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多言語問題覚書

ましこひでのり編『ことば/権力/差別――言語権からみた情報弱者の解放』の書評に代えて

立岩 真也 2007 『社会言語学』7 [English]
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2816/


まえおき

 言語の問題は気にはなってきたが、そしていちどは考えたいと思っていたが、考えることがなかった。一つに、そこまで手を広げられない、そして別の人たちがやっているようだから、よろしくお願い、ということでもあった。ただもう一つ、どうもこれは難しく、あまりすっきりとした楽しい解が出てくるようにも思えなかった、気の効いたことが言える気がしなかったということもある。だから、ではないとしても、不勉強だった。この主題については、数冊の本を見たにすぎない★01。そして、このたびましこさんからこの本を送っていただき、一冊が増えた。そして、たまにはこの領域を研究しているのではない人間にもなにか書かせてみてもよいかと思ったのかもしれない、書評の依頼などいただいてしまった。
 たぶん、今までなされてきた議論をきちんと勉強すれば、そこでは私が思いついて以下に並べるそのすべてが十分に論じられているはずだと思う。ただ、今まで私が読んだものがそれほどきちんとした本でなかったせい、つまり勉強不足のせいなのだろうが、いくつかもっと整理し論じてよいことがそのままになっている印象はあった。やっかいな問題ではあるから当然なところもあるとしても、その問題の所在について、いくつか整理できることはあり、なにが面倒な問題であるのかについて言えることはあるのではないかと思った。そしてこの度のこの本だが、ひととおり読んでみて、いずれの章も重要なことについて書かれているものの、そのすっきりしないところがすっきりしたとは思わなかった。というか、この話がすっきりいかないそのゆえんが明示されているとは思わなかった。
 そこで、まさに浅学菲才ながら、またわずかの時間しか考えることに使えなかったのではあるが、いくつかのことを述べる。多様な主題について様々が論じられている個々の文章を個々に論評すること、感想を述べることをやめて、私がすこし考えてみたことを述べることにする。だから、以下まったく「書評」にならないのだが、ご容赦願いたい。
 この問題のやっかいさはどこにあるのだろう。それを考えようというのだが、関連して二つのことを思う。
 一つには現実の変更可能性に関わる。社会の中には変更が難しいこととそれほどでないこととがある。むろんその難易度は様々な条件によって変わるのではあるが、言語を巡る諸現実はそう簡単に変更することができない。例えば今ある様々の代わりに新しい一つの言語を使おうという主張がなかなかよい主張であるとしても、それががすぐに可能であるかどうか。そう簡単なことに思えない。
 と同時に、とくに個人のレベルでは、その困難はたしかに相対的なものであり、まったく可能性がないわけでもない。つまり、別の言語の習得は多くの場合にはまったく不可能ではなく、やってできなくはないとされる。努力に比例するかどうかはわからないが、それにある程度対応はするだろう。これは視覚障害の人が見えないものは見えないと割り切れる、割り切るしかないのと違う★02。「物理的」に不可能であればそれはそれで仕方がないということになる。しかし、やってできなくはないし、実際、できている人もいる。
 こうして、できなくはないが難しい、難しいができなくはない。そんなことが言語を巡ってはある。
 そしてもう一つ、現代の状態に批判的な態度をとるとして、あるものがよくないと思うその根拠から、ときに自らの論が否定されることもあるように思う。自らが受け入れる基準から、事態をうまく批判できないことがある、また代案が否定されてしまうことがあるように思う。そしてそのことにどこまで自覚的であるのかである。この本を読んでいてもそのことを思った。
 例えば、ある言語、具体的には英語、イングランド語の支配、専制(ましこ[2006])を批判しようと私も思う。さてどのように批判するのか。その根拠の一つが、人々が既に使っている言葉を大切にしよう、使用されてきたものを「保存」しようということであるとしよう。「言語権」という発想にしてもそんなところがあると思う。だが、とすると、よりよいものにしようという「変更」はよくないことになるかもしれない。では現状を「保存」すればよいのか。もちろんそれもよくはない。とするとどうなるのか。こんなところを考える必要があると思う★03。

