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仕事を分ける

立岩 真也 20060828
『京都新聞』


  日本の失業率は4−5%、欧州では10%内外が続いているところもある。そして、実際には働けるが働いていない人はもっとたくさんいる。景気の良し悪しとは関係がない。どんなに景気がよくても人は余る。
  これはつまり全員が働かなくても生産が足りているということだ。それ自体は、全員が出ずっぱりで働いてようやく全員が食えるという状態より基本的にはいいことだ。今の状況をそのように見なければならない。
  この社会では無理して生産を増やしても消費は増えない。むしろ「本当に必要なの?」というレベルで競争せざるをえない。全体を増やしていくというゲームには、今やリアリティーがない。
  ざっくりした話で考えてみよう。働ける人が十人いるとして、八人の働きで足りており、二人が余ってしまうとする。この二人も生きていけてよいのだから、取るべき方法は、生きていける所得を保障するか、八人は仕事量を減らして二人に分けるかだ。
  収入を減らしてまで働いていない人を支えるのかという疑問もある。だが、八人が出ずっぱりで働いてしまっているから残り二人が働けない。これは八人が二人の仕事を奪っている状況だとも言える。二人に日々暮らして行けるだけのお金を渡すか、あるいは仕事を分けるか、どちらの対応も正しいことになる。
  前者の考えは全員に所得を保障するベーシックインカムという構想に近く、後者の考えはワークシェアリングとなる。もちろん両方を組み合わせてもよい。
  仕事に就いている人は失業した人の仕事を奪っていると言えるのかという反論や、仕事の内容によっては分けるのが難しいという反論もあるだろう。確かに、実力の差というものはある。ただ、それは十対〇ということはめったになく、たいていはわずかな差だ。しかし、市場の仕組みは、十点をとった人は評価されるが、八点の人はゼロ評価ということがある。少しの差が十か〇かの違いになる社会は、過大なプレッシャーを生む。
  働かない人がたくさんいても暮らせるようになって、もう半世紀にはなる。だがその状況は「代わりの働き手は誰でもいる」という重圧として働いてきた。仕事に入れあげないと職場に残してくれないという重圧がのしかかる。競争はなんでもよくないとは思わない。だが、今では競争の中でのちょっとした差異で勝たなければならないという仕組みになっている。でも本当は、それほどがんばらなくても十分にやっていける。そのほうがよいはずだ。
  最近、仕事で失敗した人の「再チャレンジ」を支援する政策が議論されている。それでうまくいく人もいることはいるだろう。しかしうまくいかない人も必然的に出てくる。「もっとがんばれ」と言うより、仕事を分ける、お金を分けるほうが合理性がある。さしあたっては、生活保護をもっと使えるものにするなど「働かなくては生きられない」という重圧を減らすことが重要だ。


UP:200608 REV:
労働  ◇立岩 真也
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