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位置取りについて――障害者運動の

立岩真也 2006/11/10
東京大学大学院人文社会系研究科21世紀COE研究拠点形成プログラム
「生命の文化・価値をめぐる<死生学>の構築」
20061110 『ケアと自己決定――シンポジウム報告論集』,東京大学大学院人文社会系研究科,pp.15-23 etc.



  2005/11/26 公開シンポジウム「ケアと自己決定」 於:東京大学・本郷
  東京大学大学院人文社会系研究科 21世紀COE研究拠点形成プログラム
  生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
  http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/ja/yotei/yo_051126.htm

 *案内
 *東京大学COEシンポジウムでの報告の記録
  http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1328/3.html

〔立岩〕
 ご紹介いただきました立岩です。これから30分間お話させていただきます。時間が限られていますから、ややこしい話はできません。ややこしい話でも重要なことは、すでに本や雑誌などに書いていますので、そういったものを見ていただきたいと思います。
 おそらく、僕は今まで自分が書いた文章の中で、「ケア」という言葉を使ったことはないんじゃないかと思います。そんなわけで、少し使い慣れない言葉ですけれども、今日は時々使いながらお話ししようと思います。
 例えば、こういう場でケアということが語られる。そして、語られる以前にケアという行いがある。ただし、その行いは、たんに行われているというだけではなくて、愚痴をこぼしながら行われたり、独り言を言いながら行われるというように、ある了解、理解と共になされている。
 そしてまた、とくに学問的というのではなくケアについて語られる場があり、一方では今日のように学問的な議論の場の中でケアというものが語られることがある。そのような時に何が語られているのだろうか、あるいは、そのような議論の場で話がすまないことがあるが、それは何だろう、とか、思うことがあるのです。
 「ケアをされる」ということについてはわかりませんけれども、「ケアをする」ということは、少なくとも自発的に行われている限りにおいては、誰も悪いことであるとは思っていない、良いことだと皆が皆思っています。ということは、ケアについて肯定的に語ることが承認されていることになるわけです。
 そしてまた、ケアというものは、たいていの場合、なかなかに大変なものである。大変なものについては、我々は「ご苦労さん」と言うことになっています。「ご苦労さん」という感想、感慨を我々は持ち、それをまた肯定的に語るということがある。
 そしてまた、例えば家庭の中で、自分だけがケアをしているという状況があるとしましょう。他の人はやってくれないのに、社会はやってくれないのに、国家は何ほどのこともしてくれないのに、自分だけがそれをやっている。詳しくは申しませんけれども、それは不当なことです。ですから、そのような状況に置かれていることを告発すれば、その告発はやはり正当性をもつことになり、我々に受容されることになる。
 そしてまた、実際のケアの現場においては、ケアをされる側は、ケアなくしては生きていけないということがありますから、そのことにおいて、ケアをする側は何がしかの優位性をもつことが常にできている。もちろん、ケアをすることが強いられた状況であれば、十分な抑圧、鬱屈感を伴うけれども、そのように社会の中で置かれていることの不当性に対する慰めの言葉とともに、肯定され承認されている。それと同時に、その個別の関係における、自分のある種の優位は保障されている。そういう仕掛けになっている。
 さらに、我々はケアをすることによってケアをされる側から何がしかのものを受け取るということもある。人生について、あるいは生死について何ごとかを学ぶ。そして、その学んだことを語る。それは、様々な意味において有意義なことである。そして、「我々はケアをするけれども、そのことにおいてかえって学んでいる。かえって与えられている」と語ることにおける、ある種へりくだった私の態度はなかなかに称讃に値するとされます。
 このようなことが、一人一人の自分の家庭の中でのその時々の独り言の中にも含まれているかもしれませんし、それがもう少し大きなサイズになって、小さい、中くらいの、大きな人の集まりの中で語られている。そのような時、あるいは今日のような学問的な場において語られる時、ケアに対する全体としての肯定感と言いますか、大変でありながら肯定的であるということを承認し合う場を作り上げているのだろうと思うのです。
 こういうことはきっとよいことであり、また必要なことでもあろうと思います。しかしながら、同時になにかしら退屈な感じもしないでもない。むろんこれは、ひっくり返すこともできるわけで、なにかしら退屈ではあるけれども、よいことであり、大切なことであるというふうにも言える。そして、それでいいじゃないかという感じもするにはします。ただ、他に考えよう、語りようがなくはないだろうとも思うのです。

