HOME > Tateiwa >

バイオポリティクスとは何か――生きて存るを学ぶために



■2007/09/29 「バイオポリティクスとは何か――生きて存るを学ぶために」
 JUNKU大阪 トークセッション
 *出版社がつけたタイトル

 *まだおかしなところなどあるので、これからなおします。(2007.12.7)

美馬 達哉 20070530 『〈病〉のスペクタクル――生権力の政治学』,人文書院,257p. ISBN-10: 4409040863 ISBN-13: 978-4409040867 2520 [amazon][kinokuniya] ※ ms

<美馬> 自己紹介というと、後ろの著者紹介にも書いてあるんですけど、ある意味でややこしいです。所属しているのが京都大学医学研究科です。ですから、社会学ないし政治学に関わる本ですが、著者の公式の所属は理系です。脳科学者というと最近にはやってきている学者になって、某社のゲームなんかでの「脳トレーニング」で有名ですね。その脳科学者をやっているのが昼の姿で、その合間に人文系の学問をやっているアマチュアです。
 この本は、医療とか人間の身体に関わることが主題ですが、脳に関わる章は事実上は一つです。「脳死」の章は、「脳死」は脳と無関係だというのが結論になっていて、脳という漢字以外では脳科学について触れないように注意して書いています。本の紹介という点では、これで終わってしまい、あとは各章での主題一つ一つになってしまいます。
 困ったので、自伝や伝記の基本として「生涯と著作」の前者、つまり生活史的なところをちょっと話します。この本にまとめた医療社会学という領域に興味をもったきっかけは、じつは20年以上前になります。大阪大学の環境医学教室に中川米造という先生がいて、医学生時代に、その教室に出入りしていたのが始まりです。それからずっと、社会学とか人類学の研究とつかず離れずになっています。それで、国家試験に合格して、医者稼業となり、神経内科を専門にしていますが、いまでは研究8で臨床2ぐらいのペースで脳科学研究者が主です。これでは、生涯の紹介にはならないですが、大事件やロマンスが相次ぐようなドラマチックな人生でないのでご容赦下さい。
 もう一つ、最近の興味の範囲というのを自己紹介的にしておきます。医療社会学に近い仕事をしているのに加えて、脳神経科学の倫理(ニューロエシックス)というのをやっています★。なかなか興味深い領域で、論文を2−3書いていく予定ですし、また本にでもまとめた暁にはよろしく。
★ cf.国際公開シンポジウム「人間改造のエシックス――ブレインマシンインターフェースの未来」
 立岩さんとは、研究会などで数回お会いしたことがあるのですが、ゆっくりお話しするのは実はこれが初めてです。『中日新聞』『東京新聞』(2007年XX月XX日)に、本を褒めているような著者をけなしているような書評を書いていただいて「ひねくれた性格」と「特殊な才覚」とまとめていただいたのがご縁で、今回はトークのお相手をおつとめいただきました。
 そのあたりを、もう少し、立岩さんに展開していただきたいのですが。

