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「ベーシックインカムは答になるか?」

立岩 真也 20070916
障害学会第4回大会・シンポジウム「障害と分配的正義――ベーシックインカムは答になるか?」


 ◇働かない権利?〜労働の義務
  基本所得を主張するなら労働の義務を言っている。
  しかしその主張は同時に働かない権利を言っているようでもある。
  どうなっているのか。
   …続く…
 ◇行政コストがかからないという話はすこし違う
 ◇スティグマの話もすこし違う
   …続く…

◆立岩 真也 20060707 「質問(?)」Workshop with Professor Philippe Van Parijs 於:立命館大学

◆立岩 真也 20060801 「撤退そして基本所得という案――家族・性・市場 11」
 『現代思想』34-09(2006-08):008-020

□別の話を割り込ませることについて   「[…]ここ数年、この言葉を聞いたことのある人がいくらかは増えてきた基本所得についての議論を検討しようか。ただ、まずは、そこにすぐに行かないことにしよう。というのも、先のような論者を引かなくとも、そんなアイディアは以前よりあったと思うからだ。それは私にとってもまったく新奇なものではなかった。ただ、「無条件で」という主張がなされる時のその事情はどんなものだったかを考えると、それは普通に考えてもっともと思えるような状況に少なからぬ人が置かれてきた、置かれているからだ。
  生活保護の受給申請等に際して、貯金のあるなしやら、家族との関係やら、就職活動の具合やらをこまごまと聞かれ、生活について指図されるのだが、それはかなわないと思っていた人たちがいる。そして、働きたくても働き口はない人たちがいて、すくなくとも現状では働きようがない、あるいはひどくよくない条件で働くしかないのに、働くように言われてしまうことがあった。そして、働けないのに働きたくないとされてしまう。肢体のどこかが動かず、それを動かして行われる仕事ができないことは、見ればだいたいわかる。しかし、とくに精神障害が絡んできたときに、できないのかできるのにしたくないのか、判然としないことはある。したくない、とも言えるのだろうが、しかし、そのしたくなさは自らにとっていかんともしがたいといったことがある。しかしそれでも、さしあたり今日は、無理すればなんとかなるもしれない。本人にもよくわからないこともある。そして人は嘘をつくこともできる。そして生活保護に関わるケースワーカーは生活保護をとらせたくない。本人はそう思ってなくても、上からそのように指図されている。だから、生活保護を使いたい人たちは、勘ぐられるし、疑われるし、指図されるし、そして拒否されたり止められたりする。そんなことがいくらもあったし、ある。それでその人たちが、どうのこうの言わずに所得保障を、と主張するのはまったくもっともなことであった。また、「働かない権利を!」と書いてある垂れ幕を下げるのもまったくもっとなことことだった(「病」者の本出版委員会編[1995])★。
  しかし、このような事情であればもっともなことだが、しかしもっと普通にさぼってしまう人がいたらどうなのか。そんな人たちにも所得保障はするのか。と考えると、ただ無条件の給付を肯定できるのだろうか。そんなことが気にはなる。というか、すぐにそのことを言われてしまうから、何か返す必要が出てくる。また、他の言い方、主張のされ方もあった。そこで、論の整合性等々はともかく、たとえばさきに引いたヴァン=パレースの主張とはまた違ったところからなされた、しかし共通性もある主張について知っておいてわるいことはないだろう。」
□個人賃金制という案
□みなが労働者であるという主張
□個人賃金制の構想
□「社縁社会からの総撤退」について
□予告
  「ヴァン=パレースが、福岡で開催された国際政治学会の大会に招待されたついでに、7月7日に立命館大学にやってきたので、彼が書いていることについていくつか疑問をまとめることになった。そもそも、そんなことがあったために予定を変更したのだった。しかし、結局、その前段で、似ているところもあり、また違うところもあるようである議論をすこし紹介して、今回は紙数が尽きることになった。そのときに作った文章はホームページに掲載しているからそれをご覧いただけばと思う。論点は大きくは三つある。
  一つは、政治が関係する分配政策としては基本所得だけでいくのか、それがよいのかである。私は生産財の分配、労働の分配、そして所得の分配と三本立てがよいと考えている(立岩[2002][2004][2005])。どちらがよいのか。
  一つは、「労働の義務」についてである。「働かない権利」という主張は、最初の部分に記したように、また小倉や加納が撤退の主張において述べたように、わかる話ではある。またリベラルな立場から「生き方の自由」という標語のもとに主張される。ならばそういうことにしておいてよいのか。
  もう一つは、一律の基本所得という考え方からは、個々人の境遇の差異への対応は肯定されるのか、肯定されるとしたらどの程度肯定されるのかという問題である。私はそれこそが肯定されるべきだと考えるのだが、基本所得論者はそうでもないようだ。そしてこのことに関わってヴァン=パレースは不可解、と私には思える、議論をしている。
  以上についてこのたび作った文章を書き直し、書き足すことから次回は始まるはずである。

