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此壱年半及今後

立岩真也 2006/09/18
第2回研究集会<死の法>――脳死臓器移植と尊厳死法の検証 於:大阪



  *上記のような表題を考えてしまったこともあり、ここしばらくのことについて述べるのがよいかとも思った。当日、お話しさせていただく時にはそのような内容のものになるかもしれない。ただ、起こってきたことについては、HP(http://www.arsvi.com)の方に情報を掲載してきているから、それを見ていただくのがよいと思う。細かいことも含め多くの情報を載せられるし、これからも増えていくだろう。HPという媒体はそのような用途にとっては適している。そこで、ここでは、どのように考えるかについて、2005年から2006年にかけて『思想』(岩波書店)に3回に渡って掲載された「他者を思う自然で私の一存の死」(『思想』976(2005-8):23-44、982(2006-1):80-100、982(2006-2):96-122)の一部を掲載させてもらうことにした。
  かなり長いその文章の全体の構成は、1「不死性」、2「汎用性」、3「反事実性・抗事実性」、4「私のことである、しかし」、5「他を害さない私のことか」、6「まとめ」。以下は、1「不死性」(連載第1回に掲載)の全文と4「まとめ」(第3回に掲載)の全文。なお紙数の制約から、注(☆で表記)と文献表は省いた。
  この連載は、全体として、安楽死・尊厳死の肯定は私たちの社会のわりあい深いところに根ざしているから、面倒ではあっても、そこはある程度ていねいに見て考えていかないとならないのだろうという思いから書かれている。「他者を思う」ことも、「自然」であることも、「私の」決定であることも、この社会では、あるいはこの社会でなくとも、肯定されさらに賞賛されたりすることである。だからよいに決まっている、と言われるのだが、そうは思えない。それを言うには、すこしじっくりと考えなければならない。
  とはいえ、そうのんびりと構えていられないという思いもあった。以下に再掲する文章では、1「不死性」の前半「二〇〇五年/一九八三年」と、4「まとめ」の前半「まず言っておけること」は、とにかく言えることを列挙するといった性格の部分であり、その後の部分に、「とはいえ」、とか、「さらに」、といったつながり方でつながっている。
  この連載と筑摩書房の『Webちくま』に連載中の「良い死」をまとめ、書き足して直して2007年中には、筑摩書房より刊行される本にしたいと考えている。なお、これら以外で最近書いた文章等については、末尾に列挙した。ご参考まで。

■1 不死性

  ◆1 二〇〇五年/一九八三年

  「尊厳死法」を作ろうという動きもある。二〇〇五年一月にそのことが報じられた。その前後、実際に様々に具体的な動きがあり、六月には、日本尊厳死協会が一四万人近い署名を添えた請願書を尊厳死を考える超党派の議員連盟の会長らに提出した☆01。
  私の意見ははっきりしている。その法は不要であり、法の制定に反対である。いくつかの短い文章でひとまずのことを述べた☆02。紙数の制約もあり、繰り返さない。反対している人の言っていることは単純なことであり、そしてもっともなことだと思う。末期の状態、本当に死に近い人が対象だというなら急ぐことはない。意識があり、苦痛があるなら、苦痛をなるべく減らしたらよい。そうして周囲の者たちは亡くなるまで待てばよい。他方、末期の状態にない人をも含めるのであれば、まだ人生があるのだから、急ぐことはない。死にたくない人も死んでしまうことがあるからよくない。また、意識のない――長くそうした状態にあると「植物状態」と呼ばれたりすることがあるが「遷延性意識障害」の方がまだよい名とされる――人自身には死にたいという意識もなく、死ぬことの利益もないのだから、本人が苦しいからという理由はなくなっている。そして、その状態から回復する人もいることもあげられる。実際そうした事実がある。
  このように、とりあえず言えることはあるから、それは言う。繰り返さないとわかってもらえないなら、繰り返して言う。ただ本稿ではすこし別のことを述べる。
  ひとまず言えることのその先、あるいはその手前にあるものは、それほど単純な作りにはなっていない。賢い人たちによってよく作り上げられているから、という理由からではないと私は考えるのだが、尊厳死の思想は様々な立場によって肯定される主張であり、打たれ強い主張でもある。どのような仕掛けになっているのかをいったん捉えておく必要はあると考える。
  まず、この法案のこともあるからなおさらやっておくべきことは、歴史を歴史としてはっきりさせておくことである。大谷いづみの研究があり(既発表の論文では大谷[二〇〇三][二〇〇四a][二〇〇四b][二〇〇五])、近くそれがまとめられ、発表され、日本における尊厳死言説の登場と普及について詳細がわかるようになる。私はただそれを待っているだけなのだが、今でもいくつかのことは言える。このたび積極的に活動している日本尊厳死協会(その前身は一九七六年設立の日本安楽死協会、八三年に改称)は、過去、一九七〇年代末から八〇年代初頭にも法制化の運動をし、法案が提出されている。その時には、反対運動もあり、法律になることはなかった。(七八年に法案作成、七九年に正式発表、八三年「末期医療の特別措置法案」国会に提出、審議未了廃案。)そして二十年余を隔て、ほぼ同じ法案が提出されている。一貫して尊厳死の普及のための活動をしてきた人を除けば、ごくわずかの人しかその連続性を知らない。このたびは法律が制定されるとするなら、それは過去が間違っていたということなのか。そんな問いを発する以前に、そんな問いがあることを知らない。
  そしてこの組織の創始者は太田典礼なのだが、彼が優生保護法制定に深く関わった人物だったといったことだけではなく、この組織の主導者たちは、幾度も、堂々と無防備に自らの思想を吐露している。著書でも引用したことがある(立岩[一九九七:一六八]等)が、以下はそれと別の太田の文章。
  「ナチスではないが、どうも「価値なき生命」というのはあるような気がする。[…]私としてははっきした意識があって人権を主張し得るか否か、という点が一応の境界線だ[…]自分が生きていることが社会の負担になるようになったら、もはや遠慮すべきではないだろうか。自分で食事もとれず、人工栄養に頼り「生きている」のではなく「生かされている」状態の患者に対しては、もう治療を中止すべきだと思う」(『毎日新聞』一九七四年三月十五日、清水[一九九八:八九]に引用)
  そしてその人たちは、今まで反省のようなことは何も言ってこなかった。協会は過去からの連続性を隠していない――そのこと自体は立派なことだ。その持ち上げ方は以前ほどではないにせよ、今でも始祖として太田典礼の名前は出てくる。功労者として言及され、すこしも否定されてはいない。彼のことをよく知っている人たちは、知っていてそして問題ではないと思っているのだろう。またよくは知らない人がいるだろう。そしてまったく知らない人もいるだろう。まずは知っておいた方がよい。