<立岩> 立岩です。こんにちは、こんばんはですね。今日は、いちおう宣伝しなきゃいけないので言っておきますと、僕は立命館に勤めているんですが、この企画、まずは人文書院がこのジュンク堂さんをお借りしてっていう企画なんですけれども、こちらの共催の企画でもあるんです。いまCOEっていう変なものがあるんですけれども、それで生存学っていうもっと変なものがあって、それを今やっていることになっているので、チラシをあそこに置かせていただきました。ご覧ください。まずそれを言わなきゃいけないので。
 それで本なんですけれども、これはみなさんに配られているのかな。『東京新聞』と『中日新聞』、この二つは一緒になってやっている、そこに私の書いたものが載っています★。さっき始まる前に少し雑談したんだけれども、日本には基本的には書評の媒体っていうものは存在しないんだと思うんですよ。新聞もこれたぶん1000字ぐらいだし、もっと短く、これ香山リカさんのやつでたぶん800字ぐらいですね。で、『週刊読書人』っていういかにも書評紙っぽいやつでやっぱり1300字とか、それで本の書評なんかできるかといったら普通はできないわけで。日本って、書評ってあるようでない。僕のも書評になってないんだけれども、ただ、今日来るときも少し読んで、足して何を言おうかなって考えてきたんだけれども、基本的にはそこに書いた舌足らずな話を繰り返すのかなっていうふうにやっぱり思ったわけです。大まかに言って三つぐらいの話になるのかなと思っているんですね。
★立岩 真也 2007/07/01 「書評:美馬達哉『<病>のスペクタクル』」,『東京新聞』2007-7-1:5・『中日新聞』2007-7-1
 □1
 一つはまずべたな話です。今回の美馬さんの本は、8章だっけ。8章プラスあとがきっていうかんじで、それぞれ異なったテーマが取り上げられています。SARSであるとか、鳥インフルエンザであるとか。で、まず一つ思うのが、それぞれのテーマについて、結局僕らは、例えば鳥インフルエンザというのだって、そういえばあれちょっとしばらく前流行ったっけ、みたいなかんじで、そういうふうにしてパっと現われそしてパっと消えてくみたいなことって世の中にはいっぱいあるわけですよね。もちろん消えていったっていいわけです。消えていったっていいんだけれども、でも少なくともあるところにはこういうことが昔ありましたとさ、みたいなことも含めて押さえておく、どういうことがあったのかを知っておく、という必要は少なくとも一部にはあって、そういうものってあるようでないなって思うんですよね。
 そういう意味で、まずとってもべたな部分で、今度の美馬さんの本っていうのは、一章一章がそんなに大きな分量ではなくて、長いものではないんだけれども、でも一つ一つのテーマについて、いちおう押さえておくべき事実、こういうことがあったんだよねそういえば、みたいなことが、一章一章わかる、それってけっこう大切なことなんじゃないのかなって思っています。
 僕は今大学院で大学院生たちと仕事をしているんだけども、ほんと言うと、この8章にある一つ一つのテーマについてもっと、美馬さんの本を読みながら、これの10倍ぐらい長いのを書いて、みんな一つ一つ博士論文書いてくれれば8つぐらい博士論文できるぞみたいなね。そんなことをまず一つ思いました。それってすごく当たり前の仕事のようなんだけれども、けっこうやってないんですよね。という意味で、まずここ10年とか、その間にどういうことが起こっちゃっているんだみたいなことを知るっていう、そういう意味があるんだろうなと思います。
 もちろんそこのなかでいろいろと新たに教わることってあって、それは言うときりがないんだけれども。例えば、そうだな、美馬さんは脳関係が専門なわけだ。それで第6章でしたっけ、その話が書いてあって。あっ、言われてみたらそれはそうだなって思うんだけど、ほんとそうなんだっていうこと、いくつも気づかされることがある。つまり、僕らは、いろんな脳の状態をいろんな画像で映されて、それで脳が動いているとか動いてないとかということと等置してしまう部分があると思うんだけど、だけどこの本読めば分かるんですけれども、それはそういうふうには言えないと。ある操作によって、ある時点とある時点の差が出た脳の部位のところが画像になったりする。しかしそのことは、脳がその部分において作動しているか、していないかってこととは別のことである。しかし、像に映るのはそういった差異のある部分であって、っていうようなことですよね。
 例えばそういうこう、言われてみれば素朴なことなのかもしれないんだけれども、言われてみるまで気がつかないみたいな。そういった、これは美馬さんならではというところがあるかもしれないんだけれども、まずそういう、今起こっていること、ちょっと前にあったこと、そういうことを書いてもらえたな。でその上で、続きの仕事っていうのはあるんだなっていうことをひとつ思ったんですね。それが一つ目です。
 □2
 もう一つ、次の話は、ではこの美馬さんの今度の本がいついつなになにがありましただけの本かっていうとそれはそうではないっていうことなんですよね。さっきも自己紹介であったけれども、中川米造って、僕は一度も会ったことないんです。僕はそういう業界っていうかな、ちょっと知るようになった時は、中川先生はお亡くなりになっていて。その弟子たち、まぁ美馬さんも最後の弟子みたいな人だったと思うんですけれども、関西界隈には何人かいるんですよね★。で、医療社会学たっていろいろなんだけれども、医療っていうのをちょっと、ちょっとっていうかだいぶ違ったところから見てみようみたいな、そういう流れのなかで、僕もいちおう社会学者なんだけれども、医療社会学、そういったスタイルの中に美馬さんはいるんだけど、そこからちょっとはずれたがってもいる、そういうひとつの社会科学の本としてこれを位置づけるってこともひとつ可能なわけなんですよね。
 で、そのへんからだんだん考えどころになってくるわけです。社会学っていうのは、わりあい単純な学問でございまして、とらえようによってはね。要するに、医療・医学ってやっているけれども、それって社会学的な営みのなかの一部分であると。それはそうですよね。自明の、それだけでは何も意味しないような話だけれども。次に、もう少し狭めていったときに、例えば医療なり医学なりってものを、医療・医学ってものがある種の社会的な統制っていうんですかね、社会を作動させていくときの部品だったり部分であったりする。そういう社会統制みたいなものの関係で医療・医学っていうものを見ていく、そういうスタイルっていうかスタンスってものが医療社会学のなかでは、一つの流れとしてあるわけですよね。
 で、美馬さんは、そこを忠実にではないかもしれないけどそこを引き受けながら次の話に行きたいっていうかんじなんじゃないかなって思うんだけども。そこらへんからが面白くもなり、微妙なふうにもなるわけです。どこからお話したらいいのかな。
 例えばこの本だと、たしか第8章はストレスの話なんですよね。でストレスっていうのが、なんかへんに流行っている、なにかっていうとストレスの話になる、それってなんか直感的になんかこれってどうなの?、みたいなことを思っているわけだ。で、そこのところをどういうかって話なんだよね。
 そういった時、さしあたって、美馬さんの話の今回の本での落としっていうのは、要するにストレスっていうのが、個人、ストレスに打ち勝てないっていうか、引き受けやすい私みたいな、そういう個人に帰責する、責任を帰す、そういった道具として作用する、そういうものとして働いているんじゃないかって、そういう話で、たぶん第8章っておちているわけです。
 これ自体は、医療社会学の伝統的、っていうほど古い話じゃないんだけども、つまり、社会のなかに起こっていることっていうのを、それはあなたのせいだっていうふうにしちゃうと、社会のほうは楽なわけですよね。世の中に起こっていることはこれはお前のせいだよと言っちゃって、あとはよろしくみたいなかんじでその人に下駄をあずけちゃうっていうかな、こっちは何もしなくていいっていう話になった時に、それは楽になる。そういうふうにして例えば医療・医学って使われているんだよねって話はずっと医療社会学のなかにあって。
 そういう意味で言うと、美馬さんの話っていうのは忠実に、それを言っている。ただ、今回の本の微妙なとこっていうのは、それは例えばSARSの話にしても鳥インフルエンザの話にしても、そういった社会統制のある種の部品っていうか部分としての医療・医学をめぐる現象を捉える、それは一貫していると思うんですよね。で、ではそれはつまらないかっていうと、僕の言い方が悪かったのかどうか知らないんですけど、全然つまんなくはないわけです。いまだにというか、常にというか、いつまでもというか、そういったことをきちんと記述していく、医療・医学っていうものと社会統制っていうものの絡みというのをきちんと言っていくということは、いつも同じ話に、仮に大雑把にあらすじを言ったときに、同じ話に帰着するとしても、しなきゃいけない話であって、それが新規であろうが、そういえば聞いたなって話であろうが、どっちでもよくて、実際にそうであればそのことを指摘してまわる、確認するっていうことの意義っていうのが常にあると思うんですね。
 そういう意味で言えば、普通に考えたときに美馬さんの話っていうのは社会学者をやっている僕らからみるとよく分かる話だということで。で、繰り返しますと、それでいい。それをきちんと一つ一つのテーマについて確認してまわるっていうことの意義っていうのは僕は依然としてあるんだなと思うんです。
 □
 ただ、そこらへんからだんだん、今度美馬さんにマイクまわった時に美馬さんがなんかしゃべると思うけれども、もう一味二味、加えたいっていうか、ちょっとなんかあるわけです、美馬的なものがね。それが何なのかっていうときに、それはご本人に後で聞きましょう。で、そうだな。例えば第1章でSARSの話が出てきて、第2章で鳥インフルエンザの話が出てくると。美馬さんはたぶん、そういったものをめぐる社会っていうものがなんか変わっているって言いたいわけですよ。その権力の遂行される様式って言ったらいいんですかね、そういったものが変わっているって言いたいわけだ。読んでいくとそうかもなっていう気もする。気もするんだけどでも、やっぱり想定内かなっていう感じもしたりするわけですよ。
 例えばSARSでね、昔だったら、というかちょっと前までだったら一人一人つかまえてきて、体温を測らせたりなんかしていたのが、空港でカメラとかセンサーみたいなもので一人一人通ると体温がわかっちゃうみたいなね、そういう仕掛けがそうなんだ、新しいんだって言われて、なるほどと思って感心はするわけですけど、それが例えば権力の遂行の様式の変化だって言われると、そうかもしんないけどでも、基本的には同じことをこの社会がしたがっていて、ちょっと部品が変わったぐらいっていうふうに思えなくもない。
 これが例えば鳥インフルエンザ、これは第2章の話なんだけれども、鳥インフルエンザが、全然そうなるかどうかなんかわかんないんだけれども、そのうち人間に、ってこともあるかもしれない。そうすると鳥っていうものが健康管理の対象になるみたいな話で。そう言われればそうかもしれない。だけどその話も、結局人間がそれに罹っててさ、罹ることによってしかじかの災難がこの社会に起こるかもしれない。そのためにはこれこれで、そのためにはこれこれだと考えていくと、まぁそのぐらい人間しそうだなみたいなね、そういう気もしてくるわけですよ。そうすると、美馬さんが、僕らみたいなというかな普通の社会学ないし医療社会学者がやってきて、繰り返している社会と医療との関係というものに対して、新しい何かを言いたいんだけども、それってどこまで言っているんだろうっていう感じがする。
 でも繰り返すと、いかなくてもいいんですよ。それをきちんと確認するってことが必要なんだと。こういうのが二つ目なんです。
 □3
 で、 三つ目というのは、たぶんね、美馬さんのこの本の、ある種の過剰さというか、この本を支えているっていうのかな。つまり普通の医療社会学者が書く本と似ているんだけどなんかそれに余計なものっていうか、違うものが常にあるわけですよ。それはね、たぶん一つ一つの章の終わり方ぐらいを読んでみるといいんです。だいたい最後の1ページぐらいに、プラスアルファが書いてあるんですね。それからあと、これは短い書評に、分量の足りていない書評にも少し書いたけど、最後のところです。あとがきみたいな場所に収められている。短いといえば短い文章ですよね。アガンベンの話とか出てくるところです。あそこですよね。
 そこがやっぱりたぶんこの本を駆動させているっていうか、そういうものとしてやっぱりあるような気がするんです。それが面白くもあり、普通の医療社会学みたいなものとの関係としてこれからどうなんだろうみたいな、そういう気がしてくるわけです。で、そんなにうまくしゃべれるわけじゃないんだけれども、結局この本の面白くなりかけの部分っていうのは、けっこうそういうところにあるかもしれなくてね、まず。いろんな事態に距離をとって、ある種社会学的にやっているんだけれども、でも話をずっと進めていけば、結局ある種の倫理とか、そういう話になっていく。そこがバックにはあって、そしてそこのところがほんとは面白いのかなって気がする部分があるんですね。
 それはたぶん今回の本に収められたなかでは、一番最初に書かれたものだと思うんだけども、脳死のことについて書かれた、たぶんもう書かれてから10年ぐらい経つ文章だと思いますけどね。例えばそれに書かれてあることの核心は、そういう部分にある、面白さの核心がそういうところにある気がするわけですよ。いろんなことが書かれてあるんだけれども、わりと終わりのほうに書かれてあることは、結局脳っていうのが、その人間の、あるいは人間が生きていることの特権的なものではないっていうふうに仮に言うのであれば、脳も一つの臓器であるということになるかもしれない。とすれば、臓器移植がいいんであれば脳移植だってあるはずで、そこんとこじゃあどうなの、みたいなね。問いは問いかけとして終わっていると言えば終わっているんだけれども、これは少なくとも98年、美馬さんがその文章を書かれたのが、出たのが98年ぐらいだと思うんだけれども。その時においてね、やっぱりそういうレベルの問題っていうのが、きちんと、あるいはそれ以降も含めてですね、考えられていたかっていうとそれはそうではないんですよ。
 例えばそういう問題を美馬さんは自分で引き受けているようでもあり、引き受けていないかもしれないけど、感じてはいる。それはだいたい文章の終わりぐらいに出てくるんです。で、それはこの本の面白さでもあるし、その話の続きってどうなるのっていうことを思わせるものでもある。とともに、じゃあ美馬さん自身はどこに立っているのかっていうかどこに立ちたがっているのかってことですよね。
 それは先程少し引き合いに出した、この本で言えば終わりの文章であって。知っている人は知っている、僕はよく知りませんけれども。ゾーエとビオスという、昔からある、ことはないのか、わりとこの頃でてくる話があって。簡単に言えばゾーエいいじゃんみたいな、そういう話なんですけれども(笑)、そういった、でもそこは僕もそう思っているところがあってね。それをどういうふうに言っていくのかっていうこともある。
 □
 以上、一つ目、僕らが忘れてしまうような事実をきちんと書いておかなきゃという話が一つ目ですね。二つ目が、言ってみれば医療と社会っていう、そういう捉え方でものをみている。で、その思考を駆動させているっていうか、自分がいる場所みたいな。あるいはたぶんここに軸があるんだろうっていう話が三つ目にあって。だいたいそういうふうにしてできている、あるいはそういうふうにして受け取ることができる本だと思うんです。
 そうすると、この本は、たぶん始まりの本であって、いろんなことが始まっている、けど終わっていないだろうと思うんです。例えばそういうふうにしてあとがきに、あとがきにだったのかどうか忘れましたけど、そこから本を見ていったときに、8章に分けられて書かれている、様々なことっていうのがどう見えてくるのかですね、その出てくるいろんな、この問題どうすんのさっていうね、そういう難問って言ったらいいんですかね、そういう問いにどういうふうに向き合っていくのかっていうことも始まっている。
 始まっていて、それは美馬さんが毎日病院行って昼間はちゃんと仕事しているわけだから、美馬さんがやれっていう話でもないんだろうなって思いつつ、そこのとこってこれからだよねっていう。そんなことを僕はこの本を読んで思った。
 長くなってしまいました。繰り返しますと、一つ一つね、まず、一つ一つ長いわけじゃないんだけども、でもこのぐらいのことはやっぱりみんな書き記して、記憶として記録として残しておくべきなんじゃないかって、物を考えるにあたって。で、そういう本はあるようで意外となかった。で美馬さんは一個一個そんな長くないけれど、少なくとも重要な、覚えていていいやつをテーマに取り上げてくれて書いてくれた。そこのなかには、事実確認だけれども、押さえておかなきゃいけない事実確認、これはあったよ、みたいな。
 二つ目はそういったことを書きながらそれをどう捉えるかってときに、医療社会学、その業界的に言えばオーソドックスな捉え方みたいなものを、その中にいるようでもありそこからさらに距離をとっているようでもある。しかし例えば距離をとるのだとすればそれはなんであるのかということは、にわかには分からないような形になっているだろうと。
 そしてそれをおそらく三番目の、それをそうやってただ社会、社会とか言っておしまいみたいな社会学者ではない、その美馬さんの部分なんだろうけれども、それはいろんなところに端々に見え隠れする。それはきっとたぶん私にとってみても、私がものを考えるうえにおいてもたぶん大切なようである気がする。で、それをどう考えていくのかっていうことは始まっているし、始まったばかりのことでもあるんだろうし、その時にもう一回帰ってみて、今起こっている事実をどういうふうなスタイルで記述をしたり、もっと言えばそれをどう評定するのかという問題の様々なところは、この本においていくつか提起され、その提起されたものが、提起されたという状態においてどう置かれているのかなって、そういう本だなと私は思いました。
 質問のかたちをとろうと思えばいくつかとれるような部分もあったんだけれども、とりあえず言いっぱなしってことで、長い、いつも長いんですけど(笑)、話をいったん終わらせていただきます。どうも。

