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障害の位置――その歴史のために

立岩 真也
高橋 隆雄・浅井 篤 編 20070331 『日本の生命倫理:回顧と展望』,九州大学出版会


◆立岩 真也 20070331 「障害の位置――その歴史のために」,高橋 隆雄・浅井 篤 編 2007 『日本の生命倫理――回顧と展望』,九州大学出版会,熊本大学生命倫理論集1

 与えられた題は「障害者をめぐる生命倫理」だった。たしかに生命倫理学において争点を形成している主題の多くには障害が関わっている。多くの技術は人間の性能・能力(ability)に関わっており、すなわち障害(disability)に関わっている。障害の視点から生命倫理を問題にするとは、生命倫理総体を問題にすることにほぼ等しい。
 そこで本章では、範囲を限定し、障害者、障害者運動とその周辺のこの主題への関わりについてすこし記す。数としてはそう多くはないが、言わねばならないと思ったことを言ってきた人たちがいる。だから尊重しなければならないと決まったものではないが(cf.野崎[2004])、聞いて受け取ってよいことが言われた。
 もちろん倫理学にとっては、その中身、その人たちが何を主張したのか、そしてそれがいかなる根拠で妥当なのかあるいは妥当でないかが、なによりも大切である。その大切なこと、ことの是非を基本的なところから考えることがあまりきちんとなされていないのではないかというのが私の不満でもある。2005年に熊本大学での研究会に招いていただいたときに話したこと(記録として立岩[2006a])も、その前の週に東京大学でのシンポジウムで話したこと(立岩[2006c])も、つまりは、哲学者・倫理学者はもっときちんと哲学・倫理学をしてほしいということだった。ただ私として考えることは、別のところで述べ、またこれからも書くから、ここでは略す。考えるためにも、知ることが必要である。
 知っている人はみな知っていることなのだが、人によってまた生きてきた場と時によって、まるで知らない人もいる。その人たちが言うことに賛成でも反対でもかまわない。しかし知らないのはよくないと思う。そこで以下、ここ数十年について簡単に記すことにする。ただ、紙数の制約から、結局概略を示すその手前で終わった。また、文献表を整備し、それを本章の主な使い道としようとしたのだが、それも断念した。とくに(Tはあまり削らず)本論となるはずのII以降を数分の一に削った。http://www.arsvi.com(製作:生存学創成拠点)の本章と同じ題のページによって補うことにする。また、立岩[2002-2003][2003]等に記したことも引き継ぎ、歴史をどう捉えるか、一書にしたいと思う。

