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人々の意識の位置

―家族・性・市場 24―

立岩 真也 20070901 『現代思想』35-(2007-9):


■立岩 真也 20070901 「人々の意識の位置――家族・性・市場 24」,『現代思想』35-(2007-9):

◆『現代思想』2007年9月号 特集=社会の貧困/貧困の社会(↓)
 http://www.seidosha.co.jp/index.php?%BC%D2%B2%F1%A4%CE%C9%CF%BA%A4%A1%BF%C9%CF%BA%A4%A4%CE%BC%D2%B2%F1
 青土社 ISBN-10: 4791711688 ISBN-13: 978-479171168 [amazon]

 資料

「分業の廃絶」について・予告

 前回、労働と社会についてかつて語られたことのあった夢想についてすこし述べた。生産力の向上によって、人がたいして働かなくてもよい社会がやってきて、固定化された分業が廃絶され、働くことが楽しいことになり、労働が自分のためだけの労働でなくなくるような社会になることが夢見られた。
 もちろん、そんな悠長な話をしてどうするのだと思われるのではある。しかしそれでも考えてみた方がよいのではないかと述べた。そしてこのところこの連載で考えてきた(働き手である、また働き手でない)人の数のことなども、一つめの夢に関わることではあったのだった。それは終わっていないのだが、今回からすこし分業のことについて考えてみようと思う。
 働きたい人が働き暮らしたい人が暮らせていけるのがよいとして、しかしそのためには人々の欲望の形状が変化しなければならないのではないか。そんなことを考える人がいる。そして分業の廃絶は、それ自体がよいことであるとされるとともに、そのための条件であるともされる。つまり、分業が固定化されず、その作業が分かち難い人々の共同性によって支えられているのなら、その労働を自らのことだけのことと考えず、その成果を自らのものせず、うまい具合にことは運ぶのではないか。しかし現在の体制が現在の意識を支え、現在の意識が現在の体制を支えるなら、そうして想定されるうるわしい労働・生産の体制といったものが実現されるとは考えにくい。とするとこの話に続きはあるのか、それともそれで終わりなのか。
 こうして想定される因果自体に疑問な部分がありはする。それほど分業のあり方が効いているのかである。ただ、今また、おそらくは過去の議論との連続性を意識することなく、関係の透明性や近さに立脚しようとする議論がある。というかそんな論はずっとあってきた。それをどう考えるのか。ここでは、分業そのものについてではなく、社会、社会関係と意識を巡る堂々巡りについて、関係や人々の選好や合意の位置について、少し考えてみる★01。
 ただそれとは別に、考えるだけ無駄なようなこの分業(の廃絶)という主題について、荒唐無稽であるためにある人々はわくわくするかもしれない水準の議論としてではなく、より凡庸に考えてみてもよいとは思っている。このことについては別途考察ということになるのだが、そのときのために、まず、なぜ分業に文句を言おうとするのか、並べてみておくとしよう。
 ・多くのことをすることまたできることが、人間にとって本来は望ましいことだ。
 ・長いこと同じ仕事をしていたら、単調で退屈で辛くて、それはよくない。
 ・辛い仕事が特定の人に集中するのはよくない。それは人がみなしたい仕事についても同様かもしれない。
 ・指示する仕事と指示される仕事が分かれ、頭脳労働と肉体労働が分かれると、支配・被支配の関係(の固定化)が生じてよくない。
 ・人々の共同性・紐帯が破壊され、それによって望ましい社会が構築できなくなる。
 今回考えることはその最後の点にだけ関わる。それ以外の点についてはどうか。だから分業(の固定化)をやめようというのはやはり非現実的であり考えても仕方のないことのように思える。社会科の教科書にも書いてあるように、分業は生産の効率をあげるためになされることであり、その有用性は否定しようがないように思われる。また、分業は相互依存の度合いを高めることであり、そこに社会的紐帯もまた生じるのであり、よいことであるともされてきたではないかとも言われるかもしれない。そして、最初の点などは、ルネッサンス的ヒューマニズム的な特定の人間観を押し付けるものであるようにも思われる。人は本来様々な能力をもっているはずなのだから、それが様々に発現することが望ましいという価値観はあるかもしれない。そういう価値観をもつことは、それとしてもわるいことではないはずである。ただ、一つのことへの固着、そうしたあり方もまた――格別に称揚されることではないとしても――認められてよいはずではないか。
 以上、すぐに思いつく様々はいずれももっとなことのように思える。しかし、考えてよいこともまたあるように思うのだ。例えば、誰かに委託するというのではなく、より多くの人が直接に参加する方がよい、少なくともその可能性を広くとっておいた方がよい仕事というものもあるかもしれない。子育てといった仕事について、そのような主張はある。また他方に、以前にすこし触れたことのある主題だが、「辛い仕事」のことをどう考えるのかという主題もある。それを担う人により多い報酬をというのも一つの手ではあるが、辛い仕事であるからこそ、行為自体を人々に配分するのがよいとも考えられる。このように考えていくと、かなり小粒な主題にはなるものの、具体的現実的に考えてもよい主題であるとも思えてくる。
 以上、いくつかの項目だけをあげたところで、今回の本題に移る。

