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この時代について言えるだろうこと

身体の現代・6
立岩 真也 2008/12/01
『みすず』50-12(2008-11 no.567):-


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 *連載:目次・文献,
 *この連載を読んでいただくために、この回だけ掲載させていただく。
 *以下は草稿であり、『みすず』に掲載されたものと少し異なるところがある。

戻って始めることについて

  右往左往してきたのだが、ようやく全体の構成が見えてきたように思う。今回は、身体をめぐる社会について、この連載であとずいぶんかかって述べるだろうことを列挙していく★01。
  私が必要だと思うことは、またこの連載で意図することは、この時代がどんな時代であったのか、あるのか、歴史(といっても数十年前から現在に至る短い歴史の一部)を見ることと同時に、ではそれをどう評価するのか、そしてどうであるべきかについて考えて述べることである。どちらか一方だけでは結局うまくいかない。すると書き方もすこし難しくなる。しかしそのことが必要だと思っている。どうもそこのところがうまく行っていないように思えるのから、その作業を行なう。
  社会科学(のある部分)は一つのことを述べてきた。つまりそれは社会の問題だと言ってきた。それはおおまかには当たっている考える。しかしただそのことを言えばよい、言われきたことを繰り返すだけでよいと思えない。なぜそう思うのか。そのことはこれから記していくからここでは説明しない。私が意図すること、必要と考えることは、「社会」を言うその言い方を慎重にすること、そしてそのことによって、その記述・主張を強くすることである。
  これから、順番は前後するかもしれないが、おおよそ以下に記すことを述べていくつもりだ。まず一つに、知ること、語ること、説明することについてであり、もう一つには、身体に対してなにかをなす(なさない)ことについてである。むろん両者は関係し合っている、させられ合っているのだが、すべてをいっしょにしながら書いていくことはできないから、さしあたり分けて、前者から見ていくことにする。