■尊厳死思想の不死性

  けれど、組織や思想の連続を指摘すればそれで十分、とはならない。言説は次第に慎ましやかで上品なものになっていくだろう☆03。野蛮な主張をした第一世代はやがて去っていって、この運動、組織も世代交替することになる。既にそれは進行しつつあるのだろう。日本安楽協会、改称して日本尊厳死協会は、当初、数少ない変わった男たちの集まりであったはずだが、その会員数は、一九九〇年に一万人、九三年に三万人、九二年に五万人、二〇〇二年に十万人を超える。全体の七割が女性だという。こうなれば、この協会を担う人たちは、設立者ではあるがもうこの世にいない変人たち、「反骨」の人たちに直接の義理はない。とすると、その人たちの「言い過ぎ」を反省し、批判し、改めることはありそうなことである。何も言われなければそのままにしておくのかもしれないが――だから言ってみる必要もあるのではあるが――、例えば私たちが過去を指摘するなら、あげつらうなら、それに対応することはありうる。
  それは一つに、尊厳死を普及させるため、また尊厳死法を成立させるための戦術的な対応であるだろう。だがそれだけでもない。言い過ぎがあったとしたらそれは反省すると言うかもしれない。また、本心から、自らが主張するのはもっと静かで穏やかなことだと言うだろうし、実際にそのように言っている。例えば日本尊厳死協会の理事長が集会に呼ばれてそのように言う。多くの人がそう思っている。この思想と主張は大衆化していく。大衆のもの、というより市民のものになっていく。そうして広く強くなっているように見える。そこに肯定すべきものがあり、また立派な心性に発していることを認めながら、しかし、どんなことがなお言えるのかである。あるいは、なお納得できないものが残っているなら、それは何かである。
  安楽死・尊厳死の主張は優生思想だと批判した人たちがいる。なんでも一言で括ってしまうのはたしかに乱暴なことではあるが、私はこの括り方は基本的には当たっていると考えている。良い生・殖(優生学eugenics)と良い死(安楽死euthanasia)は一つながりのものである。しかしこの言い方そのままではなかなか通じない。言われた人はとんでもないと反論するだろう。あなたは優生思想の信奉者であるなどと言ってしまうと、その言葉を知っている人であればだが、真剣に怒るかもしれない。実際そのようなやりとりを幾度か聞いたことがある。その思想が、人の質に優劣をつけ、それをもって人の生に介入しようとする思想であるとするなら、怒る人は、そんなことを自分はすこしも考えていないと言うだろうし、言うだけでなく本心で思っているのだろうし、またそれには一理ある。
  起こっていることは、現在の社会に抗しようとしながら、時流に乗ったものでもある。それは結果として、広がり、多くの人に受け入れられることになった。この主張が普及し、力を大きくしているのは、推進する側の宣伝によるものだと、宣伝が上手であることに帰着させるのも乱暴だ。なにか悪い企みがあって、それがきれいな言葉で隠されているという陰謀史観はそういつも当てはまるわけではない。ちかごろ尊厳死を支持する人たちはまったく邪悪な人たちではない。その人たちの主張はよくできている。そして、そのようでありながらも、もっともなことであると思いながらも、私たちは、ひとまず私は、それは違うだろうと思う。そのことをどう言うかである。個別に言われることを個別に、また同時に基本的なところを基本的なところから吟味するしかない。
  まず、どのような仕組みで、よくできた、万人に受け入れられやすい主張になっているかを確認する。尊厳死を言う人は、体制派であることもできるし、反体制派であることもできる。自然に死ぬことを自分で決める。独立心が旺盛な人でもよいし、他人のことを思いやる人でもよい。社会がよしとする徳目はたいていここに盛り込まれている。

