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質問(?)

English Version

立岩 真也 2006/07/07
Workshop with Professor Philippe Van Parijs


*これから書きます。(2006.6.15)
*時間なく、書き足せません。これからまたすこしやってみます。(6.26)
『Real Freedom for All』についてのメモには斉藤拓さんによる翻訳についての注記(○)も含みます。
 (0626○は、6月26日にこのファイルに記したことを意味します。)
*著作についてのコメントという路線をやめました。あまり益がないようにも思ったので。(7.2)
『Real Freedom for All』についてのメモを別ファイルにしました。(7.6)
英語版、掲載始めました。(7.6)


■1)所得の分配に限る必要があるか

 所得の分配はよいとして、ベーシックインカムはよいとして、分配として行なわれるべきことを所得の分配に限定するとしたら、それはなぜか?
 私自身は、「生産財の分配 distribution of production goods」「労働の分配 distribution of work」そして「所得の分配disribution of income」の三つの分配がともに必要であり、有効であると考えている。
 理由はいくつかあるが、その一つは、パレース氏が指摘していること、すなわち職(job)も資産(asset)である点にある。所得のことだけを考えても、職に就けるなら、より多くを得られる。そして、仕事をすることはたんに給料を得られるというだけでない益をもたらす。そして、職は有限であり、その意味で希少な財である。
 この指摘はよい指摘である。私もそのように思う。その上で私が考えるのは、もしそう捉えることができるなら、つまり仕事に就いていることがよいことであるなら、職もまた人々に分配されてもよいだろうということである。
 「働いている人たちは、他の人の分も勝手に働いているんですから、働いてない人にきちんと分けるものを分けるべきです。」(立岩[2005→2006:166])と書いた(話した)ことがあるが、ここで分けるべきは、所得の一部そして/あるいは職であり、所得に限る必要はない。続きは以下。
 「仕事を分けてくれ、それがいやなら金を、というのはもっともな要求です。金を分けろ、それがいやなら仕事を、でもよいのです。そして、所得と就労、両方いっしょでもよいし、その方がよいはずです。」(立岩[2005→2006:166])
 ベーシックインカムだけを得る人は、最も受け取りが少なくなる。それでよいという人はそれでよいとして、しかし、多くの人はもっと多くを得ようとする。労働の分配はそれを実現する。また市場における受け取りについての格差が少なくなるから、所得の分配、ベーシックインカムのための財源の徴収と給付もよりうまくいくはずである。一方的な移転という性格を弱めることになる。同じことは生産財の分配についても言える。
 パレース氏自身が採用する原理からは以上を積極的に否定する理由はないように思われる。むしろ労働の分配(distribution of work)が支持されてもよいはずである。しかしパレース氏はこのことについて積極的でないようだ。それはなぜか。

 i)一つに考えられるのは、そのことによって生産がうまくいかなくなるということ、その結果、ベーシックインカムも減ってしまうというのである。
 しかしどうだろうか。たしかに理論的にはその可能性はある。労働時間の総量を一定とするなら、そして、労働を分配する以前よりに比べるなら、その場は最も生産性の高い人たちだけで構成されてはいないことになるから、絶対量として最大化されないとは言えるかもしれない。
 だが、それがどの程度減ることになるかも疑問ではある。以前の状態において、実際にはそれほど大きな労働能力の差がないのに、ある人々は職から外されたいたとすれば、その人たちを市場に参加させても大きな違いが結果することにはならないかもしれない。(多くの職について、実際にそうである可能性は高いはずだ。まさに職は資産であるから、既に職を得た人たちは自らの権益・利得を保持・拡大しようとしてきたからである。)
 次に、全体の生産の水準が仮にすこし落ちることを認めたとしても、自らは他の人より収入が少ない状態が改善されることを望むということはありそうである。今まで職につけなかった人にとってみれば、当然、職について得られた額とベーシックインカムを足し合わせた総額の方がベーシックインカムだけの場合よりも高くなる。またパレース氏自身が認めるように、仕事を得ることに価値があるとされるのだから、その価値は尊重された方がよいということもある。そしてこれらについて、相対的な差異については小さくなる。どちらが大切だろうか。とすればやはりその人は職についた方がよかったはずではないか★01。

 ii)次に言われそうなことは、政府による過剰な介入が起こってしまうというものである。行政機構が肥大化してしまうことが懸念される。
 しかし、第一に、労働に関して言えば、まずは、ある程度の範囲の職種について、労働時間の上限を設定するという程度で足りる。そしてその規制の度合は、それを完全に実現する必要はなくおおむねそのようになればよいという程度でよいとすれば、さほど手間のかかる大量の仕事を生み出すとは思われない。また行政およびその周辺に特別な権益が発生するとも考えにくい。
 同様のことは生産財の分配についても言えるはずである。私は、とくに技術、知識の所有権の問題が大きいと考えている。ここでは詳しく述べないが、これもそれほどの手間をかけないで行なうことができる場合がある。特許権が有効な期間を短くするという程度のことが必要であり有効な場合がある。そのこと自体にはたいした手間はかからない。