関係と意識の循環、を断つものとしての革命、の困難

 分業のあり様が意識を規定する。固定化された分業が生産・労働の共同性を壊し、自らの労働を所有し支配する個人の像を析出する。そんな筋の話がなされる。それをまにうけた人がどれだけいたのかわからない――私は、ずいぶん前のことだが、次に述べる堂々巡りとその解法の部分を含め、かなりまに受けたことがある。ただその話は今でもどこにでもある一つの典型を示している。それは「自然」あるいは「融合」「(自)意識以前」の状態を描き、そこからの離脱、変容としてそれ以後を描く。流動的なもの、関係としてだけあるはずのものが、固定化されるようになり、実体化されるようになり、物象化されるようになると言う。そして人々がそのように生産を捉え、労働・労働者を捉えるようになることによって、人々は、その成果が個々に計算され、個人に帰属するものであると考えるようになる、なってしまう。そんなことを言う。
 これは関係の中での意識が関係を規定し、その意識の変化が関係の変化を規定するという構図になっている。それだけであればたんなる「観念論」ということになるが、ここでは生産・分業の編成が意識を規定し、その意識が現在を制約するとなっていて、「社会」が先に置かれる。
 しかしこのような図式は、そのような意識のあり方が変わるべきであると考えるのであれば、困難を生じさせるものであるように思える。この図式の通りなら、社会が変わらなければ意識が変わらないことになる。しかしその社会は意識によって支えられてもいるのだろう。とすると、やはり社会は変わらないではないか。このようなことになる。変化を望む人たちがその図式を採用するなら、それは出口のないことを自らに認めることであるようにも思える。ただこれは、たんに図式としてそうなるというのでなく、変化を望む人たちにとっての実感でもあり、その閉塞感を表現するものでもある。
 ただし、もちろん、別の筋道が想定されもしていた。つまり、生産のあり方、経済のあり方が不可避的に社会に変容をもたらす。変化を可能にする生産の拡大とともに、いっときの混乱や困難を経て、あるいはその混乱や困難のゆえに、変わるものが変わるということなっていた。むしろこちらの方が先に描かれた本筋、本道ということになる。しかし、そんなことにはなかなかならない。さきの社会と意識を巡る堂々巡りは、この筋道がうまく辿れないという認識の後に現われることになる。
 だが、行き止まりを導くような図式であったら、それは変革の言説足りえないではないか。まずはその通りであるとも言える。この社会の中で、すくなくともそこそこにうまくやっていけている人たちはそれでよいと思っているようであり、そこから動こうとしない。これはそういう事態を記述するものでもある。
 ただ、これは行き止まりだけではなかった。意識の手前に社会を置かなかったらどうか。人は本当は別の意識・選好をもっていて、それを教えてあげれば、変化するかもしれない。しかしそんなこともないようだ。今あるものが、そのままで不変なものであったら、このままの状態が続くことになる。となるとここで終わりになる。
 それに比べて、まださきの図式には可能性がある。正確に言えば、困難を自覚した上で、残る道を行くしかないではないかと言うのだ。つまりまず社会を変えてしまえばよいということになる。そうしたら、意識・選好もまた変わるだろう。とすれば後はうまくいくというわけだ。もちろんそんなことが可能かという問いはある。しかしどれだけの数であるにせよ、変えた方がよい変わった方がよいと思っている人たちがいるとしよう。それは多数派ではないかもしれず、よって多数決主義の体制のもとではその変革は実現されないのであるが、別の方法を用いるのであれば、可能であるかもしれない。だからやってみよう。このようなことになる。
 こうやって並べてみると、そして並べられた図式をそのままに受け取れば、たしかに、そうたくさんの道筋はなく、これだけが残ることになる。もちろんこれは前衛主義である。ただそれの評判が悪いとして、そのどこかいけないのか。それがよくないことの理由はさほど自明ではない。
 こうしてこの考え方は整合的ではある。そして、それに対する批判が妥当でないなら、正しい道筋ではある。ただ、実際にその革命はうまくいかない。想定された道筋に沿ってのことであったかどうかはともかく、実際にやってみたこともあった。けれどもやはりうまくはいかない。結果がよろしくない理由はいろいろと批判され反省され、次は別のやり方でやってみようということになる。そしてもちろん、やってみないと結果はわからないのだから、うまくいく可能性は常にゼロではない。だからやってみようとする人はいる。けれどもやはりうまくいかない。これは現実をまず動かないとさきに行かない話だから、現実が動かないようであれば、議論としての整合性は別として、使えない話になってしまう。そして使われなくなっていく。論理内在的な難点のためというより、現実によって、このような道筋の話がなされなくなった。
 雑駁にまとめると、これが起こってきたことだ。ただそれをどう考えるかという問題は依然として残っている、考えてよいことだと私は思う。考えても、格別に有効な単一の答は存在しない――むしろ考えると、そんな答が存在しないことを言える――のだが、それでも幾つか言えることはある。それは、結局、労働、というよりそれを巡ってもっと広い範囲を考えることになってしまっているこの連載において、本来はそれが主題であったはずの性分業、家事労働を再度考え始めるその手前でいったん区切りをいれるその辺りに置かれることになる。以下では、その中の一部について、意識→社会という構図について、確認する。そしてそれは――奇妙なつながりのように思う人もいるだろうが――昨今では「ケア」を巡って言われる話にも関わっている。そこに見出される同型性を忘れて、なにかおめでたいことが語られているとすれば、それは理論的には退行であり、それはよろしくないと思うからでもある。

