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まだ議論が足りない<
立岩 真也
2007/04/20
『毎日新聞』2007-04-19朝刊
http://www.mainichi.co.jp/
*題は付けられた題。「普通の順番で考えよう」が筆者が付けた題
*以下は草稿です。13字×93行
『毎日新聞』2007-04-20朝刊、「論点」(3人の意見を掲載)のためのものです。『毎日新聞』、お買い求めください。
「議論を尽くせ」と言うのは、自分の考えがない人の決まり文句のようで、気がひける。しかしこれは時間をかけた方がよい。
「尊厳死」の法制化、「ルール作り」を強く働きかけてきた「日本尊厳死協会」が最近治療停止のガイドラインを作った。例えば、人工呼吸器を付けて暮らす人がそれを外して(外させて)死ぬのを認めるべきだとしている。自殺幇助を認めよということである。だが「停止」を言う本人たちは、生きるのに最も困難を背負い込まされた人たちである。周囲に気兼ねし、生きる価値がなくなったと思い、死を望み、けれど人に止められ気をとりなおし、何十年も生きている人たちがたくさんいる。それなのに、これからは本人の言うとおりにしようというのである。
尊厳死協会の多くの会員も救急医学会の多くの人たちもそれは考えていない、と言うだろう。認めるべきは、あくまで「無益な治療」を受けないことだ、と。だが、これは認めて当然ということとそれはまずいというものと、どこからがどう違うのだろう。これはそう簡単ではない。だから、よくわからないまま、認めないと言ってきたはずのものを、いつのまにか同じ団体が認めてしまったりする。
この簡単でない問題をまじめに考えた人たちが出した一つの答は、どんな手間のかかる状態になっても生きられることが実際に本当に保障されるなら、その時は本人が決めるのを認めてもよいというものだ。これは、たんに本人の言うとおりにしようという答よりよほどもっともだ。
しかし、そういうことは話し合われない。生きられる環境のこと、たとえば医療費のことと、終末期の決定とは別だと言われる。実際、今回の厚労省のガイドライン作成にあたって「生命の尊重」の文言を本文から外したのも同じ理由からとされた。二つはたしかに同じではない。しかし明らかに、二つは現実につながっている。その場合、一方の生きる話は別だからと言ってしないまま、死ぬ方の手順は決めましたとなることが何を意味するか。これを死への脅威と感じる人がいるのはまったく当然のことである。
何をしても生き延びられない時は、その判断は難しいとしても、ある。その時、益のない加害的な行いをしないのはよいだろう。だがその前にまず、命を大切にする本業をきちんとし、人の状態で扱いを区別しないという基本をまずしっかりさせることだ。その上で第二に、何がどんな意味で誰にとって無益・有害なのかをよく考えることだ。
なにかきまりがないと殺人容疑で捕まってしまうかもしれないと医師が心配する気持ちもわかる。しかし問題はもっと大きい。今きまりを決めないと人が死んでしまうというのなら、きまりを作るのを急ぐ必要があるが、これはそんな主題ではない。肝心なことはまだこれから、考えてない、決まっていない。きまりを作る側もそう言っている。その通りだ。向かう方向が決まってしまったのではない。
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*第二草稿
「議論を尽くせ」と言うのは、自分の考えがない人の決まり文句のようで、気がひける。しかしこれは時間をかけた方がよい。
「尊厳死」の法制化、「ルール作り」を強く働きかけてきた「日本尊厳死協会」が最近治療停止のガイドラインを作った。例えば、人工呼吸器を付けて暮らす人がそれを外して(外させて)死ぬのを認めるべきだとしている。自殺幇助を認めよということである。だが「停止」を言う本人たちは、生きるのに最も困難を背負い込まされた人たちである。周囲に気兼ねし、生きる価値がなくなったと思い、死を望み、けれど人に止められ気をとりなおし、何十年も生きている人たちがたくさんいる。それなのに、これからは本人の言うとおりにしようというのである。
尊厳死協会の多くの会員も救急医学会の多くの人たちもそれは考えていない、と言うだろう。認めるべきは、あくまで「無益な治療」を受けないことだ、と。だが、これは認めて当然ということとそれはまずいというものと、どこからがどう違うのだろう。これはそう簡単ではない。だから、よくわからないまま、認めないと言ってきたはずのものを、いつのまにか同じ団体が認めてしまったりする。