<美馬> 著者本人でもまとめられないことを、それなりに、立岩風味にまとめていただいてありがとうございます。お話を伺っていてちょっと思い出したことがいくつかあって、お答になるかどうか分からないですが言っておきます。
 一つは私自身の立ち位置に関わる点です。さきほどのお話のなかで、立岩さんが医療社会学とか障害学のような現在の「生存学」につながるような領域に興味を持たれ始めた頃に、中川米造は亡くなっていたっていう御指摘がありました。立岩さんの方が、暦年齢では数年上なのですが、そういう医療社会学なき時代の医療社会学のような学から出発しているという点が、私の立ち位置の特徴のように思えます。
 たぶん日本では、社会学のなかで医療や生命や障害や福祉が社会学の対象として扱われることが多くなり始めたのが1980年代前半ぐらいかと思います。間違っていたらごめんなさい。あと、いまは一般用語になったバイオエシックスや生命倫理についても、その頃は言葉自体あまり知られていませんでした。あと、インフォームド・コンセントという、今はカタカナ書きで通用している言葉も、日本では全く受け入れられていませんでした。それが、いまでは生命倫理を専門領域とする学科もできていますし、医療や保健医療に関わる社会学の学会組織も複数あるような状態になっています。ですから、ある種の雑多な複数の語りの中から、いくつかの学問領域が純化されて立ち上げられていく過程を見てきたという印象があります。
 私が学生時代に、現在では医療社会学と今呼ばれている学問領域に関わった時には、そうした学問上の分業が全然なかった時です。この本に含まれている文章のオリジナルのなかには、80年代半ばから後半に書いたものもあります。その頃だと、少なくとも日本語で読むことのできるもののなかでは、身体や医療の社会学系の研究にふれているものはほとんどありませんでした。むしろ、ほかの分野、たとえば現代フランス思想のなかで、身体とか病気とかあるいは特に精神病、精神疾患ないし狂気というものが取り扱われていたぐらいです。あるいは、生命倫理とかバイオエシックスというものがアメリカで広がってきているようだとかです。その断片的にあるなかで、ちょっとでも医療や身体に関係しているものを拾い集めていこうという気分でした。
 あとは、もう一つ社会学とは違った領域で触発されたのは、社会史とくにフランスのアナール学派ですね。人間が自分の身体や経験をどういうふうに感じるか、そういう感性というような領域にも歴史があるんだという発想に驚いたわけです。つまり、いままで学校で覚えさせられるような戦争や外交や王朝の歴史ではなくて、身体というものにも歴史があって、たとえば清潔さに対する感性が100年200年の単位でどんどん変わっていくというような歴史研究です。
 そういう広い興味範囲をなんと呼べばいいのかはいまだにわかりません。ただ、当時は中川先生のところでは、メディカルヒューマニティーとか呼んでいました。直訳すれば、医療に関する人文科学ということです。だから、この本にまとめたものもそうですけれども、私が文章をいろんなメディアに書くわけですけれども、学際的って言ったら聞こえがいいのですけれども、出身分野がよくわからないとかですね、方法論がよくわからないとかいう評をよく受けます。それはたぶん、こういう歴史的出自と言うほどおおげさでなはいですが、おそらく医療を対象とする社会学が分野として成立していなかった頃の香りがちょっとするのかもしれないです。制度化されていないような学問というのは良い面も悪い面もあります。悪い面はもちろん、体系化されていないので知識の抜けがあるというところです。その一方での良い面では、物事を自分自身の力で考えるという意味では面白かったなぁと思います。
 □
 ですから、立岩さんに指摘された点、医療社会学とか、身体の社会史とか、社会福祉学とかとはちょっとずれたところがあるのじゃないか、特に章の最後あたりに出ているというのはそういう出自から来ているかと思います。まず、それがお答えすべき点の第一点ですね。
 それともう一つ、社会・社会性というところからちょっと展開してみます。対談のタイトルがバイオポリティクスとなっていますので、ちょっと本の副題にもなっている生権力とか生政治とかいうものに関して整理しておきます。さきほどから、医療とか身体とか福祉とかの問題設定と社会との関わりをどう捉えるかという話が出てきています。ここで取り上げようと思っている生権力とか生政治という言葉は、日本の文脈で言うと、フランス現代思想というくくりに入って、ミシェル・フーコーに始まるという話になります。でもこれからちょっと説明しますが、その生政治、あるいはバイオポリティクスという言葉自体に関しては、いろんな人々がいろんな意味をこめて使っています。ただそのなかで共通している点というのが、やっぱり社会と生命・命との関わりとなります。論者によっていくつか力点の置き方にパターンがあるんだけれども三つに分かれるだろうと思っています。
 □
 まず、一つは、医療・生命に関わる意味の生政治で、社会と国家という対向軸のなかに位置づけられます。社会と国家はどちらも、人間の集団生活としては共通しています。それが市民社会というなかたちで、個的な利害が単純に集まったものが社会、それをもうちょっと法律などの一般的利害に止揚したものが国家だとか、いくつか考え方はあります。あるいは、国家は上からの権力による強制で、社会はもう少し説得とか教化とか指導に近い集団性を意味するという考え方もあります。おおざっぱに言って、この社会という言葉に対して国家を対立させてみると、生政治がどう見えてくるでしょうか。要するに国家の側から押しつけられる生政治というのがある、というのが第一の意味です。政治という言葉をいいかえれば、国家レベルでの政策、あるいは法律とか政策とかガイドラインとかのことです。社会のなかで人びとが話し合っただけで何とかなるかもしれないけれども、話し合っただけではどうしようもないことがあるときに、強制という場面が生じます。そのときに何らかの強制力をもった法律なり裁判機構なり警察なり軍隊なりが出てくることになります。もうちょっと規範意識や道徳に近いものやマスメディアによるバッシングでも十分な場合もあるかも知れません。
 この一つ目の意味は、フーコーとはあまり関係ない言葉になります。これはドイツで使われるビオポリティーク(Biopolitik)という言葉に対応しています。ハーバーマスや日本では米本(昌平)氏がバイオポリティクスという時にはこの意味です。また別の言い方をすると、少なくとも日本でのバイオエシックスというのは、個人の倫理という意味が強かったのに対して、バイオポリティクスという時には国家レベル、あるいは超国家レベルでの政策という意味になります、この意味でのポリティクスというと、非常に古典的な社会学の区別での社会学と社会政策の後者に対応しています。つまりソシオロジーとソーシャルポリティックのことです。社会政策は実学で、社会の秩序を維持することをそもそもの目標にしている。そういう規範とは別に、アカデミーとして価値自由に、社会というものを認識の対象として学を打ち立てようという運動がソシオロジーの始まりにあったわけです。つまり社会学と社会政策はある意味で敵同士になるわけです。社会政策と同じラインでビオポリティークという場合には、実学としての生命倫理政策を指すというのが一つの意味としてあります。社会と国家でいうと、国家の側がどういう政策をたてるかという意味になります。この生政治という意味は、私が思っている生政治とは正反対に近いです。私は社会学的な立場、つまり生命政策の意義というところにもっていきたいと考えております。要するに国家の政策としてではなく社会のなかでバイオとか生命とかをどう位置づけるかという問題意識です。ですから一つ目の意味は、ドイツ・EUを中心にして、バイオポリティックという言葉が生命倫理政策という意味で使われているけれども、それとは距離をおきたいという意味です。
 □
 次に第二の意味のほうにいきます。これは、フランス現代思想、具体的な名前を挙げればフーコーになるわけです。これを、社会という言葉にもう一度絡めて言うと、「個人としての人間」対「マス(集団)としての人間」になります。つまり個人と社会というときに、一人の人間対多数の人間っていうぐらいの意味での社会です。生政治の根本に、そういう多数の人間を扱う政治を置こうというとらえ方です。政治っていうのはもちろん集団行動のものですから当然ですけれども。言い換えれば、個々人が意思決定をする人権のある人間としての主体に関わる政治ではないということです。たとえば、世論調査の主体のようなもので、何十万人のなかでアンケート調査をして何万人がある意見でしたというようなイメージです。一人一人には、何らかの思いがあって一つ一つの行動をするのだけれども、集合として合わさったときには、何百とか何千人とかいうかたちで数字にしか表れません。個人を抹消する、個人の一人一人の顔立ちというものを抹消するシステムとしての社会という見方です。これは、フーコー的な用語で言うと、人口という言葉になります。具体的には、集団としての人口を対象とする科学なり知識なり権力なりのありかたとして、統計学や国勢調査や公衆衛生学があるわけです。こうして人間を多数扱うような学や権力のあり方をビオポリティック(biopolitique)と、バイオポリティックと呼びましょうというのがフーコー的な意味での生権力、あるいは生政治になります。
 ですからフーコーの生政治を非常に大雑把に言ってしまうと、死の政治との対比になります。死の政治というのは、要するにこれをしなければ殺すぞというような権力のあり方です。先日、ミャンマーでの日本人ジャーナリストが殺された事件がありましたが、その意味での国家権力です。写真を撮っていることを禁止していて、それを破るとバンと撃たれるというものです。日本での権力のあり方というのはもっとマイルドです。いい例が思いつかないのですが、たとえば朝青龍が横綱にふさわしくない行動があるといっても、突然射殺されたりはしません。もちろん、下級力士だとビール瓶で殴り殺されることもあるわけですが。むしろ、直接に処分を下すというかたちでの権力は表に現れずに、何らかの病気であるという言説が出てくるわけです。その上で、病気であるならば治療がいるだろうとか、病気であるならばうろうろしてサッカーをしてはいけないだろうとか、一定の規範にそってバッシングが行われていきます。そのときの暴力性は非常に見えにくくなっています。あと、例えばうつ病であるとかストレス障害であるとかいうふうに知識や学問が絡んできます。
 そのあとの話として、生政治の中でも個人ではなく集団を対象に扱ったものがビオポリティック(biopolitique)であるというのがフーコーの定義です。それは、統計学とか公衆衛生学とかの人口を対象にする学です。この本のなかでいえば、鳥インフルエンザでもいいですし、SARSでもいいですし、集団としてどう扱うかというふうな学問、あるいは権力のあり方を扱うのがビオポリティークです。これが第二の意味でのバイオポリティクスです。それはフーコー的な問題圏と言い換えてもいいでしょう。そういう意味でもビオポリティークというのはまだ使い道があると私は考えています。まとめておくと、ここまでにでてきたのは、国家としてのドイツ流のバイオポリティクスというものと、あと集団・人口としてのフランス流のバイオポリティクスというものが世の中に流布しているわけです。そこで、なぜ、後者のフーコー的な問題圏に使い道があると考えているかの理由が、第三のバイオポリティクスになります。
 □3
 第三のもの、それがおそらく立岩さんに言っていただいた新しさとかですね、今後につながる面になっていくかと思うのですが、その意味での場合には、もうちょっと哲学といってもイタリア系の哲学、ネグリとかアガンベンになります。ちょっとアガンベンは微妙な立ち位置になってしまいますが。
 社会対国家と社会対個人ということで今まで二つきたわけですが、三つ目としては公(おおやけ)ということになります。社会対私(わたくし)という軸にあたります。公というのは国家ではなくて、公共というぐらいの意味です。日本的な意味だと公というと、お上っていうイメージになると思うのですが、もうちょっと市民社会的なところで、社会といっても自分勝手な私だけで成り立っているわけではなく、なんらかの規範性というものがありますという話です。そういうものを公(おおやけ)とか公共性として考えて、その意味での社会に関わるものとしてバイオポリティクスを考えてみます。それが三つ目の意味であって、今後につながる展開ではないかと考えています。
 具体的にとらえていくと、公共性、つまり人間の間にあるような関係性や秩序と、生命とが直接つながるのに、二つのポイントがあります。まず一つは、生物学的な意味での人間の生命との関連です。臓器移植とか遺伝子治療とかが一番典型的です。人間というものは一定の大きさとか形がある生き物であるということを前提としてきたのだけれど、そのなかで生物学的生命というものの範囲が、20世紀後半になって非常に広くなってきたということです。例えば心臓を取り出してしばらく保存することができるようになりました。じゃあこれは生命でしょうか?違うのでしょうか?。あるいは卵子を取り出してしばらく冷凍保存をしておいて、本人が死んだ後に子供を作ることができるということも起きています。また、この本でも少し触れましたが、人間から細胞を取り出して、それを半永久的に増殖させたり、ときにはそこから医薬品をつくることができるようになっています。つまり、生物学的生命というものが、日本で古来から言う人間の五臓六腑とだいたい重なっていたけれども、それがもうずれてしまっているのが現代と言うことです。細胞を一個取ってきて保存することができるというのが一番分かりやすいですが、生物学的生命がテクノロジーと結びつくことで、人間とずれてしまう事態が1970年代ぐらいから加速化しています。それを典型的に示すのが、臓器移植なり、ES細胞なりという事例です。で、それをどう見るのか。
 そこにもなにか政治、言い換えれば集合的な意志決定や公共性が嫌でも存在しているわけです。人間であれば本人が異議申し立てをするとかですね、社会運動をしましょうとなりますが、臓器や細胞ではそうならない。人間じゃないけれども、尊厳はないのかというと、ヨーロッパでは人体の一部には尊厳はあるかもしれないという議論も出ている。あるいはこれはもう商品にしてしまっていいのかもしれないという極論もアメリカにはある。それがはっきりし始めたのが、20世紀後半という時代でした。つまり、生命がテクノロジーによって人間とは分離されてきたわけです。
 で、もう一つは、ライフスタイルとか生活とかいうものとの関わりです。ライフスタイルとしての生活があって仕事があるとかですね。生活があって政治的な市民としての政治があるという、人間の生きることの様々な分業があるわけです。そういう社会的な役割というものがいくつかあって、それらが分離されていたものが、ライフスタイルとしての生命というものが政治化していくと変化していくと言うことです。例えばどういうことかというと、古典的にはですね、私が医者であるとしましょう、というか医者なのですけれども。医者であるとして、それで私が政治活動するとしましょう。でも、医者であるということと、いかなる政治的主張を持つかということは、古典的には別のことです。要するに、私が医者であることと無関係に、自民党を支持してもいいし、民主党を支持してもいいし、その他の党派を支持してもいいわけです。で、これがおそらく問い直されてきたのが1970年代くらいからの流れです。すごく単純化していますが。「私的なことが政治的なことである」というフェニミズムの有名なスローガンがあります。そういうかたちで、生きる態度と政治とが密接に絡まってくると見なされるようになりました。つまり、ライフスタイルとか生活とか、生物学的ではない、もっと全体的な人間としての生、あるいは生き方というものと政治との関わりが、何らかのかたちで問題化されてきたわけです。
 □
 まとめると、生物としての生命がテクノロジーによって包摂される、含まれるようになって政治化していくというのが一つめです。あと、政治という言葉が外交とか投票とか戦争とかいう大文字で語られるような政治だけではなくて、もっと日常生活のなかにあるような力関係も含むということが露呈し始めたことが二つめです。セクハラとかアカハラとかも含めて、政治であるという考えが出てきたわけです。その二点において、公あるいは公共性というものが組み替えられたというのが第三のバイオポリティクスの意味です。公共性のなかで生物としての生命をどう取り扱うのか。あるいはライフスタイルをどう取り扱うのかという問題がはいってきています。そういうふうな状況をバイオポリティックスと呼んでみましょう。
 で、この第三の点というのが、生命あるいは生活と言えばいいのかな、が政治化してきたという意味では、この本もそうだし、バイオポリティクスという問題系の全体を貫くような一つの軸というふうには位置づけられると考えています。この生命とライフスタイルが政治のなかにはいりこんできたという事態をどう捉えるかということです。ここでちょっとマルクス主義的な理論にそって解釈してみましょう。
 古典的なマルクス主義に基づいた社会運動は、その基軸を生産点での運動においています。単純化していえば、人間社会というのは、有史以来必ず何かの物品を生産してそれを分配して消費することで成立しているという歴史観に基づいているのがマルクス主義的な考え方です。ですから、生産するという過程がいちばん大事であり、その結果として、労働者や労働者運動が重要であって、それが社会全体を引っ張っていくという考えが非常に主流でした。これに対して、バイオポリティックスの三つ目の意味、公共性と生命あるいは生活の絡まりあいという点から見直してみると、重要なことは生産点以外の場所にもあるということがみえてきます。これは、マルクス主義のなかでは、再生産と呼ばれていた領域のことです。つまり労働者はどうやって労働者として工場にやってきたのか、という問題です。その人間を、誰かが産んで誰かが育てたというのが最初です。つぎに、工場から家に帰った後、自分で何かを作って食べたのかもしれないし、誰かが作ったものを買って食べたのかもしれない、という点です。つまり、労働者自身の労働力の再生産あるいは消費生活です。要するに、再生産という場に目を向けるということは、生産の場である工場の外で行われていることが何かというところと密接に関係してくるわけです。生命にせよライフスタイルにせよ、工場のなかで労働者として生産に従事することは人間の活動のごく一部に過ぎない、それ以外の、様々な社会的関係性のなかで生きることが重要な局面があるということです。かつて、アルチュセールが指摘していたことですが、フランスの1968年の学生運動や社会運動は、当時の史上最大の労働運動であったと同時に、学校と家族という二つの再生産システムへの反抗の組織化でもあったわけです。これをネグリ的に言い換えれば、生政治的労働になります。つまり、再生産と生産が不可分になったのが、20世紀後半以降のグローバルな資本主義の姿であるということです。
 こうして、再生産というところから見ると、いくつか面白い点が見えてきます。ここまではどちらかというと学知つまりアカデミーの話だったわけですが、もっと社会運動の側でも対応した変化が現れています。再生産がキーワードになった60年代から70年代に前景にたってきた社会運動として、中絶の是非の論争とか優生保護法改正反対運動とかに関わるフェニミズムという問題、あるいは障碍者運動という問題が現れています。障碍者運動であれば、働くことが社会復帰かという問題が問われました。フェニミズムであれば、子供を産むことだけが女性の役割なのかということが問われました。また、再生産というものを労働者の再生産、というかたちで捉えれば、学校のなかで学ぶこともまた批判的な点検の対象となりました。そのラインのなかに大学闘争が位置づけられます。従来の生産点での労働者の運動にプラスして、再生産の問題が社会運動として現れているわけです。それがここで言いたい意味のバイオポリティックスになりますが、そういう問題が様々なかたちで出てきたのが60年代から70年代であったと考えられます。再生産をキーワードにして、一見バラバラに出てきた社会運動というのを一つにまとめられるのではないかというのが、ネグリ的な意味での生政治あるいはマルチチュードだったとも考えられるわけです。ちょっと抽象的な話になりましたが、まとめると、バイオポリティックスに関してチャート式整理をすると、三つに分けることができますということです。確認します。一つはドイツのビオポリティークで、生命政策学を指すものです。これは、私の考えではあまり面白いものではありません。第二の意味というのが、フーコー的な意味で、個人を対象とする権力と、人口を対象とする権力や知があって、その後者を指します。人口を対象とする権力や知というものは、17世紀から18世紀に国民国家と共に出てきたもので、フーコーがもともとビオポリティークと呼んでいたものです。付け加えると、これらはリスクとか統計学とかに関わるものです。これはかなり面白いのですが、今後にちょっと明るい展望が見えないという難点があります。西洋の近代のネガティブな面だけをみているからですね。権力によってコントロールされていますという話で終わってしまいかねません。
 そこで重要なのが、第三の点つまり公共性とかに関わる部分です。日常生活のなかで存在している様々な権力関係とか差別とかを政治として話題にしましょうというのが70年代からの流れです。あるいは生物学的な生命というものが、非常にコントロールしにくい、臓器移植とか遺伝子治療というかたちで様々な議論の対象になり始めたという状況です。テクノロジーの変化のなかで再生産領域が問題化していくと言い換えることもできます。しかも、それは、従来の主流の労働運動とはかなりずれた場所で問題化していくことになります。それが、様々なかたちで噴出したのが70年代以降の状況で、それを再生産あるいはバイオポリティックスという言葉で一つにまとめることはできないだろうかという問いかけが生まれつつあるのを現在の状況と考えています。ま、三題噺でいったん、話を終えます。