わかること

  ある身体の状態を名づけることについて、語ることについて、その状態がしかじかであるわけを言うことについて、右往左往があって、どのように考えたよいのかよくわからなくなっている。
  「医療化」といった言葉を用いながら、社会科学(のある部分)は、医学・医療がいまままで病気と捉えられなかったものを病気としてしまっていることを指摘し、そのことによって、医療あるいは医療を一部に組み込む社会が人を支配してしまうことを言ってきた。そして同時に、ことは人の身体の問題でなく、社会の問題であるのに、そのことを隠してしまい、そのことよって社会の責任を免じてしまうことを批判してきた。私は、このように言われたことは今でも大切であると考えている。しかし――こんどは医療の側からではなくとくに当人たちの側から――別のことが言われることがある。むしろ病気であるとわかった方がよいというのだ。例えば自分に起こっていることは、社会の問題、家族の問題等々であるというより、脳神経におけるしかじかの出来事だと説明されてよかったというのである。ここは整理した方がよい。考えて直してみる必要がある。次回以降、数回かかることになるだろうが、ここから私たちは再考を始めることにする。
  →医療社会学
  まず、名づけること・類型化すること・知ることは、役に立つ場合があることを認めよう。人によっては名づけられない、説明されない事態が起こっていると感じることは不安を呼び起こすことであるのかもしれない。どんな説明であれ、名がつけられ、説明がなされると――それが当人にとって受け入れられるものであればだが――なんだかわからない事態ではなくなり、それはよいことであるかもしれない。
  また、対処の仕方が知られているものと同じものであることがわかると、対処の仕方が――実際にその方法がある場合にだが――わかることがある。しかじかのように対応すれば今よりはうまくいく、そのような種類の出来事が自分に起こっていることがわかれば、そのように対応すればよい。それは基本的によいことである。これは治療法がわかることと同じではない。そんな方法はまだないとしても、楽な呼吸の仕方であるとか、気の紛らわし方であるとか、身の処し方について便利な方法を知っていることは便利なことがある。(同時に、説明はされ、これからどうなるのか予測がついたりはするのだが、しかし対処のしようがないといった場合にはかえって困ることがある。そして病についてはそんなことが多くあって、周知のように告知の問題が引き起こされることにもなり、「知らない権利」が言われたりもすることになる。)
  そして、今起こっていることが自分自身ではどうにも仕方のないことであることを示す意味においてよいことであることがある。自分がなまけたくて仕事ができないわけではなく、病気だからできない。それで、できないこと、辛いことをせずにすむことがある。風邪だから休むことができる。うつ病だから仕事をしないことについて了解を得ることができるというのである。
  さらに、自分自身だけでなく、例えば家族が責められることがなくなることもある。これまである疾患について家族に原因があるとされてきたのだが、そうではないとされることになった。それで家族は自責の念に囚われることがなくなり、これまでの育児の仕方などを改めさせられる必要がなくなった。これはよいことである。
  むろん、社会を問題にする人たちは、個人が問題だと言いたかったのではなく、また家族に問題があると言いたかったのではなく、まさに社会が問題だと言ってきたのではあり、本人や家族が責任を問われることを批判してきたのではある。だから、今これは病気であり障害であると言う人たちの思いに反することを言ってきたのではない、むしろ、同じ思いできたのだと言うかもしれない。しかし、しばしば、社会的な要因によると言われた上で、結局なにかをさせられるのは本人であったりもする。社会に問題があったのだと言われ、たしかに必要な金は社会的に支出されたりするとしても、結局その金で訓練を受けさせられたりするのは自分ではないかというのである。(これは第2回に記した社会改良主義にある問題と同形のものだ。)それより、これは例えば脳生理の問題であって、自分の身体の水準で自分の努力によってなにごとかをすることでどうかなることではないとされた方がよい。そう言われる。
  このことをどのように考えるのかという問題がある。
