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書評:小畑清剛『近代日本とマイノリティの<生−政治学>
――シュミット・フーコー・アガンベンを中心に読む』

立岩 真也 20070901 『論座』2007-9:310-311
http://opendoors.asahi.com/ronza/


  *草稿 2007.7.3
  *掲載されるものとすこし異なります(掲載される文章では引用頁数が記されていない等)。7.17

  「本書で試みたことは」副題にある三人、他(長くなるので略)の「現代思想と、ハンセン病患者、先天性障害者、被差別部落民、アイヌ、沖縄人などが辿った運命を遭遇させることである」(「おわりに」より)。続けて、それが難しいことについても、「学知の普遍性と人間存在の多様性の相剋に関わる実に困難な問題」、等と著者は述べている。それで、その困難な仕事はうまくいったか。
  いかなかったと私は思う。だがそれは、やはり続けて著者が言うように、例えばクラシックと演歌を融合させるのが難しいようにその作業が難しいから、ではない。誰かの思想をそれとして論じるだけでなく、それを踏まえ、具体的な対象について考えものを言うことには意味がある。うまくいけば意義がある。それには何も問題はない。よいことだ。著者に異議はない。そして著者がとてもまじめな人であり、「不利な立場の少数者」を研究対象とするにあたって必要であると著者が言う「温かい共感的心情(ウォーム・ハート)」の持ち主であることも疑いない。
  うまくいかなかったと言うのは、私だけかもしれず、そうあってほしいと思うが、差別のことを考えるにあたり、学べるものがなかったからだ。
  私も「理不尽」と思える差別について何を言ったら何か言ったことになるのか、すこし考えたことがあった。それで本書でも引かれる横井清ら歴史学者の著作もいくらか読んだ。ただ、これまで言われた以上のことを言えると思えず、それ以前に、何を言ったらよいのかわからず、それで誰か何か言ってくれるのを待つことにしてきた。だから期待が大きすぎたのか。そうでもないと思う。問題の厄介さはある程度はわかるつもりだ。だから、いくらかでも議論を進めてくれるなら、それで十分だとも思っている。自身がふがいないから、そう厳しい立場に立てない。そんな気弱な私だが、本書は肯定的に評価できない。
  著者は本書の「一応の研究成果」は以下だと言う。「不利な立場の少数者は、「友敵結束」「「教義=ドグマ」」「結合」「内閉」「切断」という歪んだ「精神の構え」ないし「生の形式」に陥っていたため、らい予防法・優生保護法・北海道旧土人保護法等の「法という名に値しない法」=「管理的指令」を廃止することができなかった」。「そして、そのような歪んだコミュニケーションへと不利な立場の少数者を追い込んだのは、有利な立場の多数者が行使した「牧人=司祭型権力」などによる作為である」。以上も「おわりに」からだが、本文にも類似の文章は多くある。例えば、「らい予防法がごく最近まで廃止されなかった原因」は「善意の医師たちが意識的ないし無意識的に行使した「牧人=司祭型権力」[…]によって、ハンセン病患者の多くが内閉という歪んだコミュニケーションに陥ったことに求め」られる(二〇九頁)。
  「冗談ではない」、と、激しく糾することもできよう。
  支配者にうまくあしらわれ、被差別者同士が「(連帯すべき)人と人との”つながり”を切断してしまう」(二七六頁)ために、悪法が存続したという。代わりに、「差別や抑圧からの解放」のためには、「まず内閉している不利な立場の少数者に対して外部の他者との社会的回路を開くことを促し、同時に彼(女)らに切断が連帯・共闘すべき他者との”つながり”を不可能とすることを明確に示」すことだという(二七〇頁)
  まず、作為的な分断があり、それが被抑圧者の力を弱めてきたこと、それは事実だろう。しかしそれは皆が知っていることだ。「つながり」をもち、力を合わせるなら力が強くなるだろうこともまた自明なことだ。誰に教わるまでもない。
  次に、そうした「分裂」があった「から」、廃止されるべき法が廃止されなかったなどというのは、間違いである。これは「仲間割れ」したから敵に負けたのだという話である。むろん、その仲間割れは敵が仕掛けたものだと(もともとは敵が悪いのだと)はされる。しかしそれを敵に騙されるほど愚かだったとも言える。それは乱暴だ。著者はどう考えても乱暴な性格の人ではない。しかし、実際に、そのように乱暴にまとめられてしまっている。らい予防法がなぜかくも長く続いてしまったのか。これは問うてよい問いであるだろう。しかし著者の答えは、その問いへの答えとしては到底納得できるものではない。
  この問いに私は答がない。ただ第一章でとりあげられる「優生思想」については、少し勉強し考えたことがあり、とりあげられる人や本になじみがあるから、著者が何かを加えてくれるかくれないか、より見えやすい。
  一つ、「国家権力」がそれを指示し発動するという図式が基本的に維持される。しかしそう簡単なものではないだろうという認識から、偉い学者でない人によって、この主題について様々が考えられてきたのだ。それを継いで考えた上であらためて国家を名指し、そして糾弾するのはよい。しかしそんな構えの議論にはなっていない。
  一つ、その国家権力が仕掛ける「低価値者」との戦争に抗するために、「われわれ=健常者=友」対「かれら=障害者=敵」という図式を壊すために、この二者が「つながる」ことが大切だと言う。金子郁容のボランティアの本、北島行徳の障害者プロレスの本、渡辺一史の『こんな夜更けにバナナかよ』があげられる。みなよい本だ。しかし本書の構図の中にこれらが置かれてよいことがあったと思えない。こうして私は、足されたものを見いだせず、現場に存在してきた思想から差し引かれたものしか見ることができなかった。

◆小畑 清剛 20070517 『近代日本とマイノリティの〈生-政治学〉――シュミット・フーコー・アガンベンを中心に読む』,ナカニシヤ出版,308p. ISBN-10: 4779501407 ISBN-13: 978-4779501401 2730 [amazon][kinokuniya] ※ b


UP:20070703 REV:0717,1124
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