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「「目指すは最低限度」じゃないでしょう?」

立岩 真也 2009/03/10 立岩・岡本・尾藤[2009:9-47]*

last update: 201110122

立岩 真也 2009/03/10 「「目指すは最低限度」じゃないでしょう?」,立岩・岡本・尾藤[2009:9-47]* *立岩 真也・岡本 厚・尾藤 廣喜 2009/03/10 『生存権――いまを生きるあなたに』,立岩 真也・岡本 厚・尾藤 廣喜 2009/03/10 同成社,141p. ISBN-10: 4886214789 ISBN-13: 978-4886214782 1470 [amazon][kinokuniya]
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◆立岩 真也 2018/05/05 『人間の条件――そんなものない 増補新版』,新曜社,432p. ISBN-10: 4788515644 ISBN-13: 978-4788515642 [amazon][kinokuniya] 

『生存権』表紙   『税を直す』表紙   『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

立岩 憲法というものは、いろんな人が言っているように、国民の一人一人に対する規則の設定であるよりは、政府がすべきこと、してはならないことを規定する、そういう法律ですよね。その中で、生存権の規定というのも、二五条の第A項を読めば、国に、国民の生存権を保障しなさい、という政府に対する命令というか、あるいは自己規定だと思います。
 それを素直にとっていけば、やるべきことは自ずと決まってくるはずなんですが、ただ憲法学者の間では、それがどの程度の実効的な具体的施策を求める規定なのかということについては、ずっと長いこと論争のごときものがあったというふうには聞いていて、主流派の学説、ということになるんでしょうか、それだと、具体的にどういう生存の権利を規定するか、までは言っていない、そこは立法の範囲である、ってことにされて、憲法に基づく立法に、いわば投げているわけですね。これは「二五条はプログラム規定である」という説らしいですけど、いやそんなことはない、憲法の文言を直接的な国への命令ととって、文字通り健康で文化的な最低限度の生活の保障を国は国民に保障するべきなんだ、とか、そういう学説間の、学説間というよりはある種の政治的な争いだと思いますけども、それがずっとありますよね。
 ただ、しばらく公的扶助、生活保護のことが社会の前面に出ることはなかった時期がありました。研究も少なかったです。朝日訴訟なんかが学校の授業で熱心に語られることはあったにせよです。貧困の問題が後景に退いた、というかそのように見えていたことがありました。ただ、貧困はずっとあったし、そして拡大している。ようやくというか、注目を浴びている。
 注目されるようになったこと自体はよいことだと、当然のことだと思います。ただ、心配なのは、すごく悲惨な部分だけが取り出され、その悲惨こそが、悲惨さだけが問題だと語られ、そう思われてしまうことです。そうすると、生活保護を守ろうよくしようという側も悲惨なことを言わざるをえないですよね。これは本来は悲しいことです。そんなに悲惨ではなくても、もっとこの制度は使えてよいし、よくなるべき制度なんです。
 ただ、生活保護・公的扶助がまた浮上してくる以前にも様々ありました。裁判ということの絡みで言うと、あまり知られてないと思うんですが、金沢の人なんですけど高真司さんという方がいらして、その人が、生活保護を受けていて、その中の「他人介護加算」の部分が、自分がちゃんと生きていくための介護加算としては足りないということで、訴訟を起こしたことがあるんです。ニ〇〇三年に原告勝訴の判決が出ています。
 この介護加算は[…]

 ――障害を持ちながら、子どもを生んだ人ですね。

 […]

 ――官僚というか役所は、一応手は打ってますっていうことは言いますよね。セーフティネットはあります、と。でもそれを周知してるかっていうと、そのためには積極的に予算を使ってないんじゃないかという傾向があって、まわりに知恵を貸してくれる人とか積極的に動いてくれる人がいないと情報に到達できない。ほんとは、情報に到達できるまでを保障すべきですよね、生存権というならば。

 […]

 ――「締める」というその判断がもうおかしいと思うんですが、社会保障費はなるべく削っていこうっていうマインドは、それは官僚にも予算の決定者にももしかしたら国民にもあるのかも知れない。それはもう社会観、国家観に関わることですけれども。この日本の社会とかのなかにある、社会保障費はなるべく削るっていう現行のマインドをどのようにお考えになりますか。

 […]

 ――再分配機能ですね。

 […]

