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「少子高齢化は「大変」か」解説・他

立岩 真也 2007
『高等学校 新現代社会改訂版 教師用指導書』,清水書院
『高等学校 新現代社会改訂版』コラム http://www.shimizushoin.co.jp
http://www.shimizushoin.co.jp/19kaitei/ge022.html

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      ■「少子高齢化は「大変」か」解説
      ■「政治は何をやるべきか」解説
      ■「何を、どう配分するか」解説
      ■「世界は世界を救えるか」解説

       *題は出版社がつけたものです。
 
 
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 ■「少子高齢化は「大変」か」解説

 まず最初に。私が担当した4つのコラムとここに掲載されるその解説は私のHP(http://www.arsvi.com)の上にもある。そこに関連する言葉、ファイル、ページがリンクされているのでご覧になっていただけれと思う。
 【よくない?】さて、少子高齢化。この言葉を多くの人が知っているのにすこし驚く。これも学校教育の賜物であるかもしれない。しかし、それはほんとうによくないことなのか。そんなことを考えてもらえたらよいと思う。拙著『希望について』(青土社、2006)のIV「不足について」というパートにいくつかの短文、論文の一部を収録した。また藤原書店発行の『環』という季刊の雑誌の2006年夏号(通巻26号)の特集が「「人口問題」再考」で、ここにも「人口の問題ではない」という題の短文を書かせてもらっている。上記したHP→「50音順索引」「人口」にも情報がある。
 私自身はずっと、人が少ないのはわるいことではないにちがいないと思ってきた。私は1960年生まれなのだが、小学生や中学生をしていた1970年前後、ちょうど公害問題、今でいう環境問題が表沙汰になってきた。また人口爆発という言葉が現れてきた時代でもあった。人間のすることにろくなことはない、しかししないわけにもいかない、ならばどうするか、数が少なければいいじゃないか。しごく単純にそんなことを思っていたのではないかと思う。今でもそんな「エコ少年」ぽい発想から抜けてはおらず、そしてそれは基本的にわるくはないと思っている。
 ただ、それも一方向の考え方ではある。後に、例えば中国やインドで、人口を抑制するためにずいぶん乱暴なことも行なわれてきたことも知るようになった。ものの言い方、考え方には気をつけた方がよいとも思うようになった。けれど、乱暴に増やさないようにするのも問題だが、増やそうとすることにまつわる乱暴にも注意しておきたい。もちろん、それは産まないあるいは産めないあるいは産むのがたいへんな人たちにとって愉快なことではない。そして、高齢者、あるいは高齢者になろうとする人たちがこのごろ気弱だ。自分たちは厄介者だ(になる)といったことを言う。言ってるだけ、の部分もあるのだろうが、それだけでもなさそうだ。そしてそんな心配がもっと広くにも及ぶ。
 「「優生学」と呼ばれるものが一つ前の世紀末、つまり19世紀末から20世紀にかけて、世界中でひどく流行した。そこで望まれていたのは、人口の量と質の確保、向上だった。よい質の人間を増やしわるい質の人間を減らそうというのである。これはけっしてナチス・ドイツだけのアイデアではなかったが、ユダヤ人の虐殺、「民族浄化」に結びつくものではあった。それで戦後この言葉は評判の悪い言葉になる。そんなこともあって、少子化対策が「優生」政策だとはけっして言われない。だがどうだろう。今言われているのは、高齢社会を「支えるために」人が必要だということである。つまり、ここで生まれてほしい人として暗黙に想定されているのは「生産性=質の高い子ども」である。ならば、今言われなされていることとかつて言われ行われたことは、基本的には、まったく同じなのである。」(『希望について』pp.134-135)
 「優生学」を過去の怪しい似非科学、一部にあった狂信と捉えるのは間違っている。19世紀から20世紀にかけてのずいぶんと大きな思想の流れであり、運動であり政策だった。そして、形は変わっているにしても、今の時代・社会がそれと無縁というわけではない。社会科の授業で教えてもらいたいと思うことの一つである(HPに情報あり)。
 【足りない?】しかし、足りないのなら、足りなくなるのなら、仕方がないではないかと言われる。では何が足りないのだろう。お金が足りない。ただお金は、まずは交換の媒体であり、媒体でしかない。足りないものは、人と人でないもの、両者のいずれかあるいはいずれもであり、それ以外ではありえない。そしてその中の人の足りなさが問題になっている。(他方、人の多さはものの不足に関わる。もの不足が心配なら、人は少ない方がよい。このことはさきに述べた。)しかし人は足りなくはないし、将来もそう足りなくはないと私は思う。もちろんここは異論のあるところで、考えどころではある。だがまず失業率の統計は鵜呑みにできない。失業者の定義が狭いから当然その率は低くなるのだ。代わりに、パートしたりしなかったりしている主婦、巨大な数になっているフリーターのことを考えてみよう。