I 共通性と難しさ

(1)「欧米」において
 「日本の生命倫理」が本書の主題である。ただそれを言うためにも、他の国での動きにすこしふれておく。
 日本における運動・言説と、例えば欧米の運動との違いがあるのか、あるとすればどの程度なのか。むしろ、違いを言う前に、かなりの共通性があることを言った方がよいと思う。たしかに欧米流――とひどくおおまかに括ってしまう――の思考法というものはあり、その地の人たちはそれと無関係ではいないのだろう。ただ、それに規定されるがゆえに、障害があって生きている自らが不利益を蒙っているという感覚も同時にあって、そのままに受け入れられないという感覚もある。すると、その差は小さくなっていく。日本では、なにかというと「一部の障害者」(だけ)が騒いでいるが、それはこの国に特異な現象であって他ではそんなことはない、と思う人がいるとしたら、それは違う。言い方の違いはたしかにあるのだが、しかし共通しているところはあり、抗議は世界の各所にある。
 ただ、同じことを順序を変えて言えば、共通しているのだが、たしかに位置どりが難しいことはある。主張があることが伝えられることが少なかった。というか、その当の国においてもあまり大きく取りあげられることがなく、そんなこともあって、それらの翻訳ものの中にも現れることがなかった。知られているとすれば「シンガー事件」と呼ばれる事件かもしれない。ピーター・シンガーのドイツでの講演に対して抗議がなされたことがあって、それにシンガーが憤慨した文章がある。それを翻訳し解説したものが出ることがあった(Singer[1991=1992]、市野川[1992])。そしてこの事件を取り上げ考察した論文を土屋貴志が書いている(土屋[1994])。
 とくに米国的な文脈では、人工妊娠中絶の是非が大きな政治的争点となってきた。一方の側がプロライフという括りの主張であり、それは右派、宗教的保守主義者の主張ということになる。他方にプロチョイスと呼ばれる派がある。そして他の争点についても、この構図が引き写される。すくなくともそのような構図になっているかのように捉えられる。一方に、信心に凝り固まっており、別の考えを認めようとしない原理主義者たちが、そういう人たちだけが、様々なものに反対しており、それに対して、普通の人間は、個々にはそれぞれの価値・考えはあるだろうが、それを互いに尊重し、許容するべきだと考えているということになる(テリ・シャイボの事件の時の米国の様子の報告として柘植[2005])。
 ここでバイオエシックスは、急進的に多くを許容し肯定する主張でもあるが、その場にも、またそうした学問を離れた場に、もちろんもっと常識的な人たちもいて、より穏健な主張もまたなされる。こうして、保守主義の勢力が強い時にはそちらの方に傾きがちになりながらも、急進主義を実質的には味方の中の一部としつつ、事態は様々を許容し進める方向に行くということになる。
 さらに、やはり(とくに米国的な文脈での)リベラルは「弱者」の味方をすることになっている。専門家支配に反対し、消費者主義を言い、自己決定を言うところでも、その流れと障害者の側の主張とは共通している。とすると障害者の多くも、基本的には、そちらに傾くことになるはずである。
 そして、より基本的に、その社会では自律が基本的な価値とされる。身体だけの障害者はもちろん、知的障害者であっても、他人の助力を得ながらも、自らが自らを律することはできるのに、できないようにされてきたという言い方の批判になる。むろんほとんどの場合、このように言っていけばよいのだが、それでどこまでも押して行けるのか、押して行くのがよいのかである。押して行くと、同じ道を通って様々なことを問題なしとする主張の中に包まれそうになる。
 ただ、そのような社会にあってなお、障害者のなかに、たとえば出生前診断・選択的中絶に対して、また安楽死・尊厳死について、批判的な勢力はある。このことはあまり知らされてこなかった。知られていないことはよくないことだと思い、そうした主張の存在について、幾度か言及したことがある。市野川容孝との対談で米国のことを話し、それに応じて市野川はドイツにおける運動を紹介した(市野川・立岩[1998→2000])。また安楽死・尊厳死をとりあげたテレビ番組で、米国内に宗教勢力以外の反対運動があること、例えば「Not Dead Yet」というホームページがあったりすることを話したことがある(立岩[2001-(4)(6)])。ただ私は、そうした動きが存在していることだけを述べたに過ぎない。
 カレン事件他を追った香川の本(香川[2006])でもいくらかは言及されるなど、すこし様子はわかるようになった。ただ、いったいそうした動きがどれだけ相手にされているのか、どの程度の議論が実際になされているのか、まだよくわからない。なにかにつけうるさいをことを言ってくる人たち、というぐらいの受け止め方もあるのかもしれない。森岡が米国の生命倫理の学会の冒頭に、自らの主張を聞いてくれとやってきた集団――それは私が以前テレビで紹介した団体でもある――がいたことについて、それに対する学会の人たちの反応について書いている(森岡[2006])。当然プログラムにも載っていないハプニングなのではあるが、その主張は聞く――多様な意見を聞くことはよいことであるから聞く――、そしてそれはその時には会場になにがしかの緊張感をもたらしたようではあったのだが、学会の終わりの頃には、人々はほぼ忘れていることができているようであった、と森岡は記している。
 とはいえ「対話」、「学問的な議論」がまるで存在しないということでもない。米国や英国等に「障害学(disability studies)」というものがあって、学会誌を出していたりしている。大学・大学院教育を受け、研究者になっている障害者が中心になっている。その領域の論文や著書に、この領域を主題にしたものが――後述する日本における議論よりむしろ遅めに――現れる。
 最近になって、この領域の著作の幾つかが翻訳されて出版された。短い、ときに断片的な記述であるが、生命倫理に関わる主題にふれられている箇所がある。
 マイケル・オリバー『障害の政治』は英国の障害学の著作としてよく言及・参照される本だが、中絶法(the Abortion Act, 1967)に言及した箇所がある。「中絶の決定は二人の医師の手中に収められることとなった。はじめは障害とハンディキャップを定義することの難しさについて議論がなされるが、最終的には[医師]個人の私的な判断にもとづいて中絶の決定がなされるだろう。しかし、その医師は、どのような訓練を受けたとしても、彼らが健全な心身をもつ個人のイデオロギーの拘束から逃れることはできないのである。」(Oliver[1990=2006:106-107])
 そして次の二つの文献を引用している。
 「障害者が優生的中絶を正当なものであると認めるならば、そのことによって自らの人生の価値を傷つけることになるということは、一般的に一致した意見である。」(Graham Monteith[1987:38])
 「もし健常者社会において障害をもつ人々が権利を有する対等な人間であると承認されるなら、スクリーニングと中絶が社会に利益をもたらすという考えや、ハンディキャップをもった人は社会のために早めに殺されたほうがよいとする考えは破棄されなければならないだろう」(Davis[1987:287])
 次にやはり英国で障害学のテキストとして出されたバーンズ他『ディスアビリティ・スタディーズ』
 「つい最近の欧州における障害者会議において、障害者インターナショナル(DPI)が作成した基本的人権の一覧(DPI[1982])に、”生きることの権利”や”親になることの権利”を含むべきだとの勧告があった(CSCE[1992])。なぜこのような権利が障害者にとって差し迫った問題になっているのだろうか。」(Barnes et al.[1999=2004:286])と始まり、中絶、安楽死、新しい遺伝学についてのいくらかの記述があり、障害胎児の中絶について、先に引かれたのと同じディヴィスの、1989年の文章が引用される。
 「多くの障害者にとって、このようなことはインペアメントのある人々に対する一般の人々の敵意のあらわれと感じられる。二分脊椎者または脳性麻痺者は、このような理由に基づく中絶を容認するような社会的傾向によって、自分たちの価値がおとしめられていると感じる、あるいは恐怖を感じるようになっている。障害者の生まれる権利を否定する一方で、生きている障害者の平等権を正当化するのは無理がある。「もし、胎児が特定の状況にあるために、殺すのが正しく適切だと決定されるのなら、なぜその胎児と同じ状況にある人々が、単に年齢を経ているというだけで、権利を認められるのだろうか」(Davis[1989:83]。」(Barnes et al.[1999=2004:288])
 その「学」と、そこでなされている議論がどの程度のものとして認知されているのか、それもよくはわからない。ただ、主張が取り上げられ、主題的に論じられることもないではない。例えばBuchanan et al.[2002]では、「障害者の権利擁護派」の議論が紹介され、それを批判して遺伝子介入・積極的優生学を擁護しようとする(この議論をさらに検討し、批判しているのが堀田[2005])。
 たぶん、議論になることは、無視されることよりはよいことではある。そして、議論が始まった以上は続けるのがよいのではあろう。私たちもまたそこに参加するのがよいのかもしれない。たとえば先に紹介した2冊での記述については、すぐさま、「いや障害者に敵意は持っていない、否定はしていない」といった反論があるだろうが、さらにそれに返す言葉はある。しかしそれに対して今度は「やはり障害はない方がよいではないか」などと言われる。するとそれについて考えることになる。ここではその検討・考察は行なわない(立岩[2002b]で、いくらか、行なった)。ただ、学問は論理が勝負を決めるとはいえ、その社会における大勢というものがあり、めったに疑われることのない価値があり、それに乗っている立場に対するのは、ときに疲労を伴う。
 世界に批判は存在してきたし、存在している。ただ、同時に、そのことが言いにくいそうではあるように思う。例えば英国でも、出生前診断について批判的な言辞が表に現れるのは、そう以前のことではない。田中耕一郎は、英国と日本の障害者運動の歴史(の並行性)を記した著書の一部で、優生保護法に対する青い芝の会、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の主張に簡単にふれた後、英国での議論を短く紹介している。
 「イギリスの障害者運動において、比較的早くからこの優生問題を論じたきたモリス(Morris[1991])は、イギリスにおける障害胎児の中絶が障害者運動内部においても最近まで重要な問題として取りあげられてこなかった理由の一つとして、イギリスの個人主義の伝統によって、障害児の養育が伝統的にパーソナル・コストとして捉えられてきたことをあげている。」(田中[2006:179])
 なかなか難しい。その感覚が共有されうる場があると、それが表出される。次に紹介する場はそんな場だった。

