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繰り返しすぐにできることを述べる

立岩 真也 2008/11/28
『神奈川大学評論』61:66-74(特集:「『生きにくさの時代』のなかで――ソリダリティへの眼差し」) http://www.kanagawa-u.ac.jp/06/shuppanbutsu/hyouron_61.html


1 税制について cf.

 詰めていないことはたくさんある。それを詰めていけば長くなってしまう。ここはそんな場ではない。他方、おおまかなことは幾度も書いてきた。ここでは幾度も書いてきたそれらの中から、どこに何を記したのかを、さらに短くして記す。つまり新しいことを書かない。そのことをお断わりしておく。
 具体的には、簡単で現実的なことを一つ。税金をとって分けることをきちんとするのがよい。このことを言う。この単純なことがあまり言われないことが不思議である。そのことを、青土社の月刊誌『現代思想』の十一月号に掲載された「税制について」に書いた。ニ〇〇五月十月号から始まって、当初、家事労働や性分業のことを書いていたのだが、やがてその手前のことを考え出して終わらなくなってしまっている連載の第三八回ということになる。はじめのところからすこし引用しておく。
 「足りない、増やさねばならない、しかし難しい、だから減らせるところ減らさざるをえないといった話がある。「財源調達」の問題が語られる。昨今の、むしろこのかんずっとなされて議論がおかしなものだと思ってきた。税を上げず、節約し、減らすところは減らすという選択、あるいは目的税、消費税を、という選択。そんなことしか言われていない。これは不思議だと思ってきた。
 このことについて私の考えは以前からはっきりしている。直接税の累進率を上げることである。それは穏当でないと言う人がいる。まったく穏当だと思うが、いくらかそれを受け入れ、ひとまずは以前の税率に戻すというのでもよい。それ以前に、何度もその率が切り下げられてきたことを知らない人もいるのだから、まずそれを知ってもらいたいものだと思う。
 そうして税率を戻すことをする。数十兆円という額になる。それを所得保障と福祉・医療といった社会サービスのために使う。前者は当然直接人に渡る。後者のほとんどもその仕事に就く人が得る。それで今起こっている問題のかなりの部分について、だいたいのかたがつくと考える。私が述べてきたことですぐに具体的にできるし、すればよいことは、このことである。まったく現実的な実現可能なことである。
 そのことを著者たちの主張の一部として含む本も刊行された。私自身も幾度もこのことを具体的に述べてきた。また、所得税や累進課税といった言葉を使わなくとも、私の議論の構成からは、そうなるに決まっている。」
 刊行されたと記した本は、この十月に出た上野千鶴子・中西正司――この二人の共著の本が中西・上野『当事者主権』(岩波新書)――編『ニーズ中心の福祉社会へ――当事者主権の次世代福祉戦略』(医学書院)。そこに収録された私の文章は「楽観してよいはずだ」。この本では他にも、編者でもある中西が、また大沢真理が、税制について同様の主張をしている。また拙著『希望について』(青土社、二〇〇六)に収録された二〇〇五年の文章「どうしようか、について」でも、その他新聞のコラムであるとか様々で、まず一つした方がよいこととして、税率を改めること、まず戻すことがあると述べた。そして集めたものを直接に人に、人の労働に対して渡すとよいと述べた。
 そのなかで最も長い文章として、この九月に刊行された拙著『良い死』(筑摩書房)の第3章「犠牲と不足について」がある。「経済」のことなど書いてなさそうな題の本だが――しかし、すこしでも考えれば、考えなくても起こっていることを見れば、自明だが――人の生き死には経済がおおいに関わっている。今のまたこれからの社会について知り、未来を心配して、早目に人生を止める。それはよいことであると、あるいはやむをえないことだととされる。また、そんなことを考えずとも、自分の周りの厳しい現実を見て、やはり同じように振舞う。それは仕方ないとされる。それが「良い死」とされる。そのままでよいか。そこで、安楽死・尊厳死・終末期医療・治療停止…について考えたことを書いたその本に、経済のことについて書いた。これらを読んでいただきたいし、またそれらを紹介した「税制について」を読んでもらったらよい。
 このように言うと必ず言われるに決まっていることもある。つまり、以下のように言われる。人が足りない、お金が足りないのだが、平等主義は生産を停滞させる。労働や投資への「インセンティヴ(動機)」を得るためには格差が必要である。
 そういった懸念についても考えておく必要はある。そこでさきにあげた本や文章で、ざっと、ではあるが、述べた。心配されていることは根も葉もないことではない。論理的に間違った提起なのではない。こうした場合には、どこまで現実が厳しいのか、例えば人は足りないのか、生産をさらに増やす必要があるのか、一つひとつを見ていく必要がある。そんな地味な作業も仕方がない。そうして考えていくと、多くは言われているほどのことではないことがわかる。素朴に考えても、今まで多くを得ていた人は、税を多く払うことになることによって仕事をしなくなるだろうか。逆に、もっと働こうすることも考えられなくない。そして、徴収されたものは捨てられるのでない。その多くは社会的に供給されるべきサービスを提供する人々、例えば介護の仕事をする人々に渡される。そうした人々は、人が暮らしているところにはどこにでもいる。あるいは今いなくとも、どこにでも必要である。かつて「公共事業」が地域格差の是正に一定の効果をもたらしていたことを否定しないが、もうその手は有効でない。むしろ人々に直接に渡すのがよい。
 ただ、人やお金の海外流出、国際競争力の維持といった要因は残る。そのことを認めながらも、一つに、いったいその要因がどのぐらい現実に効いているか、(再)分配を(相対的に)きちんとしている国の経済はそんなによくないか、と問うことができる。資本や企業はともかく、人がそう簡単に出ていっていなくなってしまうだろうかと考えることもできる。なにより、さしあたり行なおうということはそうおおぎょうなことではない。また一つ、たしかに一国的に解決できることではないから(論理的には)難しいところが残ることを承知しつつ、いくらか打つ手がないわけでもないだろうと考えてみる。そしてこのことを考えていくなら、なにか小さい単位・範囲でがんばってみることは、こと財の分配についていえば、間違っていることがわかる。この部分にいては「分権」はよいことではない。これもまたはっきりしたことである。
 そんなこんなで、さきの『現代思想』の連載はいつまでも続いてしまっており、そして「犠牲と不足について」という章――以前『思想』に掲載された「選好・生産・国境」という文章がもとになっている――は長くなってしまう。やはり仕方がない。しかし、基本は簡単である。

