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集積について

―身体の現在・3―

立岩 真也 20080901 『月刊みすず』2008-9(564)

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・連載「身体の現代」

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集積について・1

  本題を続ける前に、お知らせをする。あるいは初回に書いたことの補足を行なう。
  私自身はできないけれど、と初回に述べたのだが、起こったことや言われたことを記しておくこと、書き連ねていくことがまず必要ではある。それをどのように行なっていくのか。
  本に書けばよいだろうか。実際、起こったこと語られたことの歴史について書いた本がないわけではなく、むしろ、そういったものは、この数十年とても数が多い。先日も、『分別される生命』(川越・鈴木[2008])、『生命というリスク』(川越・友部編[2008])の紹介を依頼されて短文を書いた(ホームページで読める)。これらは歴史学が本業の人たちによる著作だが、例えば社会学者たちも、いったい何をしたらよいのかわからないので、歴史もののような書きものをすることが多い★01。
  けれど、多くの場合、出される本は中途半端なものである。たとえばここ二十年の間に、一つの主題について十分な分量をもって書かれた本が、どれだけこの国で出されただろうか。そう多くはない。翻訳された本の方が多いぐらいだ。アラン・ヤングの『PTSDの医療人類学』(Young[1995=2001])は、この連載で書こうとすることに関わる主題を扱った本でもあり、どのように読んだらよいのかなかなかやっかいな本でもあるが、ともかく、たくさんのことが書いてあり、この主題について考える上で必要な本になっている★02。そんな本が少ない。
  みな忙しくて時間をかけてものを書くことができないのかもしれない。しかし、たとえば大学院生であれば、今どきは博士論文を書くことになっているのだから、その論文できちんとした仕事をしてもらえたらよい。
  何について書くかということとはある。また、多くの場合にはただ調べて書いていけばそれで十分だとも私は思うのだが、それでもときには、どのように書くのか、何ごとかを言うのか、言うとしたら何を言うのかを考えねばならないこともある。そこで、私の見立てではこんな感じだ、といったことを書いたら、参考にしてもらえるかもしれない。そんなこともあってこの連載を始めたのでもある。
  それにしても、いつもただ集めればよいというものではないにしても、集めるべきは集めねばならない。しかし次に、そうして集めるべき文字の量はたいがいとても多く、それをみな集めて本に載せようと思ったら、その本はとても厚いものになってしまい、商品としては成り立たない。成り立たないので、その本に載せられる事実は中途半端なものになる。そして、そこに考察するべきこともまたあるとして、その考察もまた中途半端なものになる。それで、事実の記述においても、また考察においても、十分でないものができてしまう。そんなことがしばしば起こってしまっているように思う。
  だから私は、一方で、様々の資料・情報は、ウェブに掲載していって、そこで読んでもらえるようにするのがよいと思うようになった。本では仕方なく短い引用にとどめる。しかし本当はその全体を読んでもらうのがよい。それを掲載できるなら掲載する。私の仕事としては『ALS』(立岩[2004])がそんなふうにしてできた本だが、わりあい汎用性があるやり方ではないかと思う★03。
  そしてそんな仕事は、一人の仕事としてなされるより、共同の作業として行なわれてよいことだ。初回に紹介した私たちの「生存学創成拠点」でも、そんなことを始めている。例えば高齢者をめぐる事々について、「痴呆」(のちに「認知症」)や「寝たきり」やについて、ここ数十年に語られ、なされたたくさんのことがある。それを集めてみて、それから何か言えることがあったら、言ったらよい。
  さきに紹介の短文を書いたと記した『分別される生命』にも、「誰が「生きている」のか――痴呆・認知症・心神喪失」(柿本[2008])が収録されていて、それは読まれるべき論文なのだが、それを読む人は、もうすこし長い時間の中で、その言葉がどのように現れたり、変わってきたのかを知りたいと、きっと思う。しかし他に様々の異なった主題の文章が並ぶその本のその章にそれを望むことはむろん無理なことであり、また、この主題だけについて研究してきたのはでないこの論文の著者にその仕事をお願いするわけにもいかない。
  そこで、というわけではないのだが、「老い研究会」という名の小集団が、集められるものを集めて載せていくという作業を、まだまったくまだまだのものではあるが、始めている。集めた資料を公開しながら、仕事を進めている。それは、まずその小集団において共有される。そしてもうすこし広い範囲で使われる。私たちのところには実際には学校に来れない大学院生たちがたくさんいるのだが、ウェブに掲載されたものは、その人たちが遠くにいても見ることのできる資料となる。そして、さしあたり日本語で書かれるその資料は、日本語を解する人であれば誰もが見ることのできるものでもある★04。
  すると、盗まれるのではないかと心配してくださる方がいる。ただ一つ、まず、私たちの社会における社会科学の進展はずいぶんとのんびりしたもので、たいした競争など実際には起こっていない。資料を作っている側が、そう間をおかずに、きちんと自らの資料を用いた報告をしたり文章を書いていけば、それはそのまま最初の仕事になる。また、資料をその日付とともに公開し、そのことが知られるなら、それが誰によって収集され発信されたものであるのかはおのずと明らかである。そしてもう一つ、より基本的には、そうした資料を掲載した時、既にそれはその作成者たちの仕事として公表され公開されたということである。
  そして、資料を作って掲載していると、間違いを指摘してくれたり、情報を提供してくれる人がいる。それは基本的にはまったく地味な作業を続けていく際の励みになる。そして、ふつう人々は、専門の雑誌に掲載される雑誌などをわざわざ取り寄せたりして読んだりすることはない。またほしいものは全体の一部でよい。そして、ただで見れるなら見れたらよい。
  そして私は、こうした集積の仕事は、むしろそうして集められた情報に接する人たちに、考察を求めさせることになるとも考えている。資料は、とくにそれが分量の大きなものになっていくと、それなりに整理されたものであったとしても、いったいこれはなんだろうというものになっていく。容易に見渡せないように思える全体をどう捉えるのか、それを示すものを読んでみようとするかもしれないと思う。
  そして、そういった書きものについては、書籍といった形態の方が適していることが多い。だから私は、値段のつかないウェブ上の資料と、人がお金を払って読む本との併存は今後もあるだろうと、それはかなりの場合に望ましい分業のあり方だと考えてもいる。むろん、そこに示されるのは、その書き手の理解の仕方、資料の読み方ではある。ただ、その書き手がそのように読むことのできた根拠は、資料において示されてもいるのだから、別様の理解の可能性にも開かれてはいるということでもあると、いちおうは――というのは、何を集めてくるかについての偏りというものから結局は逃れることはできないし、また逃れる必要もないからである――言える。