(2)2002年・札幌
 2002年10月、DPI(障害者インターナショナル)――1981年結成、結成前後とそれからしばらくについてDriedger[1988=2000]――世界大会が札幌であった。112の国・地域から参加があったその記録が公刊されている(DPI日本会議+2002年第6回DPI世界会議札幌大会組織委員会編[2003]、以下数字はこの本の頁を表示)。11の分科会の中に「生命倫理」の分科会もあった。本ではこの分科会について約50頁の記録がある。この分科会に4つの集まりがあった。遺伝学と差別/生命倫理と障害/QOL(生活の質)の評価/誰が決定するのか。
 カナダ障害者協議会(の国際開発委員会の委員長)S・エスティの報告に次のような部分がある。「地元に一人しかいない健康保健学の教授が、病院の倫理委員会のメンバーに任命され、いくつかの教育訓練コースを受講し、生命倫理学者を名乗る場合もあります。」消費者・障害者でなく、医療とケアの専門家、「学術的関心」をもつ者が「生命倫理学者」になり、「その結果、「能力主義」が生命倫理の定義となり、医療モデルとして語られていくのです。」(p.275)「私は、倫理学者が病院の倫理委員会に含まれているのを知って、ショックを受けた。この委員会は、医者が治療をやめ、患者の死を幇助するのを認めている。[…]倫理学者が倫理委員会に加わり、これらの患者への医療サービスあるいは患者の生そのものを否定する方法論によって、死刑執行産業の設立を基本的に支援することになっている。」(p.276)そして(今ある)生命倫理に抵抗する別の生命倫理を示していくことが呼びかけられる。
 こうして安楽死にも言及されるが、より多くの時間話し合われたのは遺伝子検査、出生前診断のことだった。日本からは米津知子安積遊歩等が発言した。マルティナ・プシュケはドイツでの「私たちは着床前遺伝子診断に参加しない」と呼ばれる運動を紹介した(pp.262-263)。
 他にも、それぞれは短いのだが、様々な主題、論点が示された。クリストファー・リーブ――頸椎損傷で首下が麻痺した「スーパーマン」の俳優で、どうしても回復するという堅い信念をもっていたことにより全米で人気があり、同時に少なからぬ障害者には不評な人物――が支持するES細胞の利用について(p.244-245)。ろうの親がろうの子が生まれることを望んで技術を利用することについて(問われた2人は反対だと答えた,p.248)――この主題について書かれた文章に長瀬[1997]がある。障害をもって生まれてきたのは医師の過失だと本人や親が訴えるロングフル・ライフ、ロングフル・バース訴訟について(p.236,268-269,287)。2人の筋ジストロフィーの子どもがいて「このような苦労を二度は経験したくありません」(p.254)という日本の男性の発言を巡る議論(p.254-256)、等。WHOとユネスコの対応の違いについて述べたりもしている(p.267,281-282)
 DPI札幌宣言(DPI[2002a])にはとくにこれらの主題についての直接的な言及はない。DPI札幌綱領(DPI[2002b])の「生命倫理」の項は以下。「私たちは遺伝学や生命倫理の議論で主要な役割を果たすべきである。私たちは異なったままでいる権利を主張しなければならない。「人間」の能力を1セットの揃いでみる概念やそれに関連した議論を私たちは否定しなければならない。学問の領域において、肯定的な視点から障害のイメージを変えようとしている障害学を推進しなければならない。」
 分科会で出された声明はさらに踏み込んだものになっている。「私たちには違ったままでいる権利があり、障害を根拠とする出生前選択は行うべきではない。[…]パーソンという概念は能力とは関係ない」(p.250)、「選択的中絶は、リプロダクティブ・ライツの中に入らない」(p.289)、等。
 そして、この分科会でG・ウォルブリングは次のような発言を残している。「子どもをもつ権利と、特定の子どもをもつ権利とを分けて考えることが必要だと考えてきましたが、それを説明するのに非常に苦労しています。私のような考え方をする人は、北米では少数派だと感じています。今回、前の米津知子さんの発表を聞いて、彼女も私と同じ考えであることがわかりました。」(p.283)

II 日本における

(1)反省・改革
 日本の場合はどうか。むしろ早くから、1970年前後から、たとえばさきに名指された米津知子(1948年生、ポリオによる下肢障害)たちによって、「生命倫理」の問題はそれなりに大きく取り上げられてきた。ただその現われ方は主題ごとに、領域ごとに少し異なっている。詳しくはまた別に書くことにし、ここではごくごく簡単に記す。
 まず、Iで記したことは重要な部分を切り落としている。今どきの生命倫理の主題に限定すればさきに記したように言えようが、もっと以前から、専門職のあり方、医療・福祉の機構・体制をめぐる問題はあったし、それはそこで被害を受ける側によって問題にされてきた。生命倫理・バイオエシックスの誕生が記される時にも、人体実験への対応から始められる。日本でも薬害事件が幾度も起こり、そして公害の問題の顕在化が、研究・開発・供給体制の問題を浮き上がらせた。
 そしてこれらと、医療、とくに精神障害者の医療・福祉体制の問題化、精神病院・福祉施設への隔離・収容に対する批判は連続している。1950年代北欧・北米などで、知的障害者、そして精神障害者の巨大施設への収容に対する批判が起こった――これが「ノーマライゼーション」の運動ということになる(簡単な解説として立岩[2002a])。それは19世紀から20世紀初頭にかけて巨大施設への収容が進み、いったん完成した国々において、それへの反省・批判としてなされた。
 それに対して日本では、精神病院は比較的早くから作られていったが、他の障害者施設の整備は遅く、批判の対象が広く存在し始めたのが1970年代であり、施設の整備はたしかに一面では状態の改善でもあったから批判の動きは当初大きくない。だが1970年はじめには、精神病院についての大熊一夫によるルポルタージュも現れ、施設収容、そこでの障害者・病者の扱いが問題とされる。
 そして、それは大学闘争とも紛争とも呼ばれる騒乱とも連動し、それと結びついた幾つかの学会、一時期の日本臨床心理学会や日本精神神経学会の改革運動にも関わっていく。これらの学会、というより一時期にその中で一定の発言力を有した部分が、1970年代以降しばらく、それまでの自らの所業を反省しようとした。精神障害の本人の参加・発言を認めるべきだと考え、そこで幾人か精神障害の本人の参加がなされることにもなった。学会の大会や学会誌で、精神障害の本人の幾人かが発言し文章を書いたことがあった。
 こうした動きは、障害者の運動としても、患者の権利の運動、そうした社会的動きにつられるものとしてのバイオエシックスの運動としても、本道・本流に位置づきそうに思えるし、実際、医療・福祉サービスを利用するあたっての供給者と利用者との関係のあり方を変えていこうという運動は、世界中で展開され、日本でもその動きは基本的に利用者である本人たちの動きとして現在に続いている。
 しかしこの時期のこの運動は、例えば米国のように、バイオエシックスという学問の確立と制度化、研究機構・供給機構への「倫理」の組み込みという道筋を辿らなかった。そのことの理由と意味とを考える作業が残されている。専門職でありながら、自らの専門性を懐疑し、否定しようというのはなにか自虐的に思える。しかも、それは結局医療者中心のものであったとも言われるし、実際そうだった。するとなにか滑稽にも思える。揶揄したくなる。しかし、容易に解が出そうにない状態をしばらくは続けたことの必然もまたあり、その徒労と消耗を含め、そこに馬鹿にしてならないものがあったのではないかと私は考えている。制度化され実際の力をもつことよる明らかな利点があるのにそれを得られなかった損失とともに、そこに行けなかった理由もあるはずである。このことについて考えるという課題が残っている(cf.立岩[2002-2003(9)])。ここにも資料はなくはない。多くは精神医療改革に関わった医療者によるものだが、精神障害者本人のものもある。例えば吉田[1981][1983]はいまも読んで考えべきことのある本である。

