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再掲・引用――最首悟とその時代から貰えるものを貰う

立岩 真也 2008/08/01 『情況』第3期9-9(2008-8):59-76

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立岩 真也 2008/08/01 「再掲・引用――最首悟とその時代から貰えるものを貰う」,『情況』第3期9-9(2008-8):59-76 [amazon] ※

 ■『情況』第3期9-9(2008-8) 特集:人間的環境と環境的人間/特集:新左翼とは何だったのか
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 文章を書くことを仕事にしている人にはあるまじきことだが、新たに書くことができない。一つにはたんに時間かないから。もう一つは――というか同じことでもあるのだが――、最首が行なったり書いたりしたことについて考えて書くためには時間がいると思うから。
 そこで、過去に書いた文章を再掲させてもらう。また過去に書いた文章で最首の文章を引用したり言及したりしている箇所をやはり再掲させてもらう。

1 「最首悟の本」

 『看護教育』(医学書院)に、二〇〇一年から「医療と社会ブックガイド」という連載――この題はあまりふさわしくないと思ってている――をさせてもらっている。ニ〇〇八年八月号で八五回を数えることになってしまっている。その第ニ九回(二〇〇三年七月号)で「最首悟の本」という記事を書いた。それを再掲する。本の数とか変化した部分はあるだろうが、そのまま再掲する。

 「最首悟という人がいる。一九三六年生、大学院で生物学を専攻、一九六〇年代末に全共闘運動に参加、一九六七年から九四年まで二七年間東京大学教養学部の助手をしていたが、そこをやめて恵泉女学園大学教授。また予備校の医学系進学希望者のための小論文の講師もしてきた。星子さんという娘さんがいて、彼女はダウン症の人である。それから横浜で「カプカプ」という共同作業所の運営にも関わっている。東京に彼を囲む「最首塾」という会があって(ホームページもある)、私も一度呼んでいただいたことがある。
 そして文章を書いている。すぐ紹介する二冊を除くと単著は三冊、うち二冊はいまは買えない。図書館等を探してみられるとよい。またいつものように私のHPにすこし引用等がある。他にも彼の文章が収録されている本はかなり出ている。[…]
 こうして検索して予備校絡みの二冊を発見したのでまずそれを。一冊は『半生の思想』(河合文化教育研究所、河合ブックレット、一九九一)このシリーズは河合塾の研究所が主催した講演会を本にしたもので、おもしろいものが多いのだがその一冊。一時間ほどの講演を聞くつもりで読んでいける。半生は「はんなま」と読む。その一部をなす「リカーシブな私」というところは最首塾のHPで読める。リカーシブとは循環するといった意味だ。
 もう一冊『お医者さんになろう――医学部への小論文』。つまり受験参考書である。読み物になる受験参考書はあまりないが、これは読める。例えば千葉大学の小論文の問題に、「(1)理想的な医学部入試問題とはどんなものか、述べなさい。(2)その入学試験にあなたは通りますか。」という意地のわるいのがある。私も、前に勤めていた学校(医療技術短期大学部)の入試の面接で、どんな選抜方法がよいかを議論してもらうという嫌味なことをしたことがあったのを、読んで思い出した。
 さて、そんな問題を前にして、どんなふうに考えたものか、と話は進む。タテマエを書いてもつまらないことを知ってはいながら、しかし考えたことを書け、と言われても困ってしまうというのがたいがいの場合で、そこをどうしようか。グルグル循環しながら、何かを言う、とはなかなかうまく行かないにしても、何かを言おうとする。その過程を彼は書いていく。それがおもしろいと思って、この本の表紙を載せてもらった。ただ、たしかに彼の特質が現われてはいるこれらを読んでいって、私たちが彼の本を読んできたのはこうした部分ではないと、日本(列島)的なものと西欧的なものを対比させ、生命や認識の本性(としての循環、定まっているもの、非決定なもの、等)を語る部分ではないとも感じた。次に紹介する三冊の本の方が、やはり断然おもしろいと思った。

 その単著の最初の本が『生あるものは皆この海に染まり』(新曜社、一九八四)。次が『明日もまた今日のごとく』(どうぶつ社、一九八八)。いずれも出版社で品切れになっているが、後者は最首塾のHPで大部分を読むことができる。品切れ・絶版になった本をHPに掲載というのはよいことだと思う。一九七六年生まれの最首星子さんのこと、それから彼がずっと関係してきた水俣病の人たちのこと、水俣のこと等についての文章や講演の記録が収録されている。
 そして一九九八年に『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との二〇年』。これは買える。最初の新曜社の本の編集も担当した伊藤晶宣さんがほぼ一人でやっている世織書房という出版社から出ている。私は書評紙のアンケートでこの本をこの年の三冊のうちの一冊にあげた。
 言うべきことを言っていると思う本、読みながらその先を考えてしまう本はそうたくさんはないのだが、最首の本はそんな本だ。
 彼は「児童文学」を論ずる文章を多く書いている人でもあって、『生』に収められているそうした文章の一つは「読書感想文コンクール」に対する、まったくそのとおりと私には思える怨嗟・批判から始まる。そして、下手くそな翻訳のくせに「翻訳はだれでもできるのです」などと書く訳者のことを怒った後で、「それは措くとしても、「だれにでもできる」という呼びかけは、はたして「はげまし」なのだろうか。わたしには、「まどわし」とか「ごまかし」にしか思えない。」(二〇一頁)(入試の話にまた戻ってしまうと、この辺をやはり以前勤めていた学校の入試の小論文に使ったことがある。出題箇所の全文はHPに掲載した)。
 別の「児童文学書」についての次の文章も言うべきことを言っていると思う。