集積について・2

  主題が決まっている場合にはそんなふうに仕事を進めていくことができる。ただ、今あるのは、その社会にあったことの全般が、とても普通の意味で、知られていない、忘れられているという事態でもある。
  例えば、関東圏の大学に籍を置く大学院生で精神医療のことを調べようという人と、数年前にすこし話をしたことがある。その人は、『精神の管理社会をどう超えるか?』(杉村他編訳[2000])を読んで、ガタリやフランスの精神病院のこと――でその本に書いてあること――を知っていたりするのだが、この国に起こってきたここ数十年のことは――その本の中にも三脇[2000]が収録されているのだが――まったくごくおおまかにも、知らないのだった。そんなにすばらしいことがその時期にあったとは思わない。それでも、なにも知らないのはあまりよくないことだと思った。そのように思うことがよくある★05。
  たくさんの本がこれまで出されてきた。そしてその多くは買えなくなっている。そして読むことができたとしても、それらはとてもたくさんあるから、はしから読んでいったらきりがない。それだけで人生が終わってしまう。そしてそれほどの時間を費やす価値があるかといえば、そうとも思えない。しかし、つまらないもの、読みたくないものも含め、どんなことがたくさん、あるいは少なく、言われてきたのか、どんな流行りすたりがあったのか、それは押さえておいた方がよいと思う。そこから大切な何かを受け取ろう、学ぼうというのでは必ずしもなく、本たちを堆積された言説の一部として扱おうというのである。そこで、多くは廉価な古本として買える本を集め、ただ発行年順に書架に並べるという作業をしてもらっている。同時に、一つ一つの本から抜き書きなどして、それをファイルにして、ウェブにあげるという仕事をしてもらっている。発行年順のリストを作って、増補して、それも掲載している。
  使えるお金はそう多くないので、その作業はできるところから、ということになる。網羅的にということにはならず、結局、その作業に行なう人たちが大切だと思うところから、あるいは当座の自身のテーマにしているところからということになるのではある。だが、それもとりあえずのこととしてはよいだろうと思う。はてしのない仕事ではあるが、それでも、各自が必要だと思うところからそんな仕事を続けていけば、なにかしらのものにはなるだろう。いまのところ基本的な書誌情報と目次だけといったもの――そんなものがずっと多い――を含め、二五〇〇冊ほどの本について、個別のファイルが掲載されている。
  そしてそうした資料と、人や事項についての資料とをつなぎ合わせていく。人であれば、一〇〇〇人ほどののファイルがある。ほんのわずかの文献が記してあるだけのものも多い。しかし、私はずっとそうしてきたし、そのように言ってきたのだが、ないよりもあった方がよいのであれば、作っておくことにする。そして、誰かが、その中の誰かに関心をもったりすることがあれば、そのファイルはにわかに充実していくことになるだろう。こちらの大学院生が増補したルイ・アルチュセール、そして南アフリカのHIV・エイズに関わる活動家ザッキー・アハマット、そして松田道雄、といった人たちのファイルは相対的にたくさんの文字数がある。あるいは、私が、個人的に知ることのできた人について、そして、人々がその人のことを知らないのは残念であると思える人についてのファイルも、他に比して力が入っていたりする。私はさまざまな偏りがあるのはかまわないと思っている。その偏り具合が気にいらない人(たち)がいるなら、その人(たち)は、私たちのサイトの中にでも、また別のころにでも、また別のものを作ればよいと思う。
