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『私は人形じゃない』

医療と社会ブックガイド・75)

立岩 真也 2007/09/25 『看護教育』48-09(2007-09):
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  品切れになって長いこと買えなかった名著、横塚晃一『母よ!殺すな』(初版1972年、すずさわ書店)が生活書院から再刊されることになって、今その解説を書いている。9月には出版される。9月16・17日の障害学会の大会会場でも販売されるだろう。出たら紹介することにしよう。と、始めたわけも次回まわしとして、今回取り上げるのは、三井絹子『抵抗の証 私は人形じゃない』
  三井さんは1945年生まれ。生まれて半年の時の高熱の後、障害者となる。小さいときは歩けたが、後はずっと車椅子を使っている。私たちは、約20年前、1987年の2月に三井さんに聞き取りをさせてもらったことがある。彼女は、言葉を発することはなく、文字盤を使って話をする。それを読み取るのを手伝ってくれたのは三井俊明さんだったように思う。
  俊明さんは絹子さん(旧姓は新田)の長年のつれあいで、1948年生まれ。絹子さんの1972年の描写では「ぶっきらぼうでガリガリ頭、一見、機動隊あがり」(p.90)。じつは今回の本は二人の往復書簡集のようでもあり、真珠婚式の写真なども載っている(p.251)。
  そしてその聞き取りの時、たしか娘さんの美樹さんもいらした。美樹さんは1979年生まれだから、その時に8歳。彼女は後に宝塚歌劇団で歌い演じるようになった。このことは風の噂に聞いたように思う。本では229頁から234頁に彼女の文章「娘から母へ」が収められていて、その前の2頁には宝塚における彼女の写真があったりする。この文章のある章は第4章「差別しない子、させない子に…」で、「私の子育て」の後に美樹さんの文章が来る。この本は一面では、というか、後述する「社会運動」の部分とほとんど一体となりつつ、二人の話であり、そして一家の話でもある。二人とその支援者たちは「三井一家」といったかんじのつながりのもとで、国立市での活動を続けてきたのだ。1975年に「かたつむりの会」発足。83年に「かたつむりの家」を始め、場所と人を提供し、多くの人たちの「自立生活」への移行を支援。1993年には「ライフステーションワンステップかたつむり」発足。この本の発行もここが主体になっている(発売は千書房で、一般書店で購入できる)。私たちが聞き取りしたのはかたつむりの家を始めてしばらくの頃で、そこを使って親元から出て暮らし始めた赤窄さんという女性にも話を聞いた。
  その聞き取りの後、直接にお会いしたことはたぶんない。だからずっと時間が経った後で、昨年この本が出て、長野大学での障害学会の大会で本を紹介し売りたいのだがという問い合わせが学会にあった。どうぞということになり、若い人々も含めけっこうな人数の「三井一家」は、長野県上田市まで、俊明さんが運転するワンボックスカーに乗ってやってきて、本を販売していった。そこで二〇年ぶりにお会いたのだが、覚えていてくださって、恐縮もしたし、うれしくもあった。そして、いくつか本の委託販売をしている私は、この本についても委託を受けることになり、後に一箱送ってもらうことになったのだ。だから、この本は私のところからも買える。
◇◇◇
  三井(以下敬称略)の60年の人生、俊明との30年余りの人生が辿られる。貧乏し、父は死に、といった後、1965年に町田荘に入所。しかし追い出されるようなかっこうで退所。1968年に府中療育センターに入所。その暮らしに耐えかね、数人がセンターに対する抗議を始める。この年、理解のあった職員の勤務異動に反対してハンスト。そうした中で俊明に会う。
  1972年には施設移転に反対して東京都庁前で座り込みを始める。これが1年と9か月も続く。こうした時期に書いた文章、出された文書が再録されている。
  その後、センターに戻るが、1975年にそこを出て、東京都国立市で俊明と暮らし始める。生活保護をとる。同年「くにたちかたつむりの会」発足、その後についてさきにすこし記した。
  とくに1970年代前半の現実は錯綜していて、一読して了解するのは難しい。本の作りとして難しいというだけでなく、実際がとても複雑なのだ。こんな施設はいやだと言いつつ、移転反対、その施設に居残るための運動をする。施設に文句をいい、本来こんなものがあるのがおかしいと言うのなら、出ればよいという話もあるし、実際支援する側の人にもそういうことを言う人たちが人がいる。