 「仮の正常さを体現する人間が、「いのち」を媒介として、異常さを受け入れてゆく、という作品が、読むに堪えないものになるのは、異常さを受容することによって、仮の正常さが正常に転化するという安易な思いこみや、そのような思いこみこそ、現実での障害者差別を、さらに上塗りする、もっとも度しがたい要因となっているという理由ばかりによるのではない。それは、第一に「いのち」や死に意味を付与することにこそ、文学の無限の営為性があるという根本命題の転倒がおこっているからであり、第二に、人間は、真に異常なるものを受容できるかというおそれが、欠けているからである。」(『生』二四二頁)

 あるいは次のような文章もある。

 「うえの子たちが、「星子は同じ人間なのに、どうしてぼくたちとちがうの」という見方をしてほしくないのである。先走っていえば、「星子はぼくとちがうけれど、ぼくとかわりないねえ」といってほしいのだ。」(『生』二〇〇頁)

 彼の文章は静かであったり、ときに怒っていたりする。行ったり来たりする文章でもあるが、それでも言わざるを得ないことは言う。こんな文章を読んだときに、私たちは、同じことと違うことがどんなことであるのかを考えたくなる。権利と義務について書かれた文章があると、そのことについて考えたくなる。それで、私は著書や論文で彼の文章を幾度も引かせてもらった。ここでは重ならない部分を紹介、引用している。

 もっと言えば、私がなにか考えていくときに、あるいは考えようとした初発のところに彼らの思考があって、そこから私は始まっているところがあると思う。そしてそれは、基本的に、世界についての肯定的で解放的な思想だったからだとも思う。

 「バリケード内は、何も生みださず、何もしなくてよいから、真にたのしかったのである。そしてたのしいから焦燥にみちていたのだ。」(『生』四〇頁)。

 と彼は一九七〇年に書いた。彼ら、と書いたのは、彼一人ではないということなのだが、書き続けてくれたり、考え続けてくれた人はそう多くない。彼も一九七〇年代の前半、何も言うことがなくなって、また書き出したのは星子(せいこ)さんが生まれてからだと言う(『星』三六九頁)。ダウン症の人といっても様々だが、星子さんは重い方の人だ。自らが発する言葉はなく、音楽の好きな人で、視力を失っている。彼女といることがどんなことなのかについて、『星子と居る』に彼女の五歳のときに書かれた文章からはじまり、多くの文章が収められたている。
 そしてその本の中に、「私たちにいま改めて投げかけられている問題は、「人間の私的所有のどのレベルを人間は廃絶しなければならぬのか、あるいはどのレベルを廃絶できるのか」であると思います。」(『星』三九八頁、初出は一九九〇年)といった文章がある。本が出たときに私はこの箇所を読んでいたのか、さっき読み返したときに発見したのか、それも定かではない。
 彼はいわゆる団塊の世代よりは前に生まれた人なのだが、ぜんそくもちで身体が弱かったりしたこともあって、人生の進行がいくらかゆっくりめで、そして大学院になど進んだものだから団塊の人たちが騒いだ頃に大学にいたのだ。私は、その世代の人たちが、基本的にはまっとうなことを言いながら、その後、考えてものを言うことを続けなかったのが不満で、それで仕方なく自分で考えているようなところがある。私のやり方は最首と同じではない。私は論を構築することを、それが冗談であっても、ひとたびはやってみようと思っているし、最首は違うスタイルで文章を書く。ただ「論点を次第にしぼってついにこれ以上はしぼれない一点があるはずだ」(『星』三八四頁)という思いは彼にあって、それはさきに紹介した受験参考書で受験生に彼が言いたいことでもある。
 そしてその本は次のように終わる。

 「生きがいというものが静かに居すわる不幸ということを軸にしているのではないか、そして、そして静かな不幸と密接不可分な、畏れの気持ちもまた生きがいを構成しているのではないか」(四三九頁)」

2 『私的所有論』

 一九九七年に『私的所有論』という本を出してもらった(勁草書房)。その第9章が「正しい優生学とつきあう」という題の章で、その章の冒頭に以下の引用を置いている。

 「わたしは心身共に健康な子を生みたいという願いを自然なものとして肯定します。しかし、そうは思わない不自然さも、人間的自然として認める余地はないのだろうか。」(最首悟[1980→1984:80])

 初出は、一九八〇年、「汝以後、思いわずらうことなかるべし」、『障害者教育ジャーナル』六号(現代ジャーナリズム研究会)、『生あるものは皆この海に染まり』(八四年、新曜社)に再録された文章。
 ちなみに、もう一つ、この章の冒頭で引いたのは宮昭夫の「もう一人の私との対話」,『障害の地平』八七号(視覚障害者労働問題題協議会)。

 「「自分の子供が五体満足ですこやかに生まれてくる事を望むのは、やっぱり差別的なのかね。」
 「多分ね。」
 「でもそれは人間としてごく自然な感情じゃないか?」
 「それはそうだけど、自然な感情であるという事は、そのまま正しいということじゃないし、差別的でないという事でもない。例えば、人よりできるだけ楽をしてうまい物を食いたいと思ったり、人をけ落として競争で一番になりたいと思うのも自然な感情だと言えば言えるだろう。」
 「どこか違うんじゃないか? 俺はたとえ子供がどんな状態で生まれてきても、それを引き受けて一緒に生きていこうと覚悟した。それでもやっぱり生まれる時にはすこやかであってくれと思った。正直の所ね。その事で俺は他者をけ落としたり傷つけたりしているか?」
 「五体満足で生まれてくれという願いをきく事は、障害者には嬉しくないとは思わないか? 自分が否定されている、少なくとも肯定されていないと感じる。」
 「俺も障害者だけど、俺はそんな風に思わないよな。」」(宮昭夫[1996:2-3])

