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山田真に聞く



■山田真に聞く
 山田 真立岩 真也・栗原一樹(聞き手) 2007/12/23
 主催:COE生存学創成拠点 →生存学創成拠点・催・2008
 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜

 記録

■cf.

◆20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon] ※

 「その頃、東大医学部物療内科の講師であった高橋晄正さんは、薬害の告発を始めていました。高橋さんが最初に糾弾したのはアリナミンやグロンサンといった”総合ビタミン剤”でしたが、当時のアリナミンの売れ行きといったらすごいものでした。ちょうど「高度経済成長まっしぐら」とい<0235<う時代でもあり、国民はバリバリ働くことを国から求められていましたが、バリバリ働いて疲れたからだはアリナミンで回復させるというようなことがいわれていたのです。
 しかし、アリナミンはインチキ薬だと高橋さんが告発しました。」(山田[2005:235-236])→高橋晄正

 「医療被害者運動や公害闘争では、裁判闘争が組まれることが少なくありませんでしたが、そんな場合、医者と弁護士とが闘争戦術を決め、被害者はその後からついていくというかたちに見えることもありました。そうすると医者や弁護士が闘争の主役のようになってしまいますが、それはぼくにとって納得できないことでした。
 森永ミルク中毒の被害者とのおつきあいなどはその後も続き[…]」(山田[2005:243])

 「そんなときたまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。」(山田[2005:246])
 →全国障害者解放運動連絡会議第2回大会 1977年8月13日〜14日/於・明治大学和泉校舎

立岩 真也×山田 真 2004/04/20 「明るくないけど、変えることは不可能じゃない――「弱く」あることのススメ」山田真との対談)」,『子育て未来視点BOOK・下』,pp.62-67,ジャパンマシニスト社 http://www.japama.jp/
 http://www.japama.jp/cgi-bin/detail.cgi?data_id=163

◆立岩 真也 2007/03/31 「障害の位置――その歴史のために」
 高橋隆雄・浅井篤編『日本の生命倫理――回顧と展望』,九州大学出版会,熊本大学生命倫理論集1,pp.108-130,

 「(3)関わった人たち
  そしてその人たちや組織・運動に関わって研究者、というより、その他の人たちがいた。とくに学会といった組織にかかわらないところで、様々なきっかけから、実際に関わりながら、ものを書いてきた人たちがいる。知った上で言うのではないが、こうした人々も他の国々よりむしろ多いのかもしれない。
  関わった人は、研究者という肩書きであっても、なにか文章を書くことが、さらに研究をすることを主な仕事と考えていたわけでもなかった。小学校の教諭、会社員、労働組合の職員、地方公共団体職員、著作業、その他の人たちがいて、大学の教員はその一部だった。そしてその人たちにしても、大学にそうした「研究」の足場をもっているわけでもなかった。大学の教員をしていてものも書いた人たちとしては、山下恒男石毛えい子篠原睦治といった人たちがいた。最首悟も長く大学に居座ってはいた。医師では山田真石川憲彦がいたし、毛利子来も関わることがあった。特殊学級の教諭を長く勤めてきた北村小夜がいた。古川清治は出版社に勤務していた、など。
  それと違う集まり・動きも以前からあった。社会福祉の従事者や特殊教育領域の教員と、大学等でその養成にもたずさわっている人たちのつながりである。日本共産党といった政党のつながりで、学者たちと、障害をもつ本人たち、というよりは学校の教員や福祉施設の職員などとの関係はあり、そうした人たちの全国規模の組織として「全国障害者問題研究会(全障研)」があった。ただその集団とここに記している人たちは仲がわるかった。むしろその集団とその思想を批判することにずいぶんな労力が割かれたことがあった。それは「左翼」内部の対立を引き継ぐものでもあった。大学における学生運動に政党と政党嫌いとが関係していた時期、養護学校・学級でなく普通学校・学級に一人の子が行こうとするその運動を支援する運動が、大学の自治会の運動の大きな課題とされたりしたことはこうした事情にも関係している。一方の主張は、「全面発達」を言い、伸ばせるものは伸ばそう、そのためにはそれに適した教育環境があってよいとして特殊教育を肯定するのだが、他方は、それを隔離であるとし、できようとできまいとみながいっしょにいる場がよいのだ、その場が必要なのだと言うのである。その争いは消耗な争いでもあったのだが、同時に、主張・思想を――そのよしあしはさしあたり別として――「純化」していくことを促すものでもあった。後者の側は、「できなくてよい」と言い切ろうとするのである(その論点の一部について考えたものとして立岩[2001b][2002b])。
  これらの人たちの中に学問として哲学・倫理学を専攻する人はあまり見当たらない。さらに、なにかの領域の学問の専門家として語るというのでもない。考えることも大切だと思った人もいるし、思いながらも、その人たちのある部分は支援者というより運動の前面にいなければならない人たちでもあったから、次から次に起こるできごとに対応するだけで時が経っていくという人もいる。ただ、このことは、そこで主張されたり疑問に付されたことが「学問」的な検討・考察の対象にならないということを意味しない。
 (4)その後の人たち
  私(1960年生)の世代は、そうした動きから10年から20年遅れてきたから、その前半については直接には知らない。」


UP:20071222 REV:
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇立岩 真也
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