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「障老病異」と暮らす社会を目指して

立岩 真也 2008/01/07 『京都新聞』


 *11字×165行 草稿です。

▼「生存学」という看板で何をするんですか。
▲いろいろ、なんでも、です。ただ一つの目のつけどころは「障老病異」です。人は病気になるし障害があるし年をとる。人は違うし、変化する。治らない病気もあるし様々な失敗・加害もある。しかし医療にしても福祉にしてもそういう面はあまり見ない。医学部の図書館に病気の本はあるが病人の本はない。これまで何があったのか、人々は身体について何を考え、社会に対して何を言ってきたのか。本を集めたり、人に話を聞いてまわるのも一つの仕事だと思ってます。資料室を今整備しているところです。
▼すると生や死のとらえ方はどう見えますか
▲現代人は死を忘れているとかよく言われますけど、実際にはもう長いこと「よい死」のインフレという感じです。
 本を集めていくと「自分らしい死」「良い死の作法」みたいな本が山ほどあります。けっこうなことかもしれません。しかし悲しくもある。最期まで自分の物語を作り語って、きれいに、迷惑かけずにこの世を去ろうというわけです。しかし現実はそんなに調子よくはいかない。しかしその現実を拒否する。設定された「よい死」に向かうコースから外れることを恐れ、早めに死んでしまおうみたいなことになる。
▼「過剰な医療」を拒否しようといった主張とつながっているんですか
▲たしかに薬出せば出すほど利益になるといった仕組みのもとでは余計なことが行われることはあります。それに対する批判は必要だし有効です。
 けれどもすでにそこも変わっていて、金が入らない部分からは医療は撤退している。撤退せざるをえない。かつては体制の批判としてあった「過剰な医療」という主張が今は体制に迎合する主張になっているわけです。そんな部分も押さえておく必要があります。
▼すると「自分で決める」というスローガンは
▲これも、今や、早め早めに人生終わらせようという流れに組み入れられていると思います。もともとは、人の言いなりでは生き難いから自分の暮らしのことは自分で決めるという主張なのですが。
 医師たちに聞くと、かつて使命だ仕事だとやってきたことをしなくてよくなっていると言う。医療者は情報と技術を提供するがそれ以上はしないと。死にたいと言えばどうぞということになる。
 それでよいのか、と当の医療者たちも思っていながら、これが世の流れだとなると、そういうものなのかなと思う。手がかかる人に手をかけない方が、楽は楽だしね。
 こんな具合に寿命が切り詰められることになっています。必要なことをしない医療を「過剰」と言い、必要なことをしないのも許容してしまう。自分が決めることだとされるけれど、その当人は、見栄を気にし、周囲の人に気兼ねし、金を心配し、といった人たちですから、死ぬ方に傾く。そしてまわりはそれを、中立を保つとか言って許容する。むしろ歓迎する。
▼その背景にあるのは
▲すごく大きく言えば、この長々と続いている近代という時代がそんな時代だということです。能力、特に制御能力、知的能力への信仰があるから、人はそんな人間像から必ずはみ出すという現実を否定してしまいます。
 そしてもちろん具体的には、今や小学生でも知っている「少子高齢化」というお話があります。
 高齢者の割合の増加は事実です。けれどこの話は、心配しなくてよいことを心配させ、人々をむだに暗くさせてもいる。そんな話がなぜどのように浸透してしまったのか、そしてこの話のどこが怪しいのか検証する必要があります。ただ結論だけ言えば、暗い話を真に受けてはならない。
▼命を大切にという教育はなされていますが、凄惨な事件は後を絶たない。命の何が見えなくなっているのでしょうか
▲校長先生が「命を大切に」とか言うだけなら金はかかりません。簡単です。だが空疎です。命を大切にするための金をかけてない人たちが「命を大切に」というのは、自らがその言葉を裏切っているのだから、その言葉自体が信じられなくもなってしまうわけですよ。ならかえって言わない方がいい。それを言うなら、そのためのことを実際にやれということです。簡単なことです。
 そして、誰もがとんでもないと思う事件がこの社会を映しているのではないということです。もっと普通に、財源の限界とかもっともらしい理屈をつけて、人が生きるためのこと、人の世話、生命の維持がなされていないことが、人を苦しませる。すべきことをせず、世を憂いても、お説教を垂れても、仕方がない。