  [略]

■6 まとめ

  ■1 まず言っておけること

  今回のここまで、第五節では、私による私に限っての行ないという主張、行ないの正当化の言説、そしてなされる行ないが、言われるように他人に迷惑をかけず自分のことを決めていると言えるのかと考えてきたのだが、それはまた、この主張と行ないにおいて、自らや他人を否定することで自らを肯定し救済しようという営みがなされていることを見ることでもあった。しかしもちろん、それは安楽死・尊厳死が置かれている一つの場所であるだけである。前回までに述べたこと、他で書いたことも合わせ、どうするか、どうしないかについて、そのことに関わるはずの「学」が今どんな具合であるかについて少し述べた後、ここまでは言えるだろうことを列挙する。
  すくなくとも安楽死・尊厳死をとくに許容する法律を作る必要はない。このたびも、批判や反対が様々にあった上でということになろうか、さしあたり法律にはならないかもしれない。ただ、この間、しばらくの間にもいくつかの事件が起こったのだが――相模原での事件、羽幌での事件、米国での事件、等、これについては私のホームページにもいくらかの情報がある――、その時の「識者」のコメントはたいてい「ガイドライン」が必要だというものだった。また、さきに紹介したように書面に自ら意志を記しておいてもらい、その線で対応しようという動きもある。
  なんらかの対応策が求められると、きまりが必要だと、その内容を言うことなく語られることはしばしば起こることなのだが、このたびは、それは現実の動きでもある。そしてやはりいつもそうなのだが、野蛮な粗雑なものがまず出され、それが出回ってしまうのを阻むために、それよりはましなものを作らざるをえないということになる。例えば、「経済負担については、例えば人工呼吸器をつけた場合、入院時では年間約一〇〇〇万円必要となりますが、ALSに関しては国や自治体から様々な財政的、制度的援助が受けられます」などといった文言が、病院に提出する「私の希望書」という名称の書類の「注意事項」に書かれていたりすると、なぜそんなことがそこに書かれているのか、といったことを考えたりせざるをえないことになり、それは不要だと言うと、事実であるからには伝えてもよいだろうと反論されたりするといったことが起こる。わるいものよりは相対的によいものの方がよい。それで気の進まない人たちもそれに巻き込まれていく。こうして現実が作られていく。
  そして幾十年かを経て、たしかに「生命倫理(学)」は制度化されつつある。以前と比較すればまともに取り扱われることになったということであり、それはけっこうなことではある。ただその時に何が起こるか、既に何が起こっているのかは見ておいた方がよい。倫理委員会といった組織が制度化され、規則が作られ使用されるのは、大学の医学部や附属病院であり、まだ数は少ないがその他の病院であったりする。そこで倫理学者その他は、熱心に良心的に毎日の仕事をし、様々に悩ましいことに悩んでいる医師・医学者・看護者、他に出会うことになる。その人たちは日々の悩ましさがいくらかでも軽減することを望んでいるし、基本的には組織の業務や個人の活動が円滑に作動する方向に自らを導いてほしい、あるいは少なくとも邪魔はしてもらいたくない。そして、例えばその倫理委員会に関係する人たちも、毎日熱心に仕事するその人々に応えたいと思う。それはそれで当然のことであり、自然な成り行きである。
  ただ、哲学や倫理学といったものは、かつてよりは「現場」に近づいてそこに起こることを知ろうとしながらも、そしてそのことはまことによいことであるのだが、その上で、さてどうしたらよいのかをよくよく考えてみる営みとしてあるのではないか。そのような営みである時に意味のある営みとなるのではないか。けれど、この方面になるとさほどの仕事がなされていないのではないか。だから、ではないが、私は私として考えられることを述べてきた。
  第一に、「無駄な延命治療」は、その治療が延命に対して無駄であれば、無駄であり不要である。無駄なことは行なわない方がよい。また、常に医療行為がいくらかは侵襲的であり、それ自体はなんらかの害を与えるものと考えるなら、無駄である行ないは有害な行ないであるということになる。有害であるだけの行ないは行なわない方がよい。そうした行ないが存在することは認めよう。ただそれは第一回で述べたように、「近代医学の宿命」であるわけではない。より多くを提供することで利益を得ようとするあるいは費用を回収しようとすることによる。つまり、それはおおむね費用と利益に関わる制度の問題であり、そうした問題として対処すればよい。そして、この(延命にとって)「無駄な治療」と「無駄な延命」(のための治療)とは異なる。延命が無駄だと言いたいのであれば、その延命がどのように無駄なのかを言ってもらわなければならない。