 さて、仮に足りなくないとして、にもかかわらず心配しているのはなぜだろう。このように考えていくのがおもしろいと思う。
 もちろん、一つは負担の問題がある。たしかに、先代の借金を後の代で返すとなると、その代の人数が多い方がよいとは言えよう。そのことは認めよう。そして実際、この国の現実として「現役」の世代が「退役」した世代の年金を払っているということはある。しかしこれなら、他に工夫のしようもあるのではないか。これから数十年が山場というのに、これから人を増やそうとしてどうするか、という気もしないだろうか。むしろ「やってみたけれども、人が思うように増えないので」と前置きされて、「これからの負担と給付をしかじかに」、と言われるのではないか。それに対してどう返すかを考えた方がよいのではないか。給付のためには負担がいる。それはまったくその通りだが、問題は誰がどれだけ払い、受け取るかである。各自が払った分を後で受け取るというだけなら、民間の貯金や保険と変わらない。公的年金や公的扶助がすべきことはそんなことかと考えてみるのである。そうすると、「人が足りないから」という話はそんな議論をパスするための、とは言わないまでも、パスしたところに存在する話のように思えてくる。所得分配の問題として考えればすっきりするのに、それを避け、世代間の人口比の問題にしてしまうことで、かえって(人口比を簡単に変えることなどできはしないのだから)問題を難しくしているのではないか。(→コラム3に続く)
 【売れる?】他に考えられるだろうか。人が多い方がものが売れる、ではないか。しかしここも考えてみた方がよい。「人が多いと誰が儲かるのか、人が少なくなると誰の儲けが減るのか。[…]
 人が多くてもそううれしくない仕事はどんな仕事か。ごく簡単に言うと、相手にする客に限界があったり、自分の仕事の供給に限界があったりして、得られるものが増えない仕事である。[…]一人の蕎麦屋が一日に出せる蕎麦の量には限りがある。また町の人口が減っても、蕎麦屋も同時に同じ割合で減っていくなら、商売に影響はしない。[…]二倍に増えたら、蕎麦屋が二軒になるだけである。これは職人や農業や漁業の仕事をしている人たちだけに限らない。大きな組織に属していても、大きな工場で働いていても、一人ひとりの働ける分に上限があるなら、そして働き手の数と消費者の数とがおおむね対応するなら、そう事態は変わらないはずである。
 他方、人が多くいたらよい商売はどんな商売だろうか。第一に、多くの相手を客にできる商売、そしてその供給を独占できるような商売である。[…]
第二に、経営者になり資本家になって、個々の労働者や組織から上前を得られる場合である。[…]
 人口の増減のもつ意味合いは人によって違う。これは考えてみれば当たり前のことだ。次に、後者のような商売が多くなる――実際、一貫して大きな割合を占めるようになっている――ことは、格差を大きくする方に作用する。人が増えるということは、誰かに利益をもたらすことがあるとして、それはすでに儲かっている側が得られる利益であって、仮に人口政策がうまくいったとして、それは、今のままの社会のシステムでは、格差を拡大する方向に作用するということである。」(「人口の問題ではない」より)
 【「途上国」のこと】他方、世界全体としては、とくに「途上国」の「人口爆発」が問題にされる。まず起こっている出来事がそれらの地域とこの国を含む地域とで違っていること、それへの評価が反対であることを知り、なぜそうなるのかと考えていってらよいと思う。どう考えるか。
 「同じ世代間移転のあり方が、人口が増えている地域の人口増に影響していると考えるのはもっともなことである。ここにも贈与を受ける場合、贈与してくれる人の数は多い方がよいという要因が絡んでいる。子に自分を養ってもらおうとし、その一人ひとりにそう多くを期待できないなら、たくさん必要だということになる。それをただ避妊の知識がないとか、男が避妊に応じないといった話だけで片付けない方がよい。ただもちろん、この個別にはまったく合理的な対応は、生産財の制約といった条件のもとでは、例えば耕せる土地が限られているといった状況のもとでは、結局はさらなる窮乏をもたらすことにもなる。すべきこともこうしたところから考えるべきである。ここでも、鍵は、ごく簡単に言うにとどめるが、社会的・世界的な分配である。[…]子に頼らなくても人々が一人ひとり得られるものが多くなればうまくいく。不可能なことではない。国内的・国際的に、直接的な所得分配が行われるだけでなく、生産財と労働がうまく渡ればよい。」(「人口の問題ではない」より)
 こうして、人口の問題は、あるいは人口の問題と見えるものは、あるものをどうやって分け、そしてものを作り消費してやっていくかという問題であるように、私には思える。そしてそれを世界の大きさで考える必要があるということだ。(→コラム4)