  そして、書誌情報や要約でなく、文章そのものを掲載していく。最初は個人のものであったホームページを十二年前に始めて以来、収録・掲載を依頼されたものや、大学院生が自分の研究の一環として古い機関紙の全文を入力したもの、そして私自身の短文・雑文の類い、等々を載せてきた。ホームページが研究拠点のものとなり、その、そこそこに複雑ではある更新・増補の作業の受け渡しのことなどあって、しばらく、かなり長いこと、かえって作業が滞っていたのだが、ようやく、いくらか整理して、掲載を再開した。学位論文などもすこし混じってはおり、それらは長いものだが、全体としては短い文章が多い。これらが今のところ二〇〇〇ほど収録・掲載されている。
  今のところ、言われているほどでもないのだが、それでも、「学術論文」全般のウェブ掲載やそのデータベース化はこれから進んでいくのだろう。そうした作業全般はそれを専門にする機関がやればよい。だから私たちは、私たちの研究に関わる領域の論文を掲載していくとともに、「学術的」というのではない文章も含めて、集めていこうと思う。
  これも初回に記したことだが、この国においては、諸般の事情で、学問という場でないところに現れた言葉があって、それらはなかなか料理しにくいものであったりもするのだが、しかし、あるいはだから、知ったり、考えたりしてもよいことがある。それらも集められたらと思っている。そしてここでも、私がおもしろいと思うものを、人はそうは思わないかもしれない。当然のことだ。だが同時に、だからものを書くという仕事をしているのでもあるが、おもしろいと私が思うものが、別の人(たち)にとっても意味のあるものだと思ってもいる。そして、別の人(たち)がこれを集めておこうと思うものがあるだろう。それは私にとってはさほどおもしろいとは思えないものであるかもしれない。けれども収録され掲載される。そうして多様性は増大していく。そしてそれでも偏りはなくならない。しかしそれでかまわない。
  それらの中には――学術雑誌に載る論文にしても、たいがいはそうなのだが――十人ぐらいの人にしか読まれなかったものもある。それが再掲されることになり、かえって、今になってそれを読む人の方が多くなったりすることもあるだろう。過去に何か勇ましいことが書いてある文書があったからといって、その時期の人々がみな勇ましかったり野蛮であったりしたかというと、けっしてそんなことはない。変わった人たちがすこしいて、そしてほとんどの人たちはそんな人たちのことを知らなかったという方が普通なのだ。ただそのことについて誤解さえしなければよい。数の多さが第一義的に大切なわけではないなら、けっして「世論」を代表してなどいないものであっても、集めて読めるようにしてもよい。
  そして、それらの中で日本語以外の言語で書かれたものはまったくわずかなのだが、まず既にあるものを集め、そして新たに訳して掲載する。そのことも必要だと考えて、その仕事も始めようとしている。
  今のところ感じているのは、ごくごくおおざっぱに言えば、「社会運動」と括られるものにおいては、地域・国が違ってもなおかなりの共通性が見られること、同時に「学問」においては、かなり基本的な部分で相当に大きな異なりがあって、それは論証が始まるその手前にあるような部分における違いであるために、なかなかに相互に伝わりにくいことになっているということだ。とはいえ、それをそのままにしておくのもおもしろいことではない。なにか手立てがあるとよい。それを思いつかないのだが、とりあえず、既に他国語の文章としてあるものを集めて、読めるようにすることをしようと思った。そしてそこに新しいものを加えていこうと思った。まだ貧弱なものだが、ないよりあった方がよいだろうから、始めた。
  「生存学」といった語で検索すると、私たちのホームページの表紙が出てくる。そこに「蔵」といった項目がある。そこからこれまでのものを見ていただける。