個別の関係にある意識、からの再度の出立

 いくらかは世の中は変わった方がよいと思うのだが、それを可能にするもの、またそれを妨げるものはどこにあるのか。同じような構成の論はいくらでもある。またいつまでもある。別の人たちが書いていたり考えていたりするからその共通性が意識されることは少ないかもしれないが、多くは互いに似ている。基本的には同型なのである。当然のことでもある。
 昨今では、それは「ケア(の)倫理」といったものとして示されている。つながって、ふれあって、知れあえばよいというのである。これだけで終わりといえば終わりの話なのではあるが、それを解釈すれば、また論者自らが解釈するところでは、普遍性に対して個別性を対置しているということだ。天から降ってきた道徳律は信じることができない。しかしケアという契機は実際にある。親は子を気遣う・配慮する・世話する。それは事実であり、そして大切なことである。信じられるとすればそういうものである。そのように言う。さらに、それで終わるのでないとすれば次に何を言うのだろう。それが大切であるから大切にしよう。それが十分に発揮できるような社会を作りましょう。そんなことを言うのかもしれない。また、基本的に具体的で小さな関係の中にあるものが、より広い場に、社会全体あるいは世界全体に拡張していくこと、拡大していくことの希望を語ることもある。
 それに対しては当然様々なことが言われる。もちろん一つには、よいことが起こるとされる関係にあるものは実際にはそんなにうるわしいものではないという指摘だ。ただそのように言うと、現実としてはうまくいっていない部分があることは認めるだろう。しかし、そのようにうまくいかないことがあるのには原因があって、それをうまく取り除くことができるのであれば、やはりそれはよいものだと言うだろう。すると、そんなこともあるかとも思われる。
 あるいは、その思いや関係はある人には及ぶかもしれないが、係累のない人には及ばないではないかと言われる。それについてもいちおうの答は用意されている。例えはケアの関係を体験した者は、適切な心性を身につけているのだから、そのような人がいることを知れば、そして知ることは可能であるはずなのだし、知ろうともするだろうから、それは見知らぬ人にも及ぶことになるだろう。このように答えることになる。すでにそこにそんな心性はたくさんあって、諸事情があっていくらかは弱められているものの、それを除去して十分に発現できるようにすれば、うまくいくはずだと言う。実際、ケアを称揚する人たちの言うとおりのこともないとは言えないようには思われる。しかしそれは楽観的にすぎるように思われる。母子の愛情を引き延ばしていって、何ほどのことが起こるだろうかというのだ。
 それに比して、さきほどのもっと大風呂敷の話は、社会が意識を規定するのだから、社会が変われば社会全体の意識も変わるだろうと言うのだ。しかしやはり困難である。さきの話が小さいが確かに存在すると思われる場から発するのに対して、なお困難に思われる。むしろ、大きな変革の話がなくなったと思われた後に、この小さなところで、小さなところから考えていこう、始めていこうという話が現われたのだとも言えよう。しかしこれも、結局は大きなところの変化を狙うのであればやはり困難であるには違いはない。
 これと、しかじかの方向への社会の変更に人が同意するだろうか、「合意形成」をどうするのかという問い、それは難しいくはないかという問いは、基本的には同じである。そのように始終問われる者は、そのような疑問が出されるのをもっともであると思うとともに、いつもそんな問いに答えたくはないと思うことがある。それは各自が考えたらよろしいというところもないではない。要するに無理らしいということにして、そこで話を終わらせたいのではないかと思うところもある。ただそんな人ばかりでもないのであろう。真摯な人たちもいるのだろう。その人たちが納得や説得の方途を知りたいと思うのももっともなことに思える。