 
 
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 ■「政治は何をやるべきか」解説

 【政治は面倒だ】もう大人になって、教員などになっている世代の過半は、上の世代から、政治に無関心で無気力で困ったものだと言われたきたはずである。それは、年寄りが永遠に言い続け、若い人が永遠に言われ続けることなのかもしれない。そして私も、結局は、そんなことを言ってしまっている。基本的には主権在民がよいだろうとは思うし、人々は政治に参加するのがよいのだろう。
 ただ一つ、仕方がないのだろうと思いながらも、優秀な人が難しく複雑なことをしなければならす、すると、その人たちは他人にわからないようにずるいことをしてしまうことを警戒したりせざるをえない。それは面倒だと、もっと簡単にならないか、自動的に動かないか、素人でもなんとかなるような政治というものはもう不可能なのか。そんなふうに考えたい。政治も仕事であることはたしかで、仕事は少なくて簡単な方がよく、人にまかせられればまかせたいというのは、もっともな感覚だと思うのだ。
 もう一つ、政治に関与してしまうということの怖さのようなものをもっとわかってもらった方がよいのではないかと思った。例えば死刑や戦争を支持するなら、それは人を殺すことに関与しているということだ。もちろん、そんなことはわかっている、正しい理由で殺すことは間違っていないのだと言い切れる、気持ちのすわった人もいるだろうが、そうでない人もいるかもしれない。自分で自分のことを決めるのはよいことだろう(しかし、それだって面倒なこともある)。しかし政治は、さらに、他人のことを決めること、決めてしまうことでもある。
 2004年7月の参議院議員選挙前、6月18日の『朝日新聞』に掲載された文章「選挙に行くということ」に次のように書いた。なおこの文章は、拙著『希望について』(青土社、2006)に再録されている。
 「選挙に行かないのはよくないことではない。こう言うのは、政治に失望しているから人は選挙に行かないという説を信じているからではない。この失望説は選挙に行かない人をほめすぎだ。私が言うのはもっと単純なことである。行ってどうなる、と思いながらも行かざるをえないほど困ったことがない人は幸福である。行かなくてすむという状態は悪くない。[…]/けれど、一つ。民主主義はやっかいなもので、自分が何もしないことも含め、国家が行うことに国民に責任が生じてしまう。参政権を放棄できれば違うとしても、できないならこのことは認めざるをえない。だから、いま様々な地で人が死んでいくことについてあなたに責任があると言われればその通りと答えざるをえない。あることに賛成したか、反対したか、あるいはどちらの意志をも表明しなかったか、そのいずれかであり、それら以外であることはない。/そんな重苦しさをこの社会の制度はどうしてももっている。今どき選挙に行くとしたら、まずそんな消極的な、だがやむをえぬ理由からだ。この選挙と無縁でありえないその遠くの地の人に問われたら、聞いてもらえるかわからないが、私はこちら側に賛成した、加担したと言いわけをするのだ。」(/は改行の箇所、[…]は略)
 【熱さの向かう先】投票が芸能系・スポーツ系のファン投票のようになってしまうことはよくある。他方、もっとまじめな人たち、というより暗い人たちがいて、ブログその他で、執拗な非難、誹謗中傷を繰り返したりする。ただこの両者は、いずれもあまりほめられたりはしないと思う。もっと普通にまじめな人たちならよいだろうか。明るくはきはきと未来を語る人もいるし、現状に憤慨する人もいる。さきの文章は次のように続く。
 「もう一つ。私は無関心は心配していない。この時代に悲観的なのも芸がないから私は楽観的なのだが、そんな私でも心配なのは政治に関心のある人たちのことだ。/その人たちはまじめでそして憤っている。そしてそれにはもっとなところがある。この間の現実を進めてきたのは、現状維持の保守勢力だけでなく改革を言う人たちであり、それを支持する人たちである。既得権益を排除し無駄を減らすという主張はまずはもっともで、だから支持される。不当に得をしているらしい部分を削っていこうという。ところが、いつのまにか身に覚えのない自分も削られたりする。実際にそうなってしまえば思い直してもみるかもしれないが、自分は大丈夫だと思っている人は、また当落線上あたりにいる人も、いま立ち止まってみるのは甘く、甘いことを言うのは非現実的だと思っている。/そしてこの路線に批判的な人たちも、及び腰になってしまい、その路線では「弱者が救われない」といった湿っぽい言い方をしてしまう。しかし[…]」