 ――同感です。結局は、例えばあなたもいつ障害者になるかわからないんだからね、とか、あなたもいつ病気で困窮するかわからないんだからねっていう説得しかないのは限界がある。今は、例えば収入の四割を社会保障負担に入れれば、四割戻ってくるっていうロジックの話ですけれども、たまたま普通に働ける人間の場合は、四割払って戻ってくるのは二割でもいいじゃないかっていうふうに僕は思うんですね。
 例えば民間の保険だってそうですよね。保険会社の取り分っていうのがあるわけですから、自分のためでしかない民間の保険に入るのだって、全額戻ってくることは期待してないわけですよね。
 だから、どこまでも自分のリスクにだけ備えるんだ、という構えをやめて、稼ぐ能力にいろんなデコボコのある人たちがみんな生きていけるるためには、たまたま働ける自分は、いくらか取られてもいいやという感覚、マインドがないと、いつまでたってもやつらは物
を生みだしてないのにとかお金を受け取ってるっていうのが抜けませんよね。

 […]

 ――そのときに、そういうことをすると高所得者が日本から逃げていくっていう話があ出てくるわけですが、そうでもないんじゃないか。

 […]

 ――そもそもアメリカがグローバルに、金持ちじゃない人からもお金を吸い上げる仕組みを作っていって、そのかわりアメリカの企業でとってもお金持ちになる人は保護するっていう政策をとって長いですから、そこが変わらないと……

 […]

 ―― それに今、坂本龍一がどうもアメリカに税金を納めているらしいとか、ハリー・ポッターの静山社の社長がスイスに、とかいうと目立つし、スウェーデンなんかではスポーツ選手なんかですごく稼いでる人が国籍捨てたりしますけど、特に目立つ高収入者がどっかに逃避しててもですね、ある程度の高収入の人がとどまる動機のほうが大きいわけですから、そんなにみんなが逃げちゃう話ではないですよね。それに、本当は、日本がよい福祉国家の体制を作れれば、そこで税金を払うっていうことが嫌じゃないってなる可能性もありますよね。日本に税金を払うのはわりといいんじゃないか思うような国にするしかない。

 ――この前新聞を見ていたら、困窮で受診遅れ、二九人死亡、保険料滞納、無保険など低所得者が大半、ということで、要するに今国民健康保険証を持ってない人がかなり多いですよね。それが実際に、死亡率の違いにつながるっていうことが当然起こっているわけですけれども、国民健康保険はどんなに苦しくても自分で払わなくちゃいけないというのは、生存権の条文の関係からするとどうなんでしょうか。

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 ―― ないし、キューバでは0円なんですよね、医療は。医療費全員0円っていう選択だってそれはあり得る。

 […]

 ――もっと注射打ってくれとか、普通思いませんものね。

 […]

 ――その背後にあるのはよくあるモラルハザード論ですよね。確かに年金は払わなくても貰えるってなるとそれは誰も若者は払わなくなるから、年金制度の場合には払わないと貰えないですよっていうのはこれはやむを得ない。それと、もう年金受給者と「最低限度の生活」との関係というのがだんだんもうクリティカルなものになっていって、たぶん無年金でいった若者が老人になると、今の制度のままだとするともう生活保護の受給者というのがぐわーっと増えることになるわけですよね。
 だから自分で負担できる分はなんとか負担してくださいねっていう論も一方でたつんですが、一方で、憲法では、必ず、一人ももれなく、健康で文化的な最低限度の生活をできるようにしなければならないという大原則があって、その二つの間でいろんな齟齬が起こっているという気がしますね。

 […]

 ――ワーキングプアのほうに合わせろっていうのはサディスティックでさえあるような感じがしますね。
 ちょっと変だなと思うのは、少し前までは、生活保護関係のニュースと言えば、ものすごい暑い夏にクーラーを外されておばあちゃんが熱中症になったとか、保護の不充分さを訴える者が多かった。ところがそれがあっという間に、この失われた十五年以降、ワーキングプアのほうが貧しいっていう議論で、生活保護の水準はいかがなものかっていうのが出てくるわけですけど、老人だったら病院にかかるケースも多いし。高齢者や障害者はなにかとお金がかかるっていうことを考えに入れないといけない。

 […]

 ――タクシーの運転手さんの平均年収の低さを聞いてびっくりしました。やっぱり子どもがいたら、学資が大変だろうな。そこは奨学金制度を充実させていくっていうことが重要だと思います。

 […]

 ――公的扶助を受けるためには失わなければならないものも多いということですね。

 […]