(2)本人たち
 研究者・供給者の主導で、その自己反省として起こった色彩が強い動きとともに、同じく大学闘争・大学紛争を含む社会の騒乱とたしかに連動しつつ、より独立した動きとして起こった動きがある。
 脱施設の動きが最初に現実のものになったのは1970年以降の「府中療育センター事件」においてである。その施設に入り、やがてそこを出た本人の本(三井[2006])が刊行されている。同じ年、脳性まひの子を殺した母親への減軽嘆願運動に反対する動きが起こる。これらについては以前、立岩[1990]でごく短く記した。そしてそれは、1970年代初頭の優生保護法改定反対運動につながっていく。
 それはとくに「学問」に関連づけられてはいない。むしろ、学校には行っていない(障害を理由に学校に行けなかった)人たちによってなされてきた。「青い芝の会」の中心的なメンバーであり「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の設立にも関わった横塚晃一(1935年〜1978年)――重要な著作として横塚[1975]、その増補版として横塚[1981]、この本を2007年に復刊する――は中学校2年までしか行かなかったし、若くしてガンで亡くなった横塚の後も神奈川で活動を続ける横田弘(1933年生)は学校に行っていない。1980年代から1990年代に重要な活動をした高橋修(1948年〜1999年、cf.立岩[2001/05/01])も学校に行っていない。学があるけれども学校には行っていない人がいるという時期が日本にもしばらくあったのだが、その人たちは――その後現れる、学校に「行かない」人たちを別にすれば――その最後の人たちかもしれない。米国の自立生活運動と呼ばれるものが始まったのは、カリフォニルア大学バークレー校だとされる。口の達者な、例えば下肢以外は健常者と違わないといった人たちが、語った。発言できたのは一部の人たちであったはずだ。いったいどの程度の障害の、どのような社会環境にあった人たちが学校に行けていたのか、高等教育を受けられているのか、それがなにかに影響したのかしなかったのか、それはそれで見ておく必要がある。
 そしてこの時期、むろん人により様々なのではあるが、相対的に重い障害のある人が多く前面に現われた。行動するには軽い方が便利だろうから、これはいくらか不思議なことのように思われる。だが、一つ、重ければ支援を必要とし、そのことのために、そこに運動が生じたということがあるだろう。なにかのはずみで、「健常者」が誰かの「介助(介護)に入る」ことになるという関わり方があり、そんなことがあってなにがしかのことを言ったり書いたりする人が出てくるということがこの国の場合にはあった。これもすこし変わったことであったかもしれない。
 そしてもう一つ、そういう人こそが本当のことを言うのだという受け止め方もあった。最も困難な人が救われるべきであり、その人たちの言うことを聞くべきだという捉え方もあったと思う。米国やヨーロッパへの研修旅行や、運動関係の催し等において脳性麻痺の障害者を見なかった、日本の場合にはときに重い言語障害等を伴う脳性麻痺者が運動を主導してきたのに、という感想がしばしば語られることがあった。そこにはいくらか、自らは重い人としてやっている、あるいは重い人とともにやっている、ことは最も重い人のことから考えねばならず、重い人と軽い人との分断を避けようとやってきたのだという自負が含まれていたように思う。
 様々が問題にされた中でも、多くの人が長い間ものを考え、ものを言い、行動したのは、1970年代初頭、1980年代初頭と、優生保護法を改定しようという動きに反応した運動だった(cf.立岩[1997]第9章、森岡[2001])。また自治体のレベルで「不幸な子どもを産まない運動」といったものが行なわれ、それに対する抗議がなされた(兵庫県における運動とその運動への抗議行動について松永[2001])。そして1994年、カイロでの国連国際人口開発会議で安積遊歩が女性障害者の子宮摘出問題と優生保護法を告発する。そんなこともあって優生保護法は母体保護法に変わる。
 図式的には、女性の側が産む/産まない自由を主張し、それに対して、障害者の側が障害児を生まない自由・権利を主張することを批判するという構図になるのだが、実際にはその間に様々があった。そしてここで、障害をもつ女性たちが、様々な場所で発言を行ない行動した。全体としては、どこでもそうであったように、男の方がいばっていたのではあったが、それでも、この時期多くの女性の障害者が現れて、ものを言った。ここでは紹介は一切略すが、ここ数年のうちに著書が刊行された人が多くいる。本多節子(1936年生)、三井絹子(1945年生)、樋口恵子(1951年生)、境屋純子(1952年生)、金満理(1953年生)、堤愛子(1954年生)、安積遊歩(純子、1956年生)等がいる(障害をもつ女性たちの運動についての研究として瀬山[2002])。例えば、さきほど名前のあがった米津知子は1948年生、1970年代のリブの運動、優生保護法改定組織の運動に関わり、その後も「82優生保護法改悪阻止連絡会」略称「阻止連」(96年に改称して「SOSHIREN 女(わたし)のからだから」)に参加する。DPIの世界大会での報告の全文をホームページで読むことができる(米津[2002a])。他に文章として米津[1991][2002b]等。横田弘の対談集での横田との対談がある(横田・米津[2004])。米津へのインタビューをもとにした学会報告として瀬山[2004]がある。また関西にも「優生思想を問うネットワーク」があり、ここでも女性の参加は多かったし、その人たちが長く活動を継続してきた。こうした運動・組織は、様々に現れる新しい生殖技術を問題にするとともに、身体障害者・知的障害者の施設、ハンセン病療養所等における不妊手術の実態を明らかにし、その責任を追及しようという動きにもつながる。優生手術に対する謝罪を求める会編[2003]が出されてもいる。
 書かれたものがかなりある。本になり公刊されているものもあり、追悼文集等、市販されない出版物も多くある。闘病記と呼ばれる本もたくさんある。2004年に『ALS』という本(立岩[2004])を書いた時に数十冊の手記を読んでそれを資料としたが、その後も増えている。そしてホームページがある。自費出版のものも含め、病気の人が自らのことを書くことが、必ずしもごく最近の流行でなく、この国ではわりあいよくあることであってきたのかもしれない。そして「学問」であること「学者」であることと、ものを書くことのつながりがそう強くはない、そうした背景もあるかもしれない。
 それに加えて、本人だけでなく、その人、人たちの行動や思想が伝えられるべきだと、記録され記憶されるべきだと強く思った人たちがいて、刊行され、そう広い範囲には届かなかったとしても、読まれた。この国の思想・行動は、言葉・文字を扱うことにおいてはアマチュアから始まっているし、そしてそれは続いている。ただこのことは「後進性」だけを意味するだろうか。必ずしもそうとは思えない。