2 基本線

 次に、どうしてこのように言うか、また言えるのかについて。
 私は、近代から現代へとか、近代から脱近代・ポストモダンへとか、そんな変化をあまり大きなものとして見ることをしないできた。もちろんそこには様々な変化があるのではあり、中には重要な変化もあるのではあったのだろう。しかし、ものを書く人たちは、なにか新しいことを言わないと、言う必要もない、読まれることもないと思うところがある。そんなことを期待されている。期待されていると思う。というわけで、新しいことが起こっていると書く傾向がある。すると、そのいくらかは割り引いてもよいのかもしれない。また、確かに起こっている変化について様々を言うことは、多くの人たちがしてくれている。そこで、それはその人たちに委ねてしまって、私はそうでない側面を言おうと思ってきた。
 近代社会が始まった時から、起こっていることの基本は同じである。一つ、私の作ったものが私のものであるとされる。一つ、私の作ったもの(なしたこと、これからなすこと、なそうとすること)が私の価値を表示するとされる。このことが人々に困難をもたらす。それはまず、できない人に損失をもたらすのだが、できる人、できるだろう人にとっても、うっとうしいものである。そしてこの仕組み、この価値は正しいのかと考えても、正しいとは言えない。代わりに、働く人は働き、とる人はとる、のがよい。
 社会改良主義者たちはそう考えてこなかった。みなができるようになれば、この社会の仕組みのもとでも、皆が同じだけ取れるようになるだろうと考えて、みなができるるようになるような仕組みを作ろうとしてきた。できるようにすることは、基本的にはよいことではある。しかし、どうしたってみなが同じだけできるようになるなどということはないのだし、そのためにさまざまをさせられ、自分のできるできないを気にしなければならない。だから、その限界はよくわきまえる必要がある。
 これらのことを『私的所有論』(勁草書房、一九九七)、『自由の平等』(岩波書店、ニ〇〇四)等で述べてきた。では具体的にはどうするのか。みながてんでに働き生産し、それを適当に取っていったらうまくいく、というのがよいのだが、それはなかなか難しい。(ただ、この冗談のような仕組みは、どのように難しいのか。逆にどんな条件があったら、そこに近づけるのか。そんなことを考えることを私たちがしなくなっている、その前に、そもそもそんなことを考えることを思いつかないとしたら、それはそれで残念なことだ。『現代思想』の連載は、そんなことも思いながら書いている。ニ〇〇七年八月号・第二三回「夢想を回顧すること」等。)一つに、(経済学から言われることは、結局はこのことなのだが)働いても得られないなら、人は働かないかもしれない。たしかに我が身を振り返っても、それはそうかもしれないと思える。
 そして、その前に、暮らせる権利が人にはあるのなら、それを可能にする義務もまたあるということになる。つまり労働の義務はあるということになる。そして次に、公平というものも相当に大切なものではあるだろう。働くのは辛いことでもあり、その辛さをどうするか。仕事をそしてその辛さをうまく割り振るというのが一つだが、他に、また時はこれと同時に、仕事の苦労に応じた報いがあるというのはよいだろう。すると、基本的には、おおまかには、どうであれ生活できることがまずあって、そして、苦労に応じて褒美が追加されるというぐらいの仕組みがよいということになる。
 そして市場はそれなりに便利なものだから、あった方がよい。すると、その上で、するべきことできることは三つである。一つは生産財(知識・技術…を含む)の所有形態の変更である。一つには労働の分割(ワーク・シェアリング)など、労働の場での調整である。一つには所得の分配である。この三つめのものを実現する一つの具体的な方法がこの文章の最初に述べたことになる。
 一番目・二番目のものについては、市場の円滑な作動を妨げるから、しない方がよいと言う人がいる。それもわからないではないが、その上でもやはり私は行なった方がよいと考える。理由は幾つかあるが、市場での受け取りの段階であまり大きな差がない方がよいというのが一つ。三番目の分配のための徴収について、人は自分の持ち分から取られていると考えてしまうことがある。基本的にはこれは間違った認識である――「所有権は課税前にではなく、課税後に人々が支配する資格を与えられた資源にたいしてもつ権利である。」(マーフィ&ネーゲル『税と正義』、名古屋大学出版会、一九九頁)。しかし、徴収が事後的になってしまうこともあって、既に持っているものから取られてしまうように思われてしまう。そんなこともあって、その手前でできること、なすべきことをするのがよいということになる。また二番目について加えれば、働くことは労苦であるとともに、相当に多く人にとってはそれなりに甲斐のあることではある。また、働いて金をもらっている人は、他の働ける人を退けて職に就いているのだから、得たものの一部を職を得られなかった人に渡すのは当然だと言えるのではあるが、しかしそう言われると、こちらは働いているのだと返すかもしれない。ならば、職の方を分ければよいということになる。これ以上の説明は略す。二番目のものについては拙著 『希望について』(青土社、二〇〇六)に収録されている「労働の分配が正解な理由」等に記した。一番目のものについては、同じ本に収録されている「所有と流通の様式の変更」等に、すこし、記した。
 三番目のものについて。なにがしかはすること、「最低限」のことを行なうことについて反対する人は少ない。問題はどれだけのことをするかに尽きる。私の考えは以前からはっきりしている。今なされていることは半端であり、不十分である。きちんとするべきことをすることだ。そしてこれはすぐに具体的にできる。何を言っても「実現可能性」が問われてしまうのだが、そしてそれはもっとなことではあるのだが、これには現実的な可能性がある。選挙で過半の同意を得られるような案を作ることができる。

