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『現代思想』特集:患者学――生存の技法

医療と社会ブックガイド・81)

立岩 真也 2008/04/25 『看護教育』49-04(2008-04):
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


  前回2月号「医療崩壊」の一部を紹介した『現代思想』の3月号特集は「患者学――生存の技法」。
  これもよいと思う。今どき、医療や病について書かれる書きものはありすぎるほどある。医療では医療者側に寄ってしまうから「患者学」だといった話にも、既に一定の歴史がある。けれど、それらの多くは、やはり既に、間違えていないことが書かれているとしても、読む前からだいたい見当がつき、そして読んでみたらやはりそうだったというものが多い。ここに収録された様々なかたち・文体の文章は、各々それぞれの方向に、それを越えている。それをさせているのは、書き手や語り手の「ぬるい」のはいやだという感じであるかもしれない。そんな呑気なことを言っている場合か、という気持ち、言うならもっと言いたい、何も考えずに嘆いてみせたりするのはいやだ、という思いだ。
  そして、分類としては学術雑誌ということになるこの雑誌が、この特集に限らずだが、学会雑誌的な文章作法を一律に求めたりせず、また同時に、「一般読者」のための「啓蒙的」な文章を強いることをせず、様々な書き手を探し、様々な書き方を認め、また提案してきたことにもよる。
  ロボット・スーツ「HAL」の開発者山海嘉之と松原洋子の対談「サイボーグ患者宣言」や、難病者への保健・看護の歴史を担ってきた川村佐和子へのインタビュー(聞き手は川口有美子)「難病ケアの系譜――スモンから在宅人工呼吸療法まで」がある。他は様々な書き回し方の文章。小泉義之のを別にすれば、読んでわからない文章はない。武藤香織の「「ピンピンコロリ」をめぐる物語――私たちが欲しいものはこれなのか?」を読んで、ひどく有名になってしまった「PPK」の出自とその変容過程を知って「へー」と思う。
  ALSで「独居」の生活を始めた京都の甲谷匡賛についてALS−Dの(これはプロジェクト名、文章はその「記録係」、京都新聞記者の岡本晃明が書いている)「ALS‐D――勝手に甲開日記」を読んで、また写真を見て、やはり「へー」と思う。本人が勤め先の近所に住んでいてこの企画のことはいくらか見知っているから言うのでもあるが、これを読むだけでも、税込1300円のこの雑誌を買う価値はある(例によってこちらのHP経由でも取り扱っている)。
  伊藤佳世子「筋ジストロフィー患者の医療的世界」は、「メディア」に載る文章としてはたぶん筆者の最初のものだが、しかしそれは、医療や看護の学界・業界全体においても――その世界にとってもまったく残念なことに――正面から書かれることのなかったことを書いていて、その意味でも最初のものになっている。
◇◇◇
  この特集の企画についてはすこし編集者から話は聞いていたが、できてみたら、私の勤め先の同僚(天田・小泉・松原)を含め、知っている人が多い。つまりは人手不足ということであり、よろしくないことだ。ただ私は一つだけ、吉村夕里の「精神障害をめぐる組織力学――全国精神障害者家族会連合会を事例として」については、吉村の博士論文の原稿を見せてもらっていたこともあって、こんなテーマで書ける人もいるとお知らせはした。「全家連」という略称の、なくなってしまった大きな組織とそのなくなり方について、その評価は各自考えてもらうとして、何があったのかを知っておいてよいことだと思った。
  それ以外はすべて、編集者(青土社の栗原一樹)が書き手を探して集めてまわった。研究者はたくさんいることになっているのではあるが、出版社の人たちと話をすると、その人たちは常に書き手がいないと繰言を言い、人を探している。それでかなりまめに各種学会その他に出没し、書けそうな人を探している。例えば、「性同一性障害(GID)」を書いた吉野靫は日本社会学会の大会で発見された。GIDのことが知られるようになったのはよしとして、しかし、簡単に括られてしまってかえって生きづらい人もいること、そしてそのことを言葉にする人たちが出てきていることを記している。
