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「まえがき」「コメントと質問・1」

立岩 真也 2008/03/07

立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20080307 『時空から/へ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告2,157p. ISSN 1882-6539


■まえがき pp.3-4

  生存学創生拠点の成果として発行されるこの冊子は、二つの部分からなっている。
  一つは、COE事業推進担当者の一人でもある栗原彬さんの講義であり、そこに天田・立岩や大学院生の発言・質問と、栗原先生の応答が加わっている。この講義は2007年9月6日に行われた。
  もう一つは、アフリカ日本協議会稲葉雅紀さんへの公開インタビュー。聞き手は立岩が務めた。ここにも院生が多数参加し、質問などした。これは同年7月29日に行われた。
  それぞれについてはそれぞれをお読みいただきたい。なぜこの二つで一つなのか。
  どのようにしてこの社会に対してきたのか、そしてこれから対していくのか。そのことを知りたいと思っているし、考えたいと思う。この時、二人が語る史実・事実の広がりと深さとともに、これからどうしてやっていこうかについて、得られるもの、得られるものの幅があるように思えて、二つを合わせて編むことにした。
  準備だけで疲れてしまい、あるいは報告書を作ることで疲れ果ててしまい、たしかに行なわれたはしたものの、それだけであるといった企画・催しがよくある。あって悪いことはないかもしれない。だが、私たちはそんなことに労力を費やすつもりはない。栗原さん、稲場さんの語ったことから、私たちがすることが、いくらも、具体的にあると考えているし、その継承の作業に既に取り掛かっている。拠点のHPhttp://www.arsvi.comをご覧になっていただきたい。例えばそれは既に、アフリカ日本協議会の協力を得て、アフリカの現在について、この国でもっとも詳しく新しい情報を提供している。また、日本のここ何十年かについて、その時空における身体に関わる様々の出来事について、言葉について、収集し解析する作業を行い、集めたものを私たちのサイトに収蔵し掲載している。そしてその成果を、何年かかけて、しかし何年かのうちには、続々と、出していくつもりだ。ここに収録された二つは、こうした作業を先導する二つである。私たちが追うべきものの幅を示し、覚えておくべきことを既に示し、何を知るべきかを教えてくれている。

  これ以上なにも言うことはないが、稲場さんへのインタビューについて、別の版が既にあり、またこれから出ることになっているので、そのことについてだけお知らせする。
  このインタビューは、かなりの部分を削った上で青土社の月刊誌『現代思想』の2007年9月号(特集:社会の貧困/貧困の社会)に「アフリカの貧困と向き合う」という題で掲載された。そして今回、「完全版」がこの冊子に収録されたのだが、さらにそれに幾つかの文章を加え、註を増やし、そして、もう一つのインタビューを加えて、今年中に公刊する予定である。そのもう一つは小児科医の山田真さんへのインタビューであり、同じくこのCOEの企画として、同じく公開で、同じく立命館大学の創思館で、2007年12月23日に行なわれた。やはり多くを削って、『現代思想』の2008年2月号(特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー)に「告発の流儀――医療と患者の間」という題で掲載された。そのもとの記録を手直ししたものに、数多くの、相当に大量な註を付したものが本には掲載されることになる。刊行されたなら、是非手にとって読んでいただきたい。


■コメントと質問・1 pp.50-58

 (立岩)立岩です。栗原先生どうもありがとうございました。これから僕がすこし話して、そして天田さんに回して、そして栗原先生にそんなものをもろもろ受けていただいて、っていう順序でっていう、さっき天田さんが紹介してくれたとおりです。
