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『社会福祉学の「科学」性』

医療と社会ブックガイド・85)

立岩 真也 2008/08/25 『看護教育』49-8(2008-8):
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


  本書は、1999年に大阪市立大学大学院に提出された修士論文に加筆・修正を施したものである(ただだその一部は後に記す別の本になっている)。そのもとの論文は、本人(この本の著者)によると、400字詰原稿用紙――という計算法もすたれつつあるのだが――ちょうど777枚という長いもので、「社会福祉の学問と専門職」と題されていた。こちらのHPに掲載させてもらっている。私が読む機会を得た修士論文(私の職場では博士予備論文)の中でとてもよいものだと思ったので、幾度か紹介もしてきた。
  そして、その論文をもとに、著書が刊行されることになることも聞いてはいた。ずいぶんな時間が経ってしまったのだが、昨年刊行された。ではその出来はどうか。じつは、第52回(2005年8月号)で、同じ著者の本『児童虐待と動物虐待』(青弓社、2005)を紹介したことがあって、その時にも同じことを述べたのだが、結局は、なんだかよくわからないところが残る本で、結論から言えば、成功作と評することはできない。
  にもかかわらず、この本をとりあげるのは、この本で採られている態度から書かれる本が、あるべきであるのに、ほとんど見当たらず、その意味で、すくなくともこの国において――他ではどうなのか私はよく知らない――先駆的な研究であることによるし、どう考えてもおもしろい――しかし書かれることのなかった――ことについて書かれているからだ。
  つまりこの本は――ここでは社会福祉学という――学問の動きをその中にある様々な流派のいずれが正しいのか、いずれが新しく魅力的であるのかというのでなく、それら様々の勢力配置の変遷を描く。外側からの影響があり、その学に内在する契機が反応するさまを、いくらか醒めた目で描く。
  すると、その学の、生真面目だが、あるいはであるがゆえに、なにか苦しげな様子、そしてどこか怪しいその道行きが描かれる。そしてそれは本当は、そういう「学」を教わったり、あるいは教えている側が、知っていることなのだ。しかしそれはまとまって書かれることがない。書かれるのは、これが今までのものより新しくまたよいものだとか、そうしたことである。その嘘っぽさを皆が知っているのにそのことは書かれない。
  著者は、大学の学部の頃には当時神戸にいた社会学者の内田隆三が先生だったとも聞くが、社会福祉学の大学院に進み、今はそれを教えるのを仕事にもしている。社会福祉の仕事がきらいというわけではない。むしろ好きなのだろうと思う。けれども、あるいはだからこそ、こういうものを書きたかったのだろうし、書けたのでもあると思う。しかし修士論文提出当初は、同業の先生たちには受けなかったようだ。不思議にも思うし、ありそうなことだとも思う。
◇◇◇
  まず「はじめに」から長く引用する。
  「医師が専門家のモデルとされると、絶えざる実験・研究によって学問は進歩するといった思考が社会福祉領域においても再現され、実践の理論化や「科学」化がソーシャルワーカーの専門性を根拠づけると考えられるようになった。 […]医師を専門家のモデルとした社会福祉の研究者たちは、医師を横目で見ながら学会を結成し、学術雑誌を発刊、これを中心に理論や技術の精緻化を試み、論を戦わせてきた。こうした研究や論争を経て創案されるのが「ソーシャルワーク理論」である。学問としての形式を獲得するために、この領域は生まれた当初から他の学問領域から理論を援用してきた。[…]ときに社会福祉学の研究者たちはこうした自らの歴史を振り返り、社会福祉学は他領域の学問を「移植」したものにすぎないと卑下してみせる。そしてその上で「社会福祉学独自の視点」をどうにか編み出そうとしてきた。
  社会福祉の学問の確立に向けたこうした努力に対し、いち早く否定的な声をあげたのは福祉の実践家たちの一部であった。現場にいる実践家たちはいう。学問は日常の業務には関係ない。実践において役立つことは少ない。大学での専門教育を終え、資格を手にした若者よりも、現場経験の長い無資格者のほうが現場では有能である、など。そこでは、ソーシャルワーカーの専門性を裏付けるはずの研究の蓄積は、容赦なく放棄される。 同時に、アカデミックな場においても、社会福祉学は市民権を得ることができなかった。既存の学問理論を集成すると新しい学問が確立するという保証はどこにもなく、既存の学問からは冷たい視線を投げかけられる。諸学問からの無頓着な理論の流入で成り立つ社会福祉学とは、結局二番煎じにすぎず、学問や科学と呼ぶに値しないと見なされた。もろく、、傷つきやすい(ヴァルナラブル)社会福祉学。このことは、社会福祉学が誕生した頃から常に口にされてきたものであった。」(pp.ii-iii)