 先ほどの熊野さんの話にありましたが、僕は障害者運動のスタンスから何かしらを語るという役割を今日は与えられています。そちらの方に話を移していこうと思います。障害者運動の歴史といっても、私が知っているのはたかだかここ30年40年くらいの歴史です。その後半部分に私はいささかの関わりを持ち、あるいはむしろ傍観者的にそれを眺めてきました。そして、障害者に対するケア――ケアという言葉は私の書いたものの中ではそれほど使われなくて、「介助」という言葉の方が多く使われているかもしれません――が語られてきた。それでは、どのように語られ、問われ、現実を作り上げようとされてきたのだろうか。
 それは結局のところ、身も蓋もないというか、あられもないことでしかなかった。そしてそのことが重要であると思うんです。どういうことかと言えば、自分の体が動かない人は、生きていくためには、物を動かしたり、排泄をしたり、食事をとったりすることが必要です。しかし自分の体は動かない。だから、必要な場合は誰か人手が要る。人手が要るから、その人手を何とかしよう、してほしい。言ってみれば、一つにはそれだけのことしか言ってこなかったし、そして、それだけのことをきちんと言ってきたし、そのための現実を構築してきた、ということがまずあります。
 そして、30年40年かかって作り上げてきたものが、押し戻しにあっているというのが今の状況です。先日国会を通った障害者自立支援法も、30年40年かかってできたものに枠をはめようとする流れの中で出て来ているところがあります。このことも含めて、30年40年の間に何が獲得されてきたのか、それはどういうシステムであり、仕掛けであり、その背後にどういう思想があったのかについては、ここでは詳らかに申し上げることはできない。しかし、少なくとも私のように社会科学をやっている者にとっては、それは極めて重要なことであって、面白い試みであり、現実の作り上げ方だったと思っています。
 さて、障害者のケアを考えた時に、「要るものは要る」、「自分じゃできない」、「じゃあ、あんたにやってもらおう」という、とにかく無味乾燥な話がある。その「あんた」というのが誰なのかということは様々で、そこから少なくとも社会科学的には重要である様々な問題が派生するわけだけれども、基本的には非常にシンプルな話である。けれども、最初に私が申し上げたような、そこはかとない共感の気分、ある種の連帯感を含む温かな感じは、ここからは醸し出されてこない。たしかに、僕らは行動する、動く、暮らす上での手段を必要としていて、その手段が無いと困る。だけど、それだけで人間の世界が回っているわけでもないし、それだけでは面白くないと思っているわけです。そして、ケアという言葉はそこに入り込むような言葉として、あるいは実践として措定されているわけです。
 けれども、人と人のつながり、関係は、ケア、介護というものとくっついて常にあるべきなのか、あった方がよいものかということを彼ら(障害者たち)は言ったんだろうというふうに僕は思っています。例えば、誰かと付き合うことは、あった方がいいし、あった方が楽しい。例えば、他の人との付き合いがあまりなくて、あるいは全然なくて、やって来る人はヘルパーや学生の介助者たちだけで、そういう人たちしか会う機会がなかったりする。そして、その中で何かしらのことが起こるとする。それは時にはドラマチックであったりもするけれども、それははたしてよいことなのだろうか。人と人とのつながりが、介助する/される、ケアする/されるということの中でしか実現されないこと、それは思いきり変なことじゃないかと、彼らは言ったんだろうと思います。
 一方で、自分の身体の動かない部分を何とかしてくれよということについては、とにかくきちんと、やってほしいことをやってちょうだい。それだけのことです。でも、それだけのことを我々の社会はできていない。だからできるようにすればよいではないか。そのためには、どういうふうに社会を、制度を作っていくかを考えなければならないわけです。そして、その上で、例えば、誰かと付き合う、友達と付き合う、異性と付き合う、同性と付き合う、そういうことがある。その二つを妙に最初からつなげて考えないでちょうだいと言った。これは、わりあい、大切なことなんじゃないかと思います。
 もちろん、身体の動かない部分を何とかすることだけが、支えるとか援助するということではないことは承知しています。しかし、このような視点を基本のところで持っていないと、ケアをするサイドに、冒頭申し上げたような、納得と肯定と連帯の空間が再生産され継続されるだけ、ということになるのではないか、ということを申し上げておきたいのです。これが一点です。