  何から話すかですが、一番目は、継ぐものがあるということ。前から思っていたことでもあるんだけれども、やっぱり、日本の、とくに戦後の、と言わないといけないわけではないんだけれども、戦後でいいです、そういった時代に何が起こったり考えられてきたのかを、知る、そして考えを足していく、という仕事の有用性といいますか、必要性を、あらためて思った。
  僕自身は、戦後、いわゆる「体制」に対してアンチであった、カウンターであった部分に対して、むしろ懐疑的・批判的っていいますか、相当の距離感がある部分もあるんですが、ただそれは少なくとも捨て置いてよいようなものではないとは思ってきました。では、それを例えば学問なら学問というものの中で、どれほど捉えるってことがなされてきたのか。それほどではないんではないかと思っています。
  ただ、確かに、それは考えてみると難しい。あらためてその難しさを栗原先生のお話を伺っても思います。例えば生命倫理学なら生命倫理学ってものが、数十年の学問的な蓄積っていうものを持ち、その文法に適った言葉を発<0050<し、それなりの体系性をもって引き継がれている、ある意味で発展してくる。そういったものを引き継ぐ、解析するってことは実はさほど難しいことではない。それに比して、それに対して、日本の戦後にわれわれが汲み取るべきものっていうのは、いわゆるアカデミズムの中に存在したものではない、むしろそこからある場面では積極的に、退(の)いたというか、外れたところに存在していて、しかもそこにあるのはその、なにか体系だった言葉ではなかったりする。時には言葉でさえもない、というようなものである。
  そうすると、それをあらためて言葉として、考えを継いでいくっていくことが難しいんだけれども、しかしそこにはやっぱり何かがあって、だから継いでいくことの困難さと同時に、その必要性っていうんですか、あるいは重要性っていうんですか、そういうものをあらためて思ったっていうことです。これが一つです。
  で、これはやっぱり難しいんだと思います。ただ、難しい難しいといっても仕方がないですから、COEってこともあるし、それがなくても、何かっていうとその、みなさんが歴史的な文脈を持っている事象について研究をする、そういった時に、とりあえず年表を作れってひとつ覚えのように僕は言っているわけだけれども、それが作れたからといって何が出てくるかどうか、それは本当は分からないです。本当は分からないんだけれども、そういった仕事さえもなされていない以上は、まずはそういったところをやってみる、そういったことをずっと続けていくと何か、言えることっていうのがやっぱりあるんだと、あるはずだっていうことをですね、あらためて思った、ということです。
  やれるとこしか、とこからしか、われわれはできなくて、それは私にとっても同様なことです。ただ、次に一つ、明らかに言えることは、そこの日本の戦後から何を引き出すかっていう時に、おそらく、引き出すに値するものは、生命っていったらいいか命っていったらいいか、なんといったらいいか分かりませんけれども、そういったことを巡ることごとだと思います。もちろん社会運動、社会思想さまざまなものがあって、それなりにさまざまなことが語られてきたわけだけれども、その日本の戦後の中から、継いで何かを<0051<考えるべき、そこに値するものがあるとすればそれは第一にはそういった、命といっていいか、生命といっていいか、なんていったらいいか分かりませんけれどもそういった領域なんではないか、ことをあらためて思った、ということです。
  で、とりあえず具体的にやれるところからやるしかない、とりあえず、僕もその端っこに加われればいいなあと思っていて、これは少し宣伝させていただくと、1973年に出た本ですけれども、横塚晃一っていう人の『母よ殺すな』という本があります。長らく絶版だったんですけれども、あと数日で再版されることになりました(生活書院・刊)。例えば 30何年前、ここになにがしかのことが語られてる。これは学者の書きものではない。横塚さんって人は小学校も途中で終わったんじゃなかったかな、そういう人の、でも、言葉になって、文章になってるわけです。そういったことをまずは思う。それを皆さんにも呼びかけたい。そのことに尽きるといえば尽きます。
  さて、二番目、では、どのようにここに堆積しているもの、身体・生命を巡って堆積しているものを、継いでいくかなんですが、しばらく、エピソードのごときものを並べてから、と思います。そして私の場合には、ある意味、わざとというか、そこを迂回して仕事をしてきた、しようとしてきたという
