としたら、よいと言っている人に、「なんでいいんですか?」、「ほんとにいいんですか?」と聞いてまわるのがよいと思います。このことは、こないだの6月の第22回DPI日本会議全国集会大阪大会での《特別分科会1「命の重さを問う」・テーマ「生まれる権利そして生き続けるための思想」》でも申し上げました。
とくに、このことで積極的に運動を展開している
《日本尊厳死協会》
のみなさんにうかがってみること。その前身は1976年設立の《日本安楽死協会》。1983年に改称。1970年代末から80年代初頭に法制化の運動をしました。78年に法案作成、79年に発表、83年「末期医療の特別措置法案」国会に提出。反対運動もあり、審議未了廃案。20年余を隔て、ほぼ同じ法案が提出されています。この組織の創始者は太田典礼さんという方です。知らない人は知らないが知ってる人は知っている、たいへんとんでもなことをたくさん言って、書いて、1985年に亡くなられました。(何を言ったか。やはりこちらのHPをご覧ください。)しかし、尊厳死協会は今でも、始祖として、彼をたてまつっています。
「そういうことでよいのですか?」と聞いてみたらよいと思います。どういう答が返ってくるかわかりません。もしかしたら今までの礼賛をすこし改めて、「不適切発言」については「反省する」とか、「今の組織とは関係ない」とか、言うかもしれません。そしたら、「今まではどういうふうに思っていたのか」、「今まで気づかなかったのはなぜか」、聞いたらよいかもしれません。この質問はすこし意地悪かもしれません。もうすこし基本的な問いとしては、太田さんの発想と今なされている主張と「ほんとに違うんですか?」「どこが基本的に違うんですか?」と聞いてみるとよいと思います。
また、今度の法案に賛成している人たち、しようかなと思っている議員さんたち等々にも、歴史の基礎知識として知ってもらうべきことを知ってもらい、次に考えてもらって答えてもらうとよいと思います。これはそんなに急いだってしょうがないことです。急いでいる人に、「急がなければならない理由はなんですか」、「その理由はまともな理由ですか」、と聞くことです。
UP:20080619
◇
安楽死・尊厳死 2008
◇
安楽死・尊厳死
◇
立岩 真也
◇
Shin'ya Tateiwa
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