 明るかったり、まじめだったり、憂えたりする人たちがいる。その中には、さわやかな姿で選挙に出たりする人がいる。偉いな、と思いつつ、そんな人たちや、そんな人たちを支持する人たちのことが心配だ。いや、その人たちのことはすこしも心配などしないのだが、そうしてものごとがどのように決まるのかには心配なところがある。
 たしかに世の中にはとても得をしている人がいる。その中に、暴利を貪っていると非難される人がいるが、実際に罰せられるのは、法にふれるようなことをする人である。しかし、そんなことをしなくてもすむ人たちがいる。普通に商売をしていれば、あるいは何をしなくても、だいじょうぶな人がいて、その人たちの方が、この社会では得をしている。それに追いつき追い越したりしようとする新興勢力が、ときに危ない橋を渡る。そして「正義」は、たいがい見えやすい不正に向かう。
 他方、得をしているといってもたかがしれている人たちがいる。しかし、自分はもっと苦労しているなら、やはりその分得しているように思えるところがある。自分たちが不安定な雇用形態でやっているのに、安定した職と給料を保障されている、と思える。思えるというかそれは事実だ。それで「既得権益」を廃するのに賛成し、そういう意味での「改革」が支持されたりする。今のままがよい人も支持し、「改革」に賛成の人も支持する、という具合にこの社会が維持され、そして変化していく。それはどうなのだろう、結局それは自分たちにとって得なのだろうか、と頭を冷やして考えてみるとよいと思う。
 【国家に何をさせる?】例えば、頭を冷やして、国家って何をするところ?、と考えてみる。もちろん、みなの意見が一致することにはならないだろう。しかし考えることはできる。ここで大切なことは、よいことと、国家がするべきこととは、区別されるということだ。つまりしてよいことと、強制力を用いてすべきこととは、同じでない。
 例えば王様はどうなのだろう。人々に人気があって、十分独立採算でやっていける人々の税金による扶養について、それを不要なことと考える人たちの意見をどのような根拠で排除でき、その人たちを強制できるだろうか。考えてみるとおもしろい。
 「大きな政府」と「小さい政府」とを立て、そのいずれがよいかという問いはたいへん愚かな問いである。つまり、なんでも大きい方がよいということにした上で――そんなことは誰も言っていないと思うのだが――その反対として全面的に小さくするという主張になる。これは乱暴ではないか。何を小さくするのか、何を大きくするのかである。
 稲場振一郎と対談した『国家と所有のゆくえ』(NHKブックス、2006)に「「分配する最小国家」について」という文章を付した。私が今のところ考えていることを箇条書きにした。その1番目が「強制力が要求される理由」。
 「人の生存・生活が、そのことに同意しない人がいても、維持されるべきものであるとするなら、強制が求められる。/それは一つ、実現可能性を考えるからである。つまり、義務としないなら、その実現が――世話や扶養を自ら担う人、担わざるをえない人たちに「ただ乗り」してしまう可能性も含めて――難しいだろうということだ。もう一つは、人の生存・生活のいちいちが、その周囲の一人一人の自発性によって、ことばを替えれば恣意性によって保持されるしかないことを認めないということである。このような意味で強制力は要求され、それが及ぶ範域あるいは強制力を背景にすべきことをなす機関を国家と呼ぶのであれば、それは必要である。」
 市場に生じる一人ひとりの獲得物(お金)の差は、そのまま正しい差ではないと考えられるとしよう(→コラム3)。しかし市場は便利で使える仕組みなので残しておくとすると、人の生存・生活のために、市場で多く得た人から受け取って――嫌な人もきっといるから強制力は必要になる――そうでない人に渡すことになる。それを国家が行なう。しかし国家は徴収と分配の単位としては小さすぎるから、これはとりあえずの仕組みで、もっと大きい方がよい(→コラム4)。それ以外のことは、あまり、しなくてよいのではないかと考えてみることができる。
 結局それは「福祉国家」と同じか。それはこの言葉の定義による。ただ、この言葉がなにか古い感じがするとして、また、お節介な感じ、余計で重たい感じがするとして、その感じはどこからやってくるのかを考えてみることはできる。市場でそれぞれに渡ったお金を勘定し、取ってくるところから取ってきて、渡すところに渡す。それだけなら、あまり重たい大きな仕掛けがなくてすむような気がする。しかし実際の国家は、「小さい政府」であっても、ずいぶんといろいろなことをしている。どうしてだろう。よく考えるとやはり必要なものもあるかもしれない。それは何か。それはなぜか。こんなふうに考えてみたらよいと思う。