この簡単でない問題をまじめに考えた人たちが出した一つの答は、どんな手間のかかる状態になっても生きられることが実際に本当に保障されるなら、その時は本人が決めるのを認めてもよいというものだ。これは、たんに本人の言うとおりにしようという答よりよほどもっともだ。
しかし、そういうことは話し合われない。生きられる環境のこと、たとえば医療費のことと、終末期の決定とは別だと言われる。実際、今回の厚労省のガイドライン作成にあたって「生命の尊重」の文言を本文から外したのも同じ理由からとされた。二つはたしかに同じではない。しかし明らかに、二つは現実につながっている。その場合、一方の生きる話は別だからと言ってしないまま、死ぬ方の手順は決めましたとなることが何を意味するか。これを死への脅威と感じる人がいるのはまったく当然のことである。
どうしても生き延びることができず、生き延びるために役に立たず益をもたらさないことをしないことはあってよいと私は思う。だがその前にまず、命を大切にする本業をきちんとし、人の状態で扱いを区別しないという基本をまずしっかりさせることだ。その上で第二に、何がどんな意味で誰にとって無益・有害なのかをよく考えることだ。
なにかきまりがないと殺人容疑で捕まってしまうかもしれないと医師が心配する気持ちもわかる。しかし問題はもっと大きい。今きまりを決めないと人が死んでしまうというのなら、きまりを作るのを急ぐ必要があるが、これはそんな主題ではない。肝心なことはまだこれから、考えてない、決まっていない。きまりを作る側もそう言っている。その通りだ。向かう方向が決まってしまったのではない。
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*第一草稿
「議論を尽くせ」と言うのは、自分の考えがない人の決まり文句のようで、気がひける。しかしこれは、時間をかけた方がよい。
「尊厳死」の法制化、「ルール作り」を強く働きかけてきた
「日本尊厳死協会」
が最近治療停止のガイドラインを作った。例えば、人工呼吸器を付けて暮らす人がそれを外して(外させて)死ぬのを認めるべきだとしている。自殺幇助を認めよということである。だが「停止」を言う本人たちは、生きるのに最も困難を背負い込まされた人たちである。周囲に気兼ねし、生きる価値がなくなったと思い、死を望み、けれど人に止められ気をとりなおし、何十年も生きている人たちがたくさんいる。それなのに、これからは本人の言うとおりにしようというのである。
尊厳死協会の会員も含め多くの人たちは、そこまでは考えていない、と言うかもしれない。認めるべきは、あくまで「無益な治療」を受けないことだ、と。けれど、これは認めて当然ということとそれはまずいというものと、どこからがどう違うだろう。これはそんなに簡単ではない。だから、よくわからないまま、認めないと言ってきたはずのものを、いつのまにか同じ団体が認めてしまったりする。
この簡単でない問題をまじめに考えた人たちが出した一つの答は、どんな手間のかかる状態になっても生きられることが実際に本当に保障されるなら、その時は本人が決めるのを認めてもよいというものだ。これは、たんに本人の言うとおりにしようという答よりよほどもっともだ。
しかし、そういうことは話し合われない。生きられる環境のこと、たとえば医療費のことと、終末期の決定とは別だと言われる。実際、今回の厚労省のガイドライン作成にあたって「生命の尊重」の文言を本文から外したのも同じ理由からとされた。二つはたしかに同じではない。しかし明らかに、二つは現実につながっている。その場合、一方の生きる話は別だからと言ってしないまま、死ぬ方の手順は決めましたとなることが何を意味するか。これを死への脅威と感じる人がいるのはまったく当然のことである。
当然の順番の「ガイドライン」を作ることはそんなに難しいだろうか。私は、ある病院の倫理委員会に関わっているが、そこで話し合っているのは、この病院は命を大切にする本業をきちんとします、人の状態で扱いを区別しません、それをまずはっきり言おうということだ。その上で、苦痛を和らげ、不快な思いを減らすことはできるはずだ。
なにかきまりがないと殺人容疑で捕まってしまうかもしれないと医師が心配する気持ちもわかる。しかし問題はもっと大きい。今きまりを決めないと人が死んでしまうというのなら、きまりを作るのを急ぐ必要があるが、これはそんな主題ではない。肝心なことはまだこれからで考えてない決まっていない。きまりを作る側もそう言う。その通りだ。もう方向が決まっていると受け取ることはない。
UP:20070417 REV:0417,1215
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安楽死・尊厳死 2007
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