<立岩> ここしばらく対談みたいなのをやっていて気がついたというか分かってきたことはですね、同時に二人がマイクを二つ持っていると、ちょっと進行が変わってくるんですよ。今みたいに仲良くこうバトンタッチでやると、どうしても一回あたりの持ち分が長くなるんです。二人持っていると介入するというか、途中で茶々入れたり出来るので、またちょっとやりとりが変わるんですけど。関係ない話でしたが(笑)。
 でね、ちょっと美馬さんに聞きたいのは、二番目と三番目の話でね、例えば優生学の歴史にしても何にしても、社会っていうものが、人間の再生産ね、ポピュレーション、再生産というものに対して目配りをするっていうか介入するっていうか、そういうことは少なくとも百何十年前からあるわけじゃないですか。そういう意味でいえば社会は、常に、常にというかけっこう長い期間、人間の再生産というものに対して、過剰なというか、関心を持ち、実際の行ないを行なってきたということは言えると思うんですね。それと美馬さんが今言った、例えば1980年代90年代になって、それまでとさしあたり区別されるものとしての再生産っていうものがね、浮上してくるっていうことの、関係って、どう言ったらいいのかな。
 つまり社会に起こっていることっていうのは変わらないっていう話で、でもそれに対して人々が何か呼び起こしてそこから考えていくっていう動きがその時期出たっていうお話とも受け取れるし、またちょっと違うのかもしれない。それが一つ聞きたいかなと思ったところがあります。
 もちろん一つに美馬さんがおっしゃったのは、テクノロジーそのもの、その水準みたいなものが変わっていって、そういった時に新たに個々別々の再生産みたいなものが、テーマとして浮上するっていう。それはそのとおりそういうことがあったんだろうと思うんですけれどもね。ただそれを今いったんちょっと別のこととすれば、つまり社会が、人口、というか再生産というものに注目してきた長い歴史というものと、美馬さんが今言う、もっと新しい出来事として人間の再生産というものが浮上していくっていうこととの間の関係って言ったらいいんですかね、それについて美馬さんがどう考えられておられるのかということをちょっとお聞きしたいかなと思いました。