(3)関わった人たち
 そしてその人たちや組織・運動に関わって研究者、というより、その他の人たちがいた。とくに学会といった組織にかかわらないところで、様々なきっかけから、実際に関わりながら、ものを書いてきた人たちがいる。知った上で言うのではないが、こうした人々も他の国々よりむしろ多いのかもしれない。
 関わった人は、研究者という肩書きであっても、なにか文章を書くことが、さらに研究をすることを主な仕事と考えていたわけでもなかった。小学校の教諭、会社員、労働組合の職員、地方公共団体職員、著作業、その他の人たちがいて、大学の教員はその一部だった。そしてその人たちにしても、大学にそうした「研究」の足場をもっているわけでもなかった。大学の教員をしていてものも書いた人たちとしては、山下恒男石毛えい子篠原睦治といった人たちがいた。最首悟も長く大学に居座ってはいた。医師では山田真石川憲彦がいたし、毛利子来も関わることがあった。特殊学級の教諭を長く勤めてきた北村小夜がいた。古川清治は出版社に勤務していた、など。
 それと違う集まり・動きも以前からあった。社会福祉の従事者や特殊教育領域の教員と、大学等でその養成にもたずさわっている人たちのつながりである。日本共産党といった政党のつながりで、学者たちと、障害をもつ本人たち、というよりは学校の教員や福祉施設の職員などとの関係はあり、そうした人たちの全国規模の組織として「全国障害者問題研究会(全障研)」があった。ただその集団とここに記している人たちは仲がわるかった。むしろその集団とその思想を批判することにずいぶんな労力が割かれたことがあった。それは「左翼」内部の対立を引き継ぐものでもあった。大学における学生運動に政党と政党嫌いとが関係していた時期、養護学校・学級でなく普通学校・学級に一人の子が行こうとするその運動を支援する運動が、大学の自治会の運動の大きな課題とされたりしたことはこうした事情にも関係している。一方の主張は、「全面発達」を言い、伸ばせるものは伸ばそう、そのためにはそれに適した教育環境があってよいとして特殊教育を肯定するのだが、他方は、それを隔離であるとし、できようとできまいとみながいっしょにいる場がよいのだ、その場が必要なのだと言うのである。その争いは消耗な争いでもあったのだが、同時に、主張・思想を――そのよしあしはさしあたり別として――「純化」していくことを促すものでもあった。後者の側は、「できなくてよい」と言い切ろうとするのである(その論点の一部について考えたものとして立岩[2001b][2002b])。
 これらの人たちの中に学問として哲学・倫理学を専攻する人はあまり見当たらない。さらに、なにかの領域の学問の専門家として語るというのでもない。考えることも大切だと思った人もいるし、思いながらも、その人たちのある部分は支援者というより運動の前面にいなければならない人たちでもあったから、次から次に起こるできごとに対応するだけで時が経っていくという人もいる。ただ、このことは、そこで主張されたり疑問に付されたことが「学問」的な検討・考察の対象にならないということを意味しない。

(4)その後の人たち
 私(1960年生)の世代は、そうした動きから10年から20年遅れてきたから、その前半については直接には知らない。書かれたもので知ったり、話を聞いて知ったり、またその後、1980年代以降の動きをいくらか知ったり、ある人たちは、その社会運動なるものにいくらか関わったりしてきた。学生のときに、普通学校・学級への就学運動といったものを知った人、いささかの関わりのあった人もいるし、とくになにもなかった人もいる。とくに「学問的」な、ということでは必ずしもなかったりするつながりから知ったり、考えたりしてきた。さきにもふれたように「介護」に関わった人もいる。あるいは、むしろ研究を始めてから、読んだり聞いたり、また集まりに呼ばれたりして、組織や人を知った人もいる。
 大橋由香子斉藤有紀子玉井真理子柘植あづみ松原洋子といった人たちは、さきにあげた「阻止連」→「SOSHIREN」といった集まりに直接に関わった人もいるし、主体的に関わったというのでないにしても、その集まりやそのメンバーの関係があったりした。また、小松美彦土屋貴志市野川容孝といった人たちも、ものを書く前に、あるいは書き始めてから、人や人の動き・主張を知ることになった。森岡[2001]といった著作もその一つである。そして私もそのような人たちの一人ではある。先に記した上の世代の人たちの影響を受けた。多くを受け入れたが、よくわからないところもあり、時にはそれを書いてきた(例えば山下恒男の論への言及として立岩[1997:442])。
 研究者として、生命倫理の問題を障害者の主張・運動との関わりで、すくなくともそれをいくらかは知りながらで論じることは、この国で、比較して他よりは多く、なされてきたのではないか。いくつかを断片的に記してきた「運動」があって、それを受けたりそれに関わったりしながら書かれてきたことがあり、それにはそれなりの蓄積がある。それらをみな一括りにすべきではなく、その評価は個々になされるべきだろうが、生命倫理に関わる研究、文章の全体の数自体が多くはない中で、そのような場所からの書きものは、それなりの割合ではあった、あると言えると思う。そしてそのいくらかは、執筆を分担して書かれ公刊される本となったり、単著として刊行されてきたりした。それらは、そう広く読まれたということもないだろうが、まったく無視されているというほどではない。むしろ幾つかはそれなりに知られるものになった。