誰もが知っていることの確認、他

 まず以下、ここでは話を簡単にするために言語Aと言語Bの二つを考える。ただこれは実態からは離れており、このモデルではかえって不都合なことは多々ある。実際には、7割の人が言語Aを使い、3割の人が言語Bを使うということにはなっていない。2割ほどの人が言語Aを、1割の人が言語Bを、そしてさらに様々の言語の使用者がいて、合わせて10割になるといった状態の方が世界の現実に近い★04。このことを忘れないようにして、必要な場面では、思い出して、述べようと思う。
 二つがある。一つは帰属や文化、同一性や威信に関わる。もう一つは生活の手段としての言語という側面に関わる。
 第一に、言語は手段であるだけではない。人々が大切にしているものがあって、それは言語と結びついている。言語Bを使う人たちは、そのことに関わるなにか大切なものがあると思う。そしてそれもまたAの人たちにとっても同じである。文化という言葉を使うのがよいのかどうかわからないのだが、その言葉を使うなら、言語と文化とはつながっている。言語が思考の型を規定するといったこともあるだろう。ある言語を使うこと自体の誇りといったものもあるだろう。ある単語がなにしからの感情を喚起するといったこともあるだろう。
 第二に、言語がたんなる手段でないこと、手段以上のものであるというのはまったくその通りであるが、そのたんなる手段以上のものを習得し使うことは、生きていくで大切な手段である。このこともまた否定できない。言語Bを使える人たちが言語Bを使うことは便利である。これは言語Aを使える人たちが言語Aを使うのが便利であるのと同じである。しかし言語Bをもっぱら使ってきた人たちが言語Aを使うことはそうではない。逆もそうである。
 以上に関わる利益、不利益、その不均衡があり、支配/被支配の関係がある。以下、おもには第二の面を念頭に置いて考えるが、言えることの多くは、第一の面についても言えることのはずであり、また第一の面に関係している。
 Bを使う人たちはBを使うことを禁止されてはいない。それは認められているとしよう。しかしAが使用される域が広かったり、経済力が強かったりして、関係をもたざるをえず、影響を受けざるをえない。Aが使えないと不便で、使えるようになるのは大変で、しかし結果としてそう上手にもならず、それで不利益を被る。他方、自らの言語Bは、使うことが全面的に禁じられてはいないとしても、制限されていたり、きまりでそうなっているわけでないとしても、使える範囲が限られていることがある。別の言語の使い手に伝えることが難しいことかある。
 一つは、Bの人たちがAを使うあるいは使えるようになる際に支払うコストである。それには自分が担う場合と、人々が担う場合とがある。つまり自分が言語Aを取得するために払う部分がある(もちろんその支払いは金銭の支払いに限ったことではない)。そしてこれはその人自身の支払いとしてその人につきまとう。他方、人々に担わせる場合もある。通訳を誰かがしてくれるといった場合には、自分自身に習得のコストはない。しかし、よほど上手な通訳であっても、うまく伝えること、伝えてもらうことは難しい。その損失がありうる。またその人たちに働いてもらうための支払いが自分(たち)に課せられるなら、その支払いもある。
 一つは、得られるものの差である。言語Bを使い慣れている人にとっては言語Aは不便である。しかし言語Aが使われている。うまく使えない。使えないこと、通じないこと自体がその人たちにとって悲しいことであったりするのだが、さらに、例えば職に就きにくいといったことが起こる★04。それが排除の理由に使われることもあるだろう。あなたは言葉ができないから雇わないと言われるのだが、それは採用しない正当な理由とされるから言われる理由にすぎず、別の理由で雇わないということもある。ただ、使えないから雇えないという現実もまたいくらかある。現実には両方の場合があり、そしていずれかを決することは難しい。そんなこともある。
 他方、Aの使用者は、自分たちの言語Aが広く用いられているから、それを使っているだけですむ。Bを学び習得することがあるとしても、それは趣味としてのことである。誰でも知っている明らかな不均衡がある。
 そしてこれは「自然」の流れとしてもそうなってしまう。政策によって、政策だけによってそうした事態が生じるというのではなく、例えば商売に際して、多くの客・取引相手が言語Aを使っているなら、それは自らの商売に関わる。それで不利益を被る。それでは困るから、学ぶ。それに伴う支払いがあり、支払った上で残る不利益がある。他方、多数派は自分たちだけで商売になるから、とくに言語Bを気にする必要がないかもしれない。そんなことが起こる。ここではたんに人の数が問題なのではない。労働の場を求めているのであれば、そういう仕事がある場所の言語が強くなる。
 ただ同時に、これは後の話に関係してくることだが、一方の言語Aが汎用言語のような位置をあたえられ、もともとその言語Aを使っていた人がそのままでいられるという状態はまた「合理的」でもあるということは押さえておこう。Aの使用者がBを使え、Bの使用者もAを使え、両方が両方を使えるならそれはよい。しかし実用的には、いずれかが他方の言語を使えるので足りる。Aの使用者がB習得のための苦労をせずにすむとなれば、支払いの総量は少なくなることになる。そして多数派であるAの使用者がBを習得する苦労をせずにすむ方が、B使用者がAの習得をしない場合よりも、コストはより少なくなる。同じことをするのであればBの使用者たちにやってもらった方がよいということになる。ここでは明らかに多数派が有利なのだが、全体のコストとしてもその方が少ないことがある。このことをどう解するかについて後で述べる。
 現実は以上のようであるとして、ではどうするか。策としては、大きくは三つである。
 既存の言語を認めない、あるいは認めるという分け方をする。前者の方向の策として、1)新しい言語を導入する。後者は、今までの言語A・言語Bがあって、それを使うことにしたその上で、2)(あまり)つきあわないようにする。3)つきあうことにした上でどうするかを考える。
 別の分け方から同じ三つを導くこともできる。まず大きく、2)他の地域・人(言語Aを使えないとうまくやっていけない地域・人)と関係するのを止めることが一つ、関係を続けるのが一つ、この二つに分かれる。そして後者を採るとして、二つがある。一つは、1)別の言語Cをもってきて皆がそれを使うようにするという手である。もう一つは、3)AとBの並存を認めたうえで、一方に偏っている不利益を減らそうすることである。
 なお、つきあう/つきあわないといっても、様々な程度があり、また場合場合のことでもあり場面場面のことだから、例えば2)と3)の併用は可能である。そのことを踏まえた上で、以下、この三つについて検討することにする。

