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自己決定

立岩 真也 2008
『応用倫理学事典』,丸善 http://pub.maruzen.co.jp/


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◆加藤 尚武 他 編 20080115 『応用倫理学事典』,丸善,1100p. ISBN-10: 4621079220 ISBN-13: 978-4621079225 [amazon][kinokuniya] ※

■[自己決定] 36×67行(草稿) →自己決定

  英語でself-determinationの語はそれほど使われず、多く「自律」と訳されるautonomyが頻用される。それは、A:近代社会の人間のあり方の基本にある原理である。だが同時に、B:この社会の中で自らの存在と決定を認められてこなかった人々の権利として、新たに主張された。日本で、医療や福祉の提供者側の倫理原則としてではなく、生活する自らのあり方に関わる原則として主張され出すのは1970年代、言葉として多用され出すのは1980年代に入ってからになる。そしてこの語は、翻訳語というより日本語としてわかりやすくもあったのだろう、よく使われるようになり、様々な主張の中に入ってきた。
  【二つの自己決定】こうして、自己決定は近代の正統の主張でありながら、20世紀の後半になって、あらためて強く、社会で周辺化された部分から主張された。このことからもうかがわれるが、この言葉は単一のものを指していない。
  自己決定とは、自らに固有に関わることを自分で決めること、ということになろう。だが、これだけで権利の範囲が決まるか、何が自分が決める範囲なのかといった問題がむろんここにはある。この問いは社会規範の総体を問うことに近い。その中で、それがどのように実現されてよいのかという問いにも関わる一つの論点を確認する。Bは、自力でできる分が自分で決められる分だという規則・価値のもとでは決めることができなかった人たちが主張し出した。とすれば、その権利はいわゆる自由権にとどまるものでない。つまり、決めるため、そして決めたことを実現するには、資源がいる、それを得る権利があると言われているのである。とすれば、Bにおける自己決定の権利は、社会権、生存権と呼ばれる系列に属する権利でもある。このことを認めるか認めないかで、この権利が近代的な所有権の系列に属する(A)のか、それを超えたものであるか、違ってくる。
  次に、なぜそれは大切なのか。一つに、自分のことを決められること、自分の生き方を自らが統御できることこそが人の人である価値であるという考え方がある。これが近代の正統的な把握である(A)。それは、未だ/既に/常に決められない人を正規の人の範疇から除外することにもなる。また、その人たちについての正規の人たちによる決定は当然のことともされる。例えば生まれる子のあり方を親が決めることは自分のことを決めているとは当然言えないのだが、しかしそんな場面でもこの言葉が用いられてしまうのには、このことが関わっている。
  それとは別の位置づけもある。とくに日本での議論について注目すべきは、この言葉が新しく現れた時(B)、それが旗印として掲げられたと同時に、時には旗印として掲げ強く主張するその同じ人によって、ためらいや懐疑が表明されていることである。自己決定は強く主張されるが、同時にそれは人が生きて暮らすことの一部として主張される。また、生きて暮らすための有効な手段として主張される。つまり、多くの場合、自分にとってよいことは他人より自分の方が知っている。他方、他人に委ねるなら他人の都合で決められてしまう。だから自分で決めようというのである。ここでは、決定・決定能力は、人の価値を規定するために人より上位にあるものでなく、人の存在の価値の一部に位置づけられる。
  そして、AとBの二者の差異は、たしかにあることがその人固有のことであるとして、そのことについていつもその人の言うとおりに決めることをそのままに受け入れてよいかという問題、パターナリズムを巡る問題に別の答を示すことになる。前者であれば、それをそのままに受け入れるものとされる。もちろんそこでも、決定に関わる、あるいは決定そのものに内在する社会状況・社会的価値を不問にできるのかという疑問は示されるのだが、その答は、状況に左右されない純粋に個人的な決定という現実にはまず存在しない決定をあるとするか、あるいは、どんな決定でもその人の決定だから認めるとするか、いずれかになる。
  他方、この社会での暮らし方を決められないことに抗議して自己決定を主張した人たち(B)は、例えば、「死の自己決定」としての「安楽死」をそのままに認めることを躊躇した、あるいは否定した。これを主張の一貫性のなさと捉えるか、逆に見るかである。一貫している、と解することができる。その人たちは、自己統御を優位に置き、さらに能動的な生産者であることを優位に置く社会において、そして、そこから外れる人たちが現実の資源の配分においても不利な位置に置かれる中で、その社会の中で「尊厳」を維持し保守するために死のうとする決定、また自らの生き難さや身近な者たちの負担を思ってなされる決定を受け入れることはできないと考えた。なぜなら、その決定は、自己決定が尊重されるべきその根拠であるその自己の存在を毀損する社会の価値と現実の中でなされる、その存在を毀損することになってしまう決定であるからである。
  【現在のために】こうして、ただ自己決定を言えばなにごとかに片が付くわけではない。この言葉自体が争点を形成している。そしてこの認識は現在ではより重要である。というのも、この言葉が次第に一般化しどこでも使われるようになる中で、それは、生き難い人が生き易くあろうとして使う言葉であるより、自分でなくこれから現われる他人のことを決めることを正当化する言葉として使われたり、この社会にいるゆえに自らの存在を否定することを、社会がそのままに受け入れ、負担を回避することに痛痒を感じなくさせる言葉として広く流通するようになっているからである。自己決定を大切なものとして主張してきた人たちが、同じ言葉によって、かえって自らが簒奪されてしまっているように感じている。そのことの意味を踏まえることが、この言葉を使う時、必要である。

 →「パターナリズム」,『応用倫理学事典』

UP:20060915 REV:0925
自己決定  ◇立岩 真也
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