 
 
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 ■「何を、どう配分するか」解説

 【このきまりでよい、とは言えない】なぜだかできてしまう人はいるし、できない人はいる。どんなに先生がよい先生であっても、その差はなくならない。これは仕方がない。よくもわるくもない。しかし前者が得をして、後者が損をするのは、おかしい。そう言うと、それはそうだと言う人と、そんなことはないと言う人といて、さらに、それぞれその思いの強さが違ったりするし、理屈っぽい話がだいじょうぶ人なもいるしそうでない人もいるから、誰に合わせて話をすればよいのか、なかなか難しい。
 理屈っぽく言ってみたものでは拙著『私的所有論』(1997、勁草書房)がある。同じ話でもよいからもっとわかるように、中学生が読めるものをと言われ、「よりみちパン!セ」という、そういう本のシリーズ――実は大人が読んでいるらしい――で書いてくれと言われ、そのためにその理論社という出版社のウェブ・マガジンにhttp://www.rironsha.co.jp/special/ningen/index.html「人間の条件」というきわめて大仰な題の――もちろん私が考えたのではない――連載をさせてもらっている。そこで、このコラムに書いたこと、あまり「実力」と関係なさそうな「学力」をつけることになっている学校に入る入らないいが、「実力」が買われたり買われなかったりするはずのこの社会で、なぜいまだにそれなりに重んじられてしまうのだろうか、とか、その手前のところで、「実力」があると、「できる」と、得をするのはなぜなのか、そしてそれでよいのかといったことについて書いてみている。
 そこで、現代社会の教科書にも世界史の教科書にも出てくる有名人であるジョン・ロックの話を紹介した。その人は「自分で作ったものは自分のものにしてよい、それが正しいと言ったことを紹介した。そして、さて問題は、その人は、それが正しいことのわけを言っただろうかということだ[…]。
 言っていないように思う。私が何かを作った。見ればわかる。そんな事実がある。これは認めることにしよう。そしてそれを私が受け取る。そういうこともあるだろう。
 ただし、当たり前のことだが、作ったということと、それを受け取ることは別のことだ。自分が作った、「から」、それを受けとってよいという話になっているのだが、その「から」がよくわからない。作った人が「なぜ」受けとってよいのか、それがわからないということである。作ることと受け取ることは、二つの別のことなのだから、その二つがなぜながるのかの理由を言ってもらわないと困るのだが、それが書いてないではないかということである。
 とすると、その偉い人が言ったことは、この社会にあるきまりをそのまま繰り返しているだけのように思える。できる人は、できてしまう(作ってしまう)、そしてそれをそのまま、あるいはでき高に応じて、受け取ることができることになっているのがこの社会だ。それでできる人は得をし、できない人は損をする。だから、できるようにならなければ、ということになっている。私は、そのきまりがなんでそれでよいのか、正しいのかということを聞いている。そこで、それを言っているという人がいたので、その人が書いたものを読んでみた。だが、それには理由は書いていないようなのだ。」
 嘘だろう、と思われるかもしれない。しかし嘘ではない。『市民政府論』は岩波文庫で出ている。私の書きものでも引用しているから、読んでください。
 【仕方なく使うことにはなる、が】こうして、作った人がとれるというこの世のものの分け方に正しいわけはない、ということになったとしよう。
 ただ、結局、正しくはないとしても、たくさんできる人が多く受け取るという仕掛けは取り外せないように思われる。それは次のような事情による。やはりその連載から引用する。
 「自分の頭を動かしからだを動かすことができるのはとりあえず自分だけだ。そしてその人が自分によいことがないと、ほうびをもらわないと、それを動かさないとしよう。するとその人に与えなければならないことになる。たくさんさせるためにはたくさんあげなければならない。人々にとって価値があり、他の人はあまりもっていない才能があったとして、それを使ってもらうためには、多くあげなければならなくなるように思える。そうすると結果的に、たくさんできた人がたくさんとれる。中ぐらいにできた人は中ぐらいにとれる。ぜんぜんできなかった人はなにもとれない。そういうことになる。できるのに、できたことに応じて受け取れるというかたちがここにできてしまう。それに本当に正しい理由はないかもしれないが、消費のためには生産が必要で、生産のためにはこういう仕組みが必要だとされる。」