 この本では、すこし楽しんでもらおうかという思いもあって、各章の冒頭にいろんな人からの引用を置いてある。第1章と第7章はカント、第2章はジョン・ロック、といった具合で、第8章がやはり宮昭夫の同じ文章から引いている。「たぶん、うまいラーメン屋をうまいと言う事がいけないわけじゃないと思うよ。」という言葉で始まる(架空)対話の一部だ。
 もう一つ、最首の同じ文章からの引用は、同じ章の注二〇(四三八頁)――他に同じ章の注二七に著作を三つ列挙。

 「公害反対運動と、障害者運動はどこで共通の根をもちうるか…。誤解をおそれずにいえば、公害反対運動は、心身共に健康な人間像を前提にしています。五体満足でありたい、いやあったはずだという思いが、公害反対闘争を根底で支えています。これにたいして、障害者運動は、障害者は人間であることを主張する運動です。」(最首悟[1980→1984:75])

 ところで最首は、『週刊朝日』一九九八年三月六日号の「毎回違う筆者が語る私の読書生活」という欄でこの本をとりあげてくれている。引用は以下。

 「自己否定は「私が何々である」ことからの解放だった。「ただの人」という無規定性がだんだん身にしみてくる。関連して昨年は「日本語に英語の『I』にあたるものがないとはどれほど大変なことか」という『日本語の外へ』(片岡義男著,筑摩書房),「自己決定,私的所有とは割り切れたものではない」という『私的所有論』(立岩真也著,勁草書房)の二つが大きな収穫だった。とくに後者は,著者本人(p.132) がたいへん純朴な本だと言っていることに共感を覚える。自己とか他者の積極規定はおおむね作為に満ちている。」

3 「ないにこしたことはない、か・1」

 石川准・倉本智明編『障害学の主張』(二〇〇二年、明石書店)に「ないにこしたことはない、か・1」という文章を書いた(2は今もない)。注5ですこし言及し、そして注七で以下のように記した――引用している本は『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害の娘との二〇年』(世織書房)。その注は以下の本文についている。
 障害はない方がよいに決まっているという論に「対して文句を言った人たちがいた。どうも普通に考えるとその人たちの方が分がわるいように思われる。その人たちの言うことを聞く側は、「障害も個性」といった言い方にひとまずうなずいたりすることもあるが、しかし本気では信じていない。あっさりとない方がよいと言えばよいのに、やせがまんのような気もする。それを嫌悪して、そんな調子のいいことを言うべきではないとわざわざ言いにくる人も出てくる」。

 「この主題を巡る議論は何層にもなっていて、そして捩れている。
 A:まず、障害者でありたくない、障害者になりたくない。なおるならなおった方がよいと思う。まずはそれだけという人にとっては、障害を肯定するっていったいなんの話をしてるの、ということになる。B:第二に、そんなことはないと言いたい気持ちの人がいる。そしてこのことの言い方もさまざまだ。そして「世間の人」もまた、実はなにかしら障害を積極的に捉えるといった主張に同調したい部分はある。もっとも双方で思っていることはかなりずれていたりもするのだが、とにかく、意外に受け入れられる部分もある。C:すると第三に、そんな調子のいいことを言って、と、それに対してさらになにか言いたい人がでてくる。
 ダウン症の娘さんがいる最首悟の本にこんな一節がある。(1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。……」(最首[1998:369-370])
 ここで怒っている最首は批判Cに対してさらに怒っている。私は呉智英の当該の文章を読んでいないが、この世代の人たちは――「戦後民主主義」が怪しげに入ってきたことに対する、そして「良心的知識人」に対する敵意があることに関係するのかしないのか――「良識派」あるいは「進歩派」の「欺瞞」「偽善」を指摘してまわるという文章をよく書く。最近のものでは、安積他のBの主張に対するC小浜の批判?がある(小浜[1999])。Cの人たちは、Bの見方が偽善的であるとか脳天気であるとか、そんなふうに思って批判するのだが、実はそのBの人たちも、あるいはその人たちの方がそのあたりはかなり自覚的に書いていたりもする。
 この文章は、まずはとても優柔不断でありながら、こうした状況にさらに割り込もうとする。すると、いったい何をしているのかわからないと思われても無理はない。注1にあげたホームページを見ていただくと、その雰囲気だけでもわかっていただけると思うのでご覧ください。」

4 『弱くある自由へ』『自由の平等』

 『自由の平等』(岩波書店、二〇〇四)第3章「「根拠」について」3節「普遍/権利/強制」1「普遍性・距離」の注9

 「最首が義務の先行性と内発性について述べている。「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」(最首[1993→1998:131])「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])これを受けて、[2000b→2000g:312-313]で本文に記したことを述べた。」

 [1993→1998]は『星子が居る』に収録された「対話と討論・論争のひろば」、『障害児を普通学校へ・会報』(障害児を普通学校へ・全国連絡会)一二六(「障害をもつ子と教育」と改題)。[1994→1998]は同じ本に収録された「権利は天然自然のものか」、『愛育』(恩賜財団母子愛育会)一九九四年ニ月号(「義務と権利」と改題)
 そして[2000b→2000g]は『弱くある自由へ』(青土社、二〇〇〇)に収録された「遠離・遭遇――介助について」。そこに書いてあるのは以下。