■2)「義務」について

 ベーシックインカムは(働けない人だけではなく、働くことができても)働かない人にも支給される。だから、それは、働く義務を否定している。このように受け止められることがある★02。
 まず誤解を解くことから始めたい。ベーシックインカムを主張する人たちは、義務を言わないと思う人がいるかもしれないが、そんなことはない。
 ベーシックインカムを主張する人たちは、誰もがベーシックインカムを受け取ることは権利であると言うだろう。とすれば、そのとき既に、反射的に、受け取られるものを提供するのは、提供できる人にとっての義務であるということになるはずである。
 このような意味でベーシックインカムを支持する人たちは(労働の義務ではないにしても)財の提供の義務を認めている。でなければ税金を使ったベーシックインカムは成立しないのだから。(働くこと自体を強要しているのではない、働くか働かないか自体は自発性に委ねていると言うかもしれない。しかし、ある種のリバタリアンが言うような意味においては――その人たちにとっては、徴税とは強制労働なのであるから――ベーシックインカムを主張する人たちも義務を課している。)
 だからその議論は、負担の義務を認めながら、ある人たちについては免除しているということである。実際に、義務を課されるのは働く人であり、実際には課されないのは働かない人である。働きたくないからという理由も含め働かない人について免除しているということだ。
 とすると疑問は、この違いはどのようにして正当化されるのかである。つまり、なぜ一般的には義務を認めているのだが、ある人たちはそれを免除されるのかである。
 その答は、実際に市場で働いて収入を得ている人は、そうでない人たちと比べて、それだけよいことがあるのだから、というものであるようだ。前者の人たちは、後者の人よりも(ベーシックインカムのための拠出分を差し引いてなお)大きな(すくなくとも同等の)利益を得ているから、徴収の義務を課してもよいのだと言われるのである。
 これは、(「働かない権利」を認めたとしても)この制度を運営していくことができる、社会を維持していくことができるという現実の問題としてうまくまわるだろうという実現可能性の問題であるとともに、そのようなあり方が正しいという正当性の問題である。この二つは分けて考えた方がよいだろうが、いずれも、その人がより(少なくとも同じだけ)「得をしている」という点にかかっている。働いている人はそれだけよいことがあるのだというのである。だからこそ、強制していないのにその人は働いている。このことがそれを示しているというわけである。実際、私自身もこのようなことを言ってきた。その立論には相当近いところがある。ただここはよく考えておくべきところだ。

 i)ベーシックインカムだけでも暮らしていけたのに、それを選ばずに、余計に働いている。だからその人たちに文句はないはずだと言われる。さてそうか。
 この場合の「より大きな利益」とは何か。一つには経済的な便益、つまり収入。一つには、それ以外の利益(働き甲斐、付随的に得られる様々なもの…)。この合計(から働くことによって失ったもの)が、働かないでベーシックインカムだけを受け取っている場合よりも上回るから、その人は働いている、であるから、それで文句はないはずだ。そういう仕掛けの論理になっている。問題はそれがうまくいっているかである。そのような論をとってよいかである。
 この問題についての答は、所得格差自体、生活水準の格差自体は問題にしないという立場をとるかどうか、その他の職を得ることがもたらす利益についての格差を認めるかどうかで分かれてくる。つまり、問題がない、問題は生じないのだという主張は、ここで、職を得ている人と職を得ていない人の間に、十分な格差があるがゆえに、多くの人は仕事をしようということになる。そのぐらいの格差を認めているということである。別言すれば、十分な数の人たちに仕事をさせることは(分配、ベーシックインカムの支給のためにも)必要であるから、大きな格差を要請することになる。
 しかし、ベーシックインカムを、例えば一人ひとりの自由が大切であるという立場から正当化されると考えるのであれば、格差が大きくなることをよいことであるとは考えないはずである。したがってこのことは、本来は、好ましくない。(自由のために)十分なだけを各人にという立場からは歓迎されないはずだ。
 とくにこのことは、働く気があるのだが働けない人にとって歓迎されないだろう。意図して働かない人にとっては、そのことには納得ずくなので、それでよいかもしれない。しかし、そうでない人もいる。(働く気のない人と働けない人とを分けて、後者の人たちを別に扱えばよいだろうか。しかしそれも困難だろう。)