話をしようと思います。
  先生に比して、貧困なというか短いというか、過去の時間が私にもあるにはあります。先生がリアルタイムで読まれた、『苦海浄土』っていう石牟礼道子の著作、これは今調べると 1969年が初版です。僕はその当時田舎の小学校の 2年生で、ほとんど何も、『苦海浄土』ってものも知りませんでした。ただ妙に鮮明に、70年前後、莚旗立てて、水俣の人たちが東京に登ってくるという画像、映像は、何かしらの、原風景のようなもの、というか何かしらのものを私に残していて、それが結局今こんなことをしていることの何かには関わっているのかもしれません。ただ、水俣についてとくに何かを読むといったことはなかったと思います。
  大学に入って、見田宗介さん、真木悠介という名前もおもちですが、彼のゼミで、僕は大学に入ったのは 1979年ですから、出てからもう 10年経った<0052<後なんですけれども、『苦海浄土』を読んで、これは何と言ったらいいんでしょう、「おお」という感じが、その「おお」が何なんだかよくわかんないんですけれども、あった。
  そして、今でも大本について何か知っているわけではないんだけれども、先生のお話を聞きながら思い起こしてみると、高橋和巳の『邪宗門』は読んでいたりする。さっきウェブサイトで見たら、これ出たの意外と早くって1965年に出た本なんです。それは具体的に存在したいわゆる新興宗教の話じゃないですけれども、その小説に書かれている世界のある種の凄みっていうんですか、何ていったらいいのか。ある力を有するものが別の力を有するものに滅ぼされていく。また、例えば大江健三郎の小説であれば、これもさっき調べたんだけれども、『万延元年のフットボール』が 1967年です。それから『洪水はわが魂に及び』は 1973年ですね。『洪水は…』は大学受験の頃読んだ記憶があります。その頃は社会科学の本なんてこの世にあるのも知らず、小説しか読んだことがなかった。
  僕はこれらの物語の下敷きになっているような、あるいはそこで想起されているようなことごとについて知っていたわけじゃないですけれども、そういったものにあるある種の重さっていうものを感じたは感じた。ただそれを受け取って、それに言葉を継ぐという継ぎ方ってものは、私の場合さしあたって思いつかなかった。悲壮なものにならざるをえない少数者の抵抗というものにはなにか感じいってしまうところがあるし、その後、それよりはるかに規模の小さいしょぼっとした運動におけるちょっとした悲哀のようなものは実際に感じたりもしましたが、そのこと自体をどうこう言っても仕方がない。それはそれとして何かしら僕のベースっていうか、背景にはありはするんだろうけれども、それを懐旧しても仕方がなかろうと。
  次に、この時代にあって悲壮であったりするもの、それと時には接しながらまたちょっと違うもので、60年代の終わりから 70年代にかけての、世界でさまざまに起こった反体制的な文化っていいますか、そういったものは学問であるとかなんとかっていうこと以前にですね、これはやっぱりどんなに田舎の小学生中学生をやっていてもそれなりに感じることはできたわけで、<0053<それはやっぱり何か根っこのほうにあるんだろう、と思う。でそこで言われたこと、言われたのでないとしても全体として醸し出された、気持ちっていうか、気分というかですね、そんなものもある。
  大学入って、3年で社会学科に進学して、そこにさきの先生の話の中に出てきた高橋徹先生という方がおられて、私が大学院にいた途中までおられた。なにか教わったっていうわけではないんだけれども。彼は栗原先生からさらに 10くらい上の方で、実は数年前にこの京都の病院で亡くなられたんですけれども、ときどきジェファーソン・エアプレーンがどうとか、そういう話をされて。ああそうか知ってんだ、みたいなことを思ったことがあります。ただ私自身は、重いものよりは少し軽い感じの対抗文化的なものに関していえば、はいそれはそれで OK、そのとおり、って感じでした。それは言葉としてわざわざ何も言うことはない。音楽をやる人はやればいいんだし、聞けばいいんだしっていう。