 続いて、もう一点です。さきの話は、徹底的な、身も蓋もない自己決定主義につながります。もちろん、これが全てではありません。僕が歴史のある部分を誇張して話していることを承知して聞いていただきたいと思いますが、しかし、無味乾燥な自己決定主義を貫いてきた部分はあります。自分の人生を自分で遂行していく際、自分の手足となるものが必要である、それはあなた方だということです。
 それと同時に僕が、そこを考えなきゃいけないな、というようにずっと思ってきたことがあります。それは、97年に出た『私的所有論』の序に書いたと思うんですけれども、最も我々の社会の中でその決定を剥奪されてきたがゆえに決定ということをはっきり言った人たちが、ある意味究極の自己決定である、生命に対する決定としての死の自己決定、安楽死、尊厳死、それに関して、一貫した疑義を示し、あるいは批判、否定してきたということです。このことの意味合いが僕はずっと気になっていた。これは、シンプルに考える人たちが言うには、矛盾している。一方で自己決定ということをさんざん言っておきながら、当然その一部に含まれるであろう死と生に関わる決定に関しては、言葉を濁している、あるいは批判的である。あなたの主張は首尾一貫していない、おかしいのではないかと言われるのです。
 しかしながら、今日の表題である「ケアと自己決定」に関して、何かしらのことを考える価値があり、言う価値があるとすれば、その二つながらの言葉が、同時に同じ人たちから発せられたという、そのことの意味を考えること以外に、ほとんどないような気さえするのです。それではそこのところをどう考えるのか。この矛盾するものとして捉えられている両者は、私の直感としては矛盾していないように思われる。このことを僕はわりあい長い間、考えてきて、それを言ってきたんだろうと思います。
 少し長い話になるので、詳しいことについては、これまで僕が書いてきたものを見ていただければありがたいと思います。今日は、その中からいくつかをお話しするにとどめます。
 一つ端的に言えることは、自分の暮らしを自分で決めることが困難であるということと、彼らが死の決定に懐疑的、批判的であらざるをえなかったということは、基本的には同じところから発しているということです。つまり、自分ができないことを他人にやってもらうということは、端的に言えば、他人にとっては負担です。負担なことは負担であって、面倒なことである。そして面倒であるからこそ、我々は本人が決めるのはよいことだと言いながら、適当なところで収めておく。それでは困る、それでは足りない、というのが、ここ数十年間の押し問答であったわけです。
 一方、死の前の生において現れている事態も同じことです。体が動かなくなる。頭が動かなくなる。それでもなおかつ、生きることを維持していこうとすれば、機械でなければ人間が要る。それは厄介なことであり、厄介であるというだけではなくて、厄介であることを理由として、現実にそこに人はいない。いるとすれば、家族である。女性である。だから、私が今しばらく、あるいは長いこと生きていくならば、その人たちに集中的に負担が掛かりうる。かつてから起こってきたことの少なくとも過半、あるいは八割九割は、こういうシンプルな出来事です。そして、直接的に自分に関わっている周囲の人たちに、もっとよい人生を送らせたい、という思いの中で、多くの人たちが長く生きることをためらい、ためらうだけでなくて、それを拒み、そして死んでいった。だとすれば、実は矛盾することでも何でもなくて、彼らが思い、言ってきたことは首尾一貫している。
 死ぬということは本当に物質的な事情に起因する、平凡な出来事である。そして、我々が死や生にどのように対しているのかは、そのことといささかも無関連ではない。尊厳死、安楽死に関して、『思想』の八月号に書いていますし、一月号と二月号にその続きが載ることになっています。それから、筑摩書房の『Webちくま』に「良い死」という、いささかの皮肉を込めたタイトルのエッセイを連載しています。議論の細部、内容の方は、そちらを見てください。
 もう一つ。「現代人は死を回避している、死に面していない、直面していない」といったことがよく言われます。例えば、こういう場で、そんなことがよく語られる。それは、ある意味その通りなんです。その通りなんだけれども、色々な意味で人は今長く生きられるようになっていて、以前だったらパタッと逝ってしまった部分が引き伸ばされて、死に至る前に比較的に多い人が比較的に長い時間を生きている。そういう状況になっている。そして、そのことだけを見てみれば、我々は、死の手前の死に至る長い時間というものに、かつてなく直面している。直面しているかどうか分かりませんけれども、その場に居合わせてしまっている。そのような場に、動かない身体であるとか、どこかがぴくぴく動いている身体であるとか、奇声を発している身体であるとか、そのような身体の人々がいる。そして、そのことを我々は身内のことを通してだとか、病院でそういう状況の人を見たりしてだとか、そういうかたちで実は知っているわけです。死の前に、そういう状態に人があること、あるいは私が至ることを我々は恐れている、恐怖している。それが今、死の決定、あるいは、よい死を迎えるという言い方の中に含まれている大きな部分であるように思います。そして、そのことをどう考え直すか、あるいは引き受けるかが問われているんだろうと思います。