1)新しい言語を導入する

 言語A・言語Bのいずれでもない新しい言語Cを導入する。多くの人がエスペラントがよいと言っている。この本に掲載されている文章としては、かどや[2006]でエスペラントがよいと言われる。この言語がどんな言語であるのか、私は知らないけれども、そこに記されていることによれば、よいようだ。
 ではそれは解決になるのか。何もしなくてもよいという人はいなくなる。ただ、それが既存のどの言語に似ているのかという問題はあって、その言語Cが特定の言語、例えば言語Aに近いなら、その言語の使用者たちは有利になる。しかし、そうでなければ、誰もが同じのコストを払うことになる。その点で、まずは有利不利の差はなくなるようだ。この点ではよい。(ただ、第二の言語を学ぶための資源、学ぶだけの余裕についての差は依然として残るなら、そのことによる格差は保存されることになる。)
 それをどのように導入するのか。一つは、一気に変えることにする。これは最もすっきりしたやり方で、他の言語をすっかりなくしてしまって、流通する言語としては言語C一つだけにすることである。そして人々の負担としては、言語Aおよび言語Bからの言語Cへの転換という最初の支払いだけで、それは、これからずっとのことを考えるなら、たいした手間ではない。新たな社会の成員についてはみな言語Cを使うということにすれば、その人たちは一つの言語を覚えれはよいだけで、すべての人たちがすべての人たちとやりとりができるようになる。そしてそのためにはかなり強い強制力が必要である。
 ただこれは負担の総量を減らすわけではない。8人がAを使い2人がBを使うといった状況で、あらたにCを導入することはどうか。10人全員がそのコストを支払うことになる。それに比して、Bを使うその2人がAも使えるようになれば、8人はさぼることができるから、コストは少なくてすむ。むろん実際にはきわめてたくさんの言語がある。中国語でも英語でもよい、言語Aを用いる人は2割とかそんなものであるとしよう。すると2割の人しか得をしない。ただ2割の人は得をするということでもある。ただ、言語Cがやさしい言語であるために、10割の人が新たに言語Cを学ぶコストの方が、言語Aを使って粉間た8割の人たちがAを学ぶコストより少なくてすむということはありうる。言語A以外の使用者が大多数なのだから、賛成される可能性はある。そして、右に述べたように、一代で転換を行なってしまうのであれば、それ以降はコストはかからない。(ただ、このこと自体は、一気に言語Aに統一してしまうことについても言える。)
 以上、新しい言語の採用は負担を――うまくやれればだが――平等にはすること、負担の総量は場合によることを述べた。しかし以上と別に、言語Cに全面的に乗り換えるという策は難点を抱えていて、実際には併用を認めることになるだろう。第一に、固有の文化・言語を認めるべきであるという人たちの主張――それは少数派の言語が抑圧されていることを指弾する人たちの主張でもあるだろう――をいれるなら、各々の「母語」の使用が認められることになるだろう。そして第二に、言語Cへの移行を目指すとしても、それには長い移行の期間がかかるだろうし、教育の行き届くところとそうでないところとがあるだろうから、仕方のないこととして、既存の言語の並存は認められる。とすると言語Cは第二言語という位置を与えられる。第二の理由は仕方がないということだが、第一点は多くの人によって正しいこととして支持される。それを受け入れるなら、並存は動かせないことになる。てんでに各自の言語を用いながら、共通の言語としては言語Cを用いるというのがよいということにされる。
 とすると、十分に長い間、言語Aの方が流通性が高い状態が維持されることがありうる。Aが使用される言語圏では、それでだいたいやっていけるから、言語Cをわざわざ習得しようという人は少ないだろう。並存を認めるなら、言語Bを通常使う人は、言語Cと言語Aと、結局のところ三つ(以上)の言語を覚えねばならないということになるかもしれない。これはさらにコストを増やすことを意味する。そして、実際には言語Aを使えないとその人たちとは話ができないと思う人たちは、言語Cを習得することに積極的になれないだろう。すると言語Cを採用することの利点が失われる。特定の人たち(言語Aの使用者)だけが第二言語を習得する負担を免れてその分得をすること、そのことによって他の人たちに優越することが少なくなることがよいところだったのが、その実現が困難になってしまうのである。
 それを防ぐには、言語Aの使用者と言語Bの使用者とが対する時には言語Cしか用いてならないことにすることである。ここでも――人によっては、きらいかもしれない――強制を用いる必要がある。でなければさらにコストが多くなるということだ。しかしこれがどの程度可能であるのかである。可能であるかもしれないがなかなか難しそうだ。
 そしてこの場合には言語の並存は世代を超えて続く。その利点は、負担の平等(がもたらす利点)であるが、負担の総量を減らすわけではない。結局、二つを習得しなければならないうっとおしさは残る。そしてかなり強い政策をとらないと、人によったら三つの言語を習得しなければらないといった可能性、またより現実的には、言語Cを習得しようとする人たちがきわめて限られてしまうといった状況が続くことになるだろう。

