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パターナリズム

立岩 真也 20080115
『応用倫理学事典』,丸善 http://pub.maruzen.co.jp/


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◆加藤 尚武 他 編 20080115 『応用倫理学事典』,丸善,1100p. ISBN-10: 4621079220 ISBN-13: 978-4621079225 [amazon][kinokuniya] ※

■[パターナリズム] 36×67行(草稿)

 その人自身のために、その人が意志していないあるいはそれに反する行ないを示すこと、さらにそれを行うこと、それを是認しうるとする立場。ただ、多く予め否定的な価値を有する言葉としてこの言葉は使われる。すなわち、強い力をもつ者が、相対的に弱い者のあり方を、その者にとってその方がよいのだといった理由を持ち出し、押しつけることを指す言葉だとされる。実際に使われることはまずないが「家父長的温情主義」などとも訳される。そのようなことが、どこでも、とりわけ医療や福祉の領域において多く行なわれてきたとなれば、その語がこうして否定的な意味で頻繁に用いられて不思議ではない。そして、他人の勝手にされることの反対は自分で自分のことを決めることだというわけで、「自己決定」という言葉とセットでこの言葉は用いられる。これも当然のことである。  だがその人が行なうと言う行ないを止めることは常によくないことか。これは考える余地がある。実際、その人のその時の意に反することが多く行なわれている。そのすべてが否定されるべきか。改めてそう問われると、少なくともすべてではないと多くの人は思う。とすると何がなぜよいかよくないかである。
 【何が許容するのか】パターナリズムを認める立場も一つではなく、論者にもより様々があげられる。例えば、あくまで本人の意志を尊重するとした上で、その人は今おかしな状態にあるが、もし正常な時であればするであろう決定として別のことを指定するのは許容されるといった主張はある。このような判断は実際多くなされているし、またこのような場合の介入は認められてよいと考えるに足る理由もあるだろう。ただ、それだけを介入の理由とするなら、それは、介入が正当化される時には常にその人をまともでない状態にある人だとすることでもある。それでよいのか。また、明らかに平静な状態においてなされる決定もあるとして、その場合には、その人の決定のすべてを是認すべきなのだろうか。
 この問いについて考えることは、なぜ本人の決定が尊重されるのかを考えることである。その人の決定を認めるのは、その人の存在を尊重すべきであり否定すべきでないと考えるからだとしよう。次に存在と決定とは等値されるものでないとしよう。誰かを尊重するということがその人の述べることを認めることにそのまま等しいのなら、その人が表明するものをその通りに受け取ればよいことになる。しかしつねに等値されるとは考えられない。
 その上で、その人の決定を尊重するのは、第一に、その人が自らにとってよいことを知っているからであり、他人に委ねたら他人の都合が入りがちであるからであると考える。第二に、その人が決めることはその人の存在の一部であり、その人の決定を認めることはその人を認めることでもあるからであると考える。すると、同時に、第一点について、その人の決定がその人自身に有利でない場合はありうる。そしてこの場合も含め、第二点に関し、その人の決定に反する介入がその人の存在を尊重するためであることがあるだろう。つまり、決定を認める理由がその人を認めることであるなら、その同じ理由から、その人の決定がその人を毀損すると考えられる場合には、その決定をそのまま受入れらないことがある。
 このように考えられるなら、言葉をきちんと用いる限りにおいて、自己決定とパターナリズムの両者は、その根を同じくしている。だから自己決定が尊重されるべきだと考えるその人が、パターナリズムを棄てきれないとも思うとして、ときにそのように振舞ってしまうとして、それは不思議なことではない。
 【価値の内実を問題にしうる】ではどうするのか。少なくない場合に定まった答はない。だが第一に、このことに自覚的であることはできるし、またその必要もある。原理的な困難とその困難の仕組みを知っておくことは、むしろ、その場のその場のやり過ごし方を考え、その妥当性を判断することにつながる。
 第二に、考えておくべきは、その人の決定がどこに発するかである。とくにその人の存在を毀損する価値や条件が社会にあり、それゆえにその人が自らに破壊的な決定をなすとしよう。この場合には、その人の決定に介入する責任が社会の側にあるだろう。例えば身分や性別など出自に関わる分相応という観念・規範が与えられ、それでその人が当然望んでよいものを望まない時には、押しつけてよいかどうかはともかく、それを望んで受け取ってかまわないことをその人に言うだろう。それは「安価な嗜好(cheap taste)」の持ち主に対する正当な対応であろう。ではこのような規範は近代の社会には存在しないだろうか。その社会には、生産物を正当に受け取ることができるのは生産者だけであるという観念・規則があり、存在の価値がその能力によって規定されるという価値がある。そうした社会にあって、その価値を自らのものにしている人がいて、その人が今までできていた事々ができなくなった時、その人は自らが人の手を借りて生きることを選ばないと言うとしよう。この時にはどうするのか。それは各々の価値観であり、立ち入るべきものでないと言えるか。ならば、身分制のもとで萎縮している人についても同様のことを言わねばならないのではないか。押し付けられているかいないが問題なのか。しかしこれについてもさして違いはないとしよう。すると、前者の規範は間違っているから間違いを正す方向で介入することは正しいが、後者は正しい、少なくとも間違っていないから、それに介入する必要はない、あるい介入すべきでないという答が残る。とすれば、もし後者についてもそれが間違っていると言えるなら、その場合に介入は正当化されるはずである。例えば「尊厳死」と呼ばれる事態をこのように見ていくことができる。  [立岩真也]


UP:20061101 REV:
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