 ここで、先ほど申し上げた、自分が生きていくために必要なものを得るという主張の持ってきた意味を再度考えてみたいように思います。一つの解釈としては、自分の周囲を制御する根幹の部分、例えば、脳、意識というものがある限りにおいて、それに動かされる末端の部分は個人を構成する主要なものではないので、そこの部分は他人から得てもいいのだというようなことが考えられる。中心の部分、決定能力を残した上で、決定されることを実行する手段の部分で人の手を借りる、というふうに整合していたと言えるかもしれません。そのような解釈の仕方が一つあります。
 しかしながら、今申し上げたような死に至る長い微弱な生、そういったものを肯定しながら、彼らは介護、ケアを必要としている、それを主張してきたということを考えてみるならば、そこにあったのは、今申し上げたような、決定能力を残した上でその他の部分を補う、という論理の整合性ではなくて、むしろ、どんなあり方であれ、生きている、存在しているということを、優れた特質を賞賛するという意味での肯定とは違う肯定の仕方において、肯定され承認されるべきだと主張したと考えるべきです。手段としての他者の行為を獲得しようする。それと同時に、身も蓋もない決定をすべてにわたってというのではなく、受けのいい、よい死を迎えるという意味での「死を選ぶ」「死を決定する」という言い方でなく、その前に止まり、それに疑義を唱える、もっと言えば否定するということがあったのではないか。
 そして、この場所からは、ケアという言葉は第一義的には現れてこないような気がするのです。そこに人がいて、そこに直接ケアをする人として関わっているのか、いないのかということとは違うフェーズで、その人がいて、その人が生きているというあり方が、いかにして可能であり、いかにしてそれを受け入れてしまうのか。ケアを語るということの中から自然とそれが湧き上がってくる、というのはある種、楽観的だと思うんです。おそらく、そうではない。例えば、尊厳死の方に赴いている大きな流れというものは、さんざん自分の配偶者であるとか、親であるとか、そういった人たちをケアしてきた人たちのある種の疲労の中から生じてもいる。そうだとすれば、最初に申し上げたような、ケアの営みを肯定し合い承認し合うということの中からではなく、それとは別のところから、ケアをするという営みは立ち上がってくるのだろうし、ケアを考える意味合いも現れてくるのではないだろうか。そのように考えます。
 話をまとめるにはもう少し時間が要るんでしょうけれど、時間だけは守ってくれという熊野さんが横にいるので、私の話はここでいったん切らせていただきます。どうもありがとうございました。