意識・選好を正しく位置づけるべきこと

 ただ、この問題にもいくつかがあり、いくつかの水準があり、ここにある複数の問題の間にある差異がわかっているのだろうかと思うことがあり、それがいささかの苛立ちを感じる最も大きな理由なのかもしれない。そして、個々の関係・心性に着目する議論自体がそうした誤解の上にあるように、あるいは誤解を助長するように存在しているように思える。どういうことか。
 人々の選好の集計として社会が構成されるのがよいのか、それともそうは考えないのか。ここで分かれる。ここで、前者のように考えるのであれば、そうして――その集計の形は、市場や議会やいくつかあるものの――社会が成り立っているのは事実でもあり、またそうして実現される社会がよい社会だということになる。とすると、それは現にある社会である。もちろん考えを変えるように人に働きかけることなどは認められるだろう。しかしそうして、変わるにせよ変わらないにせよ実現される社会を認めるしかない、認めるべきだということになる。
 それはよくないと思うとしよう。それはまずはたんなる願望であるかもしれない。しかしそのような状態がよいということもできる。人(人々の多く)がどのように考えているかとは別に、どのような社会がよいかを主張する。もちろん主張することぐらいは認められるだろう。しかし、それだけでなく、人々(の多く)がどう思おうと、しかじかの社会がよい、しかじかはよくないとする。
 前者は、よいことを予め決めず、合意されたものをよしとするものであり、他方は、そうでない。基本的には、どちらかのいずれかであるしかない。
 まず前者に関わり、民主主義はなぜよいとされるのかについて、すこしだけ考えてみよう。第一に、言うまでもなく、少数の支配者の意思によってものごとが決められるよりも民の意思によって決められる方が、民にとってよいからである。これはその通りだ。一般に決めることができる人たちは自らの利害に沿う決定をするだろう。そんなことをさせないためには、それらの人たちに決めさせず自分たちが決めた方がよい。ここまでは言えよう。
 ただこのことはもっともであるとして、それは他のよりよい決め方を一つ指定するわけでもない。また、決定を誰に委ねるかたちをとるとしても、その欠点はなんとかならないでもないと考えることもできよう。決定する人たちが自らの決定によって利益を得ることができないような仕組みがあるなら、そしてその仕組みを決定者が変更することができないような仕組みにすれば――これはつまり、決定者に最終的な決定権を委ねていないということであり、人々がめんどうなことを人に委ねているということもあるのだが――わるくはないかもしれない。
 さてこれは、民にとってよいことが決められることがよいとし、そのよいことがあるための条件として、民による決定があるということだった。つまり、有益な手段としてこの決定のやり方があるということだ。そしてその場合には――その事情は様々ありうるだろうが――ほんとうは民が自らによいことがわかっていないことがあるか、他の決め方がよい場合があるという余地を残すことになる。
 ただ、本人たちが決めるのがよい理由はそれだけではない。自分たちのことを自分たちが決めること自体がよいことなのだと言われるだろう。その人たちの決定が尊重されること自体がその人の存在が尊重されることだというのである。ただここでも、人を大切にすることと、その人の決定を大切にすることとは、かなり深く関わるけれども、同じではないということは言いうる。
 ここまでは、すぐにわかることだが、自己決定が大切であることの理由を考えたときに思いつくことと同じである。ただ、言うまでもなく、ここでは人は複数いて、その各々の利害・選好は異なる。となるとどうするか。みながよいという答がよい答だとすればよいか。しかしこれは、あることに誰か一人が反対するなら、つねにそれは決まらないということになる。それではよくないと考えるとしよう。では多数決ならよいか、そこでの少数派はどうなるのか、云々、と続く周知の問題が現れることになる。
 多くの人が認めないものを決めても、現実はうまく作動しないだろうという予想もある。そして他のどんなよりよい方法があるかと考えて容易にその方法を思いつかないということもある。こうして民主制は支持されるのだが、それは常によいとは言えない、人々による決定だからよいとは言えない。
 そしてこのことは多くの人によって認められている。決定手続きとしての正義が大切だと説く人自身が、たんに人々の意見を集約するという手続きを認めることからは出てこないはずのものをよしとしたりする。なぜそんなことが起こるか。予め人の選好として特定のもの――それを前提すれば望ましい決定・結果が得られるだろうと思われる特定のもの――を見込むことによってである。ただ、その理由・正当性はときに明らかでないのだ。また、ただ決めればよいとするのでなく、熟慮したり、討議したりすることの大切さを言う人たちもおり、それもまたもっともであるとして、その場合にも多く、熟慮したり討議したりしないことによって、何かが失われることが想定されていて、だからその大切さが言われている。
 そしてさきほどの人たち、人の人に対するよい関係のあり方をどのようにしてより広い範囲に拡張することができるのかと考える人も、その拡張された先の状態がよいと考え、だから、それがどのように可能であるのかと考えているのだ。またそんなやり方ではあまねく及ぶことはないだろうと考える人もまた、それがあまねく及ぶべきだと考えている。これらの人々はみな、この世でどれだけの人が賛成しようがしまいが、そのことと別に、よいことがある、正しいことがあると考えているのである。