 ii)第二に、働いている人(のすべて)がそんなによいことがあってやっているのかという問題がある。
 ある人がその職を取ったら、別の人はそれを取れないという仮定がある。職は希少であり、職を得ている人は他の人を除外・妨害して仕事を得ている、であるからその人が拠出してもそれは当然であるという主張になる。私もそのように思うところがある。これは職は希少であるという条件に左右されている。ただ、この社会にあるのはそんな仕事ばかりなのかという問題もある。資産というほどの仕事でない仕事もある。
 それに対して、次のように言われるだろう。もし、その仕事を行なうくらいなら(それで収入が得られても)、ベーシックインカムを受けとるだけ方がよいと思うのであれば、その人は他の人に仕事を渡して、自らはベーシックインカムを得るだけになるはずだと。だから職を続けている人については問題はない、と。
 そんな人もいないではないはずだ。しかし、まったくベーシックインカムの額によるのだが、多くの場合には自発的に働いている、職を続けることを選ぶ人はそう多くはないはずだ。とは思われていないはずだ。それは、ベーシックインカムの水準が十分ではないから、すくなくともより多くが必要だと思っているからである。十分な水準になるなら、低賃金で働く人が少なくなって、その分賃金が上がるということもあるかもしれない。しかし実際には依然として(ベーシックインカム導入の前と比べて)同じだけの人は働くということになった場合はどうか。実際にも、所得保障を得ている人がやはり働き、そして安く買われることがある。(日本であれば障害基礎年金を得ている人が、その分は給料から差し引いて給料を受け取るといったことがある。)
 とくに個別の状況に関係なく支給されるといった場合には、金が(ベーシックインカムの水準より)よけいにかかる状況にいる人が必ずいる。例えば病気の人がいて、その病気の人に対しては、一人のベーシックインカムが支給されているが、それ以上は支払われず、その分をその家族が負担せざるをえないといった場合、当然それでは足りないのだから、その人は働きに行かなければならない。
 そのような人にとって、自分より受け取る所得は少ないとしてもベーシックインカムを受け取り、他に何をするわけでもない人は好ましくは思われないだろう。

 以上をまとめれば、第一に、格差を強めること(労働する人にとっての利益を大きくすること)が要請されてしまうことになり、このことは望ましくないなら、この方法はよい方法ではない。他方、第二に、働くことから実際にはそう利益を得ている(のだが働き続けている)人にこの機構は支持されにくいし、その不満はもっともな不満である。

 ではどのように考えるか。基本的には義務・責務を認めることになる。しかし実際には、この社会においては就職の機会は、総じて実際に希少であるから、その社会で、職を得なければならないというのは非現実的なことであり、また加害的でさえある。職が実際にない以上(職を独占することによって妨げている以上)職に就くことを要求することは不当である。
 であるから、この社会においては、就労は強要されてはなならない。所得保障を得ることと就労を引き換えにしてはならない。だから「ワークフェア」といった政策を支持することはできない。
 cf.労働の義務について


■3)個々人の間の違いに対する対応について

 第三の疑問は個々人の間の違いに対する対応についてである。二つに分けることができる。
 1)市場において稼ぐものの違い。
 2)必要なものの違い。
 分配策はそれに対応するのかしないのか。私はすべての人にベーシックインカムをという案に賛成するが、しかし、同時に、差異化された給付が必要であると考えている。
 パレース氏は対応すると言っているようではある([1995]第3章)★03。しかし、それはかなり限定的なものである。  これは不思議にも思える。このことについての対応は私には中核的な問題であるようにも思われるからである。「内的な賦与 internal endowment」(とされるもの)によって、まず第一に、市場で受け取る収入に差異が生ずることは明らかであって、その分について、本当の自由にとってそとの差異があった方がよいとか、またあってよいとは言えないはずであるから、保障されることはよいことであり、なすべきことであると言えるはずである。
 社会的な環境が整えられ、そして「内的賦与」が等しいのであれば、市場だけでも、もちろん様々に運不運はあるにしても、ほぼ同じだけを得られるようになるはずである。また、市場に、民間の保険を付加することで問題は生じないはずである。だから、個々の違いに応じた給付は基本的な部分を占めるはずなのだ。にもかかわらず、その扱いは軽い。

 ベーシックインカムが一律の給付を大切なこととみるからかもしれない。たしかに個々人(の置かれた境遇)に応じた給付を行なうのであれば、それは、その原則通りにことを運ばせないことになるからである。給付の原則、給付機構の簡潔さはいささか失われることにはなる。
しかし、実際にはそうでもないはずだ。1)については、一番単純なのは、合わせておおむね同じだけの所得が得られるようにすればよいだけのことである。また2)について言えば、それ自体が魅力的なものであるわけではなく、普通の状態を得るための手段であり、手段であるしかない。ゆえに、多くの場合、むやみに多くを必要とするわけではない。そうした場合には、細かな基準の設定、供給量の査定などは必要でない。