<美馬> ちょっと難しいところで(笑)、困ってしまいますね。結局、再生産という問題、人口という量の側面、人間が秩序に対して従順になるように配慮するという質の側面は、どちらも、なんらかの形で、100年200年の単位でずっと行われてきたという見方はあり得ます。ただ、そのなかでこの50年から100年ぐらいで目立ってくるものがあると考えています。再生産の領域に、国家が公務員を使って介入していく場合もありますし、民間企業があってそれを国家が認めるとかいうかたちもあるわけですが、国家なり社会なりが介入していくことが増大しつつあります。それだけでなく、社会学、社会福祉学、ソーシャルワーク、精神医学、母子衛生、あるいは公衆衛生というかたちで、これまで放っておかれていた領域が、新しく国家や社会が介入すべき点であると見なされるようになっています。つまり、生活のなかに政治がや規範が入り込んでくるということです。では、この状況を見て、権力なり政治なりが肥大化していったという視点をとると、端的に言うとダメだと思っています。
 こういう語り口だけではダメなんだというところが、バイオポリティクスの第二の意味と第三の意味のずれに関わるところですし、立岩さんのいわれた過剰性、人間と動物の問題に関わってくるわけです。結局、再生産の領域、ソーシャルワークとか母子衛生とかのかたちで、生活の領域が医療や福祉によって問題化されていく背景には、再生産の領域が広がりを見せていくというプロセスがあて、そこはポジティブな面があることは否定できないわけです。ある意味では、生き方が多様化していく状況に対応しているともいえます。ここをプラスにだけ言うと非常に問題があって、不安とかインセキュリティというマイナス点はもちろんあるわけですが、多様化は多様化であると認めざるを得ない。その多様化に対する対応策として国家なり社会なりの側が、いろんな制度を作り上げていくという見方でいくべきだと、思っています。ですから、再生産のなかに介入していく様々な社会的・生物医学的技術があるけれども、それは基本的には、多様性の拡大に対する、ことば本来の意味での「反動」つまりリアクションであて、一義的なわけではないということです。ライフスタイルの多様性あるいは生命の多様性です。人間の身体を超えて、心臓だけや細胞だけで生きることができますというのは、多様性として、敢えて挑発的に言うと肯定すべき点でしょう。多様性が出てきた時に、それをコントロールする「反動」が、社会や国家による再生産の包摂と見ることができると考えています。ちょっと、話がずれましたが。
<立岩> それっていうのは、結局ざっくり言えば肯定すべき多様性みたいなものが浮上するっていうことにあるのは、美馬さん的には、まさにテクノロジーがそれを可能にしたなり可能性を実現したみたいな、そういう捉え方になっているんですか。そこのところはどうなの。その三番目のやつね。三番目のやつがどういうふうに現れてきているのかっていう話を聞きたいんですよね。
<美馬> そこが一番微妙なところになるわけですが、技術とかテクノロジーの役割が大きいことは事実です。でも、テクノロジーをどういう水準で捉えるかっていうことになっていきます。結局、技術や機械を発明しました、あるいは特定の科学的発見がありましたというだけで見ていてはダメだと思います。少なくとも20世紀的な意味でのテクノロジーでは、そのテクノロジーを支える、あいまいな言い方になりますけれども、社会的な物語の背景があるからです。アポロ計画の場合なら、人間を月に送りたいという物語があった上で、それに対応したロケットのテクノロジーが開発されていきます。あるいは人間の臓器を取り替えると病気が治りますとかいう故障修理のストーリーがあった上で、臓器移植のテクノロジーが開発されていくという具合です。テクノロジーが最初にあって、なにかを可能にするのではなく、なにかを可能にしたいという物語があって、そのなかでその物語に沿ってテクノロジーが発展していくわけです。
 ですから臓器移植の場合でも、技術的にはある意味では臓器を切り取ってきて別の人につけて縫いましょうということですから、驚くほど単純な技術なわけです。現実に実行するにはテクノロジーの開発が必要なのですが。ただ、人間の病気は臓器の病気です、悪くなった臓器を自動車の部品のように取り替えることができれば、人間の病気は治りますというストーリーがあれば、それを何とかしようという技術が生み出されることは想定の範囲内になります。そのなかで「脳死」という怪しげな、生きているか死んでいるか実は怪しい状態でも、臓器を取り出すことができる死体として扱いましょうという、ある種のテクノロジーが出現する。ですから、その背景となる物語がどこから出てきたかが重要であって、そのテクノロジーそのものでが重要だとは思いません。 

<立岩> それはなんか分かるような気がしますね。話の流れとしては分かる気がするっていうのはあってね。例えば医療社会学っていうのは二つ目の流れなんですよ。
 まず、脳天気というか、楽観的なというか、テクノロジーの肯定がある。だんだん社会がそれに伴ってよくなっていくみたいな、そういう話って今でもいくらでもありますけれども。そういう流れが一つあって。そしてそれに対して例えば1960年代とか70年代とか、もちろんいろんな社会背景があって、公害の問題が顕在化したりですね、そういうことがあって、テクノロジーっていうのが、人間に対して抑圧的なっていうかな、そういうものとして存在するっていう気分はみんなするようになったわけですよ。それをどういうふうに言うのかみたいなところに、例えば医療の社会学みたいなものがはまったわけです。そういう意味で言えば、基本的に抑圧の道具であったり、抑圧そのものであったり、そういうものとして技術なりなんなりを見るっていう流れがあって、それはもうずっとあるわけですね。一番目が否定され、二番目がそれを否定したわけなんだけれども、でも今起こっていることっていうのは、それだけじゃなんかちょっと捉えられないぞとか、あるいは捉えたくないみたいな、そういう気分っていうんですかね。気持ち、あるいは、そういうある種のリアリティというものがけっこうあって。
 そしてそれをどういうふうに、それをどうにかして言えると、なんかちょっと違う、ちょっと面白いっていうか、いいことが言えるんじゃないかなっていうあたりにいるのかもしれないですよね。だからたぶん美馬さんはそこのところに目をつけているっていうかな、ある種の希望なんですかね。そういうものを持たれているのかなっていう意味で言えば、話としてはこう一・二・三みたいな感じで僕は分かる気がするんですけど。
 でももっと聞くとね、事実そのような物語込みのテクノロジーっていうのがあって、そこのなかで人間の形象みたいなものがぐちゃぐちゃになったり多様化していくみたいなようなことがあって、美馬さんは、あるいはさっき言及した人間であればネグリであるとか、そういう人なのかもしれませんけども、肯定する、その肯定性っていうものは、いったいどこから来るのかっていうか、何が肯定的なのかっていうかな、まぁちょっとみもふたもない質問になっちゃうんだけども、それについて美馬さんはどういうふうに答えられるのかちょっとお聞きしたいんですけど。
<美馬> ネグリ的な哲学の立場にざっくりいけば、生の潜在性は肯定すべきである(笑)それしかないみたいなことです。それはもう、好き嫌いの水準にかなり近いような気はします。それこそ、みもふたもなく(笑)。 <立岩> みもふたもなく俺は好きだぞみたいな、そういう感じですか(笑)。
<美馬> それが好ましいであろうというふうな気がするというぐらいしかないですね。
 □
<立岩> そうなんでしょうね。それはよいと思うんですよ。ただ、それが、今顕在化しつつあるテクノロジーも込み、もろもろということでも言えるけれども、なんか別様にも言えるかもしれないですよね。今っていう、テクノロジーっていうこととともに言うこと、それを使って言わなきゃいけない出来事であるのか、それともそうでもないかもしれない。二通りあるような気もするんですけどね。ちょっと変な質問ですけど。
<美馬> 結局ね、生命の多様性とかライフスタイルの多様性をいうときに、今日の現代社会において、突出しているのがテクノロジーをめぐるものであることは、たぶん確かでしょう。でも、それはいろんな水準で考えることができます。一つは、細胞を取ってきて生かすことができますという生物学的な水準です。つぎに、テクノロジーの社会的なレベルで言えば、インターネットのようなコミュニケーションのテクノロジーという水準でも考えることができます。
 現代社会での多様性をどの水準で考えるかというと、テクノロジーという場合に生命科学が中心になりがちです。ですが、おそらく50年100年経った時に何が一番大きな影響を及ぼすかというと、人間の遺伝子を改造できるかどうかということではなくて、コミュニケーション機器の変化の方であろうとおもいます。
 ネグリ的な意味で言えば、今日の働くことのかなり大きな部分が、すべてではないですし、もちろん肉体労働があるというのも確かですが、支配的な労働形態というものが、コミュニケーション的な労働になっているということに関わります。つまりコンピュータに入力するとか、サービス労働とかいうかたちでコミュニケーション的な労働が支配的になっていて、分業して何かを作るという労働は支配的なものではなくなってきているというのにつながってきます。