2)不要な付き合いをしない

 言語Cの導入をあきらめるならどうか。大きく二つに分かれる。一つには多言語間のコミュニケーションを認める立場である。一つはそれを認めない立場である。後者は普通は支持されがたい。ずいぶんと退行的なことのように思われる。異言語を使う人とつきあわなければよいなどと言うと、それはとんでもないことだと思われよう。しかしそこに理がないかといえばそんなことはない。ありうる。また実際、言語を巡る争いにはこのような部分がある。私は、そうしてなされる閉鎖をみな肯定するのではないが、異なる言語を必要とする場面を減らすことは不可能ではないし、またそれはわるいことではないと考える。このことについて述べる。
 まず、自らの不利益を少なくするために 互いに通じないという状態があるべきであるという主張は、評判はよくないにしても、実際に行なわれてきたことだった。一つに、言語A自体がなにか邪悪な言語であるということは考えにくいとしても、その言語の使用者たちが行なっていること、主張していることが悪いことであるとしよう。すると、敵を知って争うためにごく一部の人たちが敵の言語を知ることを認めつつ、それを最小にとどめ、その連中の主張がはびこることがないように、あしき文化によって汚染されることがないように、いかがわしいものを持ち込んでしまうその言葉の流入を妨げようとし、習得を禁じることがある。これはずいぶんなことだ、自由を侵害しているという批判はあるだろう。だが、本当に明白によくないものであるとしたら、禁ずることを否定できるだろうか。
 このような策への反論は以下のようになろう。まず、そこによくないと思われるものがたしかに含まれているとして、言語そのものがよくないものだということはないだろう。それはよからぬものもまた運びこむのではあるが、そんなことばかりではない。そして言語を媒介とした交流を禁ずることは、両者の関係を疎遠にし、敵対的な関係を作り出し増強してまうかもしれない。だから、仲良くやっていくことがよいことであれば、すくなくとも敵対が望ましいことでないのであれば、そのための交流自体(をするためのその手段の提供)を抑止するのはよくない。だからこのやり方はよくない。禁止するとすれば、それは言語の習得そのものではなく、それによって伝達されるものの内容の一部の流通でよいはずだ。以上はそのとおりだと思う。
 では、閉鎖の方に向かう策の有効性は常にないのだろうか。そんなこともないと考える。一つに、ある人々は不得手な言語環境で暮らさねばならなず、それに苦労し、できないことで苦労する。そしてもう一つ、一つにできる人が出ていってしまって困るということがある。ここでは後者から。
 例えば医学を教えるとともに言語Aを教えるとしよう。その教育にはずいぶんな支出が必要なのだが、それはその地域にとって必要なことなので、税金を使って教える。それで教えられた人たちはたしかに習得したとしよう。そして、習得したその技術と言語Aをもってすれば――自然科学系の場合にはそもそも言語的な能力はあまり必要でないということもある――Aの言語圏でもやっていける。そしてそうした方が収入その他はよい。そこで多くの人たちがその方に移ってしまう。例えばそんなことが今アフリカに起こっているし、アジアでも起こっている★05。それは言語的な障壁の問題はさほどでなかったとしても、日本国内にも起こってきたことだ。職があるところに人が移っていって「優秀」な人材がいなくなってしまう。それは困る。だから、子が自らのもとに残ってほしくて学問などしないでほしいと昔の親が思ったのは合理的なことなのだ。手段を与えず、それによって流出を禁止する。これは移動の自由を妨げているのだからよくないとだけ言えるだろうか。言えないと私は思う。しかし、それでも移動の自由そのものは望ましいだろう。そして、様々な方法で移動を制約しようとしても、その実効性は疑わしい。となると、この方法もあまりよくはない。
 それと、基本的な構造は同じなのだが、別のことも、よりたくさんある。言語Bの言語圏にずっと住んでいる人たちがいる。中にはよそに行きたい人もいるだろうが、そうでもなく、地元で暮らし続けたい人もいる。どちらもいてわるいことはない。しかしそこではもう仕事がない。すくなくともよい仕事がない。そこで言語Aが使われる他国に行かねばならず、その土地の言葉が必要になる。しかしそれは困難であり――それでも地元に残るよりもよいから、そこにいるしかないのだが――不利が続く。そしていったん移ってしまうと、もといた土地にもなかなか戻れないこともあり、子が生まれる。するとその子は言語Aも言語Bもうまく習得することができないといったことも起こりうる。
 とするとどうしたらよいか。もちろん、もうその人はもう移ってしまったのだから、現実にはそれを前提に考えるしかないのだが、より基本的には、人の移動の自由を認めながらも、移動しなくてもよいようにすることである。それは不可能なのか。原理的にはそんなことはない。その人はなぜ行くのか。多く稼ぐためにだろう。ならば、もとの地に住んでいても、稼ぎがきちんとあって、得られる生活水準がそう違わないようになればよい。実際にはそれはたいへん困難なことであるが、それが有効であることは明らかである。そしてこの策は自由を認めていないわけではない。むしろ、行きたくない人が行かなくてすむようにすればよいと考えているのである。そしてこれは、その地域の内部で実現することではない。人が自らの場所に留まって住みたいのであれば、その土地とその外部との経済的な関係の調整が必要になる。
 このように考えるなら、「地域通貨」という案(cf.木村[2006])はたしかにおもしろいところがありはするが、そううまくはいかない。地域通貨とは、まずはその限定的な流通に使用者が同意している通貨である。いくらか贈与的な意味合いが含まれる場合もあるといったようにそれ以外の要素もあるのだが、ある地域の内部で貨幣を流通させ財を流通させることによって、その地域を別の地域よりも優先することである。それはよいことか。よいこともあるし、よくないこともある。
 地域通貨はある圏内で使える通貨だが、経済圏を完全に閉じてしまうのではない。それは目指されていないし、不可能でもある。また、その通貨の使用は通常自発性によるものであり、その縛りはかなり緩いものである。外部との関係は続き、その間に生ずる不均衡は続く。ではもっと閉鎖性を強くし、地域での自給率を高めるというのはどうか。それでもやはり格差は続く。大きくなることもある。すくなくともこの方法だけをとるのはよくない。そして有効でもない。つまり、それぞれの地域について各々の言語が分立してまずまずうまく行っているという状態を作って維持したいのであれば、そのために、むしろ経済の方は大きな単位で考える必要があるということである。
 各々の言語圏が自立してやっていけるのであれば、人々はそれぞれの言語だけでやっていけることになる。それにはよいところがある。しかしそれがすんなり実現して持続すれば苦労はしない。経済単位として自立することができるのであれば、別の言語を覚えなければならないその度合いは減る。しかし、問題はそうはならないというところにある。暮らしに困れば人は出ていくだろう。そして、仕送りが大きな収入源になるのであれば、政府もそれを妨げることをしないだろう。だから、結局はその地域の内側をよくしていくしかないのだが、この場合、地域主義は限定的な役割しか果たさない。幾度か述べてきたことだが★06、間にある格差はそのままにされる。さらに拡大することも考えられる。とすると、この閉鎖というやり方はよくない。その間の財の移転、それを援助と言うのであれば援助が必要である。それによって、人の移動の自由を認めるとともに、移動しなくてもよい自由を保障することである。