 ならば、結局、今の社会の仕組み通りにやっていくことになるしかないではないか。ならば正しい理由はないとか言っても無駄ではないか。
 そんなことはないはずである。できる人がとれるという決まりだと、なにもできなければ死んでしまう人がいるのだが、その人に、「死ねば」、とまでは言わないかもしれない。「それはまずいだろ」ということになる。「かわいそうだから助けてあげよう」ということになる。それでよいような気がする。この社会の「経済」の仕組みを認めた上で、そこで出てくる問題があるから、その問題を小さくするするために「政治」が入ってくるという話も同じだ。
 ただここが間違っていると私(たち)は言う。今の分け方が正しいのであれば、その上で、しかしそれではかわいそうなことが起こるから、例外として、助けてあげようという話になる。市場も万能ではないから、それを補う仕組みも作っておこうという話になる。だが、そこに誤解がある、もとが正しいと言えないなら、話は違ってくるということだ。別の仕組みの方が本当はよいのだが、さきほど述べた理由で、いくらかの差をつけることを避けられないという捉え方ができるのである。
 差をつけるのは、そうでもしないと働かないからであってそれが当然だからではないというふうに思っている社会と、それは当然だとされている社会と、やはり違う。後者だと、かわいそうだとか、なにか特別な理由をもってきたり、みなの同情や共感を得たりしなければならない。それは、得なければならない人にとって、面倒で息苦しいことだ。
 そして生産を維持するために必要な限りで差を設定するのだという見方をすると、具体的にすべきことも違ってくる。ものを作ってもらうためには褒美を出す、というのだが、それは、今の社会にあるような大きな格差を認めることとは違う。もっと小さな差でかまわないと言えるはずである。他方、できる人が多く受け取れるのは当然とされている社会では、その人に働いてもらうために、さらに大きな格差が必要とされてしまいもするだろう。
 【このきまりでないもの】もちろん以上は、かなり先走ったことを言っている。つまり、別の分け方がどんなものであるのかを言っていないし、なぜその方がよいのかを言ってもいない。それはまた別に考えて、言わないとならない。ただ、ごくごく簡単に言えば、一人ひとりの必要に応じて分ける、というのでよくはないか。できなくてもいるものはいるし、できないとなおさらいることもある。だから、おおざっぱにはそういうことでよいではないか。
 それ以上なにか理由がいるだろうか。いらないような気がする。理由の詮索より、労働や知識をどう分けていくかを考えていく方がおもしろい、と私は思い、そうしたことについて考えて書いている。ただ、自分は今のままの方がよい、それで困らない、と言われるかもしれない。ならばどう言おうか。
 結局、「利他主義」ということになるだろうか。あるいは、今は元気な自分もそのうちどうなるかわからない、だから「保険」をかけておこうということだろうか。どちらもありだろう。
 ただ私は、一つ、利他という契機は道徳主義的な抹香臭いものではないように思う。私でない存在、私の思い通りになってほしくない存在があってほしいと私が思う、というところがあるのではないか。自分にとって便利であったり不都合のない人間は便利でよいのだが、それではおもしろくないということがあるように思う。こちらは拙著『私的所有論』(勁草書房、1997)の「他者」という章で述べた。
 そしてもう一つ、自分の将来のための保険というのではなく、しかし自分のために、別の分け方の方がよい、というところがあると思う。このことは『自由の平等』(岩波書店、2004)の「私のために、から届く」というところに書いた(pp.127-128)
 「私は、私が存在していられることを望んでいる。そして存在のための手段があるとよいと思っている。その私の望みは、手段=能力を自らがどれだけ有しているかに関わらない。私が存在していること、そのように私が私であることは、私が有する様々な属性とは別のことであり、存在するための手段=能力をその私がどれだけ持っているかとは別のことである。私は、私がしかじかのことができ、しかじかの貢献を行うことができるから生きていられるのではなく、ただ生きていたいと思っている。」
 人が生きるための手段である生産能力によって、その生きる人の生が制約されたり、その人の価値が決められてしまったら「自分が楽しめない[…]。存在のための手段によって私という存在が規定されてはたまらない。それは私の存在とその自由自体を脅かすことになる。そのような社会に自分はいるのは楽しくないから、辛いから、いたいと思わない。代わりに私の存在と存在の自由が現実に認められる機構の方を支持する。必ずしも他人に対する同情や自分の将来の現実の可能性を言わなくともよい。」