 僕は、二五条を否定してるわけじゃなくて、この憲法のなかでかなり使える、あるいは使われるべき条文の一つだというふうには思っています。そして、裁判を、二五条を盾にとって戦うかぎりは、「健康で文化的な最低限の生活」という言葉をめぐって、このぐらいは最低限人間として当然だろうっていう話をするのは当然だろうと思います。そういうことをきちんと世に訴えていく必要はもちろんあるでしょう。しかし、そう思うと同時に、それはさきほどの話なんだけれども、「いやそれだと贅沢だ」とか、「いやそうじゃない」っていう、なんかこう、やっていてちょっと悲しいねっていう話にもなって、それは仕方がないんだけれども、基本的にはそんなことを言う必要もないということを押さえておきたいと思うんですね。

 […]

 ――鬱症状の人とかね。さぼっているようにしか見られないけど実は非常に外に出るのが苦痛であるとか。「健康で文化的な最低限の生活」の、最低限をとったらいいのかもしれないですね。みんなで健康で文化的に生きようよって。

 […]

 ――ちょっと飛ぶようなんですけれども、立岩さんは、知的障害者は働かなくてはいけないと思うか、働かなくてもいいと思うか。

立岩 すごく雑駁に答えると、どっちでもいいって思ってるんですけど。[…]

 ――まったく同感なうえでですけれども、車椅子に乗っているけれどもけどコンピュータのプログラムがうまくできるなんていう人はもう全然働いたほうがいいですよね。知的にまったく正常であるという人は。
 そうでない、知的障害や重複障害の人がしばしば行く授産所のようなところ、軽作業をするっていうところは、やっぱり場として重要だと思うし、それを楽しいと思う障害者もたくさんいるし、あるいはちょっといやでも学校に行くみたいに、暮らしのリズムを作っていくうえで、家族がその時間離れていられるという意味でもね、必要なんだろうと思うし、機能していると思うんですけれども、だけどやっぱり能率が十分の一だったりするわけですよね。それに時給を払うとしたら五十円しか払えないようなものだったりするときに、人間は成長して働くのがごく普通だから、まあ親の資産があって働かない人もいるかもしれないけど、普通一度は働くということをするんですが、絶対にそれでなくてもいいなと思ったのは、やっぱり障害を持つ自分の子どもを見てると、今は子どもとして愛されていて非常に楽しそうなんです。彼女がもし無事にこれから先も成長していくとしたら、私は、うちの響に、君は働かなくていいよ、と言いたいんですよ。もちろん授産所などで愉しく「働ける」なら働いてもいい。それで、まったく個人的な思いなんだけど、これは共感可能な人もいると思いますけれども、今の彼女は楽しいんですね。遊んだり幼稚園に行ったりすることが。ある重複障害を負った人が、うまく生産はできないけれども、楽しいと感じることができるんだったら、楽しく生きるのがその人の仕事だと考えてもいいんじゃないかっていうふうに親としては思ってね。楽しむことがあなたは一番得意なんだから、一生懸命楽しく暮らしなさいよっていうことを保障したいと思ったんですけど。それは現実には私個人が相当稼がないと出来ないことですが、一方で、そういう社会だって不可能じゃない、っていうふうに思ったんですよね。働かずに楽しく生きる障碍者の天国というのをこの社会にビルトインする。
 障害を持っている人を、なんとか、働くことが正しいというみんなの倫理の、あんまりできない部類の人として、働くっていうことに組み入れるというのも、本人が嬉しい場合はいいんですが、そうじゃなくて人間として生まれてきて、他者のために目に見えるかたちで生産しないけれども、そういう人たち子たちも、幸せに生きているということで、人間社会が、自分たちの設計した社会が、得られるものっていうのはあるんじゃないか。

 […]

 ――飛びますけど、ALSの人たちで、会話が不可能になったときに、コンピュータのハードとソフトを整備することによって、しばらくの間意思伝達が可能である、という現状になっていますが、そのコンピュータはどこの費用からくるんですか。

 […]

 ――ではコミュニケーションのためのツールを導入するに際しては、自己負担は発生しないんですか。

 […]

 ――しかし、ALSの人がコミュニケーションを維持するっていうのは、文化的な生活のほんとに鋭い最低線だと思うから、

 […]

 ――それは憲法からいっても絶対に保障されるべきであると思ったので言ったんですけれども。

 […]


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立岩 真也 
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