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『〈個〉からはじめる生命論』・3

医療と社会ブックガイド・83)

立岩 真也 2008/06/25 『看護教育』49-6(2008-6):
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


  この連載では珍しく同じ本について3回目になる。であるのに、その本で中心的に論じられている「ロングフル・ライフ訴訟」についてはふれていない。最初のところでとりあげられる、どんな状態のどんな存在を「人」とするのかという「線引き問題」について述べられていることを紹介してきた。そこで加藤は、「それに向かって呼びかけることが無意味ではないような対象すなわち〈誰か〉として見出す」(p.42)ことがその問いに対する答になると言う。
  だが、私はそれで答をもらったとは思えない。
  前回紹介したように、加藤は、「呼びかけ」に対する「応え」があることを条件に加えていないのだった。加えたら応える能力を相手が有することを求めることになり、条件をきつくすることになってしまう。ここには、従来の生命倫理学が、「人」と認めるのにきつすぎる条件を設定しているという思いがあるだろう。
  私も同じことを思うし、多くの人もまたそう思っている。ただ、そうすると、こんどは、(実際には応えのないことがある)呼びかけとはどんなことなのか、ということになる。
  そのうち応えられるようになる存在もいる。それは含まれるか。だがならば、胎児や胎児以前の存在もみな含まれることにもなる。加藤はそのように考えない。
  他方で、これまで自分に関わりがあったが、いまは応答のない存在に呼びかけるといった場面には言及している。
  すると(いま応答がなくても)その存在に対する関わりや思いが大切だということになるか。それが、「線引き問題」に対する答ということになるだろうか。
  けれど他方で、加藤は、「関係主義」の問題もわかり、そのことを指摘していたのだった。つまり、人の相手への関わりや思い(の度合い)によって相手の扱いが変わってしまったら、今まで人と関わりのなかった存在は不当に扱われてしまう、それはよくないというのだ(pp.64-65)。
  すると、結局どこが「着地点」になるのか。幾つかのことを加藤は述べているのだが、それでも、やっかいな部分は残ってしまっている。そう思う。
◇◇◇
  加藤の論は、まず関係主義の難点を知りながら、それを否定しないという立場のものだと解せる。それは、出生に関わる場面の「女性の自己決定」が肯定されるべきであると考える立場と整合する。また、「バイオエシックス」の訳語としての「生命倫理学」が同じ言葉を使ったりもしながら、結局は、相手の存在に人間であるためのきつい(そして一律の)条件を求めることを肯定できないという感覚ともつながっている。
  それとともに、「恣意」を退けようとする。そして、なにか客観的な基準を言う生命倫理学の立場にしても、結局その基準を「こちら側」が設定しているではないか、それは違うのではないかという思いがある。
  これらがその論述を方向づけながら、「難問」が導かれ、そしてまだ残る。そのような具合になっていると思う。
◇◇◇
  それでも、あるいはそうであるがゆえに、この本を、この問いを考えるために読むのがよいと思うのは、一つに、世間ではもっと純朴な関係主義がなにか冷たい感じのする普遍主義に対する代替案のように受け止められているのではないか、しかしそれでよいのかは確かめておいた方がよいではないかと考えるからでもある。
  「ケア倫理」と括られるものもそうした流れの中にある。以前紹介したシンガーやクーゼのようなひどくすっきりと世界を裁断する議論に対して、それはないだろうという思いがあって、個別の関係性をもっと重視する議論が大切だということになる。けれどもそれが答だろうか。そのことは考えてみた方がよい。ところが、ときに対立の構図さえよく理解されないことがある。クーゼに『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(1997年、訳書2000年、メディカ出版)という本があるが、そこでの論がいわゆる「ケア倫理」で言われることと随分異なることも理解されているのか疑わしいことさえある。そのような混乱を避けた上で、それが答かと考える必要があるのだが、どうも問題の所在が理解されていないと思えることがある。