人は何を思っているとするのか

 その上で、もちろん、人が何を思っていたり望んでいたりしているかということはある。そしてそれに関わって、実現可能性の問題は残る。それはそのとおりである。政治的な決定については、議会でものごとが決まるような仕掛けになっているのであれば、議員の意向は決定されることに関わり、またより間接的にではあるが有権者の選好も決定に関わる。あるいはまた、政治的決定や個々の組織の決定がどうであったとしても、一人ひとりは働くこと働かないこと、手を抜くこと、等々ができる。手を動かしたり止めたりできるという単純な意味で、自らが労働する、しないことを決めることができるということだ。そして多く得たかったり、少なく働きたかったりする。とすると、その労働を引き出そうとすれば、そのことを考えざるをえないことになる。労働インセンティヴ云々というのはそういう話だ。しかしそれではよくないのではないかと思う人たちがいる。それで例えば「ケアしたい気持ち」が呼び出されもする。
 そしてこれらを考える際、人は様々なことを考えたり欲望したりするのだが、とくにその様々のなかで、直接的なものと思われるものが置かれる。道徳律といったものは外から与えられたもの、借りてきたものであるように思われる。私のためと(身近な)他者のためというこのいずれもが、よりたしかに存在しそうなものであることによって、出発点にされるのである。こうして「利己」への居直りがあり、しかしそれだけではなかろうと調べていくと、子を育てたりすることはそんなことだけでないようだから、そういう心性があるではないかと言うのである。
 一方にそんな流れがあるのだが、そんなことでよいだろうか、そんなことだけでよいのだろうかと思う人たちがいる。近い、麗しい親密な関係を言う「ケア倫理」を言う人たちのことが信じられないと思う。それは、どちらかいえば、移民であるとか難民であるとか、少数者のことが気になる人たち、気にしてほしいと思う人たちが思うことである。もちろんケアなどと言う人たちも、そのことはわかっていて、じつはそのような他所の人にも同情的であるから、その人たちにもやさしくせねばならないと思っているから、そのためにも、まずは身近な関係における心性を大切にしようということになる。たぶんそんなことはある。ただ、それで本当に遠くまで及ぶのだろうかとも思われる。
 そうして、その者が私にとってどんな人であろうと客人として迎えねばならないのだ、とか、顔を見てしまったら、などという人がいると、そちらに付きたいと思うことになる。
 しかしすると今度は、そんなことがただの普通の自分にとって可能なのだろうかと、ずいぶんそれは強い要求ではないかと、そんなふうな心性を私はもっているだろうか、人はもつだろうかと心配になりもする。
 近い関係における睦まじい心性を言う人と、もっと厳しい自らへの要請を言う人と、同じではない。しかし、やさしい人はいつの世にもいるから、自分に味方であるらしいものはなんでも使おうということになる。そこで、だいぶ性格が違うであろうケア倫理関係の著作とレヴィナスの著作などか同じところに並んだりすることになる。このような状況が今現在の状況なのだと思う。
 さてどのように考えるのか。
 まず、人々の選好――具体的には直接的な(ものとされる)利己的な選好とも身近にあるとされるケアの心性、それらを集計したり混合したりして現われるもの――と異なったところに、支持されるものがあるということだ。このことを前項に述べた。
 しかし、そんなものがないから、そんなものを信じられないというところから、人々に現に存在する思いから始めようという話は始まったのではないか。そんなこともない。そのような思いは現に存在する。例えば、個別の関係からの拡張の可能性また困難を言う人が既にそのように思っている。
 ではそれはどこにどのように存在するのか。そのことについては幾度も述べてきた。むろん他人に対する好悪は様々にあり、私の行いはそれによって規定されており、そしてそのこと自体は否定のしようもないし、否定されるべきでもない。しかし同時に、そのように対している関係そのものの中で、その好悪やまた都合と別に人に対した方がよいと思う。自らの欲望のとおりになってはならないのだと、自分が欲望することがある。自分の選好によって決まってよいわけではないという選好がある。また自らについて、自らにおいて、自分がどんな自分であったとしても、それと別に自分が生きていけるのがよく、そのように人々が対し、社会があることが望ましいと思っている。そしてそのように思うこと自体はなにか困難なことではなく、またなにか高級なことでもない。例えば「歓待」が厳しい要請であるように思われるのは、それが願われにくいことによるのではない。それは簡単に願われる。困難は、後で述べるように、別のところかやってくる。
 この位相の存在を見ないと話が違ってきてしまう。想定されたものだけが存在するのであれば、当然、望むものの実現は困難になる。しかしまず望んでいるというそのことにおいて、その価値は存在している。そしてそれは、その人の選好として存在もしている。想定される自らの選好をときに否定するような選好が存在している。そのこと自体は不思議なことでも矛盾したことでもない。両方があるというだけのことである。