3 妨げるもの

 だから、むしろ、なぜこんな簡単なことがあまり言われないのか、なされないのかの方が不思議である。いくつか考えられる。細かなところでは、所得税では自営業者から税を取りにくい(その点では消費税がよい)など様々あるが、ここでは略す。(たしかにかつての税制改革に当たってはこのことが、つまり「サラリーマンの重税感」が強調された。その不平不満にはもっともなところがあった。しかし、実際になされたことは、こうした「中間層」のためのことというわけでもなかった。また、所得税だけでは難しいのであれば、また難しくなくとも、相続税など資産への課税を強くするという手もある。)
 大きくは一つに、「体制」について考えたりすることが終わったことになって、基本的なことを考えたり確認したりすることがあまりなされなかった。だからこそ、考えた方がよく、理屈を言う必要があるし、一度言ったことを繰り返す必要もある。そう思って、私は考えてきたし、同じ話を繰り返してきた。
 そして一つ、とくに私たちの国では、とくにこの間、しばしば「共助」という名は付せられるものつまりは「保険」の枠組のもとで議論がなされるばかりであってきた。その中で考えることがあたり前になり、現実もそれに制約されてきたということがあった。このことについて、年末にやはり筑摩書房から出版される『唯の生』の第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」に書いた。
 この日本社会の中で、真面目な人たちが、ここ数十年の間、高齢化に真面目に対応しようとして、介護を「社会化」しようとし、その具体的な制度として、誰もが知っているようにニ〇〇〇年から介護保険が始まった。それはないよりよいものだったと思う。ただそれは、老いは皆に訪れ、介護の必要な状態も同じ確率で起こるのだから、それに備えようという掛け声によって、みなの同意を得ようとした。それは同意を得るための戦術でもあり、本心からのことでもあった。
 そこから発すると、基本的には、みながおおむね同じだけを支払うという仕組みでよいということになる。あるいは支払いに応じて、多く払った人には多く払われるということになる。それは(再)分配とは別のものとされる。そして見渡してみれば、年金も医療も介護もみな、基本的には――実際には税が使われもするのだが――そんな制度としてある。総額が大きくなったとか、国民総生産に占める割合が高くなったとか言われているものの内実はそんなものであり、そんなものでしかない。それに申しわけのように「公的扶助」、生活保護が付いている。それにさらにおまけのように、障害者向けの制度が付いているという具合になっている。
 繰り返すが、それはないよりもよいものである。けれどもこうして組み上がってしまったものに、発想も現実も制約されてしまった。しかし考えてみよう。公的扶助、「最低限の所得保障」については、市場で多く得た人から少なくしか取っていない人に渡してよいが(渡すのも仕方がないが)そうでない部分は別建てで当然だと、自分のための貯金・保険のようなもので当然だと、言えるだろうか。そんなことはない。制度を二通りのものに分ける根拠などない。市場において多くを得た人は多く、少ない人は少なく拠出し、生活において多く――の例えば介護、医療――を必要とする人は多く、普通の人は普通に得られるのがよい。これが基本となる。それだけのことである。このこともまた、さきに紹介した拙著『良い死』の第3章「犠牲と不足について」に書いたし、「楽観してよいはずだ」に書いたし、またそれらに記したことを『現代思想』連載でも繰り返したのだった。
 その基本をふまえずに財源論議がなされるから、貧しい制度ができ、そして続き、将来に悲観的になる。基本的には同じだけをとり、あるいはせいぜい所得に対して定率の負担を求め、ごく一部の人の支払いを特別に減免するといった制度では、徴収できるものは、所得の少ない人に合わせて少なくもなるから、たいして多くは得られず、結果、たいしたことはできない。その枠内で議論がなされることによって、これからの現実も厳しいものと見えてしまう。それはよくない。

