*これから書きます。(2006.6.15)
*時間なく、書き足せません。これからまたすこしやってみます。(6.26)
*『Real Freedom for All』についてのメモには斉藤拓さんによる翻訳についての注記(○)も含みます。
(0626○は、6月26日にこのファイルに記したことを意味します。)
*著作についてのコメントという路線をやめました。あまり益がないようにも思ったので。(7.2)
*『Real Freedom for All』についてのメモを別ファイルにしました。(7.6)
*英語版、掲載始めました。(7.6)
■1)所得の分配に限る必要があるか
所得の分配はよいとして、ベーシックインカムはよいとして、分配として行なわれるべきことを所得の分配に限定するとしたら、それはなぜか?
私自身は、「生産財の分配 distribution of production goods」「労働の分配 distribution of work」そして「所得の分配disribution of income」の三つの分配がともに必要であり、有効であると考えている。
理由はいくつかあるが、その一つは、パレース氏が指摘していること、すなわち職(job)も資産(asset)である点にある。所得のことだけを考えても、職に就けるなら、より多くを得られる。そして、仕事をすることはたんに給料を得られるというだけでない益をもたらす。そして、職は有限であり、その意味で希少な財である。
この指摘はよい指摘である。私もそのように思う。その上で私が考えるのは、もしそう捉えることができるなら、つまり仕事に就いていることがよいことであるなら、職もまた人々に分配されてもよいだろうということである。
「働いている人たちは、他の人の分も勝手に働いているんですから、働いてない人にきちんと分けるものを分けるべきです。」(立岩[2005→2006:166])と書いた(話した)ことがあるが、ここで分けるべきは、所得の一部そして/あるいは職であり、所得に限る必要はない。続きは以下。
「仕事を分けてくれ、それがいやなら金を、というのはもっともな要求です。金を分けろ、それがいやなら仕事を、でもよいのです。そして、所得と就労、両方いっしょでもよいし、その方がよいはずです。」(立岩[2005→2006:166])
ベーシックインカムだけを得る人は、最も受け取りが少なくなる。それでよいという人はそれでよいとして、しかし、多くの人はもっと多くを得ようとする。労働の分配はそれを実現する。また市場における受け取りについての格差が少なくなるから、所得の分配、ベーシックインカムのための財源の徴収と給付もよりうまくいくはずである。一方的な移転という性格を弱めることになる。同じことは生産財の分配についても言える。
パレース氏自身が採用する原理からは以上を積極的に否定する理由はないように思われる。むしろ労働の分配(distribution of work)が支持されてもよいはずである。しかしパレース氏はこのことについて積極的でないようだ。それはなぜか。
ただしこのことは何もしなくてよいということを意味するものではないだろう。問題がずらされているように思える。代わりに、もっと単純に考えればよいのではないか。
お金をかけることによって補うことのできる部分がある。その部分についてはその分の金を給付すればよいというだけのことではないか。それが本文に述べたことだ。「内的賦与」に関係して――起因してという言い方は不正確だろう――この社会では、一つに、市場で働いた場合の受け取りが少なくなることがある、あるいは働くことができない場合がある。もう一つ、他人の手を借りる必要などがあって、その費用が他の人たちより余計にかかる場合がある。それをそのままにすることは「本当の自由 real freedom」にとって望ましくないことである。だからその部分を補うべきであり、補えばよいという、ただそれだけのことだ。