  もともとが少ない人数だが、内部でもまとまらない部分はある。抜けていく人もいるし、家族が中に入って抜けさせられてしまう人もいる。多くの人に広がらない。その施設と職員に依存して暮らしが成り立っているとなれば、たてつくのは当然難しい。基本的なところから戦術的なところまで、あらゆるやっかいさがある。しかし、そうしてごちごちゃにことが進むのではあるけれども、基本的に三井たちに理と義はある。行くところがなければ残らざるをえない。それはよい場であるべきだ。文句があるなら出ればよいというのは、むろん端的にまちがっている。
  移転は実施されたが、弱小勢力のわりには影響を与えたとも言える。一部入所者の移転先とされた多摩更生園の方に移った人もいる。その施設は住宅地が東京の西の方に延びていく中で、当初批判されたほど人里離れた施設ではなくなり、移った人たちにもよってそれなりの生活条件の改善がはかられた。こうして都内の療護施設は、他に比べればましなものになった。他方、療育センターの方は懸念された「重症重度一本化」の方に進むことになる。後にそこを訪れた都知事が「あの人たちには人格があるのか」といった発言をする。
  獲得してきたものが現にあるのと同時に、残されることもある。出られる人から出ればよい。その通りだが、するとその施設で文句を言う人もいなくなる。今でもこの問題は片付いていない。しかし、こうしたことも「込み」にして考えながら、施設を批判した運動があったことは記憶されてよい。
◇◇◇
  ともかく、これが日本における施設批判の始まりである。私たちは「脱施設」や「ノーマライゼーション」が外国から入ってきたものだと思っているのだが、そんなことはない。1960年代後半、1970年前後にことは起こっている。
  当時、その事件はまったく知られなかったわけではない。新聞や雑誌の記事にもなった。その一覧を一橋大学の大学院にいた安藤道人さんが作ってくれた。私たちのHPに掲載されている。三井本人が書いた文章「わたしたちは人形じゃない」は、1972年、『朝日ジャーナル』に掲載された。それから25年の時を隔て、同じ題の本が出たということだ(この文章は本には収録されていないが、私たちのHPに全文掲載)。けれども、デンマークにおける脱施設の運動のように取り上げられることはまずない。舶来のものでないものをわざわざそう語ることはない。あったことは好き嫌いは別に知られてよい。そう思って私たちも『生の技法』を書いたのではあった。
  どうして無視し忘れることにしたか。いくつか言えるが、その一つは、医療や福祉を担っている当の人たちが非難されてしまうできごとであったことによる。
  まず施設を作ることが障害者福祉の前進だとされていた。また、待遇改善要求は、現実には労働者により多くの労働を求めることであり、労働組合、それと関係する(革新)政党が訴えを聞くのは難しかった。そして当時こうした動きに関わっていたのは、革新政党と対立する別の左派だった(p.160等)。都知事は美濃部亮吉で、「革新都政」の時期に都庁前でハンストをした。だから、ごく一部の動き――それは事実だ――だったとして無視しようというのは、わかる話ではある。
  しかしあったことはあった。聞きたくなくてももっともなことが言われた。1971年の「婦長への抗議」というセンターのN婦長への手紙から引用する(p.101)。
  「私はみんなによく言われることですが、「センターの悪口を言っている」と決してそうではないのです。施設と言うそのものの、存在を明らかにしているだけです。別にここだけの問題ではないのです。全国にある施設が問題をもっている共通な問題なのです。例えば、腰痛です。なぜ腰痛になるのか。と言う事を掘り下げていかなければ、解決などしません。又、なぜ私たちは施設という、特殊な社会に置かれなければならないのか。私たちもこういう所で、働く人も、考えて行かねばならないのです。それをみんな誤解して悪口だと言っているんです。
  それからはNさんは「親しくしている人なら、男の人でもトイレをやってもらっても、いいじゃないか。」と言いましたね。[…]Nさんは男女の区別を乗り越えるのが本当だと言いましたね。だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別々にしてあるんですか。」

[表紙写真を載せた本]
三井 絹子 20060520 『抵抗の証 私は人形じゃない』,「三井絹子60年のあゆみ」編集委員会ライフステーションワンステップかたつむり,発売:千書房,299p. ISBN-10: 4787300466 ISBN-13: 978-4787300461 2100 [amazon][kinokuniya][JUNKDO] ※ d


UP:20070731 REV:(誤字訂正)
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