再開

  さて本題に戻る。
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★01 社会がどのようであればよいのかについて確たることを言うことができなさそうにも思える時、しかしなにがしかの不平・不満がある場合、それを、かつての時代はしかじかであったとか、彼の地ではこんなことになっているとか、そのことを示すことによって、このようであるこの社会がこうでなくてもよい可能性を示すといったことがなされる。それは、迂回しながら、あるいは恥じらいながら、事実を示すことによって、別のあり方があること、ありうることを示す、醸し出そうとする。それに対して私は、どのようであればよいのかについては、それはそれとして考えて言った方がよいと――歴史学的なもの人類学的なものの隆盛をどう解したものかを述べた後に――『希望について』(立岩[2006])に収録されたいくつかの文章などで述べてきた。ただそれは、「相対化」という営みの意義を否定することではない。このこともまた同じ本に収録された文章等で述べている。そして結局、調べることと考えることと、両方が必要だと当たり前のことを述べることになる。
  別のものを調べて取り出そうという学の流れは、ここ数十年続いてきた。そしてそうした営みの隆盛の後、いくらかの倦怠感のようなものもまた感じられ、ついで、規範的な議論の必要が感じられ言われるようになる。そんな経緯が一つにある。
  他方、いまある規範論に対する不全感から発する「実証」への志向も依然として、また新たに、存在する。一方に、「自律(オートミー)の尊重」他の四原則を示し、あらゆることごとの是非をそこから判断しようという「バイオエシックス」の営みがあって、今もあるのだが、それに対して、実際の社会ではそんな具合にすっきり割り切れてはおらず、別のことが思われたりなされたりするのだということを指摘するという流れが、対抗的に起こる。そしてその部分を人類学あるいは社会学が受け持つということになっている。
  常に、おおまかには二つの流れが併存しているのだとも言える。そしてそのような経緯を確認するためにも、これまでなされたきたこと、出版されてきたものを並べてみる必要があるということでもある。
  ただその上で、今度は、両方を並べて考えてみるという仕事があると思う。バイオエシックス的な営みに対して、それと違う道を行ってみようとするその営みは、もっともなものであると思う。また指摘されることもまずはその通りではあるだろう。ただ、一方の単純さと現実の曖昧さ、教科書に示される数少ない原理と現実に存在する多数の要因といった具合に捉えることは必ずしもないと考える。まず、四原則自体それほど分明なものではないし、この四つの複数の原則の間の関係がどうなっているのか、いずれを優先するのかについて曖昧な部分は常に残っている。そして他方、現実の社会に存在する別のものが曖昧なものであるのか。そこに原理や論理は不在であるのか。それもそうではないかもしれない。
★02 この本の紹介を『看護教育』で二〇〇一年から続けている連載の中で行なった(立岩[2001-(35)])。またヤング氏を迎えた企画の記録を冊子として刊行したのだが(立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点[2008]、送料実費でお送りできる)、その「あとがき」で、この本のことにすこしふれている。以下に引用する部分は、この連載がどのような位置にあるのかを記しているものでもある。なお文中の池田さんはこの企画に参加してくれた池田光穂、その著作は池田[2001])
  「『PTSDの人類学』の、わかるようなわらなさは、こんなことに関わっていると思う。今回の催しの会場で、幾度か発せられ、そのままになった言葉もまた、それに関わっていると思う。私たちは過去の(わるい)記憶にいったいどう対したらよいのか。[…]私は、このことを考えるときには、民族誌的な手法には限界があるだろうと考える。どんな対し方があるのか、ありうるのか、その各々の何がどのようにうまくいき、どのようにうまくいかないのか、それを切り分けて考え、組み合わせていく、分析的な手法が必要になってくるように思う。私たちは、人を責めたり、自分を責めたり、人でないもののせいにしたり、なにのせいにもできず佇んだりする。気がすむならなんでもよいではないか、とも思う。しかし、気がすむためには、すくなくともいくらかは信じられねばならないだろう。何を信じるか。「事実」だとすれば、思いたいように思えるということにはならない。どんなことが可能であり、不可能であり、困難であり、また何がもたらされ、何がもたらされないのか。もし可能なら、消しゴムで消すようになくしてしまってもよい記憶もあるはずだ。けれども、そうでないものもまたあると思っているとしたらそれはなぜか。問いはたくさんある。