  として、僕はその続きをどういうふうに続けてようか、と思ったわけです。その時、まず、一つには外延・外縁がはっきりするって言ったらいいのかな、問いにかかる対象として、わりとかちっとしたもの、であれば取りかかれるかもしれない。気分は気分としてありつつ、なにか社会に向かっていくっていうか、返していくっていうことがそういうやり方だったらわりと安直にできるんじゃなないかと、思ったんだと思うんですね。
  例えばわれわれの社会における所有についてのきまりっていうのは、これはかちっとしたルールとして、規範としてあるいは法として存在する。それを吟味していく、というような仕事は、僕にでもできるだろうと、そんなことですね。
  それは時代に関わらせていえば、その時代の持っていたものっていうのは、ある種この社会を組み替えるっていう、営みであり、試みでありだったと思うんです。そしてそれはどこかで失敗したことになっていて、事実そうであったのかもしれない。例えば栗原先生たちの世代と私の間にいる人たち、いわゆる団塊の世代の人たちが、あるいはその人たちも、そういったことを試みようとした。そして何がしかのことを言った、そして失敗したって話にな<0054<って、そのままになっちゃった。それは何かしら残念なような気がしてですね。そしてそのある人たちが、身体とか、地域とかに戻っていったとしたら、それは、すこし待ってくれと。まずは今の社会のことを普通に考えてみようと。
  そういう意味で僕は団塊の人たちに対して両価的な感情を持っているわけで、せっかくいいことを言ってくれたんだったら、もっとちゃんと考えていてくれればよかったのに、みたいなところがあって。上の団塊の連中がなんか疲れてひしょげてる、こちらは疲れる後あるいは前のところにいる、自分たちが何か考えてもいいだろう、そんなことを思って私は考えてきたんだろうなっていう感じがあらためてします。それで、仕事をちまちまちまちま続けている。そのちまちまちまちましたって感じってものが、それが僕なりの引継ぎ方なんだろうとは思っています。
  ただ、けれども、というのが三番目のお話です。ここで最初の話に戻るんだけれども、生命とか命とかっていうこと、あるいはそれを巡る現代史をどう見るのかに関わって、なにをもとに、なんのために闘われたのか、それを歴史の中に確認することは必要なのだろうと。
  実は今日、僕は間に合えば、一つ長い文章を書いて終わって持ってこようと思っていたんです。それは今年中にうまいこと行けば、うまいこと行かせるつもりですけども、うまく行かなくとも出すつもりですけれども、ちくま書房から、いわゆる尊厳死に関するを出そうと思っていて、『思想』に3回書いたものと「良い死」っていうタイトルで筑摩書房のウェブに連載したものが、このままじゃ使えないということで、今書き直しているんです(発行は2008年になった)。そこに「自然な死」っていう章があって、自然な死っていうことを巡ってわれわれはどんなことが言えるのか、それを書こうと思っています。できれば持ってこようと思ったんだけれども結局、間に合わなかった。
  何が言いたいか、何が気になっているかというと、同じ言葉が別に使われるようになっていはしないかいうことなんです。
  例えば60年代から70年代にかけて、水俣病をめぐる出来事が起こって、<0055<他にも起こった反公害と言ったらいいのか、そういった動きの中で、自然っていうものがそれに対抗する言葉として存在し、ある種のスローガンとして存在した。そしてそのしばらく後に、自然な死っていうものが、浮かび上がってくるっていうか、せり出してくる。そういう出来事が起こってくる。そしてそれは確かにある連続性ってものはある。例えば科学技術文明に対するある種の拒否感というか対抗感と自然な死という言葉にはつながるものがある。そういった意味で言えば、普通に考えれば、明らかなっていうか、そこに連続性がある。
  しかしながらどこかでずれてしまったというか、別のものになってしまったっていう直感のようなものが、まずはあるんですね。それはその場合なんであったんだろうということですよ。例えば現代史、病や命やそういったことを巡る現代史ということを考えるということは、その間に何が起こったんだろうか、そういうことを辿り直して考える、ということであるのかなあ、と思ったのです。