〔川本〕

〔清水〕

 ……

〔立岩〕
 はい。えっと、「ここで何を私たちはしているのか?」、あるいは、「これから何をするのか?」というところから出発しようと思うんですけど。「こういう場って何なの?」っていうのが一つあって、僕の話のとっかかりは、そんなことを少しお話してみたんです。それにつなげて「何がしばしば起こってしまうの?」っていう話の一部は、ちょっとしたということで。じゃあ、「何をするのか?」。
 今日その一部をかいつまんでお話したところもあるんですが、ケアの倫理だとかケアの何とかって言われる以前から、実際には様々なことが行われ、様々なことが語られてきたっていうことがあるわけですよ。まず、それはそれとして、きちっと押さえておくということが大切でしょう。それで、当人たちは、その場でしゃべったり行ったりということを延々とやってきたんだけれども、それを言葉として記録するということは、当人たちの本質的なというか中央にある仕事ではないですから、そういったものは放っておくと消えてしまうということがある。だから、それを拾っておくというのが学者稼業の一つの仕事ではあろうと思います。
 そして、起こってきたことや考えられてきたことを拾い集めていくと、今考えなきゃいけないたいがいの論点、あるいはそれに対する解答、少なくとも解答の糸口みたいなものは見出せるはずだと私は思っています。そうすると、それを何かしらのかたちで明示的にしていく、言葉にして論理としてつなげていくというのが、当座、学者というか研究者ができる、あるいはすべき仕事なんだろうなと思っています。それはある種の単純化の仕事でもありますから、当然そこで漏れていくものがあるだろうと思います。しかし、それはけっして悪いことではなくて、つまり単純化をしていけば、そこで漏れているものがあることが自覚されていくわけですね。残余がある。すると、その残余というのはいったい何なのかという次の問いが立っていく。おそらく、そういうようなことをやっていくというのが、仕事といえば仕事なのかなと思っているところがあります。
 そう考えていった時に、哲学者お二方の関係で聞きながら思っていたことを一つ言おうかなと。熊野さんが言った、清水さんとの係争点というのがいくつかあって、それはちょっとオタッキーな感じのテーマでもあるので今日はやめとこうねって、さっき清水さんと言ってたんですけど…。まぁいくつかあるなと思い出したところがあって。
 一つはそれこそ死の決定について。安楽死、尊厳死に関わって、積極的な治療を止めて死に委ねるというか、その経過に委ねるということと、何か積極的な死に向かう措置をするということの間に、どういう差があるのか、あるいはないのか。差があるとして、それをどういうふうに見積もるのかについて、若干の議論がありました。『現代思想』の去年の11月号に僕が一つ文章を書いて、それに対して清水さんが今年8月号の『思想』で言及をして、それに対してまた機会があれば僕もお答えしたいと思いますけれども。でも、こういうことについて学問が、倫理学でも社会学でもかまわないんですが、何か言おうとすれば、そういうことについて、「違うの?」とか「同じなの?」とか、きっちり論を積んでいくということが必要だろうなとは思っています。ただ今日は、それはここではできないだろうという相互の共通了解があったので、今回はパスしますけれども。
 もう一つは、今出た話ですね。つまり、誰一人として独りで生きている人はいない。これは当たり前な話です。その時、自分がこれからどうしていくかということを、誰がどうやって決めるのっていう話ですね。そうやって人と人の関係のなかで、鷲田さん的に言えばインターディペンデントに生きているっていうことと、ではどうやって決めるのっていうことの関係について、われわれは慎重である必要がある。そこが、自分で決めるっていうことの意味をどう評定するかということなるのだろうと思います。
 この点に関して、僕と清水さんの間で違うことを言っているとすれば、すごくあっさり言えば、共同の決定についてです。つまり例えば本人がいて家族がいる時に、その人は独りではない。当たり前です。家族がいたりすることもある。そうすると、それは共同の決定がよいという言い方になるかどうかということです。僕は、それはいろんな意味で違うところがあるっていうことは言っておかなきゃいけないなと思っています。これも、やっぱりどうしても考えなくてはいけないポイントだと思っています。そして、それと上野さんが言った、家族が介護なりケアなりから降りる権利があるということは、両立する。つまり、介護から降りる権利があるということと、どういうふうに生きていくかについて決めるのは家族ではなくて本人であるということは、両立すると思っているわけです。その辺の詳しい話はここではできませんけれども、例えば、考えるっていうことはそういうことについて考えるっていうことだろうと思っています。