 そしてこのとき、社会が人々の選好――そしてそこで具体的に想定されるのは、述べたように、限られた選好である――の集計によって成り立ってよいのだと考えられている社会と、そういうことであってはならないのだと考えられている社会とでは、社会の作動は異なってくる。後者のように人が考えるのであれば、その考え自体がその人の選好となり、人々の意思の集計として社会が構成されるような仕組みの社会であっても、そのことは社会のあり方に反映されることになるのである。
 他者と私が他者と私の好悪と都合を越えてあったらよいという思いが(十分に多くの)人に存在することが、そのあり方がよいことの「根拠」であるのかどうか。先に述べたことに戻るとしよう。人が思っているから、思う人がたくさんいる「から」それが正しい、のではないと述べた。その意味では、それは根拠ではない。命題を正当化する命題が根拠であると考えるなら、そうした根拠づけはすぐにその果てに行き着き、あとは同じ文の言い換えのようなものになるだろう。それはそのようでしかありえない。そのことの確認の上で、ある規範命題を正しいとするのは、人がそれに賛成するからではない。というのも、なぜここで人が支持する「から」正しいと言うのかがさらに問われるのだが、その理由として提出されるものは十分な理由とはならないのだった。だから、この場面では、十分な同意がないことについて悲観することはなく、また、悲観のしようもない。むしろこの基本的な場面で、同意の要請をしてしまうことが、無用な悲観を生み出すことになる。他方、別の仕方の根拠づけをしようとして、それが、言葉の言い換えにしかならないことをもって悲観するのも間違っているし、同時に、ないに決まっているものがないことをもってその規範を無視してよいとするのも間違っている。
 ただ、やはり繰り返すが、このことを確認した上で、その思いはある社会の原則・規範を支持するものではあり、その支持の「基盤」であるとは言えるだろうし、その原則・規範の「実現可能性」にも関わってくる。
 このようなあり方がよいということと、現実に人々がそのあり方がよいと思うこととは異なる。この単純な区別は大切だ。実現可能性は手段の水準にある。実現されるとよいものが実現されないことは悲しいことではあり、また少なくとも多くの人にとって不都合なことであり、だから困ったことではある。ただ、実現しないこと自体がそれを棄却すべきことを指示するのではない。そして実現のための手段は、多くの場合に複数あるはずである。実現に人々の同意を要するような社会はあり、また社会の個々の形態に関わらず人の選好はことの実現に影響を与えるのは事実だ。しかしそのような社会にあっても、採ることのできる方法はいくつもあるはずだ。
 その上で、たしかに人々の関係のあり方に心性が左右されることがあることを認めよう。具体的に人がいること、関係があることは必須でないとしても、やはり、人がいることを知ることから与えられるものはある。
 ただそれはとくに労働・生産の場に限られることはない。そしてまた、その関係は自他の隔てのなさ、融合の関係としてあることもあるだろうが、そうでないこともある。いっとき共同性といった言葉で語られたこと、いまはケアといった言葉がそこに位置するような関係はたしかになにごとかをもたらすのではあるだろう。しかし例えば分業の編成がどのようであろうと、そこに固定された関係のない協働の場であっても、人と人の個別性はあって、それは可視的であるはずだ。人と人はその身体によって分かれ、人のできるできないはわかるだろうということだ。
 このように考えるなら、かつてあった、そしてたぶんいったんそれを忘れた上で、今またある共同性についての認識はずいぶんと限定されたものであり、事実(と思うもの)に依拠して言われているのであれば現実を縮減した上で示されているものであるように思われる。つまり、過去の社会に想定される共同性にしても、親密な小さな関係に見出される心性にしても、ずいぶんと単純なものであると思われる。そこに実際にあるのは自他の区別がはっきりしないような「原始的」な関係でもなく、すくなくともそのような関係だけではなく、また、子が依存的な存在でありケアを必要としているという認識だけでもない。できのわるい者がいることはわかった上で、それを無視する、あるいは無視したくないし無視できないが無視することにしようとする、無視することになっていると思う、そんなことが起こっている。そのようにして、かつての社会もまた運営されてきたのだと考えることができる。
 でないと、かえって直接性をめぐる困難と諦念が惹起されることにもなる。関係について語る言説が、その関係を美化しすぎていることはしばしば指摘されてきた。例えば、子をたいして愛していない母はいるだろうし、そして愛せないことについて自らを責めてしまうことにもつながってしまうだろうといったことが言われたきた。それは事実その通りなのだが、ここで私たちは愛についてのお話を頭から否定することはない。お話の通りのこともまたあるにはあるだろう。言うべきは、そこにはもっと様々があること、あってよいこと、そして仮にその関係が他にも及ぶ「原基」であるとしても、それはその一つであり、一つでしかないことである。でないと、強い紐帯が必要であり、しかしそれは容易に見出されず、その紐帯が可能にする社会も不可能である、という話になってしまうのである。