  他にもたくさん。こういうことは知ってほしいし、考えてほしいと思うことについて、この1冊に多くの字が詰め込まれている。何人かの書き手が短い文章を10個とか並べた本、それをシリーズにした本がたくさん出ている。たとえば「シリーズ・ケア」といったシリーズがこれから出る(岩波書店)。紹介するかもしれない。しかし、それぞれに共感を感じ尊敬もしている人々、しかしほぼできあがった感のある人々の、適度に短い文章が並ぶ本というものに、私はさほどの魅力を感じない。他方、より「学術的」な書物として、たしかにそれなりに調べて書いたのではあろう「若手」の論文集もいろいろと出ている。ただ、それについて時々、やるならもっとやればよいではないか、行儀がよく性格・人柄がよいことはわかるが、いま調べるべきことはもっとがっつり調べるべきことであり、考えるとよいことは作法として定まっていることの手前にあるのではないかと思うことがある。対して、この雑誌の2月号3月号は、たくさんの字があって――だから目が辛いという人もいるのだが――そして濃い。費用対効果は大切だ。
◇◇◇
  さてその費用対効果について、そして病態について。
  このたびに限ったことではないのだがよくわからないのは、小泉義之「病苦のエコノミーへ向けて」である。もっとわかるような書きようがあると思い、そうして書かれたものが出てからでよいだろうとも思う。ただ、考えるとすればこういうことを必然的に考えることになる、そこに辿り着くことになる、それで私もすこしは気になる、そういうことをこの人は(いつも)書くつもりではいる。
  その人においてよいことがよい、それがこの社会でたくさんあった方がよい。このことはおおまかには否定される必要はないという思いがある。
  そして、かろうじて生きている状態が保たれているということがある。そしてその状態を保つためには、人々はかなりのことをしなければならないということがある。
 そしてそのかなりなことをすることは、ある人々の気持ちのよさを引き下げることがあるとしよう。かろうじて生きているにせよ、生きていることはわるいことではない、よいことであるとして、しかし、そのためにはしかじかのマイナスがこの世に生じる。ならば、そのバランスを考えた方がよい。これはそれなりにもっともな感覚であるようにも思える。
  しかしそれではやはりよくないだろうと思うとする。ならば「人命の尊重」と言えばよいのか。しかしその人命とはたんなる「物理的生存」だけのことではないだろう。となると、一定の水準(以上)が皆に認められるべきだと言えばよいか。生存権だとか公平だとか言えばよいか。他に言いようがないようには思う。しかし本当にそうか、それでよいか。これは考えてみてよいことかもしれない。私には考えてもそうたいしたものは出てこないだろうという勘がある。しかし小泉には別の勘が働いている。さてどうなのだろう、というように考えることになる。
  杉田俊介は「ALS・自然死・家族介護――いちヘルパーの小規模な日常から」という文章を書いている。それは、3つの部分を合わせた徒然なる文章なのだが、その――いつもの――「正直さ」によって、やはり考えさせるものをもっている。
  前回紹介しようと思って結局できなかった2月号掲載の小松美彦と日本尊厳死協会の理事荒川迪生の「尊厳死をめぐる闘争――医療危機の時代に」について「同対談の荒川氏の不思議な混乱ぶりには、小松氏の論理的正しさにもかかわらず、いやそれゆえに、何かこちらの身に染みいってくるものがある。[…]内なる自然さを破壊されたくない、破壊してほしくない、という恐怖。[…]内的な自然さの破壊を恐れる気持ちはやはり人の中に残る[…]それは自然/人工の区別すら不自然と感じるような《自然》だろう。批判の言葉は、ここにとどかなけれは、弱い」(pp.226-227)
  ここではそれに言葉を継げないけれども、最後の文については、私もそう思う、とだけ言おう。
  そして冒頭の多田富雄の「死に至る病の諸相」に戻ってくる。エッセーというには重い、長くはない文章だ。脳腫瘍・前立腺癌に見舞われた筆者が書き記すことは、まず、言葉の普通の意味で、痛い。だが、「穏やかな受容」「安らかな死」というものが信じられず、あるいは不可能な時、しかしその厳しい衰退の実相を辿り終えるそのあり方があるかもしれないことを示しているようでもある。そしてそれは小泉が、私たちは結局病をどう捉えるのだと直裁に問うこととも関わりのあることだと思う。

* いやそれゆえに:「いやそれゆえに」に傍点

『現代思想』36-3(2008-3) 2008 特集:患者学――生存の技法 青土社,246p. ISBN-10: 4791711777 ISBN-13: 978-4791711772 1300


UP:20080329 REV:(誤字訂正)
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