  第二に、「延命」についての補足。生きている時間が長ければよいというものでもないと思いたい人がいることは認めよう。余命が短くなる可能性が高いが気持ちがよいという場合と、相対的に長くなる可能性が高いがその分苦しかったりつまらなかったする場合があって、前者を選ぶことは認められるだろうと、そしてそれは安楽死・尊厳死を肯定することとは別のことだと、清水哲郎の論を検討した文章(立岩[二〇〇四a])で述べた。そして、そちら側を選ぶことは現行の規則のもとでも可能なことである。何かをすることで、あるいは何かをしないことで死期が早まることはあっても仕方ないだろう。寿命が縮まるのはもちろんおおいに困ったことではあるが、そのことは確率としてしかわからず、曖昧なことをよいことに、私たちの多くは命を縮めるようなことを様々に行っている。その予想がはっきりしている場合でも、短い分よいことがあるなら、それはそれでよいとしよう。そこには短いとしても相対的によいしばらくの生がある。しかし安楽死・尊厳死の場合は違う。そこには生はない☆11。
  第三に、「末期」について。安楽死・尊厳死は末期の状態に対する対応だとされる。しかしこれは不思議である。本当に末期であれば、つまり死が間近に迫っているという普通の意味での末期であれば、急ぐ必要はない。亡くなるまでの時間、きちんと待てばよいし、対応すればよい。末期で意識があって苦痛があるなら、そしてその苦痛を減らせるなら、苦痛を減らせばよい。他方、末期でないのなら、まだ人生があるのだから、急いではいけない。これ以外の意味で末期という言葉を使うのは――実際には使われてしまうことがあるのだが――言葉の用法の不当な拡張であり、無用の混乱と有害な結果をもたらす。
  第四に、痛み・苦痛、まず身体の痛み・苦痛について。死ぬほど苦しいから死ぬのだと言う。尊厳死の支持は、一つには苦しいのはいやだ、不快なのはいやだといった感覚に支えられている。これはまったくもっともな感覚であり、死んでしまおうとするのも仕方ないと思える基底にはこうした感覚があるだろう。けれども、多くの場合、完全なものではないとしても、苦痛を軽減する方法はある。それでもなかなかとれない苦痛については、乱暴な方法ではあるが、薬物によって意識レベルを低下させる「セデーション」と呼ばれる方法もないではない。
  第五に、「精神的苦痛」について。精神的苦痛に様々がある。様々な理由によって人は死のうとするし、実際死ぬ。だが、安楽死・尊厳死が固有に関わる苦痛は限られている。自分で死ぬに死ねないという状態にあるのだから、その人は他の多くのこともできない。これに関わるのは、一つ、このことを巡る価値である。自分ができなくなることに関わる悲嘆や喪失感、他人や社会に対する気兼ねや罪悪感。価値の問題は個々人の価値観の問題だから他が立ち入るべき部分ではないという主張に対しては前回に反論した。そして今回、第五節で述べたのは、この価値が、未来あるいは現在の私や私以外の者を否定し、そのことによって過去のあるいは現在の私を救おうあるいは高めようとする行ないに繋がることだった。その高揚感や優越感は快をたしかにもたらすことがある。しかしそれは結局死をもらたすか、そうでなければ、生きている自らや他の者たちの否定をもたらす。だから、ときに容易なことではないとしても、変えてもらった方がよい。まったく気にならなくなることは難しいにしても、できないことその他を気にしないようにしてもらうしかない。
  第六に、精神的苦痛のもう一つについて、むしろ精神的苦痛をもたらす物質的条件そのものについて。できないことがあって、その上で生きていくには人もいるし金もいるがそれがない。人がいたとしてもそれは家族であったりして、その人たちに大きな負担がかかる。これが実際には一番大きく安楽死・尊厳死に関わっている。どうにもならないなら仕方がないかもしれない。しかしどうにもならないのではない。それはなんとかなるはずだから、なんとかすればよい。それがさきになされるべきことである。生命倫理学を修める人々も、とくにこの国のその分野の人たちは優しいから、生きるための環境が用意されるべきことを認めてくれる。認めてくれるなら、本当にそのことを認めてくれるのであれば、実際には、この主題について論じなければならないことはほとんど残らない。生きることが可能である条件がどこにでもあった上でなら、それでも立派な自分でい続けたいと望み、自らを顕示あるいは救済しようとして死のうという人がしたとしても、好きなように、と言いたくはある。