 「おそらく権利は[…]具体的・個別的でありながら、その具体性のうちに普遍性へと向かう契機を含んでいる。権利についての不信は、それが天から降ってきたもの、与えられたものであるとされることにあるのだろう。その不信にはもっともなところがある。しかしやはり権利がただ人であることにおいて一律に与えられるというその普遍性は重要なことではあるのだろうと思う。人権の普遍性とは、まったく普通にある関係そのものにあるのではないかもしれないが、しかしその関係に内在していてそれを延長させていこうとする意志が関わってくる。たしかにその人の権利は、その人への義務を周りの人たちが負うこととまったく同時に現われてくるものであるしかない。だから私たちのことであるともいえる。しかしそれでなお、「その人に」権利が「ある」と言わければならないとする時、そこには私たちの恣意が関わってならないという決意が表出されているのだと考えることができる。
 恣意はなくならない。個別性もなくならない。しかしそれに近いがそれと同じではないものとしてここに述べた承認はある。普遍は予め与えられていないが、しかしその方向に行こうとする契機はある。例えば「距離」について。ある人との距離の近さは、その人の存在を感じる時の大きな要因ではあるだろう。しかし、近いところにいる人を知っている時に、すでに、遠くにいる人たちもまた一人一人いることを知っており、その一人一人に関係する一人一人がいることをまったく現実的に想起することは可能なのである。」(『弱くある自由へ』三一ニ−三頁)

 「考えることができる」に注があり、その注に「最首[1998]の記述を念頭に置いている。」と記してある。そして「本文に記したこと」は以下。

 「自分が生きたいと思い、それを認めてほしいという主張は、その主張に内在的に、義務として私を認めることを人々に要求する。その要求は、あなた方の都合は様々あろうけれど、私のあなた方にとっての有用性・無用性と別のところに私の存在を置くようにという要求であり、その意味であなた方のあり方を抑え、私を認めることを義務とすることを受け入れるべきだという要求である。
 このようにして、この要求はたんに自発的な贈与をよしとすることではなく、人が義務を負うことの要求である。義務、強制は、現実には反対に会って成立しないことがあるとしても、この主張に内在的に請求される。これは、私の存在の維持という同じ場所から分配を言おうとするもう一つの根拠としての未知のための備え――第2節1で二番目にあげたもの――からは現われてこないものである。こうして、承認、具体的には分配のための負担は義務として請求される。
 そしてこのことは「権利がある」と言うことにも関わる。権利なるものがその人の内部にあらかじめ内在するわけではなく、その周囲の者たちのその人への関係のありようとして存在すること、その者たちがその人を認め、その人に対する義務を負うことがあり、それが権利を成立させるというのはその通りだ。ただ、そうなのではあるが、そこから私(たち)の側に力があることを差し引こうとして、「権利がその人にある」と言うべきだとするのではないか。だから、掟として、強制としてあることは、欲望を屈曲させたものでなく、むしろ欲望に忠実なのである。」

 「「権利がその人にある」と言うべきだとするのではないか」に付した注が、引用した注。
 次にすぐ後の注11。

 「慣れとは、大方は、感覚の鈍磨という、障害者にとってはまた堪えがたい意味をもっているのであるが、しかし良い、悪いの意味をこめない尺度の移行は、慣れによって生じることは事実である。大事なことは、慣れとは、関係の取り結びだということであろう。障害者本人と、あるいは障害者とかけがえのない関係を結んでいる者との関係を、取り結べたとき、障害者に対する異和感は消失するし、想像、類推の力によって、ほかの障害者への異和感を軽減させることはできるのである。そして慣れの深さによっては、差異の事実はかえってはっきりと残され、ときにはそれをあげつらうこともできるようになる。」(最首[1980→1984:234-235])

 [1980→1984:234-235]は『生あるものは皆この海に染まり』に収録された「かけがいのない関係を求めて」、『子どもの館』(福音館書店)一九八〇年五月号。この注は以下の本文(『自由の平等』、一四一−一四二頁)の末尾に置かれている。

 「一つの間違いは、差異によって他者を規定しようとすることだ。二人の人に違いがあること、ないことは、その二人が別人であることと別のことである。似ているから同じだと考えるのはまったく危険でさえある。差異が感じられ、少しもわからないということがかろうじてわかったりすることもある一方で、同じこと、似ていること、気持ちの悪いほど似ていることに気づくこともあるだろう。しかし、そこで似ていたり同じだったりする存在は、やはり私とは別の存在であり、ときに似ていたり同じだったりすることに気づく楽しみもまたその存在が私ではないことに由来する。その人に慣れることにしても、それは摩耗することだとは限らない。属性はなくならないままときに背後に退く、あるいはそのまま前に現われているが他を見るのに邪魔にはならない。」