  まず以上はよいこと、当然のことではある。ただそれはやはり事態を捉える捉え方としては一面的であることもあるのではないかと思う人がいるだろう。周囲の人々が、このごろは自分でできることをしない、病気のせいにしてしまう人が多いといった非難をすることもあるのだが、当人においても、例えば、家族の問題にしてもらいたくないと言う人が、同時に、問題ではないと言われたらそれは違うと思うことがある。つまり一つに、原因、要因について、人、家族や社会を指し示すことの妥当性は依然として消えてしまったわけではない。
  これに関わって、一つに、個人に帰責すること、自らが引き受けることを巡る問題もまた消えてはいない。とくに加害に関わる場面において、本人が選択できたのか、それともそうでないのか、この線を引くことから決定的には逃れられない、あるいは逃れるべきでないのではないか。このように食い下がられる。
  以上は、病気である障害であるという説明を受け入れ主張しようとしても、それがいつも通るとは限らないということなのだか、このことに関わりさらに、受け入れさせるために支払わねばならないものがある場合がある。病気であることが認められることによって免責され、さらに支援の対象になるということがあるのたが、これは認定の問題を引き起こすことにもなる。自分が病気であることを証明しなければならないことになってしまう。そしてそれは利害に関わることだから、自己申告だけではいけないとされる。そしてそれを判断できる人は専門家だけだということになることもある。また、自らがその病気であることを示すために、その病の標準的な像に合わせることをしなければならないことがある。また償いを求めるために、悲惨さを強調せねばならないことがあり、また過度に強調しているといった非難に耐えなければならないことがある。そして結果として、幾分かの人たちが切り捨てられることにもなる。これが公害病で起こったことでもあるのだが、しかしそれはもっと身近なところで起こっていることでもある。だからほんとうは、病気であるとか障害があるとか認めさせる必要がなければよい。すくなくともそのような場合がある。
  次に、型通りの対応のこと。さきに、自分が置かれている状態にはしかじかの対応が有効であるといったことがわかると便利だと述べたのだが、同時に、一人ひとりには異なりもある。しかし、ある範疇の病・障害と判定されることによって、それに効果があるとされる決まったことがなされ、それでよしとされ、それでうまくいかないと、それはこちらの対応のせいではない、などとされる。もちろん、経験の集積に基づき有効とされるパターン化された(ものであるしかしない)対応が有効でありなされた方がよいことがあることと、その限界の認識、個別性の理解、個別の対応の必要性の理解とは本来両立するはずのものなのだが、現実には、なかなかそうはならない。
  そしてこれらにも関わって、意味を求めること、名づけることについて。きっとそれはよいことであることを認めながら、しかし同時に、説明してしまうこと、説明されてしまうことの不快がある。それもまた、どのようにも名づけられない私でありたいという欲望に連なっているのもしれない。だがそのような欲望もあってわるいわけではないだろうし、またそんなことを思ってはいないとしても、しかじかのだれだれであると言うのはめんどうなことだと思うこともあるかもしれない。
  だから、名づけられ説明されることに様々に便利なことがあることを認め、それはそれとして利用しつつも、それが必須でないことを確認すること、必須でない状況に近づけようとすることをしてよい。
  そして、これらのことは不可能ではない。次節に述べることを先取りした上でということになるが――つまり、理由・事情と関わりなく暮らせるという条件があるなら――名づけることや線引きをせねばならないその要請の度合をいくらかは緩くすることができる。
  その上で責任の回避という論難についても再考することができるはずである。つまり、自己責任的であることが強く求められているからこそ、人はそこから逃れようとするのでもあるのかもしれない。たしかに病気は避難所になるのだが、それを求めさせてしまうことの方が問題ではないか。とすれば、むしろこのもとの部分を問題にするのがよい。責任や義務がないとするのではなく、なぜ、そしてどの程度の責任や義務が求めらるのかを示すことの方がよい。このような方向で、私たちは、名指すこと意味づけることを巡って錯綜している現況を解きほぐすことができると考える。