  しかし、実際には、必要なものがないという現実は現実のままで、決定や決定の手続きが語られ、実際に手はずが整えられ、その手はずに沿って死んでもらうということになる。なぜそういう順序になるのか。どんな条件があったとしてもその人はなお死ぬことを望む人であることを確実に知っているというのだろうか。そのように望んでいるならそれでよい、とはならないはすだと前回に述べたのだが、それ以前に、そんな人はそうはいない。どうにかなるものなら生きてみたいものだが、とたいていの人は思っている。とすると、資源には限界があるのだからこの人たちには早目に死んでもらった方がよい、とはっきり言ってもらった方がよい。その方が論点がはっきりし、議論が議論として成立する。だが、今のところ、学者たちはそのことをあまりはっきりと言わない。人も金もあるとよいのはわかっているが、現実にないものはなく、それが整うのを待つことはできず、その人の「切実なニーズ」に応えよう、応えるしかない、といったところだろうか。
  困った人は、こんなことであれば私はもう死にたいと言えばよい。けれども、それでも、個々の「現場」で、そう多くの人が一度に死にたいと言い出すわけではない。死にたいという人たちの多くは、私の苦痛、苦労が、お前たちの苦痛、苦労とは違う大きなものなのだと言っている。たいして聞いてもらえないまま、それを言い、言うのに疲れてしまい、それでひとまず気がすむこともある。(殺してくれというのも、それはそれで本気なのではあるが、では要望に応じましょうとされると、ひるんでしまうというのも本当のことである。実際に死の要望が適う機構のもとでは、人は、本当の本気とそうでない本気とを分けて言わなければならないことになる。)むろん、それですまないこともある。どうにもならないのだと、どうにかしてほしいのだと言うのを聞いた人たちは、それで困ってしまって右往左往すればよい。その病院で抱え込むことが無理だというなら、それでも抱え込もうとするよりは、自分たちの手には負えないと大きな声で言えばよいし、方々に言って回ればよい。患者さんのことを考えると死を認めざるをえない場面もあると思う、と言うぐらいなら、それほど患者さんのことを思っているのなら、すくなくともそのぐらいのことはすべきだ。すると、実際にはまったくどうにもならないわけでもない。
  このようなことを言うと、必ず、それは「現場」を知らぬ者の言うことだと言われる。もちろん私は知らない、しかしあなたは何を知っているのだ、と言い返したくもなる。あるいは、その人たちが何かを知っていることを認めてよい。しかしそのことはそのまま何をよしとするかを示さないだろうと、もとに戻って言うしかない。
  第七に、きまりについて。なされる行ない(あるいは行なわないという行ない)は、基本的に自殺であり、自殺を助けることであると考えるしかない☆12。自殺幇助は依然として罪に問われてよい。誰にでもこの行ないを頼むことができないとなれば、依頼する相手は関係者であることが多く、その関係者は利害関係者でもあり、死を望む人たちでもありうる。他方、関係者でないなら、たいていの人たちはこのような行いについて気が進まないだろうから、手伝おうとするのはそうした営みに喜びを感じる人であるかもしれない。あるいは人の生死などあまり気にしない人であるかもしれない。となると、いずれにせよ死の方に向かう力はかかりやすい。これは、中立というより死の方に人を傾かせる。態度として、基本的に生の側につくのがよいなら、なおこれは支持されない。
  安楽死・尊厳死の正当性を主張したいなら、この行ないが自殺を助けることであることを認め、さらに自殺を助けることが原則的に許容されるべきだと主張するとよい。あるいは、自殺幇助全般を認めるのでなく、限定して自殺幇助を認めることが主張されるなら、その状況は、他の場合と異なり、死んでも仕方がない状況だと認めるべきだと主張しているということである。だからその理由を示すべきである。
  私たちは壊れやすい身体でできているのだから、多く、死ぬのは簡単なことである。しかし助けがないと死ねない人もいて、その人たちにとっては、幇助が禁じられ、結果として自殺できないことは不公平なことではある。しかし、死ぬ方向に巻き添えをくう人の側に立って、死ねない人には我慢してもらうことにする。そしてどうしてもできないわけではない。どうしても死ぬことを手伝いたいのなら、それは可能である。罪に問われるが、それはそのぐらいの覚悟があっての行いであってよい。