III 現在

(1)回避
 ただ、そうして引き継がれ改めて考えられてきたことが現在、医療・医学の「現場」で、「使われる」ものとして、あるいは、「相手にされる」ものとしてあるかといえば、そうではない。そしてそのことは、そうした論・言説に論理内在的な弱点があったからではなく――ここで私は、弱点・難点がなかったと言っているのではなく、あったことが理由であったのではないと言っている――その使い道を考えたときに、適していない使えないということであったのではないかと思う。
 その代わりに、ではないとしても、一つに、この間数多くの教科書、概説書が出されてきた。やがて医療・看護・福祉の領域で仕事をすることになるだろう学生などに対する講義などで使われるのだろう。それらに書かれていることもまた様々であり、まったくの両論併記といったスタイルのものもあれば、自らの主張を明確に述べているものもある。ただ、多くの場合には、分量の制約のもとで様々な主題を扱う本という制約もあり、そう長々と理屈を連ねていくのは難しい。そして、それらの中でわりあいに簡単に作られる書物の場合には、米英流のバイオエシックスにあるとされる幾つかの原則が示され、だいたいしかじかのことは認められるようになってきつつあるといった記述・解説のされ方になる。
 そして、実証的な研究がある。つまり、自分が担当する科目を履修している学生、いま教室にいる学生などを対象にしかじかのことについてどう思うか、アンケート調査などをするのである。それは大切な研究である。ただ、もちろん、そこで多数派であった意見が多数であることをどのように考えるのかという課題はそこにいつも残されているのだが、ときにそのことは曖昧なまま、ともかくそうした研究はなされ、学会等で報告される。
 さらにもう一つの代わりは、既に、基本的な議論は終わった、あるいは終わったかのようにして、ふれないで、「臨床」の「現場」でどのように対していくのかといった次の話に進んでいくものである。そこに「倫理(学)」が参与するにあたっては、様々にもっともな理由があり、例えば私も、倫理学者でないが、そうした場、病院の倫理委員会に関係することにもなってしまっている。もちろん、基本的な是非についての議論はもう終わっているという判断が正しいのだという立場はあるのだから、そうでなく終わっていないと思うなら、そのことを言わねばならない。私はそう言えると思い、そのことを書いてきた。少なくとも、それは議論の対象である。けれどもその議論が略されてしまう。本章の冒頭、もっと哲学・倫理学をしようと述べたのはそういうことでもある。

(2)利用可能性
 本章に記した運動は、まったくおおまかに「優生思想」という括り方ですべての事態を括って批判を行なってきた。それはあまりにおおざっぱな括り方であるように思える。批判の際の常套句でしかなく、すべてをそれで片付けるというのはいかがなものかとも思われるだろうし、私も、この数十年の間、なにか考えが進んだところがあっただろうかと思うことがある。たしかに現在、たとえば尊厳死は、まちがいなく、善人たちによって、良識ある人たちによって支持されているのであって、その人たちに対して、あなた方は優生思想の持ち主であるなとど言いがかりをつけたら、かえって反感を買うのも仕方のないことであり、それではかえって言いたいことが伝わらないなとどと諭されるのも当然であるように思える。しかし、私は、基本的には、この把握は当たっていると考える。(このことについても別に説明する必要があるのだが、さしあたり立岩[2006b]。)
 では、優生思想を否定して何を肯定するのか。障害を肯定するという言われ方がされるし、自らもすることがあるが、これは正確ではない。そこで肯定されようとしたものは、むしろ否定されてならないと思われたものは、もっと漠然としたものであり、無内容なものであり、同時にまったく具体的なものだった。つまり、なんであれ生きていることを認めればよいというのである。
 ここで、そのよさをどこに定位して言うのかという問いはある。個々人に即し、多様なあり方を許容する立場と、(たとえば「生命(の尊厳)」に)固執する立場という対比で捉え、なされた主張を後者であるとし、偏った考えだと捉える捉え方がある。この辺りから理論的な議論をせざるをえなくなるのだが、その捉え方は違っていると私は考え、そのことは立岩[2004a][2006d]などで述べた。実際を見ても、寛容という立場を主張しているとする人々が、むしろ特定の人間のあり方に対する信仰を捨てられないでいる。(安楽死・尊厳死に即した論として立岩[2005-2006]。[2005-2007]等と合わせ、本にする。)
 その余計な――と別の立場からは見える――価値・機構がある社会には加わってしまっている、そこで簡単なことも言いづらくなっているということだと思う。例えば、とくにプロテスタントの教義では、基本的には、世界でなすことと存在の価値とが(ウェーバーが記述したように、ひねくれた経路を通ってであっても、結局は)順接でつながっている。そのように世界に対して関わる私、そして、私に対して関わる私が偏重される。私がなにごとかを統御できることが私を規定する。それは、手段が目的を規定することになるのだから、転倒があるのだが、そのことがおかしなことだと思われていない。そしてそれは宗教の教義に限ったことではなく、同じ構図が様々なところに現れる。
 このような了解はあまりに図式的であるから、私自身が作った図式、虚像ではないかと疑ってもしまう。しかしおよそ私情が排されているように見えるものも含め、様々の文章を読むと、そこにその信仰は存在する。それもずいぶんと強く信じられている。
 他方で、この世にある価値をどこかで「相対化」してしまう傾きがあり、それもまた許容される社会がある。つまり「現世では、世間では、しかじかがよしとされているのだが、しかし、それは所詮…」という言い方がわりあい容易になされ、受け入れられる。そしてそこでは、普通に受け入れられる価値に対抗するものを積極的に打ち出すことが求められるわけではない。このことは、普段の社会で生きていくのが困難でそれを否定しようとする人々にさしあたり有利に働くだろう。
 そのことと、世界に共通して現れた社会への懐疑とが合わさり、さらに、代替案をどう言うかについての抗争があって、この国の運動が言えてきたことがあると思う。
 ただ、いまあげた現世逃避的な了解の構造は、その「相対化」された規範がその現世で強く作用することを仕方のないこととしてそのまま認めてしまう傾きをも有している。現実における差別は仕方がない、とも言われてしまうことがある。二枚舌が構造化されてしまうのだ。このことには注意する必要がある。
 そして、一人ひとりの意志を大切にすることをうまく位置づけることである。権利を求める運動は、抑圧されている主体性を主張するものであった。それはもちろん、まちがないなく大切なことである。その際、その人になにか積極的なところがあることをもって、それを拠点にして、抵抗しようとする流れがある。たしかに障害はたいていその人の一部であり、一部にしかすぎない。だから、障害があっても様々が残る、であるのに、障害によって全体を否定されるといった言い方をすることが多い。こんな言い方でまちがいなく多くは救われる。しかしそれでかえってうまくいかないことがある。そこでどのように言っていくか、行なっていくかである。言えるはずである。
 「自己決定を剥奪されてきた。これは不当だ。それで自己決定権を獲得しようというのである。だが他方で、自己決定と言って全てを済ませられない、肯定しきれないという感覚も確かにある。例えば、死に対する自己決定として主張される「安楽死」「尊厳死」に対して早くから疑念を発してきたのも障害を持つ人達だった。ここには矛盾があるように見える。[…]これは場合によって言うことをたがえる虫のよい御都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだと感じる。両方を成り立せるような感覚があるはずである。」(立岩[1997:6])
 別の立場を論駁しようとして議論を始めるとかなり複雑にはなるが、基本的には難しいことを言う必要はないはずだ。そして、本来、行なうことも、そう困難なことではない。実際、その紹介も本章では一切省かざるをえなかったが、他では死ぬはめになっただろう人たちが多く生きられるような仕組み、現実を、この社会は、またこの社会で不平を言いつつ様々に行動してきた人々は作ってきた。だから本来、使えない、はずはないのである。