4 心の手前に留まる cf.愛/帰属/承認

 こうして即物的なことを述べてきた。それがこの世の人々に生きにくさのすべてということではむろんないのだろう。けれどもまだなにがあるのかを私は知らない。私は「心」のことをよく知らない。そしてわからないものになにかもっともらしい理由をつけることは、ずいぶん暴力的に作用することがある。わからないものはわからないことにしておいた方がよい。
 ただ、私がここで述べたことも、たんに財の持ち分のことだけでなかった。まず、今あるような社会は正しい、あるいは仕方がない。そのように思うなら、それこと自体ががずいぶんと大きな影響を与える。自分がなすことが自分であるとされ、そのことを信じてしまうなら、それは大きくその人に作用する。たしかにこの社会も、「ポスト」という言葉を冠してものを語る人たちが語るように、いくらかは変わってきたのであって、露骨な成果主義――それは一方では依然として、あるいはますます露骨に称揚されまた押しつけられるのだが――だけではやっていけない人が多いこともまた知られる。それではかえって社会の維持のためにもよろしくないということになる。そこで、「なにか」でよいから、なんでもよいから、そのなにかを目指すことがよいとされる。そして、それがなにかを探すこと、探すことを目指すという行ないそのものに価値が与えられることになる。
 そしてさらに、それだけでも足りないから、他者(たち)による承認・肯定が求められるということになり、そのような他者(たち)が不在であり、自分に対する「基本的な信頼」が得られず育った人が不幸になる、などと言われる。
 そんなに単純な筋書き通りのことが言われているのだろうかと思わないでもない。けれど、どうやらそれが実際のようだ。そんなことを、こんどの『良い死』『唯の生』を書きながら思ってきた。「生命倫理」のようなことについて調べていくと、あきれるほど、価値が、疑う可能性が知られない価値として存在し存続していることを知ることができる。一方に、まったく露骨に明瞭に、人が人であることのできる資格についてはっきりしたことを語る人たちがいる。とはいえ人は病を得たり衰弱したりしていくのであって、他方に、その人を基本的には肯定したい人たちもまたいるのだが、その人たちもまた、(なにも具体的に得られないとしても、例えば私の病や生や死の意味を)求めたり探したりすることに価値を与えることによって、その人たちを救おうとする。しかしそのように言わねばならないのだろうか。そして、他者による肯定・承認を求めてしまうことも、紐帯・連帯を求めてしまうことも、たしかにその欲求は人の「本性」に根ざしたところがあるのかもしれないのだけれども、すくなくとも、唯の生が許容されない時に大きくなり、そしてそれはときにかなえられず、それで人は悲しくなってしまうのではないか。だから肯定してもらおう、だから(例えば親は子を)肯定しなければならない、の手前で確認しておくべきことがあると思う。『良い死』の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」(第5節「思いを超えてあるとよいという思い」、第6節「多数性・可変性」、第7節「肯定するものについて」)にそのことを書いた。

□文献

◇立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 2940 [amazon][kinokuniya] ※ d01. et.,

□言及

◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社

UP:20081210 REV:20081218
  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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