  看護学についてもかなり近いことが言えるはずだ。というか、日常的にそのことはその学を担う人自身によって語られているのだ。ではそのことがきちんと書かれたことがあったのかといえば、そうではないだろうと思う。それはよろしくないのではないか。まずそのことをここでは言っておこう。
  その上で、看護学と社会福祉学と、どこが似ていて、どこがすこし違うのだろうとか、そんなことを考えてみてもよい。
◇◇◇
  まずそれらは、他のいくつかとともに、「対人援助」の仕事でありその学である。そしてここに既に二つの要素がある。
  一つは、仕事・実践と学がくっついているということ。その学はその仕事をよくするための学である。対して、例えば社会学の場合、社会という仕事があるわけではない。仕事と学とがつながっている場合、そしてとくにその仕事が他の仕事と張り合わなければならないといった場合には、その学は自らの正当性を弁証しようとする学になり、その仕事が「専門職」であるか、あるいはあろうとしている場合には、その学は「専門性」を確立するための学になる。
  この本の構成は、第1章「専門職化への起動」、第2章「社会福祉の「科学」を求めて」、第3章「弱者の囲い込み」、第4章「幸福な「科学」化の終焉」、第5章「専門家による介入――暴力をめぐる配慮」という具合になっているのだが、第1章・第2章は、おおむね、その歴史が描かれる。
  もう一つは、人相手の仕事ということだった。例えば橋梁工学は丈夫で立派な橋を作るための学だが、直接に人を相手にするわけではない。鉄やコンクリートを相手にする。人相手の仕事は何のためにあるのか。基本的にはその人のためにあるということになるだろう。すると、自分のためと人のためとは時に一致しない。人のためのことを自分がやっているのか。これは疑いうることである。ここに「反省」というものが生まれることがある。自分たちの仕事は本当に人のために役に立っているのだろうかと考えてしまうのである。ここで、その学は自らに対して否定的・批判的な契機を受け入れる可能性を有することになる。
  それがどのぐらいの真面目さで受け止められるかは学により、場合による。例えば医学を狭義の技術の学と割り切り、その技術(の進歩)は患者に必要なものだとすれば、その必要なものを提供し、その進歩を追求している(と自らが思う)限りにおいて、自らに否定的な性格はないか小さなものになる。看護の場合にも、結局、その仕事が患者のためになっているという確信があり、そしてその現実があるから、基本的には肯定的でいられる。ただ、どのような対し方がよいのか、より微妙にはなる。また、自分たちが他の仕事に伍して「専門性」などを追求しようとしていることが、はたして相手の人たちのためのことであるのか。そんなことも気になる。
  そして次に、とくに社会福祉学の場合には「社会」という契機が強く入ってくる。もちろん看護の行ないにも、医療制度その他諸々が絡んでいるし、他の職業者たちや家族との関係もある。ただ、その「臨床」についての確信、その人とその人の身体に即してその人の世話をすることがまちがいなくその人に役に立っているという現実はより強い。それに対して、ソーシャルワークといった仕事は、より直接的に「社会」と関わる。その人と社会とのつなぎめのような仕事と言われることもある。さらに、その実際としては、「社会」の意向を代理し、そしてその人に介入する仕事をしているのではないかと言われること、自らもそう思うことがある。となると、それは、その人のための仕事という基本的な目標であるはずのものとどのように関係するのか。
  おおまかにはこのような要素が絡む中に、社会福祉学はある。となるとどうなるか。それをこの本は書いている。すくなくとも書こうとしている。次回に続く。

■表紙写真を載せた本

三島 亜紀子 20071130 『社会福祉学の「科学」性――ソーシャルワーカーは専門職か?』,勁草書房,211+36p. ISBN-10: 4326602066 ISBN-13: 9784326602063 3150 [amazon][kinokuniya] ※


UP:20080626 REV:(誤字訂正)
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