山口 真紀
吉野 靫
→立岩 真也 2008/10/10 「性同一性障害についてのメモ」,山本 崇記・北村 健太郎 編 20081010 『不和に就て――医療裁判×性同一性障害/身体×社会』,生存学研究センター報告3,198p. pp.178-192,

どうするのかについて

  いま見たように、身体の状態をどのように理解するのかは、それを巡って何をするのか、しないのかに、既に関わっている。関わってしまっている★02。人のその身体の状態はその当人の利害に関わるとともに、他の人の関心事でもある(またときに関心をもたれないことでもある)。そこに様々が起こる。そのような中で、当の人たちの側から、そしてそこで困ったことがあった人が、そのことを言うことがある。
  もちろんその多くは、もっと技術者には腕を上げてほしい、もっと効く技術があってほしいというものだ。そして、それを仕事にする人はたいがい、自らの職務・技術によってそれに応えようとしたり、あるいはまた、その限界の内部において、たんたんとなすべきことをやってきた。おおむねそれでよい、あるいはそうであるしかない。ただ、もっと別のところ、もっと大きなところに問題があると考えて、そのことを言った人たちもいる。
  (1)自らに与えられた苦難について、その加害者として人や組織や政府を名指す。被害の原因を究明し、その加害の主体として加害者(社会)を特定し、そして謝罪や補償をその相手に求めることが行われた。行なわれている。
  これはまったく当然のことであったし、当然のことである。たださきに紹介したように(そして第4回・第5回に述べたように)、それは意味づけを巡る問題をもまた考えさせることにもなった。被害者が悲惨であるのはたしかであるとして、それをどのように言ったらよいのかというのだった。そして、被害者であることを証明することの困難があり、相手との争いにおいて、ときに補償の要求と責任の追及・謝罪の要求とがうまく合わないことがあってきた。そしてその主張は、社会のせいだから社会が引き受けるべきだというものなのだが、その同じ構図のもとで、これは(直接には)社会の側に原因があるのではないからといって、当人の方に返されてしまうことにもなりうる。
  (2)もう一つなされたのが技術批判だった。技術の過剰が指摘され、技術による人間の支配という理解がなされる。そしてそれに対して、それに代わって、一つ、自然が肯定されることになる。そしてそこから、より加害的でない別の実践・方法が提案された。例えば疾病の特定要因説が批判され、身体と人間をその全体性において捉えるべきことが唱えられた。
  その多くは理に適ったことだった。ただ、それは有効であるがゆえに、有効である限りにおいて、主流のものに回収、と言うのがよくなければ接合されることになる。近代医学が特定の教義を意固地に守ろうとするというのは一方の事実ではあるが、他方で、効果がありさえすればなんでもとり込むことも行われる。結果、なされることはより総合的なものになり、その全体は折衷的なものになる。むろんそのこと自体はよくないことではない。そしてそれは、様々あるうちの何を受け入れるかについての決定権の本人への移譲(→(3))と組み合わせるなら、本人が、好きな方を選べばよい、あるいは様々を適当な配合で組み合わせればよいということになる。それでいけないわけではないだろう。しかしなされた批判が、なにかこの時代とこの時代になされていることに対する「根本的」な批判であると思うなら、それはそうではない、徐々にそうでなくなるということである。
  ではもっと徹底すればよいのだろうか。右に示されたのはつまりは代替的な技術であったのだから、それをもまた拒絶し、本当の自然の方に行けばよいのだろうか。ただそんなことは無理のように思える。人間中心主義を脱すればよいのだろうか。それもまた無理なことのように思える。そしてたいがいの人たちはそんなことは辛くてしないのに、限られた人たちだけが、「自然な死」を選んだり選ばされたりすることになる。ある(利口な種類の)猿たちは救われるのだが、ある人間たちについてはそんなことはしないでよいとされてしまう★03。
  (3)そしてもう一つ、加害や過剰の問題を強制として捉え、それに対する対抗策として、決定権の移譲が求められた。決定され介入される対象とされてきた者がこんどは決定の主体になろうというのである。それらは大切なものであり、また有効なものであった。それがここ数十年の言論と実践を規定し、特徴づけている。
  その主張とその方向の実践は、さらになされるべきである。しかし、幾度も述べてきたことだが、やはり、それだけで行けるのかといえばそうではない。一つに、本人の意思が原理的に不在である場合、また、まだ・ずっと・もう現実に聞きとることができない場合がある。一つに、その人が述べることを常に受け入れてよいのかという問題がある。例えば後者について、あらゆる場合に言うとおりのことを認めるべきであると述べる人は実際にはほぼいない。とすれば、そこに、その者が述べることを支持するというだけでない契機、しばしば予め否定的な語として使用されるパターナリズムを支持する契機は必ず入っているということである。それは何か、そこに示される基準は妥当かが問われる。