<立岩> でね、というか続きなんですけど、さっき僕は、わりと単純なというか、技術とともに社会もよくなるってお話があった後、それを懐疑する批判する流れにきて、またもう一つ、たぶん三つ目の話なんだけれども。二つ目の話っていうのはさ、何かとテクノロジー込みで社会がやっていることに対して懐疑的になり批判的になり、あるいは抑止的に抑えようと、それを暴走するのを抑えようみたいな、そういうムーブメントとともにあったわけですよね。で、それはそれで言いたいことは、ここはここまででやめておこうとか、そういう話だったと思う。
 それでその話のよしあしはともかくとして、ここまではやんないでおこうとか、これはいいという話はレベルにおいてはあった。それをもう一回考え直すのはよしとしてさ、三つ目の話っていうのは、言ってみれば何でもいいやみたいな話にもなりうるわけじゃないですか。多様性いいやみたいな話で。二番目の話はどっちかっていうと全否定というか、これに向かう傾向にあるベクトルだったりすればね、それの反動みたいなもので、これけっこうそのまんまにしておいたら面白いかもみたいな、そういう話になっちゃう気もして。で、なったらなったでいいのかもしれないんだけれども。そこまで腹くくってそれでいいんですっていう話なのか、それともそこのところをもうちょっと微妙で。
 この本もけっこう微妙じゃないですか。書いていることいろんなことがね。そのへんのスタンスっていうのかな、考えていることっていうのはどうなんでしょう。例えば私の同僚で小泉(義之)っていう哲学者がおりますが、あれはまぁ(笑)あれはっていうかあの方はどっちかっていうとやるだけやればいいやん、みたいな、まぁとりあえず本のなかでは言ってみる。あぁ言っちゃったみたいな。そういう感じで、それを演じているわけです、彼は。そういう作戦っていうか、スタンスもあるわけだけれども。
 美馬さんはさ、そういう時に、かなりこの本のなかで言えばこっち向きもあるしあっち向きもあるし、けっこう微妙だよね。これからどっちころぶかわからないし、みたいな。いろいろ書いてあるわけじゃないですか。そういったこととの兼ね合いでね、どっちかって言うと三番目が、もう一回こう、わり能天気な、いけいけみたいな話になるかもしれないことに対して、はい、それで私腹くくりますという話なのか、もうちょっと言いたいみたいなのか、それはどうですか。

<美馬> それは、小泉さんのことですよね。彼は哲学者だとされているので何を言っても許されるでしょう(笑)。医学研究者である私が言うと洒落になりにくいという(笑)問題があるわけです。
 あとは、さっきも言ったように基本的には多様性でいきましょうというふうな気分はあるけれども、実際には多様性っていうのが褒められる時には一方向になってしまうという問題があります。つまり、生物学的なテクノロジーで何かを解決する方向にしかいかないというところはどうかなっていう気分はあるわけです。だから「脳死」の例で言うと、脳が病気の人がいます、心臓が病気の人がいます、この二人の病人を前にしたときに、脳が病気の人は死んだことにしてこっちから心臓を取って心臓病の人を生かしましょうっていうのが今の流れなわけです、乱暴にまとめてしまえば。でも、そうじゃないテクノロジーの使い方っていうのもあるかもしれないというふうに向かっていくにはどうすればいいだろう、という問題です。現在ある方向性のなか、あるいは現時点で可能性として語られていることではない、すでに消えてしまったかもしれないし、誰も思いつかなかったかもしれないし、意図的に消されてしまったかもしれないような可能性というものを探し出すことはできないんだろうかというふうなことです。ベンヤミン的な歴史のとらえ方ともいえます。

<立岩> そうですね。だから論理的な、あるいは純粋に技術的な可能性で言えば、論理っていうのはあらゆる可能性みたいなものを開かれていたりすると。テクノロジーっていうのもそういうところがあると。ただある種の期待、希望っていうのがあると同時に、それは現実に何を生み出しているかっていう、それはまた別の問いなわけですよ。まぁそれをおっしゃったんだと思うんですけれども。例えば先程のKさんですけれども、生殖のなんとかっていう本(『生殖の哲学』[amazon])で、何でもOKにしたらその世の中に化け物がいっぱい出てきてですね、それはハッピーだって言いたいわけですよ。
 で、それはハッピーであることに僕は実はあんまり異論はないんだけれども。ただ実際には化け物は増えないんだな、たぶん。生殖技術の進展とともに化け物は減るんだな、というかそういうふうにしか技術は事実上は用いられていないわけですよ。そこがけっこう難しいっていうか面白いっていうか。そこのところをどう考えるのかという問いが依然として存在する。技術っていうもののやっかいさでもあるし面白さっていうのはそういうところにあるんだと。
 そうするとやっぱりね、結局問いは差し戻される部分があって、技術的に可能なこと、あるいは論理的に可能なことが、どうやって現実においては縮減される、あるいはある方向にしか向かないのかっていう問いが再度問われる。そのときには、その問いっていうのは二番目の、技術を懐疑しよう、あるいは批判しようといったときの問いとまるっきり同じなのか、それともステージがちょっと変わっていて、何か少し違う装いをもった問いになっているのか、そこがちょっと微妙だと思うんですけどね。
 例えば美馬さんは66年生まれだよね。僕は60年生まれなんだけれども。で、中川さん、米造さんなんかもやっぱり、60年代70年代っていうのがあって、どうなんだろう、技術って、そんなに手放しに喜べないよねって。今は聞こえなくなったんだけど、僕らが大学に入って70年代の終わりぐらい、まだ科学技術批判っていうのが、わりと存在していて、雑誌で言うと『クライシス』とかですね。まぁそういうような雑誌、そのうち、わりとすぐなくなりましたけれども。あと『技術と人間』とかいろいろありました。そういうのがまだあった時期なんですよね。それがわりと急速に流行らなくなって、でもそこから僕らが始まって、でもその先どうやって考えるかなみたいなことで、僕にしてもちょっと考えている部分があるんだと思うんだけれども。どうなんだろうな。美馬さんがじかに体験しているかどうかわからないけれども、科学技術批判みたいなものが、定位していたというか存在していた準位、位置みたいなものね、それと今美馬さんが立っている、あるいは立とうとしているっていうかな、それの準位っていうのは、どこか変わった、あるいは変わろうとしているのか。
 あるいは、もっとべたな質問で言えば、かつての科学技術批判みたいなものっていうのかな、さっき最初に僕が言ったみたいに、なんかみんなもう忘れたふりをしているんだけど、あんまり忘れちゃいけないんじゃないかと。たしかに非常に内部の素朴な水準の議論っていうのは多々あったんだけれども、そういう内部の素朴な水準の議論も含めて、やっぱりそれってなされたわけだし、そこで言われたことは、そう捨て置けないっていうふうに僕は思っているんですよ。私にはそういうところがある。そういうところで、美馬さんの前のっていうのかな、技術批判みたいなものに対する評価なり、それと自分との間の距離なり関係なりっていうあたりをね、もう少し聞かせていただけるといいかなと思うんですけれども。

<美馬> 科学技術批判を、またチャート式で三つに分けてみましょう。
 一つは、ロマン派的反動というのがあって、自然と人工を分けて、人間は科学に頼らずに自然に帰らなければ、と主張します。その亜種では、この分水嶺までの科学はいいけれども、この分水嶺を変えたらカウンタープロダクティブになるから戻りましょうとかいう考え方です。つまり自然対産業、あるいは自然対科学で考えて、科学技術を批判するという考え方です。
 二番目は、巨大産業の科学に対する批判です。例を挙げれば、原子力産業批判に近いようなタイプです。産業化している巨大科学は、個人の科学者の創意工夫を押し潰してしまうという視点がでてきます。あるいは、軍事科学というかたちで人びとを抑圧したり苦しめたりする科学になるという批判です。つまり純粋な知識の追求ではなく、支配のための科学になっているという視点。軍需産業だったら、その一部は研究すること自体まったく意味がないわけです。新しいクラスター爆弾の作り方考えましたというと、これは明らかに役立たない有害な科学技術です。産学連携批判という、今日ではまったく消え去ったスローガンにつながります。そうそう、産学連携は批判されるべきものだったというのが20年ぐらい前までは当然だったはずですが、今日では非常に良いことだとされています。
 三つ目が、もうちょっとアカデミーに近いところでの科学史あるいは科学哲学です。科学史的に、歴史的にみることによって、科学を批判的に見るという立場です。
 そのなかでは科学哲学や科学史にかなり影響を受けたと思います。この本のなかでもいくつか、脳科学の話とかですね、科学史的な立ち位置の文章が入っています。科学を相対化して見ながら、その歴史的な変遷を見ていくという立場に一番共感しているといえば共感しています。科学技術批判のなかでいえば、科学史的なものの見方が受け継がれるべきところかなという気はしています。
 それとあとはもう一つ、忘れてはならない点が別にあって、テクノロジーは開発した当初の目的と、実際に使われた時に、何が一番影響を及ぼすかっていうものが全然違っている場合があるということです。たとえば、ポケベルという技術が昔ありましたよね。これは基本的には営業に出ている社員を呼び出したりする時に使う、つまり管理の用具として使われるものでした。ポケベルというのをみなさん覚えていますよね。ところが、ポケベルの表示部に数字が出る機能が付いてくると、それで今の顔文字のはしりのようなものが登場して、ごろ合わせみたいなコミュニケーションツールとして使われるようになったわけです。
 つまり管理の道具がコミュニケーションの道具になって、あとは愛を語るメディアになってしまうとかいうことがあったとまとめることができます。テクノロジーは実際に使われていくなかで、予想外の展開を見せることがあるので、そのテクノロジーのもつ多様性を開いておくことは肯定することが必要だと思っています。問題はたくさんあって、臓器を体外で生かす技術があるということであれば、だいたいは悪用されるけれども、その悪用されることはわかったうえで、それがなんらかの潜在的な解放性をもつものかもしれないというところに賭けるという選択があるということです。現在よろしくない使われ方をしているからといって、それでその技術自体を否定するというものでもなかろうというふうに思っているところです。