■2 言ってみたらよいと思うこと

  安楽死・尊厳死を批判する人たちは頑迷で理不尽な批判をしていると思われていないか。しかしそんなことはない。このことを言おうと思った。
  第一回で尊厳死の思想が打たれ強いことを述べた。どうして打たれ強いのか。一つには、それが私たちの社会から出てきたために、この社会によくはまるような形をしているからである。ただ、もう一つ、たんにこの社会がよしとするというだけでなく、私たちの多くが感じやすい部分、感じ入ってしまう部分にも繋がっているところがある。このことをこの回の最初にも述べた。
  他人が立ち入れないようなその人に内在する固有の苦痛。もう私はよい、十分に生きた、と思うような平静な悦ばしい心境。そして、残される人々を思いやって、自らは去ろうとする心情。安楽死・尊厳死にはたしかにそうした要素がある。そして、私たちがそのようなものをとくに好むというところもあるだろう。事大主義は明らかに「尊厳」のある死という理解と無縁のものではない。そして私たちは、たしかにまったく事大主義を好み、大袈裟なものを偏重し、そして小さくもしみじみとしたものに心動かされる。このことは事実として踏まえておいた方がよい。そしてこのことをあまり否定しないようにしよう。否定しようとすると無理をしてしまう。無意味や不条理に耐えるのは、耐えることによって他の人々から自らを差異化し、その差異を優越という快楽として生きるということでもしない限り、そうやさしいことではない。
  だから、しみじみとする話が好きであることを認めた上で、しかし、であるからこそ、慎重であった方がよいということだ。もっともであるがゆえに、利用したい人に利用されやすいということもある。また自分としても思わず使いたくなってしまう。だからこそ慎重にみる必要がある。
  一つ、このたびは主題的に論ずることをしなかったが、犠牲=利他という契機があると述べた。実際、安楽死・尊厳死は利他的な行ないとしてなされる。利他的な行ないは肯定すればよい。しかし、他人のために、次世代のために死ぬというその善意を受け取り肯定しながら、その人の言うことをそのままに受けて、その通りに行なってもらってはならないということである。その心意気を賞賛しながら、あなたはそんなことはしなくてよい、それはあなたにはさせない、と応じるのである。おそらく多くの社会にあって、こうしたやりとりの方がまっとうなやりとりだとされているはずである。そのままに相手の言うことを受け取り、相手を死なせることはさせないはずである。他人のために自らの命を投げ出したりした人におおいに感動しながら、しかし、それをここですることはない、と言えばよいのだ。あなたが死なければならないほどには誰も困ってはいない、すくなくともそれほど困らないようにこの社会をやっていくことはできると言えばよいのである。
  この世のある場、大きな声で財政のことを語り、尊厳ある死の方に扇動する人たちがいる。むろん他の場には、そんな人々とは関係ない、私の思いは、権力とか政治とかそんなものと関係がないという人たちがたくさんいる。しかしその人の中にも、新聞など読んで、医療費のことや年金のことや少子化のことをきちんと心配している人がいる。その人たちはきっとまじめな人たちである。その人たちに対して、それほど困ってはいないという事実を、それが事実なのだから、示すことである☆13。そして、ここまで述べたことから言えることとして、あなたがしようという行ないはむしろ衆生を救う方に向かわず、追随して死んでしまう人や、死に巻き込まれる人を増やしてしまうこと、かえって少なからぬ人たちを生きにくくさせてしまうかもしれないということを言い、あなたの思いをかなえたいのてあれば、むしろ、いささか無理をしても、あなたは生きていた方がよい、と言うことである。あなたは謙虚な心をもってさらに慈悲の心をもって自ら身を引くことを考えている。ならば、その慈悲の心をもってここは生き続けていただきたい。そうお願いするのである。
  大きな声で尊厳死・安楽死を肯定する人たちに何か言うのはさほど困難でないにしても、そうではない善意の人々にわかってもらうように言うのはなかなか難しい。そのわりに、護ろうとするものは単純な他愛のないものである。生きていられる間は生きていた方がよいのだろうというだけのことである。
  けれども他に何か言うことがあるだろうか。現代人は苦しみを忘れている、運命を忘れている、死を忘れ回避しているなどと言う。死について語ることが避けられているという言説が夥しく存在する。しかし、ではそのようなことを言う人は代わりに何かを言えているのか。何か言えることがあるように思えない。現状を嘆いて言われることが、私たちみなが既に知っている以上のことを言っているとは思えない☆14。死に向き合うとされることが向き合うことであると思えない。まったく素朴に言って、死は、生きている経験の終わりである。それを恐怖するのは観念の作用ではあり、それを迷妄と言いたければ言うこともできるだろう。ならば、すくなくともその迷妄を生じさせるような観念が頭の中から少なくなっていくこと、これは悪いことではない。何か格別のものを信じることができなければ、せいぜい期待できるのはそんなことである。
  生を否定する動きが強い時に、それに反対しようとして、それを強く否定するもの、生を強く肯定するものが求められることはわかる。しかし結局それはうまくいかないだろう☆15。もっと簡単なことを言っている。痛みをなんとかやり過ごしながら、そのために様々な手段を使いながら、身体と環界に起こることを経験しているというあり方があって、それでよいと言っているだけだ。薬で痛みを抑えながら、陽光が身体に当たるのを感じているといった出来事のことを言っている。それを受動というのは正確ではないだろう。それはただ静寂であるのではないはずで、細動であったりもする。動かないものではなく動くものであったりもするだろう。あるいは時には強く動き、周囲にとってはひどく迷惑なことでもあるだろう。そのような強度をもって世界に接していて、感じている。
  尊厳ある死は積極的なものを人に与えている。さっぱりと死ぬことによって、自らの価値を保とうというのである。それに対抗するのは、無定型なただの生であるのだが、そんな無定形なものに居座ることができるのだろうかという疑念がもたれることになる。その疑問もまた無理からぬところがある。難しいかもしれない。しかし難しいのは、これまでそのように生きてこなかったからでしかないとも言える。それを別にすれば、そう厄介なことを言っているわけでない。死ぬのは恐い、恐いものは恐いのだから仕方がないということと、楽にしていられるなら世界は自分にとってよいということだけのことであって、ことのよしあしは別に、これは現実であり事実である。
  病のために働けなくなることがある。生き甲斐をもって働いてきた人にとって、これまで働いてきたことはたしかに手段以上のことだろう。そうした契機がこの世からなくなることはないのだろう。また姿・形を気にし、他者からの評価を求めることにしても、無歴史的と言ってよいような部分はある。人は常にそのようにして生きてはいる。実際、既に長くそうして生きてきた。とすれば、今までのままではこれからは都合が悪そうな選好を変えてしまうことにすればよい。論理の一貫性はときに必要である。しかし、一人ひとりの欲望は一通りでなけれはならないのでもないし、一貫していなければならないのでもないし、不変でなければならないのでもない。自らが今まで暮らして身についているものを脱ぎ捨てようとしても難しいことはある。しかし、実際には意外に簡単にそんなことはできてしまうのであって、一貫しているべきだという規範が難しくさせているのかもしれない。しかし一貫している必要はない。
  そうすると、たしかにその人でもあるような、しかし別の人であるような人が現出するのだ。あるいは別の生物になるのだと言ってもよいかもしれない。実際には、記憶もあるし、未練もある。だからそうしたつながり、回路をもちながら、様々に固執し、また誇示したりもして手に負えないのではあるが、しかし同時に、手に負えないまま、別の生物になってしまうのである。まったくそれでよいはずである。