  →自己決定パターナリズム
  (4)これらのすべてと接しながらすこし異なる流れがある。あるいは同じ流れの中に別の要素がある。それは、人ができるようにさせられること、健康にさせられること、そうしてその身体が利用されていることを言う。そして加えると、それが(2)(3)のある部分と異なるのは、ただ「過剰」を言ったのではないということだ。
  その人の身体のことは、その人一人のことでもあるとともに、人々の関心事でもある。まずそれは事実である。人々は、社会は、人の生産、再生産について、人々の健康、身体の状態について顧慮してきた。それは、これからの社会も含めてあらゆる社会においてのことでもあるが、この社会に特徴的な部分もある。そして、その関心、そしてその介入(そして放置・放棄)のあり様は社会の各部分によって異なる。(2)そして(3)の流れにある人たちは、医療を一括りにしてそこに過剰を見出すのだが、そしてそれをさらに「近代(現代)社会」と結ぶのだが、そして例えば「生−権力」とかそんな言葉を使い、身体を巡ってものを言ってきた社会科学の側にもときにそのような傾向が見られるのだが、すこしでも現実を見れば、そんなことばかりではない(立岩[2008a])。この社会は、育てる人を育て、捨てる人を捨ててきた。そして、その関心のあり様、介入の仕方は、場所によって異なり、場所がどんな具合になっているかによって異なる。難しいことではない。例えば、医療という場は、仕事になることもっといえば収入になることはするし、ならないことはしない、常にそうでないとしてしばしばしそんなことがあるといったことだ。ときに大雑把に過ぎることはあったにせよ、ここでは、そうした力学、力の布置は捉えられている。
  しかしそれにしても、生産はよいこと、必要なことではないか。健康なことは本人にとってもよいことであろうし、それが人々にとってもよいことであるならなおさらよいことではないか。そのように言われればこのことを認めないわけではない。すると何を問題にしているのか。まずここには、いま述べたように、人により場所による利害の差異の認識ががあった。その単純なものとしては、人の身体の力能を使って得をしている人たちと、使われているそして(すくなくとも得てよいほどには)得られていないあるいは消耗してしまう人たちという構図があった。体制の維持のための医療、体制の維持のための社会保障…といったもの言いは、基本的にそうした構図のもとにある。
  けれどもさらに、そのような二者の対立の図式がどこまで通用するのかと問われる。「受益者」は私たちである、すくなくも私たちでもあるのではないかと言われる。そして言われる側もそのことを認めることがある。一つに、この社会に生きているから、この社会がよしとする価値を受け入れることがあると言う。それは、本人が語ること、本人が信じていることをそのまま受け入れればそれでよしとならないことを示すものでもあるから、(3)の路線の限界を突くものでもある。と同時に、では、代わりに何を立脚点とするのかという――社会科学にとっては周知の――問題をもまた引き起こすものである。あるいはもう一つ、そんな時代や社会のあり方と別に、負担のかかることを避け、手間のかかる人を遠ざけようとしたりすることは、逃れられないことであるのではないか。そんなふうにも思えてしまう。
  また、体制の維持のために役立っているだけだという言い方には、この社会と別の体制が想定可能であり、さらに実現可能であるという前提があるはずだが、それはどんなものなのか、実現可能なのか、さらにそこであなた方が問題にするような出来事は生じないとどのようにして言えるのか。このように返される。そしてこのようなやりとりとともに、またそれと別に、体制の(全面的な)転換といった主張があまり本気に受け止められなくなったことによって、批判の力は弱くなる。現実にこの社会はその大枠としてこのまま行くしかないようであるということになる。
  そして同じ話が繰り返される。「よくすること」は、必要なことであり、望まれている。危険について顧慮することは必要である。社会は守らねばならない。それはもっとなことであるから、それに疑問を呈することは少数派の意見であるように思われる。これは昨今の監視や安全についての議論の構図と同じものである。構図が同じであるというだけでない。実際に繋がっている。具体的には精神障害者が加害者として現れてしまう場面についてこのことが問題にされる。これはやっかいな問題として存在し続けてきた。もちろん、その害は量としてとるにたらないものだと、また増えてもいないと、治安のための積極策を主張する人たちに反論はなされる。しかし人の生き死にが関わっているのだから、量の問題ではないだろうと言われれば、それにも理がある。そこで、大多数の人たち、ほとんどの人たちは自分たちは無害であることを強調し、一括りにしないでくれと言い、そういう難しい問題には関わらないことにする、さらには一部の問題のある人についての特別扱いを許容するという流れと、それではいけない、精神障害者の中の分断を受け入れないとする立場と、内部における分裂が起こることにもなる(立岩[2002-2003(9)])。