 □
<立岩> 最初の段取りでは、今いらっしゃる方にいろいろ質問を受けるということなので、そろそろその時間に入っていきたいと思うんですけど。今、美馬さんの話を受けて言うとですね、一つ目の話で、ちょっと僕は関係するかなと思うのは、例えばそれ以降、自然・・・っていう言い方があるんですけどね。そういった科学技術批判みたいな流れの中に出てきた言葉が、そのままであるような気もするし、どこかでねじれちゃったような気もするし、ねじれ加減とかっていうのも定かではないんだけれども。今なにか、例えば私からみたらそれってどうなのって、あまり好きじゃないなみたいな。そういう流れのなかで用いられているという現実があるわけですよね。そうすると、やっぱりもう一回そこで自然なうんぬんって言ってしまう、それがよいことであるという話になってしまう、そこのあたりの仕掛けっていうんですかね。それはそれでやっぱり私は押さえておかなきゃいけないなということは思うなっていうのは一つ。
 それと関係なくはないんだけれども、科学史、科学技術論っていうのが、今どうなんだろうな、わりと個別のところにあって、わりと地味なものとして継承され発展をしているんだけど、もうちょっと、乱暴であったにせよ、何といったらいいかな、意気のいいというか、そういう科学論・科学史みたいなもの。そういった歴史もまた存在するわけですよ。中川さんの流れもそうかもしれないですけれども、それ以前にも例えば広重さんであるとか、いろいろな科学論者がいました。それは日本に限らず。それはそれで、じゃあ今の目で見ると、というか、どうだったんだという、そういう仕事もあるなと。
 それから一番三番目ときて二番目ですけれども、やっぱり産学連携っていうもの。産学協同っていうのはいかんって言っていたわけですよ。僕もそう言っていた。じゃあ昔そういうことを僕らが言ったのはおかしくて、間違っていて、改宗した結果今そういうことを言わないほうがいいという話なのかといえば、それはそうではないんだろうと思うんですよね。でもそれが論じられる対象ですらなくなっているのかもしれないとすれば、それをもう一回、じゃあ産業のなかに科学を、あるいは科学のなかに産業を、どうやって位置付け直すのかっていう。そういうテーマみたいなものがね、まだやっぱり残っている、残っているっていうか現存するんだろうなっていうふうに思いました。
 総じて言うとね、ちょっと僕、美馬さんと似ているっていうか、気分的なノリとしては分かるなっていうところがあってね。さっきおっしゃったようなことですよ。あぁそうかもな、みたいなことがあるんだけれども、そこからちょっと似ているかもしれないけど、でも僕は社会学者なのかなっていうわけで、そんな何かしらの気分、けっこう面白いかも、みたいな気分をもちつつ、でも常に現実っていうのは退屈な方に進んでいくっていうか、なる。そのしくみっていうか仕掛けっていうのが、やっぱり、それこそ社会的なものとしてね、存在してしまっている以上は、そのメカニズムっていうんですかね、機制っていうものをやっぱりみていくっていう仕事はあるんだろうなってことを改めて思いました。
 そしてまた、どっかで気分としてはもういけいけみたいなね、やればっていうのをおきながら、でもやっぱり甘いじゃんっていうことも世の中にはたくさん起こっているわけで、そういったときに、何をもってやばいというのか、というやっぱりすごく古典的な、倫理的なっていうかな、問いっていうのも結局は残るんだろうと。残らざるを得ないんだろうと。そういった意味で、最初の話の繰り返しになるんだけれども、今度の美馬さんの本っていうのは、それぞれのとばくちっていうんですかね。この話で行ったらけっこう難しい話になるよとか、こう考えたらけっこう面白いかもしれないとか、そういうポイントみたいなものがね、いろいろ散りばめられているというか、そんなふうに思いました。
 という感じでまとめてしまいましたが(笑)、あと20分ぐらいあるので、僕が司会になってもしょうがないんですけれども(笑)、せっかくいらしたみなさんの質問を、今日はメインは美馬さんなので美馬さんに聞いてください(笑)。僕はこれから司会になりますんで、美馬さんに質問のある方、あるいは何か一言申したいという人は挙手していただいてですね、あと15分間20分弱、時間を費やしたいと思いますがいかがでしょう。

<美馬> 本論に関係ないですけど自然死の話でね、前ちょっとだけ書いた話を思い出して。一人で孤独死っていうのがあるじゃないですか。明らかに自然死、すなわち医療の介入のない自然な死ですけど、自然死と言わないという点です。要するにそのときの自然というのは、事実を記述する概念ではなく、こうあるべきという規範概念であるということになります。だから、孤独死は自然死でよかったっていう人はあまりいないですよねっていうこと(笑)。
<立岩> 孤独死はけっこう面白いんですよね。孤独死をどう考えるかっていうのはね。まぁいいや。よくはないんですけれども(笑)。いかがでしょう。あと15分ほど。なかったらなんかしゃべっちゃいますよ、私は(笑)。