 もう一つ。最初はこれだけ話そうかなと思っていたことです。つまり、一方で本人がこうしたいというような思いがあり、それはそれで大切だとわかる。しかしながら、クリティカルな状況の中で、例えば医療者が「これはちょっとまずいんじゃないか」という場合があって、医療者なら医療者の、この人にとって良いだろうという選択肢と、本人の思いとの間に齟齬が生じる、少なくとも一致しない場合がある。そこをどうするかという話です。ここは清水さんや川本さんに共通性があるなと思ったのですけれども。
 僕が今日聞いた範囲で言えば――実際には清水さんの本を読むともっと立ち入った中身のある話があるのだけれど――どっちも大切だから、その両方の間で、ぶっちゃけ言えば、「よく話し合って」、というような、そこの間にコミュニケーションがあって、それも一回だけ医療者が「こっちがいいです」と言って、こっちが「はい」とか「いやだ」とか言って終わるというのじゃなくて、いろいろ複層的な時間のなかでだんだんと変わっていくような、そういうものが大切だと。
 もちろん、それはOKなんですよ。話し合いを一回じゃなくてもっと何回もやってという、そのこと自体はその通りなんです。しかしながら、それで話が済むなら、めでたいことなんだけれども、そうは問屋が卸さないというのが世の中で起こっていることなんですよね。その時に、その次の一歩をどう考えるかということが、哲学というか倫理学というか、そういった商売がやる仕事なんじゃないかなと思うのです。
 例えば社会学でいうとハーバーマスという人がいました、というかまだいらっしゃいます。理想的発話状況みたいなところへ向けて、相互が言うことをちゃんと聞いてって、いう話をしますよね。ただ、それはもちろん理想的ということであるわけで、当然、社会学ではなくとも、そこにいる二人なら二人の間、あるいはその背後にある関係、社会的な環境みたいなものがあって、それが様々に影響しているという所を見極めて、言えることを言っていく。それに関わる具体的な提言であるとかに関して、上野さん、川本さん、清水さんが言ったことに対して、僕は異論はないというか、基本的に同じ方向を向いているわけです。ケアを取り巻く社会、経済的な条件みたいなものを吟味していって、それがどういうふうに作用してるのかっていうことをきちんと押さえた中で何かを言わないと、ほとんど何も言ってないよねというのはその通りである。
 その上で考えなきゃいけないのは、その当人が言っていることの中身だと僕は思います。リベラルな立場というのは、基本的には当人が言っていることは当人が言ってることであるがゆえに尊重する。尊重するだけでなく、それをそのままに受け取らざるを得ない、受け取るべきであるっていう立場をとるわけですね。しかしそこにこそ争点というか論点がある、それがポイントなのだと僕は思うわけです。
 つまり、当人が「こうなったら自分はもう死んじゃうんだ」「死にたいんだ」って言う。それが一時的な意識の錯乱ではない、ことが当然ある。そして、たんに社会的な諸条件が不備であるということだけに還元できない部分もある。そういった時に、じゃあその人は何でそう言うのか?ということだと思うんですよね。それはやっぱり、それこそ存在というか人間というものの価値について、われわれの社会がどういう価値の与え方をしているのかという問題なんだろうと思います。それが、「よい死」あるいは「よい生」「よい生死」という言い方の中に含まれつつ、今の状況が動いていると。そうすると、その本人がまさに確信に満ちて思っていることを解きほぐしていく、そういうことをやらないと、二人で、あるいは二人以上で、皆で、よく話し合ってっていう以上の議論ができないと思う。
 これは別に誰がやってもよいことであって、社会学者は社会学者なりに、どういう社会であるから、どういう価値が、どういう言説が流通し、容易に受容されるのか、ということを言うわけだけれども、哲学・倫理学的にその人その人が有している価値判断の内実といいますか、そういうものを批判的に吟味する、その上で当人に言葉を投げ返していく、そういう営みが必要なんじゃないかなって自分で思ってもいるし、そういったことを哲学・倫理学に期待したいと思っています。哲学・倫理学は、きちんと哲学・倫理学をしてほしいということです。もし時間が残されているのであれば、そこら辺について川本さんなり清水さんのお話も拝聴したいと思った次第でございます。