可能であるはずのことが可能でない(とされる)ことについて

 とすると今度は逆に、そうだとすると、なぜよいとするものが実現しないのかと問われる。よしとするものがそこにあるのであれば、そしてそれは強いものなのであれば、容易に実現してよいはずだがそうはなっていないではないかという問いが発せられることになる。
 それに対する答は、どの各々がどれほど効いているのかはわからいのだが、幾つかある。そして思うに、そのような問いに答えることが、行き止ってしまったように見える、問いについて考えることを再開することなのである。
 まず、これもまた閉塞の感覚にどう対するのかということでもあるのだが、その問いは間違っている、実現していないと言われるものはかなりの程度実現しているのだ、そしてそれは人間の歴史においておおむねずっとそうだったという答がある。つまり、働いて、売って、それで買って、暮らすという仕掛けがあるだけでは死んでしまう人が実際にはたくさん生きているし、生きてきたということである。もちろん、だからこのままでよいということにはならず、だからこうした文章を書いてもいるのだが、それでも、生きられているのがよいというのとそこに目標を設定しないのと、どちらに現実が近いのかといえば、前者の方に近いと言えるはずなのだ。そしてそれを可能にしてきたその大きな部分は近代の社会においては家族である。そしてそれはよくないと考えて、そのことについてこの連載のはじめの方でいくらかのことは書いてきたし、これからも書くだろう。とくに今後は、ではどうするのかについて書くことになるだろう。ただいまのように考えるなら、すくなくとも家族の負担の移し変えの部分については、なすべきことは、かなり大きなことであるとしてもそれでも、基本的にはそうだいそれたことではないということなのである。ここからは、細々としたことを順番に考えるという意味において、社会科学的な作業になる。
 次に、行くべき方向は基本的に定まっているのであれば、そのために考えられるあらゆることを、とまでは言わないとしても、様々なことを、むろんその得失を考えながら、やればよいということになる。これは先に述べたことに関係する。その際、同意・合意は考えざるをえない一つのことであり、それを強く意識せざるをえない場面とさほどでもない場面とがある。どこで何をするのか。これもまた細々と考えるべきところである。しかし実際には、どの部品をどのようにしたらよいのか、どうしたらよいのかはっきりしないままになっている。だから、ここでも、そうしたことを確かめながら考えていこうということだ。できることを考えてみてから、そのどれができていないのかを考えようということだ。
 これらはなぜ困難であるのかという問いに対する直接の答ではない。困難を大きく見積もりすぎていないかというのだった。その上で次に、これは繰り返しになるが、人の意識・選好についての了解、その位置づけを間違えていること自体が現実に作用する。つまり、通常想定される人々の意識を狭く捉えた上で、その狭いものから肯定されるものである必要があると考えてしまうことである。それららの選好・心性が存在することを否定する必要はないが、それらから規範が導かれねばならないわけではない。つまり、私はそのようにしか思えないから、と言われたときに、それは居直りだと、社会にあるべき規範というものはそういうものではないのだと、あなたの好き嫌いとは別の準位に立てられるものなのだと言えばよいのだが、そう言わずに引き下がるなら、ことは困難になる。そして、数ある心性・欲望の中でたしかに存在はするがその一部でしかないものをすべてであるかのようにしてしまうのであれば、それもまた、現状への固定の方に結びついてしまう。
 そして、もちろん、今のままの世の中で得をする人たち、得するだろうと思う人は常に一定の数いるから、その人たちの多くは今のまま、今の利得がより大きくなる方向を支持することになる。当然といえば当然のことである。
 しかしおそらくは最も大きなこの要因にしても、その人にとって都合のよいものが、正しいものであるとされている場合とそうでない場合とで現実はいくらか違ってくる。例えば、「労働インセンティヴ」の問題に対するために支払いに傾斜をつけるという方法がある。そして真面目な人たちは、人間が自らの利を求める人間であることを続けるなら、この体制が変わることを期待するのは困難なのではないかと思ったのだ。その困難は真正の困難ではある。けれども、より多く貢献する者がより多くを取ることは当然である、さらに正しいとされている社会と、そうでない社会とは異なる。そしてそれはたんに「精神」の問題ではない。しかじかの人間に対して、しかじかの行いに対して、しかじかを払うのが当然であると人々が考える場合と、そうでないと場合と、また受け取るのが当然であると人々が考える場合と、そうでないと場合と、需要供給の両側にいる人の選好関数は異なってくるのであり、それは価格に影響する。また所得保障のあり方や税率の設定に影響する。その度合いがどれほどかということはあるが、「正当性」を巡る争いはたんなる言葉の争いであるのではない。
 そしてまだ、たくさんある。人的資源の問題であるとか、生産の要請であるとか、競争という条件であるとかである。とするとそれらについて考えねばならないことになる。そこで考えているのだ。