◆労働の義務について・再度――家族・性・市場 12
 20060901 『現代思想』34-10(2006-9):8-20

□事情の説明
□義務は与えられる
 労働の義務について、おおまかなことは、この連載の第9回(6月号)の注に簡単に記し、さらにそれにすこし書き足して、『希望について』(立岩[2006a])に再録した「ニートを生み出す社会構造は」(立岩[2005])に付した新たな注とした★04。ただ、そこでは、実際の政策としては就労を要求する必要はない、むしろ現今の状況の下ではすべきでないことを主に述べた。ここでは、もうすこし基本的なところから述べる。論の範囲はずいぶんと広がってしまう。迂遠なことのように思われるだろうが、それでもひとたびは必要ではあろうと考える。
 まず基本所得の主張との関係から。基本所得は(働けない人だけではなく、働くことができても)働かない人にも支給される。だから、それは働く義務を否定していると受け止められることがある。もしかするとこの政策を主張する本人たちもそう思っているかもしれない。しかしそんなことはない。義務は基本所得の主張そのものの中にある。まず誤解を解くことから始めよう。
 基本所得を主張する人たちは、それを受け取ることは権利であると言うだろう。とすれば、既に、受け取られるものを提供するのは義務である。このような意味で、基本所得を支持する人たちも義務を認めている。でなければ税金を使った基本所得は成立しない。
 このことは社会的給付を認めるすべての主張について言えることである。人の権利を認めることは、その権利を認める義務が人々に課されることである。人が生きる権利があることは、生きることを可能にする義務があるということである。生存・生活のために消費は必要であり、そのために生産は必要であり、労働は必要である。これは自明である。生存が権利であるなら、その手段としての労働は義務だと言える★05。
 もちろん、実際には強制することなく、例えば自発性によって、必要なだけが得られることはありうる。そしてそれはよいことであるかもしれない。しかしこのことは、義務は義務としてあることを否定するものではない。そのことは現実に強制を発動する必要がないことを言うだけであるからである。現実の条件が変われば、現実に義務を課すこともなるだろう。また、一部の人たちの自発性によって必要が満たされたとして、ではそれ以外の人たちに義務がないと言えるかと考えると、そうではないとも言いうる★06。
 以上を基本所得という政策を主張する人は認めざるをえない。ただ、その人たちは、労働を強制しているのではなく、働いて何かを生産した場合、収入を得た場合に、その一部を拠出すべきだと主張しているのだと言うだろう。そしてこれは、私もリバタリアンの批判に関説して述べたことでもある(立岩[2004:43])。しかし、ただそのことを言って終らせることもできない。たしかに徴税は狭い意味での強制労働ではないにしても、強制ではある。これを含めて考えておく必要がある★07。

□どの範囲にある問題なのか
 どのような義務であるのか、どこまでが義務なのか。
□1・離せないもの★08 □2・負荷
□特定された行為の義務はあまり課される必要がない
□義務としてなされると無効になる行ない
□他人に役立たないもの/必須であるもの

☆02 やはり前回にお知らせしたことだが、ヴァン=パレース(Van Parij[1995]等)がやってきて、七月七日で立命館大学でワークショップがあった。そこで私は、本文に記した三つの質問をさせてもらった。ヴァン=パレース氏の講演や、質問への応答などについて報告するのがよいのだろうが、その余裕はない。私の質問の文章は私のホームページに掲載してある。
☆04 […]本連載の第4回(1月号)では次のように述べた。
 「私は――実際の政策の水準というより、原理的な水準では――労働の義務を認めるので、このアイディアを主張する人の一部とは異なる立場に立つ。」
 本に労働の義務についての注を付したのも、今回この文章を書いているのも、この辺りについて言えることを言い、さらに考えてみようと思うからである。では現在の課題としては何があると考えているか。まずは生活保護の制度をもっとまとにもせよという、ただそれだけのまったく慎ましいことを思ってはいて、「会社主義」をどうするかといった趣旨の雑誌の特集にそのことを書いた短文(立岩[2006b])を載せてもらった。」