3)負担の調整、全体の変更

 まったく別の言語を既存の言語に代置することにもやっかいなところがある。また、不要なつきあいをやめるのはよいとして、それにも限界はある。となるとどんなやり方があるのか。結局、言語Aと言語Bとの間の流通、変換を認め、そのやり方を工夫するという、とても当たり前のやり方しかない。
 一つに言語の問題としての対応がある。もう一つはすこし別のことである。いずれも「コスト」「負担」に関わることだ★07。前者から。
 まず、さきに述べたことを繰り返す。言語Bを使う人だけが言語Aを学び、言語Aを使う人はさぼるというかたちは、双方が双方を習得するというかたちより、全体としてコストが少ない。そしてコストが少ないというそのこと自体はわるいことではない。しかし、それは公正性・平等性に反しているから、よくないことである。
 そのことを認めた上で、ここでは、だから双方の使う言語とも違う別の言語を学ぼうとか、双方が双方をとは言わないとしよう。とした場合に、なすべきことは、一つに必ず生ずる不利益をなくすための行ないを行なうことである。そのために負担することである。ここで本来、Aの使用者はBと同じぐらいには負担を負うべきであるのだが、その負担を免れている。となれば、その免れている負担の分くらい負担するのは当然だということになる。支払うべきなのに、どちらか片方が複数言語を学べばよいという事情と、B使用者がAを学ぶ方が全体としてのコストが低いといった理屈によって、これらををよいことにして楽ができているとしても、その楽できている分までは支払ってもらうということである。例えば、日本手話を第一言語とすると人たちと日本語を第一言語とする人たちがいるとき、後者の全員が手話ができるようになるということで本来はよい。しかしその人たちはその負担を免れさせてもらったとした。ならばその分ぐらいは払えということだ★08。
 具体的にどんなことができるか。またさせるのがよいか。まず、言語Aから言語B、言語Bから言語Aへの変換に際するコストがある。それを言語Aの使用者たちが負担することにするというやり方がある。
 使える方法としては二つ。一つには翻訳・通訳を使うことである。一つには個々人ができるようになることである。いずれにしてもそれには人手がかかる、人を雇うのであれば金がかかる。習得と通訳・翻訳とどちらがどうなのか。いずれについても、利点と難点があるし、コストの違いがある。いったい何にどれだけの人が要るのか、時間が要るのか。
 前者の方が望ましいと考えるのはもっともである。ただ、これまでそれには膨大な時間が費やされてきたのではあり、様々な工夫がなされてきた。この国では、ほぼ全国民が、六年以上、年にどのぐらいの時間かを費やしてきた。その時間だけでもその総量はいかほどのものなのか。それでもさらに工夫し時間を費やすなら、よりうまくいくようにはなるのだろうが、しかしそれほど大きな期待はできないのではないか。それはそうまちがった見立てではないと思う。だから、それをやめてしまうということにもならないはずだが、そんな計算をしてみて、その上で、可能な手段の様々な組み合わせを考えてみてもよいかもしれない。
 後者について。人による場合と機械による場合とがあって、機械による翻訳・通訳のについては今のところほとんど実用に耐えるものでないとして、これからどれほどの可能性があるのか、わからない。ただ、例えば視覚障害者の場合には、必要なのは異なる言語への変換でなく、墨字をコンピュータ可読ファイルにすることで、それを音声なり点字にすればよいのだが、そんなことのためにも不要なコストがかかっている。技術的に楽なことについて楽ができないのは技術外の要因による。
 そして、いずれについても、さしあたり優先順位をつけることは仕方がない。公的な場面、というより、ある程度の正確さが求められてしまうような場面についての通訳・翻訳を優先せざるをえないだろうが、それはなにか楽しいことは常に後回しにされてしまうということでもある。そして現実に通訳がなされるのは、商売として成立するといった場面でなければ、そうした言語・翻訳・通訳の問題を顧慮せざるをえない集会に限られたする。例えば、「障害関係」の集会や研究会であるかぎりは手話通訳が用意されるといった具合である。だから、やはりここでもなにかしらの偏りは生ずる。それにはその費用が個々の参加者や主催者の負担にされることも関わる。ここにも、志を同じくする人たちの集まりの中でなにがしかを行なっていこうとすることの限界が現われる。ある集会に参加するのに、車椅子の人を介助する仕事は社会サービスとして提供されるのだが、同じ集会について、言語に関わるサービスを受ける場合にはそうでない。このことに正当な理由があるかと考えても、ないはずだ。また個々の人や組織がその都度調達することが多いと、一度あたりの費用は高くなる。利用・供給が多くなれば当然全体の費用も多くなるが、完全に比例して多くなるわけでもない。
 どんな仕組みがうまくいきそうなのか。言語と社会のことを考えるというのであれば、そんなことについて調査し研究したりするとよいと思う★09。
 第二に、ここで確認すべきことは、以上では終わらないということである。不利益は残る。同じくできるようにはならないというところから始めるのがよい。もちろんなかには優秀な人はいる。うまくいくこともあるだろう。しかし素朴に考えて、この言語の部分についてより多くの負担があり、個人の能力など他は全体としてそう変わらないとすれば、同じにはならないとして当然である。これまで、ほとんどの場合、言語の習得についてはなにがしかのことを行なうことはあるが、それで言語に関わって行なうべきことは終わりにされた。だが、これは言語と社会に関わる一番大きな間違いであるのかもしれない。では他に何をするのか。ここでは労働の場面に即して考えてみる。
 一つには、言語のできる/できなさを、できるだけ考慮しないことにすることだ。その能力がまったくいらないということもあまりないが、しかし実際にはある程度ふできであってもなんとかはなるということもまた多い。たとえばどうしても「敬語」を使えなければできない仕事があって、そうした仕事については、そうした場面での差は考慮してならないという策はありうる。客がそれを嫌って業績を落とすということも――ある「人種」の人たちが店員になることを嫌って客がつかなくなるということがありうるのと同じく――ありうるが、一律にそうした評価・選抜を行なうことを禁じることがもしできるなら(そこに加えていくつか条件を要するが)、すべての雇い主が同じ条件に置かれることになるから、競争力に差はでない。
 しかしやはりその効果は限定的なものだろう。十分に言葉ができるのかそうでないのか、微妙なところにいる人たち以外の人たちは、いまの策ではたいしてよいことはない。それで、言語をあまり要しない仕事の方に流れていく。とすれば、ここでは、それを理由にした――それが排除の「たんなる」理由なのであれ、あるいは正当な理由とされるのであれ――格差を小さくすることが対応策ということになる。これは言語の問題でないという言い方は、むろんおかしい。言語の問題とはまさにこのような問題である。言語に関わる問題は、どうしたって政治経済的な問題なのである。知らないけれども、社会言語学というものもそのことを言ってきたのではないか。
 もちろん言語Aを習得するための手段の提供は同時に行うことになる。それでうまくいって、うまいこと言語Aを操れる人が出てきてそういう才能を要する仕事に就く人が多くなる。それはよいことである。そして、そういう部分についての労働の供給は大きくなるから、すくなくとも理論上は、そういった仕事の対価は相対的に下がることになる。とすればそれもまた格差の縮小に貢献するはずである。しかし、問題がそれだけで解消することはないということだ。