『母よ!殺すな』 <質問者> すいません。僕は美馬さんに尋ねたいわけじゃないんですけれども。たまたまなんですけれども、先月号の『現代思想』で美馬さんが取り上げられていて★、立岩さんも前世紀のなかでもっとも注目すべきもののひとつであると。『母よ!殺すな』という本が最近復刊されまして、それとちょっと共通点があろうかと思うんで、そこのところをお話いただければありがたいのですが。
<美馬> そうですね、私からいきますね。一つ思っているのは、60年代から70年代に日本語のなかで議論された、いくつかの議論があったことを書き留めておくべきだということです。それは例えば優生思想と障碍者の問題であるとかです。あともう一つ重要なのは、精神障碍者に関わる問題群です。とくに、精神障碍者の犯罪に対しての保安処分という、今日でもずっとある問題す。あるいは、障碍児に対して、医療をするのか、特殊学級にいれるのか、それとも別のやり方かという問題です。
 それらを今日みたときにですね、現在、生命倫理あるいは医療をめぐる問題として語られることの起源であったり、同時代の諸外国での経験とつきあわせてみると共通点が多いと思っています。ですからその意味では、その頃の議論を、今日の用語に近いかたちで位置づけ直すのは非常に重要と思います。
 障碍者一般と加えて、特にもう一つは、保安処分に関する議論です。保安処分というのは、一言でかんたんに言えば、精神障碍者が罪を犯す確率が高いというデマに基づいて、未だ罪を犯していない精神障碍者であっても、あるいは罪を犯して心神耗弱や心神喪失の場合に通常の刑期とは関係なく長期にわたって、裁判無しに病院に閉じ込めてしまうという議論だったわけです。そのときの日本での議論は、最近同じ時期のフーコーの講義録とかが日本語ででていますけれども、その頃にフーコーが同時代的に考えていた問題と重なっています。同じ先進国だから当たり前といえば、当たり前なんですが。
 もう一つ、二点目に関しては『母よ!殺すな』という本を巡る話題です。「親よ殺すな」でなくて「母よ殺すな」になっているところがジェンダーフリーではないですが。復刊するとかいう噂を聞いていたので、ちょっと読み直してみたら、いい本だと思って、雑誌『現代思想』に一つ論文を書かせていただきました。
 そのなかで一つの私の捉え方としては、障碍者運動のある時点で、端的に言ってしまうと、障碍者が市民以下、人間以下の存在で、あってはならない存在として捉えるのが現代社会の価値観だという考え方を非常に明確に打ち出したものがあったということです。あってはならない存在と対比されるのは、あってもいいけれども劣っている存在となります。括弧つきで劣った存在、たとえば生産性が低いとかいう点で劣った存在であるとみなすわけです。それに対して、あってはならない存在ということになると、特定の人びとをあってはならない存在としている社会そのものも変わらないといけないという結論にすんなり結びつきます。70年代的な言い方になりますが、健常者の側も障碍者の側も双方が変わることによって社会全体が変わっていかなければならないということが非常に明確化されるわけです。
 ここでのポイントは、あってはならない存在という用語、つまり障害者というものが市民社会のなかからは排除されていることを強調する考え方は、障碍者運動から自立生活運動へという流れとは微妙にずれてしまっているわけです。障碍者運動があって自立生活運動へという場合には、自分たちが自立した生活を送っていくということが一つの目標になっています。あってはならない存在を認めさせるという場合には、むしろ自立をさせない関係性、自立とは何かという意味が問われてくるわけです。非常に図式的な言い方になりますけれども。
 非常に散漫な言い方になりましたが、まとめると、一つは1970年代前後に日本で行われた議論を、今日的な文脈でどう位置づけることができるかということですね。もう一つは、そのときに、今日の障害者の十年とかで出てくるノーマリゼーションという考え方とは微妙に違う何かをすくいあげてみたかったということです。いい本だと思いますから、分厚くて重いですけど読まれるといいかと思います。
<立岩> ありがとうございます。一つ…
<美馬> 立岩さんの解説付です(笑)。
<立岩> そうです(笑)、すいません。
<美馬> でも解説付じゃないって書いてある解説付です(笑)。
<立岩> はい。さっきの話と関係して言うとね、僕はなんか自分たちが言いたいことを言う時に、確かにある種テクノロジーなりが、ロジカルにひらく可能性みたいなものを後ろにおいてね、そしてものを語っていくっていうあり方もありと思いつつ、別にそういうものを使わなくても言いたいことはたぶん言えるだろうし、そして言いたいことそのままではないにしても、それに近かったりそれのための材料をくれたり、ほぼ基本的には言ってくれたり。そういったものがたぶんあるんだろうっていう、そういうスタイルで僕は、スタイルっていうのかな、ものを考えているというところは、僕はありますね。
 なんで今コンピューター開いて思い出したのかというと、僕は美馬さんのものを最初に読んだのがいつだったかなとか思って。どうやらですね、黒田浩一郎さん、龍谷大にいらっしゃいます、その黒田さんが編集した『現代医療の社会学』っていう、まぁ全体としてはたいして面白くはない本が(笑)世界思想社から出ておりますが(1995年)、誰かいるかな(笑)、ちょっとまずいですけれども。そこで美馬さんは「病院」っていう章を書いて★、もう覚えてないかもしれないけど。その最後にね、僕の記憶が正しければ、ドゥルーズの『記号と事件』かな。それからの引用と、あと僕らが1990年に、心血を注いでというか、わりとまじめに――いまも毎日真面目に書いてはいるんですけど、いろんなものを――90年に書いた、『生の技法』っていう本があってね。それには今紹介していただいた話もちょっと出てくるんですけれども、そういう運動について僕らが調べて書いた本なんですけど、それと二つ、確か僕の記憶ではそんなに長くない、「病院」っていう、どっちかって言うと入門書というか、医療社会学ってこんなもんよみたいな本の、美馬さんが書いた一つの章の最後のほうに引用が並んでいてね。なんかそれが妙に嬉しかったことを思い出しました。
★美馬 達哉 19950425 「病院」,黒田編[1995:059-080]*
*黒田浩一郎編 19950425 『現代医療の社会学』,世界思想社,278+7p.,1950円
 たぶん美馬さんの文章を読んだのはそれが初めてで、その時は全く何も知らなかったんだけれども、あぁ美馬さんという人はこの本を読んでくれたんだと。そういうことがあって。たぶんドゥルーズが言ったこと、僕はほとんど読んだことはないですけれども彼のはあんまり。『ニーチェと哲学』というのは読んだことはあるかもしれませんが、それ以外は。たぶんそこに何か関係とか近さとかそういうものを、その12年前の、美馬さんが読み込んでくれたのかなっていうなことをちょっと思い出しました。
 それはともかくとしてというか、だから僕はそういう感じですよ。技術って面白いなって思いながらも、でもなんかその手前でも人間が考えられることってあるし。それってなんだろうっていうのもけっこう面白いなって思って。
 それでさっき紹介していただいたように、横塚晃一さんっていう、僕は気がつかなかったんだけれども、その人は美馬さんと同じ歳ぐらいかもしれない。40いくつ?、41?横塚晃一という人は脳性麻痺の人なんですけど、癌で死んだんですけど、42かなんかで死んでいるんですね。だから美馬さんも来年ぐらいに死ななきゃいけない(笑)、そういう歳で若死にした人です。その人が75年に『母よ!殺すな』という本を出して、亡くなった後、彼が亡くなったのは78年だと思うんで、その後81年に増補版というのが出ていて。それがしばらくすずさわ書店っていう本屋さんでいろいろあったせいもあってずっと出てなくて。
 それが出ました。ここ最近僕はその本の宣伝マンに撤することにしているので、その話しかしませんが、昨日も一個、その本の紹介を書いて、ホームページにアップしてあります★。じゃあ何がそういうものか、全体としてはね、何て言うの、理論的とかなんか難しいとか、哲学的とか全然そういう本じゃないんですよね。でも、けっこうこれは読もうと思ったらいろいろ読めると思っていて。で、まぁそれを一生懸命考えていて。どういうふうに読めるかみたいなことを、解説ではないんですけれども解説っていうところに書いておきました★。
★立岩 真也 2007/11/25 「『母よ!殺すな』・2」(医療と社会ブックガイド・77),『看護教育』48-11(2007-11):-(医学書院)[了:20070928]
★立岩 真也 2007/09/10 「解説」,横塚晃一『母よ!殺すな』,生活書院,pp.391-428,
 だから、なんて言うのかな、すごく当たり前というか、華々しい話ではないわけですよ。でも、そこからなんか言えることはあるはずで。僕は最低そのミニマムなところからものを発展して考えることができるだろうなというふうに思っているところがあります。
 そうじゃなくて、何かあるものが、暴走もするんだけど可能性もあって、その全体のなかからすくえるもの、面白いものをひろっていくというやり方もあるんだろうし。それが実はどこかで上手く、上手くというか、実は一致しているような部分もあったりするかもしれなくて、いや、すると僕は思っているんですけれども。いろんな攻め口っていうんですかね、言いたいものを言っていくときの。あるいはそのためには何から、ネタっていうか、糧になるものを探してくるのか。それはいろんなやり方があるのかなっていうようなことを思いました。
 そんなわけで、そんなことで仕切っていてもしょうがないんですが、時間は8時までっていうことですよね。だいたい後5分ぐらいなのでみなさん。こういうのってだいたい終わりかけになって質問とかするんで、みんな困るんですけど。もう5分前なので、もうなしで(笑)。美馬さんにあと4・5分で締めてもらうというので、みなさんよろしいでございましょうか。じゃあ美馬さんどうぞ。

<美馬> 別に締めるほどの内容ではないですが、宣伝として、いい本ですので買ってください(笑)。一家に二冊ぐらい置いてもらってもいいです。お友達への贈答品にも最適(笑)です。
 あと、今後の展望にはいくつかあって、一つはリスクの社会学です。もうすぐ本が出ますのでよろしく(今田高俊編『リスク学入門4 社会生活からみたリスク』、岩波書店、2007年)。もう一つはですね、脳神経倫理というものです。社会学に続き。生命倫理学にも進出してみようという野望を抱いております。はい。以上です。まとまりませんでしたけど(笑)。

<立岩> あと2分ぐらいで、質疑応答が終わると予想されるような質問があったら、(一同笑)あと2分ぐらいあるんで。いかがでしょう。美馬さんにお願いします。
<質問者2> 最初から手挙げていたんですけどちょっと言わせてもらっていいですか。
<立岩> あっ、すいません。見えませんでした。
<質問者2> ちょっと長くなるかもしれないんですけれども、(一同笑)
<立岩> でも短くしてください(笑)。
<質問者2> 大丈夫です。大丈夫です。今の社会が、要は新しいような状況にきているというような、とりあえず話だったと思うんですけど、その新しさがよく分からなかったのでお聞きしたいんですけれども、例えば昔のことを考えたりした時に、技術的な社会とかがありましたよね。そういう時に激励とかまでやっていたとかそういうのがあって、それっていうのは要するに、個人の体のなかの隅々まで、宗教的な考えというのを通していて、あるいは生贄で、例えばすごく限られたところですけれども人肉種とかがあって、心臓を取り出して食べたら元気になった気になるとか、そういう発想でいったら、臓器移植とわりと似通っているのかなっていうふうには思うんです。すごく荒っぽい言い方をすれば。そういう意味で、今のなかが、今の社会がわざわざ新しいことというふうにあえて強調なさるのがちょっと聞かれなかったので、説明をくださったらありがたいのですが。
<美馬> 科学史好きの立場からすると、それは同じですっていうことです。一つ違うとすれば、日本ないしアジアではですね、臓器というよりも気が重視される伝統がありました。流体的なものが体のなかにあって、それが滞ったときに病気になるという考えが主流です。その結果、少なくとも非西欧、特に東アジアにおいては、臓器を取り替えることが治療として行われることは伝統に反することです。西洋的な、あるいは呪術での病因論、つまり体のなかに悪魔がいて悪さをするということであれば、体のなかの異物を取り除く取り替えるという意味で、思想史的にはつながっているとは思います。
 もうちょっと違う水準での答えになると、心臓を食べるという呪術的治療ならば、社会的コミュニケーションの水準で生じているという面に注意すべきだということです。その場合なら、社会的なコミュニケーションとして臓器というものを考えて、言葉とか交換物としての機能を果たしていると理解しなくてはならないでしょう。今日の生政治あるいは生命に関するテクノロジーというのは、おそらくその言葉とかコミュニケーションを介さなくて、言葉なしに成立していく面があるだろうと思います。コミュニケーションとは無関係に効果をだす物質として位置付けられてきているという面では、西洋流の近代科学は異なっています。でも、それは一つの見方であって、結局は科学技術もコミュニケーションの一種だから一緒なんだという見方もできるというふうにも言えます。
<質問者2> ありがとうございました

<立岩> みなさんよろしいでしょうか。司会ではないんですが(笑)。二人しかいないので。今日はどうも、美馬さん、ありがとうございました。みなさんも…アナウンスっていうか、何だっけ、何もないんですか。ただ終わるんですか。(係の人の説明)…ということだそうです。…というアナウンスがありました。今日はそんなわけで、もっと話したいこととかいっぱいあるんですけれども、まぁ時間的にはちょうど二時間ということになりましたので、手を挙げていた人の手が見えなかったとか、まぁいろいろ、司会じゃないんですけども(一同笑)、いろいろ不手際もございましたが、それはお詫びします。今日はみなさんどうもありがとうございました。美馬さん、どうもありがとうございました。
<美馬> どうもありがとうございました。
(拍手)

美馬 達哉 20070530 『〈病〉のスペクタクル――生権力の政治学』,人文書院,257p. ISBN-10: 4409040863 ISBN-13: 978-4409040867 2520 [amazon][kinokuniya] ※ b m/s01
◆立岩 真也 2007/07/01 「書評:美馬達哉『<病>のスペクタクル』」,『東京新聞』2007-7-1:5


UP:20070902 REV:1129,1206,07
美馬 達哉  ◇立岩 真也  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇身体×世界:関連書籍  ◇医療社会学  ◇BOOK 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)