 脳死や尊厳死、生殖補助医療など、生命倫理にかかわる問題がさまざまな形で表出している。人間にとって、生と死は避けられない命題だ。そのあり方をめぐって、人々の心は揺らぎ続ける。国のCOE(卓越した研究拠点)に選ばれた立命館大「生存学」創成拠点で、生死に関するあらゆる事象を探求する気鋭の社会学者立岩真也さんに聞いた。(文化報道部・河村亮)


 
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 *11字×150行 草稿です。

▼「生存学」創成拠点がCOE(卓越した研究拠点)に選ばれて始まっているそうですが、何をするんですか。
▲いろいろ、なんでも、です。ただ一つの目のつけどころは「障老病異」です。人は病気になるし障害があるし年をとる。人は違うし、変化する。治らない病気もあるし様々な失敗・加害もある。しかし医療にしても福祉にしてもそういう面はあまり見ない。医学部の図書館に病気の本はあるが病人の本はない。これまで何があったのか、人々は身体について何を考え、社会に対して何を言ってきたのか。本を集めたり、人に話を聞いてまわるのも一つの仕事だと思ってます。資料室を今整備しているところです。
▼すると生や死のとらえ方はどう見えますか
▲現代人は死を忘れているとかよく言われますけど、実際にはもう長いこと「よい死」のインフレという感じです。
 本を集めていくと「自分らしい死」「良い死の作法」みたいな本が山ほどあります。けっこうなことかもしれません。しかし悲しくもある。最期まで自分の物語を作り語って、きれいに、迷惑かけずにこの世を去ろうというわけです。しかし現実はそんなに調子よくはいかない。しかしその現実を拒否する。コースから外れることを恐れ、だから早めに死んでしまおうみたいなことになる。
▼「過剰な医療」を拒否しようといった主張とつながっているんですか
▲たしかに薬出せば出すほど利益になるといった仕組みのもとでは余計なことが行われることはあります。それに対する批判は必要だし有効です。
 けれどもすでにそこも変わっていて、金が入らない部分からは医療は撤退している。撤退せざるをえない。かつては体制の批判としてあった主張が、今は体制に迎合する主張になっているわけです。そんな部分も押さえておく必要があります。
▼すると「自分で決める」というスローガンは
▲これも、今や、早め早めに人生終わらせようという流れに組み入れられていると思います。
 医師たちに聞くと、かつて使命だ仕事だとやってきたことをしなくてよくなっていると言う。医療者は情報と技術を提供するがそれ以上はしないと。死にたいと言えばどうぞということになる。
 それでよいのか、と当の医療者たちも思っていながら、これが世の流れだとなると、そういうものなのかなと思う。その方が楽は楽ですしね。
 こんな具合に寿命が切り詰められることになっています。必要なことをしない医療を「過剰」と言い、必要なことをしないのも許容してしまう。自分が決めることだとされるけれど、その当人は、見栄を気にし、周囲の人に気兼ねし、金を心配し、といった人たちですから、死ぬ方に傾く。そしてまわりはそれを、中立を保つとか言って許容する。むしろ歓迎する。
▼その背景にあるのは
▲すごく大きく言えば、この長々と続いている近代という時代がそんな時代だということです。能力、特に制御能力、知的能力への信仰があるから、人はそんな人間像から必ずはみ出すという現実を否定してしまいます。
 そしてもちろん具体的には、今や小学生でも知っている「少子高齢化」というお話があります。
 高齢者の割合の増加は事実です。けれどこの話は、心配しなくてよいことを心配させ、人々をむだに暗くさせてもいる。そんな話がなぜどのように浸透してしまったのか、そしてこの話のどこが怪しいのか検証する必要があります。ただ結論だけ言えば、暗い話を真に受けてはならない。
▼命を大切にという教育はなされていますが、凄惨な事件は後を絶たない。命の何が見えなくなっているのでしょうか
▲校長先生が「命を大切に」とか言うだけなら金はかかりません。簡単です。だが空疎です。命を大切にするための金をかけてない人たちが「命を大切に」というのは、自らがその言葉を裏切っているのだから、その言葉自体が信じられなくもなってしまうわけですよ。ならかえって言わない方がいい。それを言うなら、そのためのことを実際にやれということです。簡単なことです。


UP:20071222 REV:1229
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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