  私たちの中では、山口真紀の博士予備論文「「傷」と共に在ること――事後の「傷」を巡る実践と議論の考察」(山口[2008])でそんな作業の一部が始められている。
  ただ、考えるためにも、この社会にある言葉・実践を集めてくる必要がある――そして人類学であれ心理学であれ社会学であれ「学問」の言説もまた、そのように収集されてよい素材でもあるのだ。『PTSDの人類学』という大著は、大著であることがまず賞賛されるべきである。そういうものがこちら側にどれだけあるか。池田さんの『実践の医療人類学――中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』をはじめいくつかないわけではない。しかし少ない。まず集めよう。調べよう。そしてよく考えてみよう。」(立岩[2008a])
★03 その本は四四九頁からなるだいぶ大きな分量の本ではあるのだが、その本のために作り始めた資料はさらに多くある。その本にでてくる多くの人たちのうち五〇人ほどの人々についてのファイルがある。またその人たちが書いた本についてのファイルがある。また著書(佐々木[2006])もある佐々木公一から送られてくるメールマガジンを再録させてもらっていて、そのバックナンバーの全体は、もう本一冊分ほどにはなっている。逝去された人のホームページが閉鎖されたおり、そのファイル群の寄贈を受けそれを収録してもいる(西尾[1999-2002→2003])。様々な催しの案内であるとか、そうした情報を集めた年別のファイルがある。日本ALS協会という団体があって、支部があるのだが、それらについてのファイルがある。それらを合わせると、本にした文字量の四倍ほどの資料がある。
  そしてその私の本は、いったん、一冊の本におさまる範囲で、そして当然、それが発刊されたまでのことのいくらかをまとめたものでしかない。その本に書かれたことのすくなくともある部分については、発表の形態についてはいくつかの方法があるだろうが、ともかく、その続きが書かれる必要がある。そのためにも資料の収集を継続する必要がある。しかし今のところ、それを行なう人はいない。そんなことが多くある。引き継ぎをどうするか。どんな仕事でも当たり前に気にされていることが、この国の人文社会系の学問の、とくに人手が足りていない領域において、なかなかうまくいっていない。
★04 そこには私が作った引用集のようなものも一部含まれている。『現代思想』の今年の二月号の特集が「医療崩壊――生命をめぐるエコノミー」、三月号の特集が「患者学――生存の技法」だった。そんなこともあって、その雑誌に載せてもらっている連載の文章の二月号から八月号までの七回分を「有限でもあるから控えることについて」という続きものにしてしまった。一九七〇年代、老人医療費の無料化、悪徳老人病院批判、等々、とりあえず集められる本を集めて、すこし読んで、引用を並べてみると、人々はじつは知っているのか、忘れているのか、あるいは最初から知らないのか、そうしたこともまたはっきりしない様々が起こってきたことがわかる。
  そして尊厳死だとか治療停止だとか呼ばれることも、そうしたできごとにつながってる。そしてそのように言えば、それはそのとおりだと言ってもらえるだろう。けれども、ジャーナリストや文筆家と分類される人たちによるいくつかの重要な例外はあるけれども(斉藤[2002]、向井[2003])、このことについて記述・分析した研究といったものはないと言ってよい。これもまた困ったことだと思う。
  今度、『良い死』という本(立岩[2008b])を出してもらった。それは、考えたことを書いた本で、その本には誰がいつ何を言ったのかをといったことはあまり書いていない。とりあえず考えたことを並べていったら一冊分の本になってしまったのだ。それで、書ききれなかったこと、収められなかったことは、別の本にすることになった。いまそのまとめの仕事をしている。それは『唯の生』という題になる。そこにいくらか、歴史に関わる章を置いた。第2章が「近い過去と現在」、第3章が「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」。
★05 それにもそれなりのわけはあると思う。例えば自分たちの言ってきたことややってきたことに自信がもてなくなったり、あるいは今の自分たちにとって都合が悪くなってしまったら、語らないことにする。そしてそのことと、註01に記した、別の時代のことを語ること、別の社会のことを語ることとは結びついている。つまり、自分たちのことを語るのは様々にためらわれるのだが、しかしその自分たちの社会に対する不満であるとか怨念であるとかは絶えているわけではなく、そこで、他所について語ることになるのである。