4 引継ぎ方

 つまり私は、最首(たち)が言ったり書いたりしたことについて考えた方がよいと思って、考えて書いてきた。さきの最首の本の紹介の記事の終わりにも書いたことを繰り返すことになるが、第一に、その人たちから基本的な立場をもらったと私は思う。すくなくとも、その人たちの書いたものその他から私が思うようでよいはずだと思えた。第ニに、しかしその後、その人たちはさぼってしまったり、わざと脇道に行くことにしたと思った。第三に、それで、仕方がないから自分で考えることにした。
 簡単にいうとこういうことになる。すると最首はどこにいるのだろう。次に引用する私の文章に「ただ、この道を行った一部は、現実との接触と摩擦の持続のために、思考することを止めることができず、「社会理論」に再度接続するのだが、その道筋はここでは辿れない。」という文がある。その箇所に、本に再録するにあたって注を付した。
 「ここで念頭に置いているのは病者・障害者の運動である。その人たちは生活のために運動しているから、降りることができない。しかもその人たちが位置する位置とそこで主張せざるをえないことは、社会の基本的なところに関係するから、社会に正面から対することになる。」
 最首もそんなところにいるのだとも言える。そして、「これ以上はしぼれない一点」を探すのだとも言う。ただ、そうではあるのだが、同時に、最首は、理屈をこねることの限界を私より思っているように感じる。とくにここ何年なのか十何年なのか、話すこと書くこと、あるいは書き方や語り方にそのことを感じる。ずっと、矛盾する(かのような)後を並べていくという文章を最首は――先に引用した文章では、「たのしい」から「焦燥」にみちていた、「生きがい」が「静かに居すわる不幸」を軸にしている、「不自然さ」も「人間的自然」、等々――よく書いてきた。他方、私は――そう言ったら笑う人もいるだろうが――論を収斂させることを望んできた。
 以前――二〇〇二年十月一九日のようだ――「最首塾」に呼んでもらって話した時も、最首は、私がはっきり言おうとする手前の淀みのような部分を楽しんでいた、そのことを私の話の後に語ったように記憶している。たしかにこの世は複雑であり複雑であることは大切なことでもある。ただ、私はその複雑さを含め、分析的にというか散文的にというか語られることがあると思っていて、そのような仕事をしようとしている。

 この原稿を書き始めた、というより、引用を集め出した(そしてその日のうちには送ららないことには間に合わない)七月二日の三日後、七月五日に慶應義塾大学経済学部の「現代社会史」という講義(高草木光一の企画、第V部「いのち」の現代史――われわれの「歴史学」へ」)の一回として、最首と私の対話というかたちをとった授業「揺らぎのなかの「いのち」がある。何を話せるのか、見当がつかないのだが、三時間の時間がある。「中高年」の「もぐり」の人の方が多いとも聞く。その資料として、この文章を配ってもらうことに、今、した。そこで、以下、以前書いた文章の一部を再掲する。大澤真幸編『社会学の知33』(二〇〇〇、新書館)に掲載された「正しい制度とは、どのような制度か?」という(与えられた題の)文章で、拙著『希望について』(二〇〇六、青土社)に再録されている。