  答は簡単な答なのかもしれない、一つの答え方としては。それは先生がおっしゃった「私を生きさせよ」っていう。そういった主張がそうでないものになる。いってみれば「私を死なせよ」というところに、なにやら落ち着いてしまったっていうことがある。ある意味で違いは明白なんですけれども、しかしその明白な違いとある種の連続性みたいなものを、どういうふうに解きほぐして考えていくか、そんなことが一つ、大切なことなんだなあとあらためて思ったのです。
  さて、以上に関わって幾つかをお訊ねすることは可能であったはずなのに、手前勝手にしゃべってしまったのですが、二つ目、三つ目に述べたことを、質問の形にすればですね、一つは社会の形のことです。
  先生が、一方では、市民社会、シビル・ソサイエティがたくさんの可能性を有している、それを肯定的であらしめようとする、そういったモチベーションといいますか方向といったものを持たれていくということと、他方で、先ほど水俣展を巡るごく数年前のことを先生語られたわけですけれども、そこの中でのその市民社会と称されるものに対するある種の、絶望とまでは言<0056<わないにしても、肯定できない感覚みたいなものが、どういうふうに、両方が並立して、おそらく同じところから立ち現れてくるものなんだろうけれども、それはいったいなんだろうか、といったことをお訊ねしたいと思います。
  市民、でひっかかるのは、自然が破壊されているから自然を守ろうといった時の、あるいは病にどのように対するかといった時の、なにか調子のよさというか、清潔さというか、そんなものであるようにも思います。とすると、さきほどの私の話では三番目に関わっていて、そのことについて、ただそんな感じがするというのでなく、どのように言っていくのかということになるのかなと。そしてそのことは、人々の能動性、人々の活動の能動性を肯定することとまったく背反することではないのではないかと。そんなことをお訊ねしてもよかったのかもしれません。しかし、その答はさきほどのお話の中にすでに語られたような気もします。
  そしてもう一つ、これは今の話とはいくらか別の文脈のことなんですが、僕はたぶん社会学っていうのをいちおうやっているにもかかわらず、どこかでその時その時に起こっていることにそんなに付き合ってこなかったところがあります。とくに、若者っていうのかな、青年っていったらいいんですかね、そういったものに僕はなんていうか誠実に向き合ってこなかった。
  あるいはむしろ自覚的にそうなったのかもしれない。それは一つにはわれわれの同年代の研究者の中に若者を論じることで、飯を食ってるかどうかわかりませんが、そういう輩といいますか、たくさんいて、中には優れたものもあり、中にはそうたいしたものでもない論もあったんです。そういうのが花盛りでずっとやっているから、ほかのことを俺はやろうという。ただもう一つ、単純に若い者には興味がないって感じもあったように思います。ただそれはたぶんに語られ方に対してのことであったかもしれない。新しい新しいと言われるのだけれども、そう新しい人たちには思えないという。けれども、それよりずっと上の年代でもある先生は、ずっと青年というか若者と、誠実に向かい合ってこられたということがある。
  それというのは、その差というのは、僕と比較して何か出てくるとは思いませんけれども、なにか、どういうことなんだろうなと、素朴に聞きたいか<0057<なということも、思っています。これは今日お話を聞く以前からちょっと考えていたことなんですけれども。
  このくらいにしておきます。とにかく、ある程度までは今、僕がこの大学院で皆さんに言っているように、とにかく事実を集めて来いと、何も知らないじゃないかあなたたち、本当に知らないですね、あきれるほどですね。だからとにかく調べて来いと、当座はそれで行けると思います、ただ、その後の作業が難しいだろうと。だけど、その前の時間を、そうやって時間をつぶす、ものを集めて調べることに費やす、そこの中から何かは出てくるでしょう。何かがあることは確実だと思うんです。ですからその後はわれわれの努力というか、そこから何を考えていくかっていうことになります。そんなことを、お話を伺いながら思ったということで、私からはそのくらいにしておきます。以上です。


UP:20080218 REV:20080322
立岩 真也  ◇Shinya Tateiwa
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