 
 
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 ■「世界は世界を救えるか」解説

 【愛国心について】一つ、国境の内と外で義務に違いはあるのかという問いがある。基本的にないと考える。大阪ボランティア協会の『volo』という雑誌に「市民は当然越境する」という短い文章を書かせてもらった(青土社刊の拙著『希望について』に再録)。その書き出しが以下。
 「これまで[…]「市民」という言葉を一度も使ったことがない。たいてい「人々」と書く。ただ、それはほぼ語感のゆえのことで、おおむね市民でもかまわない。ここでは、もしこの言葉を肯定的に捉えようとするなら、市民は「国民」でないことについて、ごくごく当たり前のことを、確認しよう。
 このごろ、むろん以前からいるのだが、「愛国心」を言う人たちがいる(Aとする)。憲法の文言に入れたらよいなどとも言う。その人たちはとても真面目でよい人たちでもある。その人たちに対してどのように言うか(このことを考える人をBとする)。
 Bは、一つに、思想・信条の自由という場所から反論しようとするかもしれない。「何かを愛しなさい」などと押しつけてはならないと言うのである。しかし私はこれはうまい反論ではないと思う。実際に人がどうであるか、どうあることができるかは別として、そして「愛する」という言葉にも抵抗があるとして、人を尊重すべきだと言うことは、人の社会のきまりとしては正当なことであり必要なことだろう。こうした基本的なことについて、人は自分自身の自発性、欲望や思いにのみ従うべき、従ってよいとはならないはずである。
 この言い方ではなくBが主張できるし主張すべき多分ただ一つのことは、肯定し尊重すべき相手の範囲をもっと広げる方がよい、少なくともそれを狭めるべき理由はない、と言うことである。/まず、自分以外の人に対して義務を負うことを、愛国心を言う人Aは、真面目な人であるから、認めている。(「自分より他人を大切にすべきだ」という主張はこれとは別の主張であり、これをどう考えたらよいかはわりあい難しい問題だと思う。私は、自己犠牲はよいことではあっても強いてはならないことだと考えるのだが、その説明は略す。)その意味で、愛国者Aは私(たち)Bと前提を共有している。/このことを確認した上で、Bは、その尊重すべき範囲を国を境に区切る根拠はない、と言う。ただそう言いさえすれば、基本的には証明終わり、である。」
 愛国心について言えるのは、言うべきなのは、基本的に以上だと私は思う。もちろんその心情と、具体的な義務とは同じではないが、両方について、より広い範囲で考えるのが筋だと考える。
 これは「べき論」である。ただし、こちらで「べき」の理由を積極的に言うのでなく、「あなたは他人に大切にすべきだと言っている」と、それを説得したい相手自身の立場とした上で、「その他人を限る理由はないですよね、ありますか?」と話を進めたわけだ。それでももちろん反論はあるはずで、いま引いた文章の続きは、予想される反論とそれに対する再反論になっている。
 【広い方がよい】「べき」の次に、義務の範囲を限るなら――各々の人が必要なだけが得られるべきだという目標=「べき」にとって、だが――「不都合」であることも言えるはずである。以下は、前にも引いた「「分配する最小国家」について」の4「分配の範囲は国家に限らない」より。
 「とりわけ分配については、その範域が限られていることはよくない。その一つは、人が住む場所に左右されてよく暮らすことができないことが許容される[…]べきでないからである。もう一つ、財や人の移動を認めつつ、分配を国家内に限るなら、分配を正当に行う場から財や富裕な人たちが逃げていくといったことが起こるから、また、国際競争下で、国家は分配より投資・生産を優先するがゆえに、分配がうまくいかなくなるからである。ゆえに、その範囲は現存の国家の範囲に閉じられるべきではない。たしかに困難であるとしても、基本的には世界を単位として分配がなされるべきであり、そのためにできることからすべきである。」
 【贈り物の憂鬱】自発的な贈与と強制を介した分配と、前者の方がよいに決まっているかのように言われるのだが、そうでもないだろうと考える。受け取れるかどうかは相手次第の贈り物を期待したり、実際に受け取れたりする喜びもある。しかしそのように不安定で恣意的であっては困ることもある。自分を相手に合わせたり、演じたりしなければならない。それはよいことか。以下「贈り物の憂鬱」(初出『読売新聞』、『希望について』に再録)より。
 「突然災害に襲われた時、救援物資が届くとそれが心に沁み、人がやって来るとその心意気を感じ、自分も心を強くもつことができることがたしかにある。けれどもそんな場合ばかりではない。人々の善意に頼らないないと日常の生活そのものをやっていけないとなると、心細い。また、もらい物の背後にその人の(善意の)顔がいつも見えてしまうのも、なかなかうっとうしいところがある。
