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自由と平等?

立岩 真也 200703 『月刊オルタ』2007-3:20-21
発行:(NPO)アジア太平洋資料センター(PARC) http://www.parc-jp.org/


  「自由と平等」というお題をいただいた。とても大きな複雑なテーマのようでもあり、実際その通りなのだが、しかし、とても簡単なことでもあるようにも思う。そんなことについて書いた本が『自由の平等』(岩波書店、2004)。副題は「簡単で別な姿の世界」で、こちらを本題の方にもってきたかったのが、出版社に許してもらえず、今の題になっているのだが、まあ、それで間違いというわけでもない。本のもとになった連載の題も「自由の平等」だった。
  自由と平等は、もちろん、対立する二つではない。当たり前のことだ。と書くと、それで終わってしまうから、もう少しいろいろなことを書いたのではあるが、当たり前ではないかという気持ちは最初からあって、なんでそのことをわざわざ説明しなければならないのだろうと思ってしまう。
  自由を、まずごくごく単純に、何か(したいこと)を行う自由であると考えるとしよう。さてその何かを行うためには、そのための資源・手段・環境といったものが必要である。でなければ、ただ言うだけ思うだけであり、それは言う自由、思う自由であって――それが大切でないというのではない――行なう(あるいは行なうことを妨げられない)自由ではない。とすると資源・手段(例えばお金)…を各々がどれだけもっているかが大切である。それがどのように配分されたらよいか。一人ひとりは身体の形も違うから、必要なものは違うが、結果として同じ程度の達成ができること、同じぐらいの自由が行使できるというというあたりが落としどころということにしよう。
  ここで、同じぐらいというのが格別に大切なことだと考える必要はない。ただ第一に、一人ひとりの自由は大切である。第二に、そのために必要な手段が無限にあればよいかもしれないが、そうではないし、それを増やすためには人々は働かねばならず、それは面倒なことでもある。だからその手段は一定量である。とすると、一人ひとりが同じぐらいの自由を行使できるための手段が与えられるのがよいということになる。で、自由の平等、ということになる。やはりこれで終わり、である。
◇◇◇
  なにかそれで文句があるんですか、と私は思う。ないはずだ、と思う。しかし、二つは対立するものとされる。なぜだろう。
  平等のために税金を払わせることが自由を阻害するということだろうか。払う側の人については、それはそうだと認めるとしよう。しかし、そのお金が別の人のところに行って、その人の自由が増すなら、差し引きは同じかもしれない。むしろ多くの場合、お金を多くもっている人にとってのある金額と、もっていない人の同じ額とでは、後者の方が大きな意味をもっていて、多いところから少ないところに回した方が、より大きな自由を実現するとも言える。だからこの批判は成りたたない。
  いやそもそも法律で(例えば納税を)強制するのがよくないということだろうか。しかしまず、法的・政治的な強制そのものをまったく認めないという人はめったにいない。つまり多くの人は強制をただよからぬものと考えているわけではない。ただ、数少ない真正の無政府主義者は原則を貫くかもしれない。ではその無政府状態はどんな状態か。かなり楽観的な仮定を置くのでないと、多くの人たちはそこで、政治的強制ではないとしても、自らの力では動かせない条件・状況に束縛されることになる。それではその人たちはすこしも自由ではないと思うが、どうか。
  あるいは、平等な社会ではみんな同じことをしなければならないか。同じことを考えなければならないか。そんなことはもちろんない。
  さらに、平等にしようとすると、何が同じかを決めなければならず、それがよくないのだろうか。この問題はすこし複雑だ。ただまず、さっき書いたことだが、平等それ自体が究極の目的であると考える必要はない。なにもかも同じであることが求められていると考える必要もない。
  他にもいくつか批判は考えられるが、そのいずれにも十分に反論することができると私は考えている。それらをさきにあげた本にもうすこしていねいに書いた。
◇◇◇
  このごろ、当然だと思うが、「格差」が語られる。語られ問題にされることはよいことだと思う。しかしなんだか及び腰な感じがすることが多い。とても悲惨な事実があると言われ、「最低限」の保障は必要だと言われる。しかしそれぐらいのことなら、よほどの人でなければ、格差を大きくしている張本人だって、言うのだ。そしてこの類いの話は、本当の貧乏とそれほどでない状態との間の線引きを巡る息苦しい応酬に吸い込まれてしまう。
  あるいは、「大きすぎる」格差が問題だと言われる。では「大きすぎない」格差はどうしてよいのか。「経済の活力」のために必要だからか。活力がどれだけ必要なのかという問題は残したとして、この話は結局、人を働かせるには餌で釣り飢えの恐怖を与えるのがよいという話だ。飴と鞭が仕方なく必要である場合があることは認めよう。しかしそれはそのやり方が「よい」やり方であるとすることとは別である。
  とすると、どれほどそうせざるをえないのか。ここに「国際競争力」がもってこられる。この世界でやっていくには甘いことは言っていられないというのである。この話が大嘘だと私は思わない。だがここからが考えどころだ。この状況を定められたこととして、それに乗るしかないのか。私はそう思わない。といった話は、また別のところ、例えば『希望について』(青土社、2006)に収録された文章に書いた。『自由の平等』はうんざりする本だと思う。それに比べれば『希望について』は読みやすいかもしれない。『所有と国家のゆくえ』という稲葉振一郎との対談本(NHK出版、2006)では、こんな社会はいかがでしょうという案を箇条書きにした。いずれでも、よろしかったら、どうぞ。


UP:20070224 REV:
  ◇立岩 真也
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