■文献
池田 光穂 2001 『実践の医療人類学――中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』、世界思想社
石川 憲彦 1988 『治療という幻想――障害の治療からみえること』、現代書館
石川 憲彦・高岡 健 2006 『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』、批評社
柿本 昭人 2008 「誰が「生きている」のか――痴呆・認知症・心神喪失」,川越・鈴木編[2008:275-312]
川越 修・鈴木 晃仁 編 2008 『分別される生命――二〇世紀社会の医療戦略』、法政大学出版局
川越 修・友部 謙一 編 2008 『生命というリスク――20世紀社会の再生産戦略』、法政大学出版局
三脇 康生 2000 「精神医療の再政治化のために」、杉村他編訳[2000:131-217]
向井 承子 2003 『患者追放――行き場を失う老人たち』、筑摩書房
西尾 等 1999-2002 『鳥のように風のように』http://www.horae.dti.ne.jp/~hnals/ALSweb/(閉鎖)→2003 http://www.arsvi.com/0w1/nh01/index.htm(一部転載)
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 2008 『PTSDと「記憶の歴史」――アラン・ヤング教授を迎えて』、立命館大学生存学研究センター
斎藤 義彦 2002 『死は誰のものか――高齢者の安楽死とターミナルケア』、ミネルヴァ書房
佐々木 公一 2006 『やさしさの連鎖――難病ALSと生きる』、ひとなる書房
杉村 昌昭・三脇 康生・村澤 真保呂 編訳 2000 『精神の管理社会をどう超えるか?――制度論的精神療法の現場から』、松籟社
立岩 真也 2001- 「医療と社会ブッグガイド」連載)、『看護教育』(医学書院)
――――― 2006 『希望について』、青土社
――――― 2008a 「あとがき」、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点[2008:191-195]
――――― 2008b 『良い死』、筑摩書房
山口 真紀 2008 「「傷」と共に在ること――事後の「傷」を巡る実践と議論の考察」、立命館大学大学院先端総合学術研究科二〇〇七年度博士予備論文
Young, Allan 1995 The Harmony of Illusions: Inventing Post-Traumatic Stress Disorder, Princeton University Press=2001 中井 久夫・大月 康義・下地 明友・辰野 剛・内藤 あかね 訳,『PTSDの医療人類学』、みすず書房


UP:20080810 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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