おわりに

 長い文章を書いてしまった。他にいくつも考えるべきことはあるけれども★10、以下、述べたことのいくつかを短く繰り返す。
 まず、言語に関わる位置取りのせいで人が不利益を被ることはよくない。もちろん、そこには宿命だけがあるのではなく、努力によって、いくらかあるいはすばらしくできるようになる人はいる。しかし、一つ、どうしたわけかそううまくはいかないという人が同時に存在していることは見ておかねばならない。もう一つ、他方には、なにも苦労せずにすんでいる人たちが(それは多く多数派であるから、たくさん)いることも見ておく必要がある。そして、その人より多くの苦労をしなければならない理由はない。この文章の最初に、難しいができてしまうこともある、できてしまうこともあるが難しいというところがやっかいだと書いた。そのことについて、基本的にはこのように考えることにする。
 その上で、第一に、言語Aでも言語Bでもない言語Cの導入という方法があることを見た。これは、とくに有利な人たちを作らないという点で、かなりよいアイディアである。しかし、この言語Cだけで行くというのは認められにくい。そしてこれを認めないのは、少数言語の衰滅を阻止しようとする人たちでもある。すると、複数言語の並存ということになり、その場合に、言語Cで対応しようというのはすばらしくよい案である、というほとではないのではないかと述べた。
 第二に、今どき言語Bを使う人たちが言語Aを使う人たちとあまり付き合あわないようにしようといったことを積極的に主張する人はあまりいない。それ以前に、言語について研究などしている人の相当の部分は「異文化間交流」といったものが基本的に好きな人なのであるとすると、この種の主題についてそんな案がすなおに出てくるのかどうか。出てきにくいようにも思える。しかしこれはきわめて常識的な案である。出稼ぎしないと生計が成り立たない場合とそうでない場合とは異なる。言語に限らず様々なものについて保守的である人はいる。地元志向の人はいる。そのこと自体は悪くない。外に積極的に出たいわけでもないのに、また言語他に関わる不利益があるにもかかわらず、別のところに行き、別の言葉を使い、そして不利に扱われる、しかしそこに行かざるをえない留まらざるをえない。それはよくないということだ。
 第三に、しかし、その言語が異なる人々の間の関係はなくなるはずはない。また、関係をもちたい人はいるだろうし、それはよいことだ。としたら何をするか。すべてもう既になされてることを列挙するぐらいのことしかできない。ただ一つ、支払い・負担については、考えてみれば当然のことを確認した。言語Aを使っている人たちが、Bを習得する負担を逃れられたのは、その人にとってはよいことである。けれども、そのことによって得た利益を当然のこととして受け取ることはできず、それを相殺する程度の負担を負うことに文句は言えないということだ。そしてもう一つ、これは第二の策についても言えることなのだが、言語に関わる策は言語政策に限られるものではないし、限られてならないということだ。