 ……

〔立岩〕
 はい。いくつか言いたいのですが、一つのポイントは単純なことで、例えば、介護やケアといった場から家族が降りると、家族しか介護する人がいなければ、その時点でその人は死んでしまうということがある。だけどその時に、家族は降りるけれども家族外の誰かがしなければならないっていう条件が付加されていれば、その人は少なくとも生きていくことを選択することはできます。とりあえず言いたいのは、そういう単純なことです。

 ……

〔立岩〕
 僕は、哲学とか倫理学とか勉強したことがないので、よくわかりません。多分誰かが何か言っているんだろうな、とは思いますけど。何を肯定するかということで言えば、ものすごく単純に言えば、スローガンというか短いフレーズだったら、「たんなる生」とかいうことであって、「そのわけは?」とかいう話が、それにどのくらい意味があるのかということも含めて、僕にはよくわからないんですよ。ただ、ここから社会学やってるということになるのかもしれないんだけれども、「なんなる生」みたいなものを肯定する、ということでいいはずなのかもしれないのに、実際にはそうなっていないということですよね。それが、なぜどういう仕掛けで、肯定されないというふうになっちゃってるのかってことの中には、既にある種の人間学的な、哲学的な、倫理学的な人間の了解といいますか、そういうものが組み込まれてもいる。それで、そういうものと連動しながら例えば死生学みたいなものも動いている。そこで、何を肯定するのかということについては、それ以上ある意味言ってもしようがないという部分があるような気が僕にはしていて、むしろ少なくとも一つすべきことは、そうでないようになんでなってしまっているのだろうということを、学問的な言説も含め、そして社会的・経済的なファクターも含めて解剖していくっていうんですか、解体していくっていうんですか、そういう仕事が必要だなと思い、そして僕はそういう仕事がしたいというふうに思っている、というぐらいのことでしょうか。

 ……

〔立岩〕
 えっとですね。十五字ですむことがわかりました(笑)。答はですね、「足りないというのは嘘である」というのが答えで、何でそういう答になるのかっていうことはきちんと言わなきゃならないんですけど、それは時間がないので。


*関連する報告
 2006/03/00「日本の生命倫理:回顧と展望――社会学から」(与えられた題)
 『生命倫理を中心とする現代社会研究II――熊本大学拠点形成研究B報告書』,発行事務局:熊本大学文学部総合人間学科 高橋隆雄,pp.58-65(シンポジウム「日本の生命倫理:回顧と展望」(2005/12/11 於:熊本大学)の記録)

■言及

◆立岩 真也 2009/01/25 「『ニーズ中心の福祉社会へ』」(医療と社会ブックガイド・90),『看護教育』49-(2009-1):-(医学書院),


UP:20060812 REV:0913(誤字訂正) 1126, 20081126
ケア  ◇自己決定  ◇安楽死・尊厳死  ◇身体×世界:関連書籍  ◇立岩 真也
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