 […]ごく基本的には、特別の「思い」がこもっていたりしない方がよいことがあり、そういう気持ちのあるなしと別に満たされないとならない必要というものがあるだろうということである。生きて暮らすこと、そのための例えば介護という必要。
 小学校などで「教育の一環」としてみんなでよいことをしにいくのが流行である。よいことはわるいことでなく、たしかによいことではある。ただそこで「与えること」や「自発性」の危うさにどれだけ注意が向けさせられているのだろう。」
 自分の気持ちによって相手への態度を決められるということは、相手を支配しているということでもある。「その気」になろうがなるまいがすべきことはある、と考えるべき場面があるということだ。
 【近くしか愛せないか】それにしても、実際には、人々の気持ちが何をするを決めるではないか、と言われる。それはそうだ。そして、境界を越えるべきだとか、越えないとかえってことがうまく運ばないと言われたとして、そしてそれが本当だとしても、ずっと遠くの人に何かしようという気にならない、だから仕方がない、と言われる。なるほど。これももっともな言い分ではある。どう答えようか。いろいろなことが言えると思う。拙著『自由の平等』(岩波書店)の「普遍性・距離」という項ですこしそのことについて考えてみた。また『希望について』に収録された「信について争えることを信じる」の註(pp.254-255)でも、関連する文献をいくつか挙げた。幾度も出てきた稲場との対談本『所有と国家のゆくえ』にも「思いを超えてあってほしいという思い」という見出しで話をしている箇所がある。ここでは『自由の平等』から一箇所。
   意外に思いは遠くに及ぶと考えられる「にもかかわらず、距離の遠さを持ち出して遠いとされるものを切ってしまうなら、それはそういうことにしたいからではないかと疑ってよい。様々に都合のよいことが言われていないか。例えば可能な範囲としてしばしば国家がもってこられるのだが、国家という単位も十分に大きい。そこで可能だと言うなら、もっと広い範囲に可能ではないか。」(p.143)
 【越え方】では具体的にどうするのか。もちろんおおいに難しくはある。もちろん損得が絡むからだし、やるなら世界全体でやらないと十分な効果が得れないのだが、それはたいへん難しいからだ。しかしどうにもならないわけではない。
 コラムではエイズの話をしているのだが、それは、事情をよく知っている人も含め多くの人たちが残念だがどうにもならないと思っていたことである。けれどもそうではなかった。大きな相手でも動かせることがないではない。林達雄『エイズとの闘い――世界を変えた人々の声』(2005、岩波ブックレット)を読んでいただけたらと思う。
 だだエイズは一つの病気だからまだなんとかなるかもしれないが、貧困全般をどうかすとなると、それは、やはり、はてしのないことのように思える。少しの支援では足りない。それはそうだろう。しかし、それがずっと続くのかと思うと、最初から無視したくもなる。そう思ってしまうのだ。しかし、もともと、その土地にたくさん人はいて、その多くの人は働ける人だ。むしろ人はいすぎるかもしれないのだが、それは貧しいことによっている(→コラム1)。暮らしが楽になれば人もちょうどよくなり、本来は、自らが住むその土地でやっていけるようになるはずだ。たくさんある側からの持ち出しは当然と腹を括った上で、しかしそれははてしのないことではないと思えれば、そう気の重いことではない。
 そして、今現に出されている様々なアイディアのことを知り、どれがよいかを考えてみることである。例えば、国際的な取引や人の行き来に税を課し、それを財源に使おうというアイディアがある。また、最初から世界大の所得保障となるとたいへんかもしれないが、例えば医療に限るのだったら可能かもしれない。つまり、国際的な医療保険のようなものを構想することはできる。すくなくともそれを基準において、今よりましな方法を考えることはできる。
 そして、このコラムにも、またコラム2にも同じ趣旨のことを書いたのだが、国単位より、また事業に対してというより、基本的に、援助は個人に対して行なったらよい。今までのお金は、政治家や役人のものになったり、大きな企業、外国の企業のものになってしまうことが多かった。独裁下の国家のように難しい場合もあるだろうが、そこをなんとか、直接に一人ひとりに、お金を使えるところからお金を、渡す方法を見出していけたら、よいと思う。


UP:20070104 REV:0105,06
人口・少子化・高齢化  ◇立岩 真也 
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