 「「正しさ」ほど退屈なものもないではないか。そうではないと私は思う。ここ三〇年ほど流行し消費された「知」はあまりおもしろくなかった。その停滞に「制度」「正しい制度」「可能な制度」についての思考の不在あるいは不振が関係していると思う。
 三〇年よりさらに前――「体制」をめぐる争いのあった時期――がおもしろかったわけではない。体制=制度の選択という主題自体は大切なのだが、あの時あったものを議論と言いにくい。双方が問われない前提(よいことはよいことだ)を有し、同時に、今のと別の社会が成立しうる条件について十分に考えられなかった。
 次の世代が、様々を前から引きずりながら、否定する。上の世代が立派だったから悔しくて逆らったわけではない。だめだからだめだと思っただけだ。それはよいことだ。当たり前とされている部分を問う。よいことはよいことかと問う。少し恥ずかしいが、「近代を問う」のである。社会学の本義に立ち返ったのだとも言える。
 否定してしまった結果、積極的に言うことが何もなくなってしまった、代わりに何も産み出さなかったという理解もある。私は、むしろ、否定することに成功しなかったのだと思う。つまり冷静でなかった。前代と同様、一つに自らの立場に対して。例えば「正しさ」についての感覚は強くあった。ただそれは何なのか。「強きを挫き弱きを…」はよいとして、それだけですむものでもないだろうに。一つに現実における可能性に関わる吟味について。前代と違うのは、そう自信がないこと、可能性について悲観的であること。知性を懐疑していく時に使えるのもまた知性なのだが、そうした使い方がされない。[…]
 多くは、現実との接触面でどうもどうにもならないと思い、めんどうになって、降りてしまう。またある人たちは、「空理空論」を放棄し、理屈をこねず、地道な方、「実践」の方、例えば「地域」の方に行く。(ただ、この道を行った一部は、現実との接触と摩擦の持続のために、思考することを止めることができず、「社会理論」に再度接続するのだが、その道筋はここでは辿れない。)
 他方で、やがて「知」などと呼ばれるようになるものは、そういう敗北感は脇において、つまり妙に元気に、なにかしら批判的な態度・気分は継承することになる。(もちろん、こんなことに関係なく、日々を過ごす学問もある。伝統的な学問の伝統的な部分がある。また、世論調査をして、多数決をとって、世間はこう変わっていると言う者もいる。もちろん、それはそれでよい。)
 それが行なったことは、まず「人類学的」なもの、また「新しい歴史学的」なものだった。別のところ、あるいは別の時代に別のものがあること、あったことを発見する。そして「相対化」する。これはとても大切なことである。こんなものもあるという発見は魅力的でもある。だが、「そういうのもあるみたいだ、だけどね、ここはここ、今は今」と言われた時に何を言おうか。「多様性を尊重しましょう」はよい。ただ、そのお題目を唱えてそれで済むのでないこともわかっている。この時、何をどう言えるのかがよくわからない。
 こうして外に広がっていく方向におめでたい感じがしてしまった人もいただろう。だからかどうか、「もう少し内側から見てみよう、社会学なんだし」という動きも出てくる。会話やメディアやカルチャーの中に「権力」の作動を見出す、「政治」の作用を確認するといった方向の研究がある。歴史的な視角、歴史の検証作業は引き継がれるが、より現代に近いところでなされる。「〇〇の政治学」といった名前の本がたくさん出る。
 それもそれでよい。神話の解体は社会学の本業である。けれど、目のつけどころがかなりよくて、かなりうまくやらないと、だいたい知っている話に落ち着いてしまう。[…]
すでにみた感じ、なんだか同じことをずっとやっているような気がしてくる。[…]手をかえ品を替えて言っても、いつか飽和状態から脱することができなくなる。といって、遠くに別のものを探しに行っても何かあるわけではない。空虚な飽和感がする。退屈な感じがしてしまう。
 なにがいけなかったのだろう。仕事が単純すぎるのだと思う。[…]
 予め敵と味方の陣地を措定するのでなく、何と何が拮抗しているのか、あるいは何に抗するものがあるのかを知ればよい。そう考えると、まだ検証されていない歴史があり、諸装置の配備があり、それを追う社会学が存在する余地は多く残っている。[…]現在に近いところが踏査するによい場となる。そしてその争いと争いの構成を記述することはすなわち、制度に対する複数の立場を記述することであり、その位置関係を記述することであるからには――記述者の立場がどこにあるか(そんなものを表出することと制度を問うこととは基本的に関係がない)はともかく――制度のあり方を問うこととなる。ここですでに、争いを記述するために、出来事の記載だけでなく、解析が求められる。
 もう一つ[…]社会は既に存在しており、私たちはその中にいてしまっている。社会が積極的な正しさを追求すべきでないという考え方もまた一つの正しさについての態度である。残念ながら、かどうか、その中の何をとるのかという選択があり、この時、何を選ぶのか、それはなぜかという問いに答えようとすることになる。どの装置・権力を受け入れ、どれを取り外すのか。それについてどこにどんな基準があるのか。そうしたことごとがあらためて問われるべきことになる。[…]
 つまり、実際の摩擦や争いを記述することから論理的な構成作業へと進むか、思考の中で条件と要素を数えあげ配置していくか、両者を往還するか。いずれにおいても、何が原則となり制約条件となるのか、それらがどう配置された時に何が現実として産出されるかが問われる。
 「原則」について。三〇年前からの人たちにしても、たんなる「自然」の信奉者ではなく、あるいは無政府主義者(を装う者)たちではない。たんに今ないものがよいと言ったのではない。むしろ、「自由」だとか「平等」だとか、あるいは「快」であるとか、それなりの原理原則があったのかもしれない。しかし例えば「自由」だが、AとBと二人いる時に、xについてAが自由であることがすなわち、Bがxについて自由でないことがある。こんな時、自由の配分について語らねばならず、ただ自由を言っても仕方がない。他方で、「平等」を立てる場合には、平等に分配することがためらわれるものもまたあることについて何か言わねばならない。
 そして「幸福」。それにつながれると経験したいことを経験でき、気持ちがよい「経験機械」はいかがだろう。これでよいではないか。嫌だと言う人はなぜそう言うか。自分の気持ちのよさは自分で決めたいのか。しかし、気持ちよさ一般を自分で決めているだろうか。また、経験機械を自分であやつれるなら、それでよいのだろうか。
 そして、前提・原則・目的でもあるのだが、懐疑と批判の対象となったものについて。例えば「生産」「教育」「健康」。これらが疑われた。例えば(近代)医療批判として医療社会学がある。しかし批判が不徹底だったのかもしれない。つまり、何が気にいらないのか、それをはっきり言うことができているだろうか。教育や医療をすることから抜けられないとした上で、受容と拒絶がどこのあたりで分かれるのかを考えること。そんな綱の上を渡るような仕事の方がおもしろいと思う。
 そうやって考えて、とりあえず例えば「みんな気持ちのよい状態で暮らせる社会」がよいのだとして、それがどういうものか、基本的には決まったとしよう。さてそれからどうしようという問いもある。これもけっしてつまらない、先の見えた問いではなく、実際いろいろと考えるべきことのある問いだと思う。少なくとも私はそう思う[…]「近頃の若い者」は身近なところにしか関心が行かないと言われる。しかし、どうしたら景気がよくなるかといった選択の水準で、つまりはつまらなく、天下国家が論じられてしまっているからつまらないと思ってしまうのであって、もっとおもしろく論じればよいのだと思う。
 […]ようやく、規範的な問い、制度についての問いが問われる時期が来ているのだと思う。社会が複雑になって、あるいは技術の進歩によって難しい問題が増えた、などとも言われる。さてどうか。あまりその類いの繰り言、扇動を信じない方がよいと私は思う。ずっと考え続けていてよかったことを考えなかっただけだと思う。」

5 加えて

 最後にもう一つ。最近、三〜四十年前の書籍などをいくつか買い込んで、ところどころ読むことがあった。それは一つに、既に『現代思想』二〇〇八年二月号(特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー)に掲載されてはいる小児科医の山田真へのインタビューの完全版に長大な注を加えて、他のインタビューとあわせたものを生活書院から刊行しようという企画があることによる。それで東大闘争、東大医学部闘争に関わる記述もいくらか拾うことになる。そして、いまようやく終わらせつつある拙著『良い死』『唯の生』(筑摩書房)のとくに後者をまとめるにあたりほんのすこし過去のものにあたったことによる。
 そうしたら、高橋晄正が幾度も最首の文章に言及している。これは引用だけしておく。この時期以降のことをどう考えるか。それはまた別の機会に考えてみようと思う。『月刊みすず』(みすず書房)で、こんど「身体の現代」という連載を始めることになった。そこに何か書けるかもしれない(書けないかもしれない)。