■注
★01 そのわずかの本のリストと断片的な引用を並べたファイルが、GCOE「生存学創成拠点」のHP(http://www.arsvi.com)にある。HP→50音順索引、あるいはHP内検索で「多文化主義・多言語主義」。なおこの文章もそのHPに掲載し、関連事項・人・文献のファイルにリンクさせる。
★02 ただこのあたりもそうすっきりとはしない。聴覚障害の人であれば、音声を(自分で聞こえなくても)発することはでき、人の口の動きを見ることはできるから、というわけで、聞こえないのだから手話で、とはすっきりいかず、そこに様々が起こってしまうことになる。上農[2003]を参照のこと。
★03 考えられないこと、わからないことはいくらでもある。まずここでは言語の変換、翻訳の問題それ自体を扱うことはしない。このことについてどのように考えたよいのか、見当がつかない。
 翻訳の不可能性という、とりあえずもっともらしい話がどこまでほんとうにもっともなのか、疑わしいとは思う。ただもちろん、やっかいなことは様々ある。私たちがよく経験するのは、この言葉に対応する他の言語の言葉がないという事態である。たとえば「ともに」という言葉がある。たとえば「能力主義」という言葉がある。日本語でこの言葉を用いて、どれだけの日本語使用者がわかるのかという疑問もありはするものの、日本語使用者でない場合、困難はやはりより大きくなるようには思う。
 別の言語を使う人たちがそもそそも理解できないことであるとはまったく思わない。その言葉が意味し示している事態を言うことはできるはずだとは思う。しかし、そうした(多くは複数の)文によって説明されるような言葉に対応する単語がないということがしばしばなのだ。その場合には、必ずしも(karaokeといった)日本語と同じ音の言葉でなくてよいとしても、新しい言葉を加える必要があるのだろう。そしてそれは、そういった「概念」を認めることでもある。すくなくともその程度の「寛容さ」はもってもらわないと困るとは思う。
 それから、いま記したことにも関係し、また本文に記することにも関係するのだが、「学問」の業界における言語使用のことについても、それはそれをなりわいにしている私にとっては、また自身が言語不自由者である私にとっては、それなりに気になることではあるが、検討しない。
★04 ある域の中に数十の言語があったりして、その域の内部で効率的に情報を流通させねばならないといった条件があった場合、どうしたらよいのか。ここでは、以下に述べる3つのうちここでは2)の解はなしとした上でどうするとかいうことになる――ただし、一つの国家であるからといって、本当に2)の方向がないかどうかは考える余地はある。1)、そして3)にしてもおおむね、結局一つの「共通語」を設定した上で、「善後策」を考えようというありきたりの答なのではある。それにさらに異論を言いたい人がいて当然だとして、その人たちはどのようであったらよいと言うのだろう。
 こうした事態について、国民国家の創出、国家統治の強化、多数派による支配といった了解があり、それはそれとして間違っていないのだが、それと同時に、そしてまったく別のことではないこととして、多言語状況にどう現実的に対処していくのかという問題はある。
 人が思うよりはなんとかなることの方が多いとはいえるかもしれない。しばらく前であれば、標識に4つや5つといった言語が並ぶといったことを現実的なこととして想定していないということはあった。しかし実際にはそれは可能になっている。そしてさらに、かなりの部分が技術によって可能である。一つの看板にそう多くの言語を書ききれないと思うのだが、しかし、スイッチを押せば、百や二百やの言語での表記を表示させることも可能ではあるだろう。ただ、こうした手を使える場面はやはり限られているように思える。
★04 文化の多様性等々はひとまずは肯定的に捉えられるのだろうが、例えば「多文化主義」はたとえばフランスでしばしば否定的に使われるという(三浦編[2003]に収録されている長谷川[2003]、中野[2003]、三浦[2003]に、そう詳しくはないが、紹介がある。前掲のHPに引用がある。)
 そこには米国(的なもの)に対する反発もあるのだが、そこで言われていることもっともなところはある。米国では、多言語を(いちおう)認める、その上でなにもしない。あるいはなにがしかのことを行なうが、それは常に不十分である。その結果、英語を満足に使えない人たちは社会の中で満足な位置を占めることができないまま滞留してしまう。
 それよりも、フランスに来た人たちについてはきちんとフランス語を覚えてもらい使えるようになってもらった方がよい。その方がその当人たちにとってもよいはずだ。そのように言われる。これは「同化主義」だ。しかしこの主張にももっともなところがある。この文章は、このような対応についてどのように考えるのかについての一応の回答でもある。
★05 こうしたことは様々な地域に起こるのだが、アフリカについて稲場[2007]。もちろん、次に述べるように、稼いだものをもって帰ってきたり、母国の家族への送金がなされるのであれば、歓迎されることであったりもする。そうしたこともまたたくさん起こっている。
★06 立岩[2001](一部が立岩[2006]に再録されているが、再録部分には関連する記述はない)、立岩[2004:27-30]、立岩[2005]等。
★07 「本稿で私がここまで疚しさと煩わしさを感じながら、「多文化主義」のあとに「多言語主義」ということばを付してあえて「多文化主義・多言語主義」という書きかたを続けてきたのは、一つには多文化主義のあいまいさとある種の詐術を意識化したいという気持が働いていたからである。言語は文化の最も重要な要素である。もし多文化主義を唱えるならば、あるいは多文化主義を押し進めるならば、それは論理的に当然、多言語主義を伴うはずであるし、多言語主義を伴わなければそのことについて何らかの説明を必要とするはずである。」(西川[1997:16])
 「文化はあいまいな概念であるから、多文化主義を唱えることは容易である。それはたいして我身にかかってこない。だがひとたび多文化主義の必然的な帰結である多言語主義が導入されれば、事態は急変する。多文化主義を受けいれながら多言語主義を拒否する理由の説明は、いままで私の知りえた限りでは、経済的効率のみである。それは妥協によって成立つ現実政治の観点からは説得的な理由である。では、文化的多様性を認め、それぞれの文化的自立と共存を積極的に推し進めようとする多文化主義は、経済的な効率によって左右されるような性質のものであろうか。そこには論理的あいまいさが残されており、その理論的なあいまいさにあえて立ち入ろうとしない姿勢がうかがわれるのである。」(西川[1997:17])
★08 自発的に参入して来る人については、それは勝手にやって来るのだから、そのことによって増加する負担をこちらが担うことはないという主張はあるだろう。そして、わざわざ負担を増やすような人たちがやってきて、そしてその負担を負うべきことを要求するのであれは、そんな人たちは入って来ないようにしようというのである。
 これはなにか不寛容なことであるように思われるが、私は常にそうだとは言えないように思う。私たちはこうした問題を考える場合、だいたい「先進国」にやってくる人たちのことを思うのだが、別の地域で考えることはできる。ある日、言語Bを用いてその範囲内で慎ましく静かな生活を送ってきた人たちのところに言語Aを話す人たちが突然やってきて、もとからいる人たちが言語Bを話すことはよしとして、自分たちの言語が通じるような環境を要求する、たとえばその地元の人たちに言語Aを習得することを要求するとしよう。それを常に認めるのかということである。
 自由を強くとって、ともかく自由は大切だ、だから認めるべきだという人たちもいるかもしれない。ただ、たいがいそういう種類の自由(至上)主義者は「自己責任」原則を認める人たちでもあるので、こうした、自分たちの言語が使えるように対応せよという権利の主張は認めないだろう。しかしそれでよいのかとも思う。
 結局、ここで、新たな参入者に関わる権利・義務について差異を見ているのだとすれば、それは、言語の問題だけにとどまらない不公平、誰が(不当に)得をしているか、損をしているかといった次元に問題があるということである。
 いまさっきあげた場合であれば、言語Bを使っている人たちがそう余裕のある暮らしをしていないところに、比べて余裕のある人たちがやってきて、より多くの負担を求めているということだ。これはよくない。
 しかし、言語Aの圏域にやってくる人たちはやむをえずやってきた。そしてそのやむをえずは、生死に関わるか否かということでは必ずしもないし、またそうであってはならないだろう。言語Aを話す人たち「並み」の生活を求めてやってきた(が、実際には、そうはなかなかならない)言語Bの使い手たちがいて、その暮らしのための対応を求めている。これはもっともな要求であり、それに応える義務がある。
 こういう違いがある。そして、主にはA使用者によって構成される自らの圏の中で新参者に関わる負担を負うのがいやだというのであれば、言語Bの使用者がもともといた地域の中でやっていけるようにするべきだ、その地域の人たちがやっていけるだけのものを提供するべきだということになる。
★09 以上に関連して青木[2007a][2007b][2007c]。
★10 他にも様々な問題が残る。一つ、ある言語が難しいという問題がある(cf.あべ[2006])。それで、やさしくすることは必要ではあるだろうと思うし、できることも多々あるとは思うのたが、しかしどこまでできるのか、また必要なのかと思うこともある。
 まず、人が大切にしているものを大切にすべきだというところから現状を見たり批判したりしているとすれば、それとの整合性が問われる。たしかに頭の固い日本文化主義者が日本語をもちあげるとそれは困ったことだと思う。古来から変わらないものだとしばしば言われることが事実として間違っている、言葉はどんどんと変わってきたという指摘も正しくはある。ただ、それは伝統墨守主義者に対する十全な答にはならないだろう。既にあるものを大切にすることと、より簡単で便利な言語を目指すことは両立するのか。これは答えられる問いだと私は思うが、人々はどのように答えるのか。
 また、たんに表記をということでなく、やさしく表現するべきだという主張があり、これもまたもっともなことだと思う。しかしそれはどのぐらい可能なのか。また必要なのか。言葉の難しさについて考えるのであれば、このことも考える必要があるだろうと思う。
 一つ、子に何を教えるのかについて。まず子にとっての「最善の利益」が基準になるという答になる。しかし、そうすると、現状において有利な方に付いた方が利益が多く、すると少数者の方が不利益をこうむるということにならないか。つまり、その子が大きくなって世間でやっていくとして、その世間には言語Aを話す人が多い。となると、この基準からはその子にAを教えるのがよいということになる。するとますます言語Bは衰退していく。そんなことになる。
 ただ、子は実際にはどこでもない場所に生まれることはない。親が言葉を話したり、そんな場にいることになる。そして親が子と言葉を交わすこともまた大切なことではあるだにろう。となると、このことを大切にするなら、まずは言語Bという答になる。となると、ある部分についてはBが便利でまた慣れ親しんでいてその点でよいのだが、しかしのちのちゆくゆくはAの方が便利で有利だいう、一般にある構造が時間軸に並べられたものであるというのが、ここにある構造ということになる。さてどう考えるか。格別に「親子」を特権化することなく、まずBを習得することが支持されるだろうと私は考えるのだが、仮にそのことを言うとして、どのように言うか。
 他に、親と子との状況が異なるといった場合があり、それはご存知の方はご存知のように、聴覚障害の有無が親と子で様々に異なったその各々の場合のことをどう考えるのかという問題として具体的に存在する。

