HOME > BOOK >

『現代思想』特集:ニューロエシックス――脳改造の新時代

医療と社会ブックガイド・84)

立岩 真也 2008/07/25 『看護教育』49-(2008-07):
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


  青土社の『現代思想』6月号の特集が「ニューロエシックス――脳改造の新時代」。この雑誌はこれまでも幾度か紹介してきた。今年のものでは2月号特集「医療崩壊」第80回(2008年3月号)で、3月号特集「患者学――生存の技法」第81回(4月号)で紹介した。それ以前には、第34回(2004年1月号)で2003年11月号特集「争点としての生命」を紹介、第45回(2005年1月号)の一部で2004年11月号特集「生存の争い」を取り上げた。
  さて6月号の特集だが、いろいろなことが書いてある。知らないことをたくさん知ることができる。けれども、人によっては、なんだか頭がまとまらない感じがするはずだ。だから、すこし整理してみたらよいかなと思った。ただ、私自身がこの主題についてなにか知っているわけではない。グーグルで「ニューロエシックス」で検索したら1620出てきた。「脳倫理学」「神経倫理学」「脳神経倫理学」といった訳もあるようだ。かなり関連する本も出ているが、なにも読んだことがない。ゆえに以下、乱暴な整理ではある。
  まず、このごろ(2002年という言われ方もする)それが表に出てきたとして、その事情は何か。
  一つ、実際、こういう分野の自然科学的な研究が進んでいるのだとして(進んでいきたいのだとして)、そのことと共に現れてきたのかもしれない。今どきはなんでもOKというわけにもいかないから(自己)規制をということになる。他方で、そしてこのことと矛盾せず、それを推進しようとする動きといっしょにあると見ることができるのだろう。とすると、いくらか都合がよい部分、誇大な部分も出てくるかもしれない。とすると、そんな可能性も込みで考えていく必要があることになる。
  もう一つ、これは思弁の対象としては好適なものであるということ。身体は道具だと割り切ることもできるとして、脳をどうかするということになると、いくらか問題も複雑かもしれない。すると、SFっぽい話が好きな人の格好のテーマということになるかもしれない。それ自体はけっこうなことだが、ときに話が滑っていく可能性もあるとも言える。
◇◇◇
  後者の方から行こう。どんな問題が出てくるだろうか。
  一つは、脳の変更。べつに頭のことに限った話ではないのだが、「エンハンスメント」といった言葉もこのごろ時々聞くようになった。「増強」ということになろうか。このことに関する文章としては、空閑厚樹「〈人間となる〉ために――「エンハンスメント」 はどのような意味で 「問題」なのか」。そしてそれは、先々のことのように思われるかもしれないがそんなこともない。既にいろいろとなされてきたことだ。島次郎「脳科学は「非侵襲的」 たりうるか?――精神外科と脳画像研究の遠くて近い関係」には、ロボトミーのことが出てくる。以前、その文章や訳書を紹介したことのあるニキリンコ「昨日の私、今日の私、明日の私――リタリンで垣間見た〈脈絡ある自分〉」では高機能自閉の自分がリタリン使ったらどうだったかが書かれている。
  もう一つは、知られることに関わる。私たちは嘘をつくことができる。しかし脳が直接に外部とつながることになったら、言いたくないことも知られてしまうではないかといったことである。粥川準二の「信頼か、それとも脳スキャンか」がこの主題に関連している。
  もう一つ、一つめにも関係して、あるいはその問題の一部として、人間の「同一性」に関わる問題がある。身体のことをどうするかという問題になら、基本的には、その身体がつながっている頭が決めればよい、それでおしまい、という論が「バイオエシックス」にはあったのだが、その頭の方を変更できるということになると、その論では押していけないような気もする。さてどうしましょうということになる。高橋透の「倫理の根底を揺さぶる――ニューロ・エシックスと再生医療」はこのことに関係している。
  そしてその手前にもう一つ、従来の枠組みの議論の中でも、脳の状態がわかることのもたらすことがある。つまり、意識のあるなしがやはり大切なことであるとして、脳死状態や遷延性意識障害の状態がどんな状態であるのかについて新たにわかる部分があるとしたら、それをどう受けとるかといった問題が続くことになる。