■[補]他に書いたものなど

▼2004/10/23『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』
  青土社,20001023,357+25p. ISBN:4791758528 2940円→2400円
  「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」「「そんなので決めないでくれ」と言う――」を収録
●2004/11/15『ALS――不動の身体と息する機械』
  医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940円→2500円
★2005/04/00『生存の争い――のために・1』(立岩編)
  <分配と支援の未来>刊行委員会,124p.,1000円
▲2006/07/10『希望について』
  青土社,309+23p. ISBN:4791762797 2310円→1800円
  (下に掲載した2点+2点を収録)

  ■2005年〜
   ★印のものは上掲『生存の争い』に収録/▲印のものは上掲『希望について』に掲載
   このリストだけでは意味がありませんが、HP(http://www.arsvi.com→「立岩真也」等→「此壱年半及今後」にこのリストがあり、ここから大部分の文章等を読むことができますので、ご利用ください。

◆2005/01/21「『ALS――不動の身体と息する機械』」
  障害学研究会関東部会 第43回研究会 於:東京
★2005/01/25「ALSの本・2」(医療と社会ブックガイド・45)
  『看護教育』46-01:(医学書院)
◆2005/02/01 「「自己決定」「自然な死」を問う」(『ALS』の紹介、与えられた題)
  『おそい・はやい・ひくい・たかい』26:98
★2005/02/25「ALSの本・3」(医療と社会ブックガイド・46)
  『看護教育』46-02:(医学書院)
▲2005/03/03「ALSと向き合って・社会は人が生きていくための場・中立でなく”生の支持”こそ」
  『聖教新聞』2005/03/03:9
★2005/03/25「死/生の本・3」(医療と社会ブックガイド・47)
  『看護教育』46-03:218-219(医学書院)[了:20050128]
◆2005/04/16「(司会とまとめ)」
  「尊厳死法」?についての集会 於:東京
★2005/04/25「死/生の本・4」(医療と社会ブックガイド・48)
  『看護教育』46-04:(医学書院)[了:20050302]
◆2005/04/26「患者の自己決定権――「生きて当然」な環境を」
  『朝日新聞』2005/04/26朝刊:34(大阪本社版) オピニオン面 視点・関西スクエアから [取材:20050409]
★2005/05/11「良い死・1」
  『Webちくま』[了:20050128]
◆2005/05/13「『ALS――不動の身体と息する機械』」
  障害学研究会九州部会第4回研究会
◆2005/05/18道立羽幌病院での事件についてのコメント
  NHK旭川放送局の取材に[取材:20050518]
★2005/05/25「死/生の本・5――『性の歴史』」(医療と社会ブックガイド・49)
  『看護教育』46-05:(医学書院)[了:20050331]
◆2005/06/16「『ALS――不動の身体と息する機械』」
  於:聖路加看護大学
◆2005/06/18「自由で自然な死?」
  関西学院大学COE 於:大阪 1300〜1600
◆2005/06/25 司会
  「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」発足集会 於:東京
◆2005/06/25「死/生の本・6――『所有のエチカ』」(医療と社会ブックガイド・50)
  『看護教育』46-06(2005-06):472-473(医学書院)[了:20050427]
★2005/06/**「良い死・2」
  『Webちくま』[了:20050407]
◆2005/08/05「他者を思う自然で私の一存の死」
  『思想』976(2005-08):023-044 目次・文献表 [了:20050623]
◆2005/08/25「学校で話したこと――1995〜2002」
  川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』,有斐閣,pp.307-332 [了:20030716]
◆2005/09/20「良い生・良い死」(仮題、講義)
  大阪大学大学院医学系研究科
◆2005/09/00「良い死・3」
  『Webちくま』[了:20050724]
◆2005/10/00「良い死・4」
  『Webちくま』[了:20051012]
◆2005/11/05「その先を生きること」
  第10回日本看護研究学会九州地方学術集会 於:長崎大学
  http://www.am.nagasaki-u.ac.jp/gakkai/