■文献(著者名アルファベット順)

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青木 慎太朗 20070331 「障害学生支援の構図――立命館大学における視覚障害学生支援を手がかりとしての考察」,『Core Ethics』3:1-12  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2007/0331as.htm
――――― 20070327 「大学における障害学生支援の現在――障害学生支援研究と実践の整理・覚書」,『NIME研究報告』33:13-25 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2007/0327as.htm
――――― 20070327 「視覚障害学生支援と著作権――視覚障害学生への情報保障を手がかりとして」,『NIME研究報告』33:37-51 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2007/0327as2.htm
長谷川 秀樹 2003 「自由主義、共和主義、多元主義――A・トゥレーヌ」,三浦編[2003:232-248]
稲場 雅紀 2007 「アフリカの貧困と向き合う」(インタビュー、聞き手:立岩真也),『現代思想』35-11(2007-9):131-155
かどや ひでのり 2006 「言語権から計画言語へ」,ましこ編[2006:107-130]
木村 護郎 クリストフ 2006 「「言語=通貨」論再考――地域通貨論が言語の経済学に問いかけること」,ましこ編[2006:79-106]
ましこ ひでのり 編 20061215  『ことば/権力/差別――言語権からみた情報弱者の解放』 ,三元社,262p. ISBN-10: 4883031926 ISBN-13: 978-4883031924 2730 [amazon] ※ b
三浦 信孝 2003 「クレオール化の政治哲学――共和国・多文化主義・クレオール」,三浦編[2003:284-304]
三浦 信孝 編 20031230 『来るべき〈民主主義〉――反グローバリズムの政治哲学』,藤原書店,381p. ISBN:4-89434-367-3 3990 [amazon][kinokuniya][bk1] ※ * m01
中野 裕二 2003 「多文化主義とフランス共和制」,三浦編[2003:269-283]
西川 長夫 19971020 「多文化主義・多言語主義の現在」,西川・渡辺・McCormack編[1997:9-23]
西川 長夫渡辺 公三・McCormack, Gavan 編 19971020 『多文化主義・多言語主義の現在――カナダ・オーストラリア・そして日本』,人文書院,305p. ISBN:4-409-23026-3 2310 [amazon][kinokuniya][bk1] ※
立岩 真也 2000 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下),『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149→立岩[2006:137-150](抄)
――――― 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店
――――― 2005 「限界まで楽しむ」『クォータリー あっと』2:50-59→立岩[2006:108-125]
――――― 2006 『希望について』,青土社
上農 正剛 20031020 『たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識』,ポット出版,505p. ISBN:4-939015-55-6 2700 [amazon][bk1] ※ *m01 ろう/聴覚障害


UP: REV:20070820
多文化主義/多言語主義  ◇立岩 真也 2007 
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