  戸田聡一郎「植物状態を構成するニヒリズムの相克――その変容がもたらす意味」、片山容一への小松美彦のインタビュー「脳はいかなる存在か――DBS・認知機能・植物状態・脳死状態[増補]」がこのことに関わっている。そして後者で小松に聞かれて片山が説明する脳深部刺激療法(DBS)は(このインタビューの用語では)植物状態の人にも使われることがある。そしてそれは、さきにあげた脳への侵襲の問題にも関わってくる。(214頁から217頁に、ロボトミーとDBSの歴史についての、また両者の差異についてのやりとりがある。)
  これらは、おもしろい問題であるかもしれないし、そうでもないかもしれない。そのことを評定することも含め、考察の主題としては成立する。そこで、考えてみてもよかろうということになる。
◇◇◇
  次に前者、(自己)規制という性格をもつのと同時に、脳関係の科学技術を肯定し宣伝しようとする動きとの関係、その結果生じるかもしれない「傾き」について。この号に書いている人たちは、最初から否定的・批判的というのではない。ただ同時に、冷静に見るべきものは見ておくべきだという姿勢は多くの人に見られる。特集の最初に置かれ、様々が語られる松原洋子美馬達哉の対談「ニューロエシックスの創生」でそうした動きの諸相が語られる。
  この動きの中で一つ、脳を研究することやどうかすることについての倫理というよりは、脳を知ることがすなわち倫理を示すのだという方向の議論が現われる。すると、そんな筋の話があることを知らせ、その話について考えてみて、すくなくともその中のあるものはおかしいことを指摘するという仕事も出てくる。的射場瑞樹「政治理論としてのニューロエシックス」がそのことを述べている。
  もう一つ、そんな勇ましいことは言わないとしても、基本的には問題はないだろうというところに話は行きがちではないか、都合のよいところだけが取り上げられたりすることになるのではないか。すると、この辺りは慎重に見ようという態度が示される。
  さきほど示した島の論文は、以前なされ、そしていくらか姿を変えたものとしてやはり行なわれている「ロボトミー」についての記述・議論がこの領域に欠けていることを指摘している。また、本連載の初回(2001年1月号)にその著書を取り上げた香川知晶晶「バイオエシックスのバルカン化批判とニューロエシックス」では、米国のその業界に、批判的な立場の人がいないことを批判している人の文章が紹介されている。
  たしかに押さえるべきことは押さえておくべきだ。今どのぐらい何が進歩しているのか私は知らないが、脳をなんとかしようというのはこの世紀になって始まったことではない。例えば抗精神薬にしても相当の歴史がある。すくなくともいちおう調べておいてよい。私たちの大学院の院生松枝亜希子もその研究を始めていて、その発表をだんだんと行なっている。
◇◇◇
  これらと別に、いわゆる普通の倫理的問題云々を考えることとはすくなくともいったん別に、脳のことを知ることによって、あるいは脳ができていることを使うことによって、なにごとかがなされうる、なされうるかもしれない、実際なされていることを書く、という文章もある。
  川口有美子「ブレインマシンの人間的な利用――接続と継続に関する政治経済」では、身体の表面のどこも動かなくなって、それを使って送信することができない人が使う脳血流を使った発信装置のことが書かれている。(これを脳と発信装置を直接つなぐ仕掛けだともいえなくはないが、すくなくとも現に使われているものは、さきにあげた「知られてしまう」といった問題を生じさせるような高級なものではない。)
  そして、小泉義之の「魂を探して――バイタル・サインとメカニカル・シグナル」が、このたびもまた、「先走った」試論を試みている。いつものように、他の人たちの論稿と書き口が違っているのだが、そして難しそうでもあるのだが、基本的な発想は簡素なものだと思う。つまり、脳から身体の道筋はなかなかに複雑なことになっているのなら、かえってそれをうまいぐあいつなぎなおせば、動かなかった人も動くのではないか、そこで動かない人に様々試してもらったらよいではないかというのである。そうかもしれない。


UP:200805 REV:(誤字訂正)
医療と社会ブックガイド  ◇医学書院の本より  ◇書評・本の紹介 by 立岩立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
TOP HOME (http://www.arsvi.com)