◆2005/11/17「命の終焉は誰が決めるのか――尊厳死と自己決定権」(与えられた題)
  大阪市立難波市民学習センター主催OCATヒューマンセミナー
  講座「いのちの約束」 於:大阪市立難波市民学習センター第1研修室
  http://www.ocat.jp/center.html
◆2005/11/26「ケアと自己決定――障害者運動から」(与えられた題)
  公開シンポジウム「ケアと自己決定」 於:東京大学・本郷
  東京大学大学院人文社会系研究科 21世紀COE研究拠点形成プログラム
  生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
◆2005/11/00「良い死・5」
  『Webちくま』[了:20051114]
◆2005/12/11「日本の生命倫理:回顧と展望――社会学から」
  シンポジウム「日本の生命倫理:回顧と展望」 於:熊本大学
◆2006/01/05「他者を思う自然で私の一存の死・2」
  『思想』982(2006-01):80-100 [了:20051128]
◆2006/01/00「良い死・6」
  『Webちくま』[了:20051215]
◆2006/02/05「他者を思う自然で私の一存の死・3」
  『思想』982(2006-02):096-122 
目次・文献表 [了:20060106]
◆2006/02/00「良い死・7」
  『Webちくま』[了:20060116]
◆2006/02/00『ボディ・サイレント』文庫版(平凡社刊)解説
  [了:20050521]
◆2006/03/25「確かにおかしなこと幾つか+」
  研究集会<死の法>――尊厳死法案の検証
◆2006/03/26「(射水市民病院での事件についてのコメント)」
  『読売新聞』2006/03/26朝刊[取材:20060325]
◆2006/03/26「(射水市民病院での事件についてのコメント)」
  『京都新聞』2006/03/26朝刊[取材:20060325]
◆2006/03/00「日本の生命倫理:回顧と展望――社会学から」(与えられた題)
  『生命倫理を中心とする現代社会研究II――熊本大学拠点形成研究B報告書』,発行事務局:熊本大学文学部総合人間学科 高橋隆雄,pp.58-65(シンポジウム「日本の生命倫理:回顧と展望」(2005/12/11 於:熊本大学)の記録)
◆2006/03/00「良い死・8」
  『Webちくま』[了:200602]
▲2006/04/21「生き延びるのは悪くない」
  『朝日新聞』2006/04/21朝刊
◆2006/04/29 清水哲郎氏との対論
  良い死!研究会 於:東京
◆2006/04/00「良い死・9」
  『Webちくま』[了:20060327]
◆2006/05/20「良い死?」
  はなしあい「生命の意味を問う」 於:関西セミナーハウス
  主催:財)日本クリスチャンアカデミー関西セミナーハウス活動センター
◆2006/05/00「欲望のかたちについて・1――良い死・10」
  『Webちくま』[了:20060506]
◆2006/06/11「良い死??」
  DPI日本会議総会 於:大阪
◆2006/06/19「(羽幌病院事件についてのコメント)」
  毎日新聞社の取材に[取材:20060619]
◆2006/06/00「『病いの哲学』について・1――良い死・11」
  『Webちくま』[了:20060528]
◆2006/07/00「近況/『病いの哲学』について・2の序――良い死・12」
  『Webちくま』[了:20060620]
◆2006/08/13「書評:米沢慧『病院化社会をいきる――医療の位相学』」
  『東京新聞』『中日新聞』2006/08/13
◆2006/08/20「私はこう考える」
  『通販生活』25-3(242・2006秋号):119(通販生活の国民投票第34回 尊厳死の法制化に賛成ですか?反対ですか?)
◆2006/08/00「『病いの哲学』について・2――良い死・13」
  『Webちくま』[了:20060724]
◆2006/09/01「(尊厳死法について)」
  小笠原 信之 20060901 「再燃する延命治療中止の法制化――お寒い終末期医療の現状を放置して」,『からだの科学』250(2006-9):2-12(日本評論社)\1600[取材]
  http://www.nippyo.co.jp/maga-karada/index.htm
  『東京新聞』『中日新聞』2006/08/13
◆2006/09/00「『病いの哲学』について・3――良い死・14」
  『Webちくま』[了:20060822]


UP:2006820 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2006077.htm REV:
第2回研究集会<死の法>――脳死臓器移植と尊厳死法の検証
尊厳死・安楽死 2006  ◇尊厳死・安楽死  ◇立岩 真也
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