文献(リンクは↓)

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米津 知子 1991 「日本の母性はたかだか一〇〇年」,グループ「母性」解読講座編[1991:110-124]

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◇全国自立生活センター協議会 編 2001 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,現代書館


 


SOSHIREN女(わたし)のからだから  ◇障害者(の運動/史)のための資料・人  ◇障害学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇WHO 
 

■今回は文献をあげない人たち

石川憲彦
最首悟
山田真
山下恒男

■メモ・引用

★ 「不妊治療」としてなされる部分は別のようにも思われるが、これにしても、不妊という身体の状態が関わり、そしてこれを障害とみることもまた可能である。
★ 「また別に反対派の重要な一翼をになっているのは、障害者のグループ、団体である。書籍等でそれをきちんと紹介しているものを私は知らないが、ホームページでは以下がある。
 International Anti-Euthanasia Task Force(http://www.iaetf.org/)そして、Not Dead Yet(http://acils.com/NotDeadYet/
 前者は「反安楽死国際対策本部」、後者は「まだ死んでないぞ」という米国の草の根のグループ。これらも当方のホームページからリンクされているし、その内容の一部の日本語訳を置いてある。かなり詳しい情報がある。ヘムロック協会やキヴォーキアンに対する具体的な批判もある。そして、自己決定を強力に主張してきた集団が、安楽死には反対する。その意味を考えることが、安楽死を考える上でもっとも基本的なことだと私は考えている。」(立岩[2001-(4)])
 「ただ、4月号に記した米国の障害者団体のホームページを紹介して、その部分を問題にしている人たちがいることはなんとかつけ加えた。反対派というとすでにカトリックなどの宗教勢力が持ち出されるが、影響力の大小はともかく、他にも批判はあり、それは病や障害に関わる価値のあり方、社会のあり方を問題にした。それは同じ号に著書を紹介したヘンディンのように自殺を求めることを精神病理として見るのとはまた異なる立場からの主張である。」(立岩[2001-(6)])
★  大熊[  ]
★  日本臨床心理学会[  ]
★  障害者「殺し」であるという言い方をするときには、中絶は禁じられるべき行いとしての殺人である――ただ、ここで例えば田中美津などが言うのは――。を)産める自由をと言い、権利を主張した上で、選択的中絶については肯定しない というあたりが――そうすっきりとも行かないのだが――…
★  2006年には佐々木[2006]○、「生きる力」編集委員会編[2006]○が刊行された。
★  むろん実際には、いささかでも予算を獲得しようとすれば、与党につながろうとすることにもなる。そんなこともあって、常に与党を支持する組織もあり、むしろ、数としては常に他よりもずっと多い。だから偏っている。しかし、その多数派は、おおむね是認するから、とりあげる必要がない。
★  コロンビア大学の人類学の教員(この人はALSの人ではないのだが)が書いた本であったり(Murphy[1987=1992]○)、あるいは,やはり大学の教員であった人をかつての学生が取材するといったもの(Albom[1997=1998]○)であったりする。あとは自らが死を選ぶ英雄的な物語が幾冊も翻訳されている。
★  もちろん、このように言うと、否定はしていない、否定することなど考えていないと言われる。しかし、それは生きている人である以上は殺さない、殺せないという以外のことではないかと返すことはできる。すると今度は、居直って、その通りだと、障害自体はよくないものだと、人であるからには殺すことはしないが、しかし障害がよくないことであるのは確かだと言い、殺さないこととよくないこととは両立する。このように言われる。するとさらに、第一に、よくないのか?が一つ。そしてよくないと言えたとして、それは、よいことかという問いが残る。
 「優生思想」→「この言葉をすこしゆるくとるとしよう。例えばそれを国家が主導するものに限らないものと考えるとしよう。そしてこの拡張は間違っていない。実際、優生学運動は、民間の自発的な運動として歴史上に存在しているからである。とすると、その把握は間違っていると反論できるだろうか。そのように思えない。少なくとも、その把握に対して、それと違った考えをもつ人は、どのように優生思想ではないのかを言うか、あるいは、いやよい優生思想もあると居直るか、どちらにせよ言い返すべきである。言い返していると思っている人たちの反論が十分なものだと思えない。私が思うに、乱暴であり、使わない方がよいと思える論理を使っていることは多々ある。…」
★  そしてそれは、全面的に受け入れるべきだと決めていたというわけではないように、私は思う。例えば、「殺人」であるという言い方――がたしかに、…あって…のだが――。
★吉田おさみ。「むしろ人間は単に能動的・主体的な存在でなく受動的・受苦的存在であり、ティピカルな「精神病」者は受動的・受苦的存在としての人間なのです。」(吉田おさみ『「精神障害者」の解放と連帯』,新泉社,1983年,p.96)堀正嗣[1994:105]に引用、立岩真也「1970年」に引用。
★ 本多節子(1936年生、小学校卒)、三井絹子(1945年生)、樋口恵子(1951年生)、境屋純子(1952年生、境屋[  ]○)、金満理(1953年生、金[1996]○)、堤愛子(1954年生)、安積遊歩(純子、1956年生、安積[1993]○[1999]○)等がいる。 ★ 柘植あづみ(浅井・柘植編[1995]○、柘植[1998]○)、斉藤……(斉藤編[  ]○)、玉井真理子、松原洋子
★ 小松美彦
・土屋貴志[  ][  ]
★ 立岩[2006]  共通性(消費者主義)と違い。
 「97年に出た『私的所有論』の序に書いたと思うんですけれども、最も我々の社会の中でその決定を剥奪されてきたがゆえに決定ということをはっきり言った人たちが、ある意味究極の自己決定である、生命に対する決定としての死の自己決定、安楽死、尊厳死、それに関して、一貫した疑義を示し、あるいは批判、否定してきたということです。このことの意味合いが僕はずっと気になっていた。これは、シンプルに考える人たちが言うには、矛盾している。一方で自己決定ということをさんざん言っておきながら、当然その一部に含まれるであろう死と生に関わる決定に関しては、言葉を濁している、あるいは批判的である。あなたの主張は首尾一貫していない、おかしいのではないかと言われるのです。
 しかしながら、今日の表題である「ケアと自己決定」に関して、何かしらのことを考える価値があり、言う価値があるとすれば、その二つながらの言葉が、同時に同じ人たちから発せられたという、そのことの意味を考えること以外に、ほとんどないような気さえするのです。それではそこのところをどう考えるのか。この矛盾するものとして捉えられている両者は、私の直感としては矛盾していないように思われる。このことを僕はわりあい長い間、考えてきて、それを言ってきたんだろうと思います。」(立岩[2006]○)
 「男によって決められてきた。これに対する抵抗としてフェミニズムがある。また、今まで障害を持つ人、病を得た人は、施設の中で、医療・理療の現場で、職員、専門家、等々によって自分達の生き方を決められてきた。つまり自己決定を剥奪されてきた。これは不当だ。それで自己決定権を獲得しようというのである。だが他方で、自己決定と言って全てを済ませられない、肯定しきれないという感覚も確かにある。例えば、死に対する自己決定として主張される「安楽死」「尊厳死」に対して早くから疑念を発してきたのも障害を持つ人達だった◇05。ここには矛盾があるように見える。私自身、かなりの部分は「自由主義者」だと思う。生命に対する自己決定が肯定されるべきだと思う。ここからは、ほとんど全てが許容されることになるのだが、ではそれに全面的に賛成かというとそうでもない。ここにも矛盾がある。少なくともあるように思える。これは場合によって言うことをたがえる虫のよい御都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだと感じる。両方を成り立せるような感覚があるはずである。」
◇05 かなり早くになされた批判としてしののめ編集部[1973]がある。安楽死について本書は主題的にとりあげることをしないが、障害新生児の治療停止(第5章注06・206頁)、ナチスドイツにおける安楽死(むしろ大量虐殺、第6章3節)に触れることにも関係し、第4章、第7章で死についての自己決定について少し述べる(cf.第4章注12・166頁、第7章注22・318頁)。資料集として中山・石原編[1993]。