★01 なぜこの連載にこのような回が置かれているのか。もちろん労働について考えることにおおいに関係があるからではあるが、それだけでもない。
 一つ、本誌の今月号の特集の関係で市野川[2006]を読んだことがあった。力のこもった本だったが、いくつかわからないところは残った。そのなかに議会の話がある(かつて本誌に掲載された文章がもとになっているのだと思う)。ローザ・ルクセンブルグについての解釈は受け入れるとして、そもそも議会のどこがどのようによいのかはよくわからなかった。一つ、(ノディングス等の)ケア倫理について議論されていることについての大学院生の報告を聞く機会があり、こうした論が位置するその「文脈」について、昔の話も含め、伝えておくべきことがあると思った。
 もう一つ、横塚晃一の名著『母よ!殺すな』(初版一九七五年、増補版一九八一年)が再刊されることになり(横塚[2007])、その解説を書くことになって、ずいぶんと難儀した。それを書いている中で、今回記すようなことを、改めて繰り返してでも、言った方がよいと思った。
 そして、いつものことではあるが、今回記すことの中に幾つか過去に書いたものを反復しているところはある。分業・関係の編成の変転についての真木悠介の論(真木[1977])や革命の先行についての論(たくさんあるが、前回もあげた文献では廣松[1972][1981])についての言及は立岩[1997][2004a]にもある。「距離」(と普遍性)ついての検討は立岩[2004a:136-145]ですこし行なっている。「思いを超えてあるとよいという思いの実在」については立岩[2005-(8)]で述べ(この連載他を年内に本にまとめる予定)、そこからの引用と関連する文献を立岩[2006]に収録した文章に付した中にすこし記した(立岩[2004b→2006:254-255])。

文献

廣松 渉 1972 『現代革命論への模索』、新泉社→1975 改装版
――――― 1981 『新左翼運動の射程』、ユニテ
市野川 容孝 2006 『社会』、岩波書店
真木 悠介 1977 『現代社会の存立構造』、筑摩書房
立岩 真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
――――― 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店
――――― 2004b 「信について争えることを信じる」、『en』2004-7 http://web-en.com/→立岩[2006:247-255]
――――― 2005-2007 「良い死」(1〜18),『Webちくま』
――――― 2006 『希望について』、青土社
――――― 2007 「解説」、横塚[2007]
横塚 晃一 2007 『母よ!殺すな』、生活書院


 
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◆『現代思想 2007年9月号』 特集=社会の貧困/貧困の社会
 http://www.seidosha.co.jp/index.php?%BC%D2%B2%F1%A4%CE%C9%CF%BA%A4%A1%BF%C9%CF%BA%A4%A4%CE%BC%D2%B2%F1
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連載――近代の超克 第6回
  東亜と 「日本的平和(パックス・ニッポニカ)」 の構想 帝国の冀求は東亜永遠の安定にあり / 子安宣邦

連載――人間原理のパラドクス 第11回
  霊体、ゾンビ、そして輪廻転生 / 三浦俊彦

連載――家族・性・市場 第24回
  人々の意識の位置 / 立岩真也

特集=社会の貧困/貧困の社会

【討議】
社会的なものの潜勢力 / 市野川容孝+酒井隆史

【ポスト福祉国家】
社会的所有 / ロベール・カステル (訳=北垣徹)
生‐権力再論 飢餓という殺害 / 市野川容孝
脱福祉国家時代の社会権 / 新川敏光
連帯の哲学 / 重田園江

【貧困】
アフリカの貧困と向き合う / 稲場雅紀 [聞き手=立岩真也]
「南」 のベーシック・インカム論の可能性 / 牧野久美子

【医療/介護】
青ざめた芝 絡まり合うケアと暴力と犯罪化と / 美馬達哉
社会保障改革による負担・自立の強制 権利論の観点からの批判と対抗理念 / 伊藤周平

【移民】
福祉国家から刑罰国家へ ポピュリズムと移民排除 / 挽地康彦
ケア労働のグローバリゼーション 新自由主義的経済構造調整と移民政策
 / ジョヤ・ミスラ+ジョナサン・ウッドリング+サビーヌ・N・メルツ (訳=徳永理彩)

【社会/政治】
反社会的なものの上昇 / 廣瀬純
社会的なものへの敵意 『声なき多数派の影に、または社会的なものの終焉』 についての覚書き
 / 宇城輝人
パーリアはどこにいる ハンナ・アレントの社会概念 / 森分大輔

■研究手帖
  「断片」 と翻訳 / 西山達也


UP:20071222 REV:
『現代思想』  ◇立岩 真也
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