受け継ぎ方

  ではどう考えたらよいのか。いくつも、すっきりとは解きようのない問題がある。しかし、どうにもならないわけではない。すこし別様に考えた方がよいと思う。別様にというより、既に言われてきたことを組み直してみるのがよいと思う。それでも多くのことはいつまでも解決されたりすることはないこと、技術的に解決できないこと、社会的に解決できないことがいくらでもあることを認めよう。しかし、何がどのような事情でできないのかを確認しておくことはしておいてよい。
  そしてそれは(4)を言い直してみるということでもある。(4)の把握・主張は、この国のある部分では、「優生思想」という言葉で事態全般を括ってなされてきたのだが――「体制の延命への加担」といった言葉・理解はさらに以前からある――それが相当に乱暴なもの言いであったことを認めながら、しかし基本的にはもっともであることを示すことができるはずだ。
  そしてそのことを考えていくなら、社会が変わらなければならないという理解が基本的には間違っていないこと、そしてそれはそう簡単でないとしても、それほど難しいことでもないことを述べる。
  基本にあって問題とするべきは、一つに、人々の身体の状態・力能とそれによって産出されるものと、そこに生じる利得とをつなげ、自らが産出したとされるものから得られる利得をその者が受け取ることを権利として、その範囲内で生きることを義務とする、そのような規則を有する社会としてこの社会があることであると考える。そして、それが当然の正当のこととされていること、それを価値として信じていること、信じていないとしてもそういうものだとされていることだと考える。そして、このことによって、また別の手段によって、人に対して大きなそして偏った負荷を与えながら生産――それはたしかに必要なものではある――の方に導くことであると考える。そして、そこに必ず、必要なものを受け取れず、また肩身の狭い思いをし続けなければならず、生き続けていことが困難になる人が現れることが、必ず現実に起こる問題である。そのことがよいことであるかと、またどうしようもないことであるかと考えてみるなら、そんなことはない。
  とすれば一つに、自らがその個別性や他との差異を気にしないことも含め、またそれを保持しときに大切にするために、身体に現れる差異に関わりなく、生活がなされるようにするとよい。人の種々の様態に対する好悪はあり、不都合はあるけれども、そしてその便不便や好悪はなくならないのではあるだろうが、それはまず掟とされる。その心性のある部分を仮に変更できないとしても(それが人間の「自然」だとしても)、そのことに居直るべきではない。
  そしてそのことをなすべきであることは、その状態を直接に起こさせたことの責任のことと、基本的に別のことと考えた方がよい。必要な資源については社会的に支出されるべきだとするのだが、それは状態を作りだしたからというわけではない。むしろ確認すべきは、そのことと関係なく維持され保持されるべきであるという立ち位置をはっきりさせることである。そ
  次に、個々の人が何を得るべきであるか、何がなされるべきであるかについては、まず誰もが思いつくことでよい。つまり、その人にとってよいことそして可能なことがなされるべきだということになる。そのためにどうしたらよいかは、多くの場合には容易にわかる。例えばその人が痛いのなら、痛くならない方がよい。そのためのこと、よくなるためのことをすればよい。
  同時に、必要なものを受け取るためにはそれが作られねばならず、人は働かねばならない。そして、安全は守られた方がよい。「よくすること」は、必要なこと、その意味で望ましいことであることを認める。このときまず、それがどれだけのものを代償にし、どれだけ必要であるのか。このまったく当然のことを確認しつつなされるべきである。得るものの代わりに支払うものがあることをわきまえること、そしてそれがどれほどのことであるかを知った方がよい。がんばればできるようになるとしても、がんばらねばならない度合は人によって大きく異なる。そしてそれでもできないこともある。この当然のことを言うのは、その支払いを自らすることのない人たちはそのことを気にしないからである。
  すると人々は、どれだけの負担を負うべきであるのか。その支払いを含め、受け取るものを含め、おおむね公平という基準が採用されてよい。まず、一人ひとりにとってのよさの度合いは比較がしようがないというのも、正確に測られうるというのも、いずれも当たらない。そして、比較のために、様々を詮索することが加害的であることがある。徴収と支給に際して査定をせざるをえないことを認めるが、それはしなくてすむのであればしない方がよいことがしばしばである。これらから、おおむね公平でよいとしか言いようがない。
  加えて、行為を引き出すためにまた抑止するために賞罰が必要だとされるのだが、そのことは認める。ただ身体に現れる多くのことごとは不如意のことである。ゆえに「動機付け」の手段としての賞罰もまた有効でなく、必要でない。身体の不如意な状態に関わって必要とされる様々なものは、その者による特別の負担なく得られるべきである。むろんその様々が得られたとしても、例えば病による苦痛は残ってしまう。それは仕方がない。できることは限られているのだが、それでもないよりよい。
  ただ、実際に不如意のことであるのか、それともそうでないのか、それを判別する必要が出てくるのではないかと言われるだろう。身体の形状と機能に現れる部分については判断は通常難しくないが、意欲に関わる部分についてはたしかにやっかいなところは残るように思われる。しかし、ここでも、例えばその人は働きなくないのかそれとも働けないのか、いずれかにどうしても仕分けなければならないわけではない★04。
  すると、このようにして社会を維持していけるのかと問われることに決まっている。維持していけるはずだと、いけないというのであればそのわけを言ってくれと応じることになる(立岩[2008a]第3章「犠牲と不足について」)★05。
  このことによって、(1)について、そして前節に述べたことに関わり、名づけられること、名を言うことによって必要なものを得たり、免除を許可してもらうことに関わる圧迫が――まったくなくなることはないのだが――減る。原因を確定することの困難から逃れることができる。
  (2)自然をとるのか人工の技術を受け入れるのかという問題に対しても、基本的に以上から応えることになる。当人にとってよいものがよい。だからどちらかだけがよいということにはならない。ただ、私たちの時代が統御と改良に過剰な価値を与えてきたこと、そこに付随して人に課せられる負荷を無視しがちであること、受動・受容という契機を軽くみてしまうことを考慮すべきであり、世界への不可侵、とりわけ人である他者への不可侵という契機を入れて考えるなら、いくらか、自然という言葉が冠される状態の肯定の方に寄っていくことなる。
  (3)について、本人による決定のよさの一つは、その人が選ぶものは多くの場合その人ににとってよいものであることにある。その人にとってよいものが得られるべきであるという立場・基準から、それが支持される。このことは、同じ基準からそうでないことがあることを示すものでもある。つまり、常に当人が述べることをそのままに受け入れることがよいことではない。とくにこの社会が、一つに所有の規則に規定されてある物質的諸条件によって、一つにその規則を支持するものでもある価値によって、人の生存を困難にする社会であることをふまえるなら、そのように言える。そしてそれが、(4)の主張が自己決定を至上のものにはしなかった理由でもあり、その主張が認められてよい理由でもある。
  もう一つ、本人による決定は、他人について決めてならない部分があることによって支持される。そしてこのことは、本人が決定するという行ないが支持されるだけでなく、本人が決めていなくても、他人が決めることを否定することであることを確認する。手段として有用である部分について、その手段を得るために、人のあり様を決めるようにして介入することを認めない。また、自らのの好悪に関わって人のあり様を決めることも認められない。「エンハンスメント」について基本的にこのような立場をとる。では人の加害に向かう性向の除去についてはどうか。これはなかなかにやっかいことではある。しかしこれについても、そのほとんどについて、その性向を決定するというかたちで介入することが――そんなことが仮にできるとして――認められないことを示すことができるはずである。