◇「もう一点です。さきの話は、徹底的な、身も蓋もない自己決定主義につながります。もちろん、これが全てではありません。僕が歴史のある部分を誇張して話していることを承知して聞いていただきたいと思いますが、しかし、無味乾燥な自己決定主義を貫いてきた部分はあります。自分の人生を自分で遂行していく際、自分の手足となるものが必要である、それはあなた方だということです。
 それと同時に僕が、そこを考えなきゃいけないな、というようにずっと思ってきたことがあります。それは、97年に出た『私的所有論』の序に書いたと思うんですけれども、最も我々の社会の中でその決定を剥奪されてきたがゆえに決定ということをはっきり言った人たちが、ある意味究極の自己決定である、生命に対する決定としての死の自己決定、安楽死、尊厳死、それに関して、一貫した疑義を示し、あるいは批判、否定してきたということです。このことの意味合いが僕はずっと気になっていた。これは、シンプルに考える人たちが言うには、矛盾している。一方で自己決定ということをさんざん言っておきながら、当然その一部に含まれるであろう死と生に関わる決定に関しては、言葉を濁している、あるいは批判的である。あなたの主張は首尾一貫していない、おかしいのではないかと言われるのです。
 しかしながら、今日の表題である「ケアと自己決定」に関して、何かしらのことを考える価値があり、言う価値があるとすれば、その二つながらの言葉が、同時に同じ人たちから発せられたという、そのことの意味を考えること以外に、ほとんどないような気さえするのです。それではそこのところをどう考えるのか。この矛盾するものとして捉えられている両者は、私の直感としては矛盾していないように思われる。このことを僕はわりあい長い間、考えてきて、それを言ってきたんだろうと思います。」(立岩[2006]○)
★ 「また次のような指摘もある。「国際生命倫理学会が、発展途上国に進出しようとしています。[…]途上国では活動に対する反発を感じることなく、研究を推進できると考えています。」(p.253)
★ シンガーはブッシュを批判する本を出していて、それは翻訳もされている(◆)。たとえば私はブッシュに批判的であり、他方、シンガーの主張の相当部分に賛成する。しかし、それに対して、…。いるということである。それはそれとして
 技術を批判する側の運動は、おおむね「リベラル」あるいは「左派」の運動であった。行動についての関与を否定し 自由を求めることになる。実際、たとえば米国では、大きな対立点として 中絶の問題があるわけだが、。尊厳死にしても、同様の構造になっている。ここで離反することになる。その度合は様々であり、苦労しているともいえる。  左派のどれだけがどの程度この種の問題に関心をもっているのかは不明だが、このことはともかくとすれば、おおむねそのように言えるもしれない。「検査」するスケールがあるそうだが、その多くは左派ということになるはずである。とすると、どうなっているのかである。
★ 以下の記述ははっきりとしたことを言っている。「第一に、永続的に無意識の患者においては、生存において苦痛は存在しないはずだが、他方延命から得られる利益も存在しない。この場合には家族の負担や苦痛、社会にとってのコストを原理原則にしたがった形で考慮に入れること<0140<も許される。[…][Dresser and Robertson 1989]。」(長岡[2006:140-141]) ★ 雑誌としては『季刊福祉労働』(現代書館)があり、より『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)があった。
★ 1970年代から1980年代初頭の法制化反対の運動に積極的に参加したのでもない。ただ、私は、それがそういうことを考えるべきであるとは思ってきた。この主題について、さして大きな動きがあったわけではない。ただ、大きな点だとは思ってきた。このことについても概略は書いた。ここではそれを繰り返すことはしない。ここでは、決定の剥奪 に対する抵抗 という意味ではすべてが、……であったとも言える。

■言及

◆立岩 真也 2012/**/** 『(題名未定)』,みすず書房

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院


UP:20061127 REV:28,29 20070101,02,03,09,26(誤字:古田→古川) 0227(誤字訂正), 20100829, 20120620, 20130118
生命倫理(学)  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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