 「はからずも、東大闘争のなかで一人の若い生物学者がおこなった厳しい解析のなかに、わたしたちは医療矛盾の鋭い集約をみる。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか」(最首悟氏)
 この問いにたいして、わたくしたちはいま、誠実に答えなければならない。
 目を広く社会に向けて見ひらくとき、わが国はほんとうに国民の生命を守ることのできるような近代的な医療制度を持っていないことに気づかなければならない。医療が自由業であり、営利業である状況のもとでは、国民はサイエンティフィック・ミニマムの医療さえ保障されえないのだ。医療の倫理性も、それに科学性さえも、医療の営利性の前には影をひそめざるをえないのである。
 いま、医学生や青年医師たちは、わが国の医療矛盾の実態を厳しく見つめ、その本質を鋭く突きはじめている。それらを医療技術の問題に解消することは、もはや許されないだろう。それらは、>iii>わが国の社会の体質そのものの反映として、捉えられなければならないものであるのだ。」(高橋晄正『社会のなかの医学』、一九六九、東京大学出版会、UP選書、ii-iii)

 「臨床医としての私の狭隘な視野を社会に向けて切り開いてくれたのは、東大闘争のなかで一つの生物学者が『朝日ジャーナル』誌のなかで投じた次の一石であった。
 ――医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか――(最首悟)
 私はこの短い文章を前にして必死に抵抗しようと試みている自分を意識した。出欠多量で死に瀕している何人かの人びとを私は助けたことがあったはずだ。だから、医師は決して資本主義の矛盾の隠蔽だけをしているのではない、といま一人の自分は反論する。それにもかかわらず、助かった患者たちは助けた私に感謝するだけで、自分たちを傷つけた社会矛盾の摘発にのり出さないとしたら、最首氏の批判はやはり真実性をもつといわなければならない……。」(高橋晄正「こんな教育がつくるこんな医師」、朝日新聞社編『医療を支える人びと』、朝日新聞社、朝日市民教室・日本の医療3、一九七三、一九八−一九九頁)

 「板倉さんの治療学のあり方からいえば、医者は看護学の訓練をうけるとともに、牧師としての修練も積まなければならない。しかし、それは病人を前にしての話であって、病気の発生源の社会性、病気を治りにくくしている社会的条件を考えるなら、”牧師性”は”革命性”へと止揚されなければならないという問題も、その延長上にあるわけです。
 これは、東大闘争の中で最首悟氏が、”医者は病院の窓口で患者を待ちかまえているだけでいいのか”という問いかけをしたことのなかに激しく表れているといえましょう。」(高橋晄正・中川米造・大熊 由紀子「医療の質をどうよくするか」、朝日新聞社編『どう医療をよくするか』、朝日新聞社、朝日市民教室・日本の医療7、一八一−一八二頁)

 むろん同時に高橋は他に様々を書いて語っているし、最首も書いているし、やがてしばらく黙ることにもなる。それらをどう読むか考えてもよいし、その前に読んだらよい。
 そして、昨年、二〇〇七年九月、私たちのグローバルCOEプログラム「生存学創生拠点」の企画で、このプログラムの「事業推進担当者」でもある栗原彬の講演の後(二〇〇七年九月)、それを受けて私が話したこと。この企画を収録した報告書(立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点『時空から/へ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』、二〇〇八年)に掲載されている。

 「今日、僕は間に合えば、一つ長い文章を書いて終わって持ってこようと思っていたんです。[…]筑摩書房から、いわゆる尊厳死に関する本を出そうと思っていて[…]今書き直しているんです。そこに「自然な死」っていう章があって、自然な死っていうことを巡ってわれわれはどんなことが言えるのか、それを書こうと思っています。できれば持ってこようと思ったんだけれども結局、間に合わなかった。
 何が言いたいか、何が気になっているかというと、同じ言葉が別に使われるようになっていはしないかということなんです。
 例えば六〇年代から七〇年代にかけて、水俣病をめぐる出来事が起こって、他にも起こった反公害と言ったらいいのか、そういった動きの中で、自然っていうものがそれに対抗する言葉として存在し、ある種のスローガンとして存在した。そしてそのしばらく後に、自然な死っていうものが、浮かび上がってくるっていうか、せり出してくる。そういう出来事が起こってくる。そしてそこに確かにある連続性ってものはある。例えば科学技術文明に対するある種の拒否感というか対抗感と自然な死という言葉にはつながるものがある。そういった意味で言えば、普通に考えれば、明らかなっていうか、そこに連続性がある。
 しかしながらどこかでずれてしまったというか、別のものになってしまったっていう直感のようなものが、まずはあるんですね。それはその場合なんであったんだろうということですよ。例えば現代史、病や命やそういったことを巡る現代史ということを考えるということは、その間に何が起こったんだろうか、そういうことを辿り直して考える、ということであるのかなあ、と思ったのです。
 答は簡単な答なのかもしれない、一つの答え方としては。それは先生がおっしゃった「私を生きさせよ」っていう。そういった主張がそうでないものになる。いってみれば「私を死なせよ」というところに、なにやら落ち着いてしまったっていうことがある。ある意味で違いは明白なんですけれども、しかしその明白な違いとある種の連続性みたいなものを、どういうふうに解きほぐして考えていくか、そんなことが一つ、大切なことなんだなあとあらためて思ったのです。」(五五−五六頁)

