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権利と契約

立岩 真也堀田 義太郎 2007
『応用倫理学事典』,丸善 http://pub.maruzen.co.jp/


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◆加藤 尚武 他 編 20080115 『応用倫理学事典』,丸善,1100p. ISBN-10: 4621079220 ISBN-13: 978-4621079225 [amazon][kinokuniya] ※

■[権利と契約] 36×67行(草稿)



  【権利】権利と契約について、また両者の関係について、多様な解釈がある。
  まず、権利概念に関しては、何が・なぜ・どのように権利として保護されるべきかを巡る議論がある。そしてこれら権利の本質・理由・方法の解釈は相互に連関している。たとえば、法的権利をめぐる「利益説」と「意思(選択)説」の対立は、何が・なぜ権利として保護されるべきか(擁護されるべき権利の本質・その理由)に関する対立であると同時に、権利保護の方法にも関わっている。
  一般に、意思説は、当人の任意性を前提にした自発的な同意を権利保護の方法として最重要視する議論と整合的であるのに対して、利益説は、当人の意思では譲渡不可能な権利の(パターナリズムによる)保護方法をも許容しうる。だがいずれの説にも問題がある。意思説では、権利主体の意思によっても移転・処分・放棄不可能な権利、あるいは意思決定能力をもたない人(子ども)や当人の選択前提に問題のある人(順応的選好形成や意思決定資源の不均衡)の権利など、当人の意思に反してでも、あるいは意思が不在の場合にでも保護されるべき権利を、うまく説明できない。他方、これらを説明できる利益説については、すべての権利の本質が利益だと言えるとしてもその逆(すべての利益が権利であると)は言えないのだから、権利として構成される利益の範囲設定基準がさらに問われることになる。また、権利主体と利益享受主体が異なるケースもある。さらに、この対立とは別に、権利間のトレードオフを認めるか否かについても議論がある。
  【契約】権利を巡るこうした諸論点は契約という行ないにも連関している。まず、契約とは、契約者相互に自己の意思に基づいて行為や財への権利を交換することである。それによって契約者は、行為や財の移転に関して自らに一定の義務を課すことに同意したことになる。だからまず、権利が定まった上で契約がなされる。その人はあるもの(こと)を契約の対象にできるという権利が付与されているということである。誰が何を契約の対象とすることができるのか、差し出すことができるか、請求することができるか。これは、何にどのような範囲の権利がどんな理由で認められるかという問題の一部である。例えば、生命や身体がまずはその人のもの(その人が権利を有するもの)であるとしても、生命を譲渡する契約や奴隷になる契約は、それがその人の真の意思に基づいていたとしても、一般に禁止され、売買等の契約を結ぶ権利はないとされる。
  こうして、事態の基本は権利(規定)の先行である。(それと別に、むしろ契約によって権利の発生を基礎づけようという社会契約論の理論構成がある。それはそれで検討すべき論点を含んでいるが、ここでは、それを紹介し、問題点を指摘することはしない。)ただ、契約が前面に出されると、権利付与のあり方のある部分が強調されることがある。つまり、契約は契約者による意思的・能動的な行ないであるから、意思に重要な位置が与えられることになるのである。
  一つに、その人の意思が権利行使・実現の必要条件であるようにみられることになる。その人が意思を示さなければ契約はなされないのだが、その人に意思の表示がなく契約がなければ、その人に権利は認められないとされることがある。一つに、意思が権利(たんに保有・保持の権利でなく、交換や売却の権利)を有することの十分条件であるようにみなされることがある。つまり、その人がそれを処分しようし、契約を結ぼうとしている以上、それは認められるべきであると受け取られることがある。
  しかし両者とも正しくはない。役所の窓口に自らが出向いて申請書類を書かなければ生活が保障されないと決まったものではない。また先述したように、その人がよいとさえ言えば、契約がなされたとして、なんでもやり取りできるわけでもない。以上は、考えれば当然のことなのだが、ときにそのことが忘れられる。そして、予めよきものとされる契約という言葉が忘却を促すことがある。このことには注意を払っておく必要がある。
  もう一つ、しばしば契約の対象とされる当のものだけが注目されることがある。その人は、どんな事情で契約することになったのか、何が足りずに契約することになったのか、売買契約であればその人の持ち金はいくらでそれはどんな金なのかといった事情がときに無視されることがある。
  こうして、当人とされる人の意思が特権化される(そしてそれは無視されるのと実質的には変わらないことがある)。同時に、その周囲にあるものが無視される。そのような事態が契約について起こることがある。
  【傾きを戻して使用すべきこと】社会サービスの供給・利用体制について「措置から契約へ」といったことが言われ、それはよいことであるとされた。もちろんよいことである。自分が望まない場所で暮らしたり、どうにもそりの合わない人からサービスを受けるより、自分にとってよい方を選べる方がよい。上から指図されるより、対等な関係を結べる方がよい。ただ、このことを当然とし、推進しながら、以上で確認した誤りをおかすことはしない方がよい。わざわざ申告したり契約したりせずに、供給されるべきものは供給されることに決まっている方がよい場合がある。そしてここで前提として確認されるべきは、契約とは、自分の稼ぎの範囲でその稼いだ金をやりとりすることを意味しないということである。資金は社会的に自動的に提供され、その上で本人が、誰からどんなものを得るのかを選択し、その相手と契約できたりした方がよいことがある。明らかに存在する契約の利点を肯定しつつ、それが位置づく場所には気をつける必要がある。


UP:20070126 REV:
立岩 真也
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