★01 今回書くことは予告であることもあり、関連する文献の紹介は、次回以降行なっていくことにする。ただ、それがいったんまとまるのはだいぶ先のことになってしまうから、それに関わる私自身の書きものをあげておく。立岩[2003a][2003b]で、私がこれまでのことと現在とをどのように見るのかについて、今回の分量よりは多く、記している。また立岩[2002-2003(1)-(3)](連載の第1〜3回)で、次回以降しばらく述べることについて記している。ただ以上では、人為による加害・被害のことをどのように考えるのかという主題にはふれてはない。この点については、立岩[2008b]を受けて、前回・前々回記したのが最初のことになる。そしてそれは、稲場・山田・立岩[2008]に収録された山田真との対談を振り返り、それに註をつけ文献を付していく過程で考えたことでもある。
★02 ある身体の状態をもたらす原因・要因と、それらによってあるいはよらずにその身体がとる様態・その身体に備わる力能、その身体がなす行ないと、もたらされた身体の苦痛や死に対する責任と、その身体に対して(あるいは身体でないものに対して)何をなすのか(しないか)という行ないと、その行ないに関わる費用も含めた生活・生存のための資源のこと、これらを関係させながら、いったんは分けて、そして関連させながら考えていくことが必要である。このことを次節で述べる。
★03 脱人間中心主義とされるものが、考えていくと言われているとおりのものと考えられないことについて、立岩[2009]第1章「人命の特別を言わず/言う」で述べた。また人工/自然についてどのように考えたらよいのかについては、立岩[2008a]の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」で考えてみた。
★04 (おもに)労働について考えている連載(立岩[2005-])で、基本的に人に労働の義務はあるが、働けない人と働かない人を仕分けて、後者に実際の義務を課すというやり方はよくないと述べている。
★05 同じ連載(立岩[2005-])の第三八・三九回(『現代思想』二〇〇八年十一・十二月号掲載)で税制について記している。税の徴収の仕方をいくらか変えれば(さしあたってしばらく前に戻せば)よいだけことだと述べている。立岩[2008c]でも、短くだが同様のことを記している。この文章が収録された上野・中西編[2008]では他に複数の著者が同じ主張をしている。

文献

今田 高俊 編 2003 『産業化と環境共生』(講座・社会変動2),ミネルヴァ書房
稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』、生活書院
立岩 真也 2002-2003 「生存の争い――医療の現代史のために 1〜14」、『現代思想』30-2(2002-2):150-170、30-5(2002-4):51-61、30-7(2002-6):41-56、30-10(2002-8):247-261、30-11(2002-9):238-253、30-12(2002-10):54-68、30-13(2002-11):268-277、30-15(2002-12):208-215,31-1(2003-1):218-229,31-3(2003-3),31-4(2003-4):224-237,31-7(2003-6):15-29,31-10(2003-8):224-237,31-12(2003-10):26-42
――――― 2003a 「現代史へ――勧誘のための試論」,『現代思想』31-13(2003-11):44-75(特集:争点としての生命)
――――― 2003b 「医療・技術の現代史のために」,今田高俊編『産業化と環境共生』(講座・社会変動2),ミネルヴァ書房 pp.258-287
――――― 2005- 「家族・性・市場 1〜」,『現代思想』33-11(2005-10):8-19 以降毎月連載
――――― 2008a 『良い死』、筑摩書房
――――― 2008b 「争いと争いの研究について」、山本・北村編[2008:163-177]
――――― 2008c 「楽観してよいはずだ」、上野・中西編[2008:220-242]
――――― 2009 『唯の生』、筑摩書房
上野 千鶴子・中西 正司 編 2008 『ニーズ中心の福祉社会へ――当事者主権の次世代福祉戦略』、医学書院
山本 崇記・北村 健太郎 編 2008 『不和に就て――医療裁判×性同一性障害/身体×社会』、生存学研究センター報告3


UP:20081210 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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