 そして、さきにすこし紹介した本の注に書いたこと。

 「この国における「環境思想」をどのように捉えるのか[…]宇井純にしても原田正純にしても、その人たちが言ったことを煎じ詰めると、極めて単純な筋の話になる。つまり、差別のあるところに公害がある、「社会的弱者」が被害者になる。それだけといえばそれだけの話だ。[…]
 むろんその様々な出現の形態は様々であり、それに対する対し方にしてもまた様々ではあって、そうした部分ではいくらでも調べたりすることがある。実際、その人たちは、長い間そうした仕事を行なってきた。ただ、その「思想」は、縮めればずいぶんと短くなってしまう。もちろんそれでいっこうにかまわないのではある。なにか長々と、いつまでも論じることがよいなどということはないのだ。ただそうではあっても、わかりやすく見える言葉の上を私たちが滑っていってしまうことがしばしばあるなら、そしてそこでなされたこと、言われたことが大切だと思うなら、言葉をどのように足していったらよいのか、これは考えどころなのかもしれない。」(『良い死』、筑摩書房、第2章注二一)

 もう一度、『時空から/へ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』から私が話した部分。

 「僕自身は、戦後、いわゆる「体制」に対してアンチであった、カウンターであった部分に対して、むしろ懐疑的・批判的っていいますか、相当の距離感がある部分もあるんですが、ただそれは少なくとも捨て置いてよいようなものではないとは思ってきました。では、それを例えば学問なら学問というものの中で、どれほど捉えるってことがなされてきたのか。それほどではないんではないかと思っています。
 ただ、確かに、それは考えてみると難しい。あらためてその難しさを栗原先生のお話を伺っても思います。例えば生命倫理学なら生命倫理学ってものが、数十年の学問的な蓄積っていうものを持ち、その文法に適った言葉を発し、それなりの体系性をもって引き継がれている、ある意味で発展してくる。そういったものを引き継ぐ、解析するってことは実はさほど難しいことではない。それに比して、それに対して、日本の戦後にわれわれが汲み取るべきものっていうのは、いわゆるアカデミズムの中に存在したものではない、むしろそこからある場面では積極的に、退(の)いたというか、外れたところに存在していて、しかもそこにあるのはその、なにか体系だった言葉ではなかったりする。時には言葉でさえもない、というようなものである。
 そうすると、それをあらためて言葉として、考えを継いでいくっていくことが難しいんだけれども、しかしそこにはやっぱり何かがあって、だから継いでいくことの困難さと同時に、その必要性っていうんですか、あるいは重要性っていうんですか、そういうものをあらためて思ったっていうことです。これが一つです。
 で、これはやっぱり難しいんだと思います。ただ、難しい難しいといっても仕方がないですから、COEってこともあるし、それがなくても、何かっていうとその、みなさんが歴史的な文脈を持っている事象について研究をする、そういった時に、とりあえず年表を作れってひとつ覚えのように僕は言っているわけだけれども、それが作れたからといって何が出てくるかどうか、それは本当は分からないです。本当は分からないんだけれども、そういった仕事さえもなされていない以上は、まずはそういったところをやってみる、そういったことをずっと続けていくと何か、言えることっていうのがやっぱりあるんだと、あるはずだっていうことをですね、あらためて思った、ということです。
 やれるとこしか、とこからしか、われわれはできなくて、それは私にとっても同様なことです。ただ、次に一つ、明らかに言えることは、そこの日本の戦後から何を引き出すかっていう時に、おそらく、引き出すに値するものは、生命っていったらいいか命っていったらいいか、なんといったらいいか分かりませんけれども、そういったことを巡ることごとだと思います。もちろん社会運動、社会思想さまざまなものがあって、それなりにさまざまなことが語られてきたわけだけれども、その日本の戦後の中から、継いで何かを考えるべき、そこに値するものがあるとすればそれは第一にはそういった、命といっていいか、生命といっていいか、なんていったらいいか分かりませんけれどもそういった領域なんではないか、ことをあらためて思った、ということです。
 で、とりあえず具体的にやれるところからやるしかない、とりあえず、僕もその端っこに加われればいいなあと思っていて、これは少し宣伝させていただくと、1973年に出た本ですけれども、横塚晃一っていう人の『母よ殺すな』という本があります。長らく絶版だったんですけれども、あと数日で再版されることになりました(生活書院・刊)。例えば 30何年前、ここになにがしかのことが語られてる。これは学者の書きものではない。横塚さんって人は小学校も途中で終わったんじゃなかったかな、そういう人の、でも、言葉になって、文章になってるわけです。そういったことをまずは思う。それを皆さんにも呼びかけたい。そのことに尽きるといえば尽きます。」

 簡単なはずの話が簡単でなくなってしまう、そのことについて考えるという仕事もある。曖昧模糊と見える、あるいは矛盾しているかに見える話――しかし、立派そうだが基本は単純で、そしてけっきょくある価値を語ってしまっているだけの話よりまともな話――を解析して、ものわかりのわるい人にも伝えるという仕事がある。細々した話を積んでいってそこそこに大きな体系を構築するといったものとは違うものの言い方をどう受けるかということがある。さらに容易に像を結ばない言葉、あるいは言葉でないものをどう受けるかということがある。
 ここ数十年の学的な言説はもうまとめられてしまったとして、おもしろいものがあるとすればその外側にあるのだとすれば、そんな道を行くことになる。最首は、そのような「知的な営み」に限界があると思っているだろうが――それはたしかにあるだろう――、私は、最首の書いたものを読むことも含め、その仕事を続けていくことになる。

 * 「生存学創成拠点」のホームページ(http://www.arsvi.com)に、丹波博紀さんが作ってくれた著作リストにいくらか引用集のようなものを加えたファイルがある。「最首悟」で検索しても五番目ぐらいに見つかる。ご覧いただきたい。


UP: 20080330 REV: 20160420
最首 悟  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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