  また、死についての議論にもそのような流れがある。「二人称の死」といったことがよく言われる。そこで捉えられる場面が大切であること、多くの人に大きな意味をもっていることには疑いがない。しかし、それでもやはりそれは、私にとってあなた(の死)が大切であるという意味において、加えれば、私があなたにとって大切であることが私にとって大切だという意味において、大切だということである。そのことは、その人の存在や死について大きな部分ではあるとしても、そのすべてではない。そのように言えば、それはそうだ、わかっていると答えられもするのだろう。しかし、それでも、三人称の死より二人称の死は高いところに置かれる。その実感はそれとしてわかった上で、そのことを前提にして話を進めてよいのだろうか、そのような問いがあることが時に忘れられていると思う。
◇◇◇
  今回紹介してこなかった加藤の本の第2章「生まれない方がよかった」という思想――ロングフル・ライフ訴訟をめぐって」、第3章「私という存在をめぐる不安」、第4章「「生命」から「新しい人」の方へ」は、幾度も著者によってまだ思考の途上であることのことわりが差し挟まれながら、存在と非存在とを巡っての思考が展開されている。その中には、これまですこし見てきた第1章「胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット」で語られてきたこと、その延長中にあることと、それだけでない部分とがあるように思う。そしてそれらがみな、私たちが〈誰か〉を見出し関わるその現実を構成しているのだと思う。それらを分けてみたり、どれがどれに先立つのか、考えてみるのは、加藤にも私たちにも残されていることなのだろうと思う。
  この本の中でも、そしてこれまでも、加藤は、子が、期待や予想を超えて現れてしまう、そうした存在であることを述べてきた。こんどの本では、それは、『風の谷のナウシカ』に再度触れる、この本の最後の節、最後の文に現れる。
  「私たちは、来るべき子どもたちに、かつて親などというものはなかったかのようにふるまうことを教えることができる」(p.222)
  私たちが相手の存在(の価値)を語る時、それを語るのは私たちであるほかない。このことから逃れることはできない。この意味ではすべてが関係の中にある他ない。しかしこのことを受け入れながら、その私の思いを通してならない存在として、すくなくとも通しつくすことをしない存在として、相手が存在するを認めるのがよいと私たちが思うということがある。加藤は、これまでも幾度かそのことを述べてきたし、ここでもそのことを言っていると思う。
  このことは、その相手との関わりのとは別のところでその相手の存在を認める、認めるべきであることを示していないか。
  だとして、この時、何をもって、その相手を〈誰か〉として認めることになるのか。
  「〈誰か〉を生むこと、すなわち新しい個別存在者をこの世界に招来することは、その〈誰か〉に利益を与えることではないし、反対に危害を加えることでもない[…]。なぜなら、生まれてくる当人にとって、自分が生きているという事実は、その利害を判断しうるような対象たる経験の内部にあるのではなく、経験そのものを可能にする「大地」だからである。」(p.135)
  最初、当然のことを言っているようにも思ったのだが、前後を読んでいると、やはり大切なことに関わっているように思える。生まれることがそれ自体よいことであるなら、例えば食べられるために生まれさせられる家畜は幸福だとされることになる。個体の数を増やすことはそれ自体としてよいことであることになる。それはおかしな主張ではないかと言われる。
  そのおかしさは、その個において、その個があった上で、その個における幸不幸が問題にされるべきこと、そして、その「大地」において展開され感受されることごとの固有性――それを「世界」があると述べたことがある――ゆえに、そしてまずはその幸不幸と別に、そしていったんはそこになされる行ないや形成される関係とも別に、その存在が〈誰か〉として認められるべきこと、そしてそのことが、その〈誰か〉の幸福や行いや関係を顧慮すべきことを示すのではないだろうか。
  と、ひどく抽象的な話になってしまった。この文章を含むすこし長い文章を書いた。出たらお知らせします。

■表紙写真を載せた本

◆加藤 秀一 20070930 『〈個〉からはじめる生命論』,日本放送出版協会,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon] ※ be


UP:20080423 REV:(誤字訂正)
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