◆ワークフェア、自立支援――家族・性・市場 15
 20061201 『現代思想』34-14(2006-12):8-19

◆ワークフェア、自立支援・2――家族・性・市場 16
 20070101 『現代思想』35-1(2007-1):8-19

◆ワークフェア、自立支援・3――家族・性・市場 17  20070201 『現代思想』35-2(2006-2)8-19
□復習
□権利と義務の割り振りという問題

 「(1)人々が暮らせるだけのものを得られるべきであるとしよう。そこで得られるものを「基本所得」と、言いたいのであれば言うこともできるだろう。先回りすると、(2)との兼ね合いで、また他の理由で、これが減額されることはありうる。しかしそのことは(1)を認めないことではない。(ここで立場は分かれるかもしれない。このように主張する立場があるということである。)
 (2)同時に、労働の義務はあるとする。このことも認めざるをえない。むしろ(1)を認めるなら、そのとき既に義務を認めている。このことをこの連載の第12回「労働の義務について・再度」(二〇〇六年九月号)で述べた。権利として認めるなら、その権利を実現する義務があるということだ。その義務の履行を、現実に法的・政治的な強制として課すことをせずにすむ場合はある。しかしこのことは義務があることを否定するものではない。  もちろん(1)の立場をとらず、消費の必要、のための生産の必要、のための労働の必要という場所から始めるという手もある。この場合には、必要な消費の水準の設定によって、(2)は強い要請でなくなることがある。他方、(2)は基本所得を言う人こそが認めるしかないことである。ここで基本所得を主張するある人たちが、――以下に私自身が述べるような理由他から、実際に強制するのはやめておいた方がよいというのではなく、基本的な立場として――「働かない権利」を主張するなら、その人たちの主張は整合していないから、その人たちとは別れることになる。
 次に、(2)について実際になにごとかを考え、せざるをえないのは、働くことが――後でさっそくその仮定をゆるめることになるのだが――その人にとって負(−)のことであると考えられる場合である。すると、そこになにもないと、よいこと(+)であり必要である消費のために必要な生産物が調達できないことになる。すると、なにか手立てをとらなければならないということになる。
 こうして(1)と(2)を二つとも認めるとして、問題は(1)と(2)の兼ね合い、(1)の実現のための(2)の配分のあり方ということになる。つまり、権利と義務とをどう配分するかである。ここまでも、こう考えるほかないはずだ。そこでどうするか。
 ここで考えに入れるべきことは二つある。一つは、それが正しい方法であるかどうかである。一つはその方法がどこまで有効なのかである。二つは関連するが、同じではない。後者について、目的はよいのだが、そして、そのよい目的にとって有効な手段であることはあるが、だからその手段がよい、それを採用すべきだということにはならない場合がある。この主題の場合には、各人の受け取りを差異化することが生産を得るために有効であるとして、そして生産を得ることはよいことであるとして、しかし差異化することがよいことであるとはならないということである。

□仕事を課すこと/褒美を与えること
□褒美に釣られない人のこと
□苦労できない人にとっての迷惑
□決定的な手段はない

「☆03 立岩[2001a→2006:177-178]でこのことに言及している。そしてそこでは、これが所得保障だけでなく、既存の労働市場への参入が阻まれている人が労働を求める理由の一つであり、所得の分配だけでなく労働の分配が正当される理由の一つであるとした。
 それは基本所得(ベーシックインカム)(昨年十二月号の特集では堅田・山森[2006])に関連して述べたことの一つでもある。私は所得の分配とともに生産財と労働の分配があってよいと考える。
 他に、一人ひとりの違いに対応して保障は一律であるべきではないということが一つ。この主題はVan Parijs[1995]でも論じられているが、その論には奇妙なところがある。立岩[2006b]でこのことにすこしふれた。
 そして、いま記したことも含め、社会的分配は、個別主義から逃れることはできないし、逃れるべきでもなく、逃れられるふりをするべきでもないというのが一点。
 そしてもう一つ加えると、やっかいな問題として、私的扶助・扶養、贈与という契機にどう対するかがある。」

◆労働を得る必要と方法について――家族・性・市場 18
 20070301 『現代思想』35-3(2007-3):8-19

◆技術について――家族・性・市場 19
 20070401 『現代思想』35-(2006-4):

◆人の数について――家族・性・市場 20
 20070501 『現代思想』35-(2006-4):

◆人の数と生産の嵩について――家族・性・市場 21
 20070601 『現代思想』35-(2006-6):

◆生産・消費について――家族・性・市場 22
 20070701 『現代思想』35-(2006-7):

◆夢想を回顧すること――家族・性・市場 23
 20070801 『現代思想』35-(2006-8):

■文献
堅田 香緒里・山森 亮 2006 「分類の拒否――「自立支援」ではなく、ベーシック・インカムを」、『現代思想』34-14(2006-12):86-99
立岩 真也 2006b 「だからこそはっきりさせたほうがよい」、『グラフィケーション』
――――― 2006b 「自由主義及び修正的自由主義に就いて」、『情況』第3期7-6(2006-11・12):68-87(特集:諸倫理のポリティックス)
――――― 20060707 「質問(?)」Workshop with Professor Philippe Van Parijs 於:立命館大学
Van Parijs, Philippe 1995 Real Freedom for All: What (If Anything) Can Justify Capitalism?, Oxford Univ Pr
山森 亮 2003 「基本所得――多なる者たちの第二の要求によせて」,『現代思想』31-2(2003-2):130-147


UP:20070831 REV:
障害学会第4回大会  ◇ベーシックインカム  ◇立岩 真也 

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