 以上、3点を述べた。
 本当の自由が大切だという前提をとるならば、
 1)所得の分配だけが支持されることにはならない。
 2)労働の義務について。義務はあるとした上で、この社会のもとでは、実際にはそれを課すべきでない、あるいは課す必要がないと主張するのがよいのではないか。
 3)に対応した分配がなされるべきではないか?
 私は以上のように思うのだが、どのようにお考えか。
 cf.今のところ考えていること

■注(残余)

★00 [以下は別に用意している原稿の草稿](『現代思想』に連載している文章で)不払い労働してなされている家事労働を評価せよといった論を紹介し、検討している。それは、いままで計算されなかった労働を計算しようという話になる。しかしそう思って再計算してみても、そうたいしたことはならないとしよう。(私は基本的的にはそう思っていて、そのことを前回(7月号)から書いていて、その途中のところにいる。)なにかけちな話をしているように思える。生産への貢献(生産者の生産)とすると、さらにひどく限定され、それでは評価されない部分も出てくるし、それは本意でないように思われる。
 そこで、当然のこと、そんな細かな計算はやめてしまおう、家事労働をしている人はみな、さらにしていない人も含めてみな、暮らせるようにしてしまえばよいではないか。このような話になっていく。
 だからその議論は、すべての人に基本所得(ベーシックインカム)をという主張と親和性をもつことになる。
 「ベーシック・インカムとは、(1)その人が進んで働く気がなくとも、(2)その人が裕福であるか貧しいかにかかわりなく、(3)その人が誰と一緒に住んでいようとも、(4)その人がその国のどこに住んでいようとも、社会の完全な成員すべてに対して政府から支払われる所得である。」(Van Parijs[1995:35])
 そこで、整理・並べ換えは後ですることにして、論述の順序をすこし崩してしまい、この議論についてすこし考えておくことにする。この連載は、もちろん、性別分業について、労働と家族との関係についてひとまとまりの話をしようとして始められたものだ。ただ、そのことについて論じようとすると、やはり、どうしても、労働という主題そのものについてなにがしかのことを考えて言っておく必要が出てきてしまう。そこで、この連載でも、既に何箇所かでそうした記述を行なってしまっているのだが、これからも当初の予定よりは広い範囲を論ずることがある。この試みが全体としてうまくいけば、労働について論じたひとまとまりのものが一つ、性別分業・家事労働について論じたものがもう一つ、できることになるはずである。
 さて、普遍的な所得保障を主張しようとする場合、労働と所得保障とを切り離すという方向で話をしていくというのが一つある。もう一つ、切り離さない方向がある。それでは普遍的な所得保障にならないではないかと思われるはずだが、ここでは労働の概念が拡張され、ほとんどあらゆるものが労働に含まれてしまう。その上で、それに対する賃金を払うようにするのがよいといった話にもっていくのである。
 ベーシックインカムの主張は基本的には前者の方向のものである。一人ひとりの仕事、貢献に応じてということになるとめんどうなことだ。そこでいっそのこと一律に給付すればよいというのはわかる話ではある。
 他方で後者のような言い方もある。これも幾つかに分かれるかもしれない。一つは「資本制下における労働は」という言い方をする。小倉利丸の主張はそんな主張になっている。
 「私は、資本主義のもとでは<労働力>再生産のサイクルに組み込まれる限りであらゆる行為は実は「労働」へと変容しているのだ、ということを強調してきた。賃労働だけが労働なわけでもなく、家事労働も余暇もレジャーも<労働力>再生産労働なのだ、というのが私の考え方である。」(小倉[1991:108、cf.小倉[1990])
 もう一つ、人間が行なっていることすべて、あるいは存在していることの全体に、よいこと(貢献)そして/あるいは労苦をみてとり、そのことをもって、労働であるとする。立岩[2004]では、竹内章郎の次のような文章を引用している。
 「「重度障害児」との接触が、既存の激しい競争社会や生産効率主義の社会の非人間性をかえりみさせてくれ、本当の人間らしい暮らしとは何かを希求させてくれることもある。[…]新たな有用性、つまり、本当の人間らしさにとっての有用性」(竹内[1993:170])
 ここを引用して私は次のようにつなげた。「わからないではない。しかしこのように論を進めていく方向とは別の方に私は考えていこうと思う。」(立岩[2004:308])
 私自身の立場は、基本的には切り離した方がよいというものであり、その点ではベーシックインカムを主張する人たちの方に近い。
 そしてこのごろでは、所得保障と労働とを切り離すベーシックインカムと、両者を接続させるワークフェアという対比で、政策が語られることもある。本文に明らかなように、私の立場は後者の路線とはまったく異なる。では前者を主張するか。
 このアイディアは私にとってまったく新奇なものではなかった。それは以前からあった。ただ、「無条件で」という主張がなされる時には、生活保護の受給申請等に際して、こまごまと聞かれ、指図されするのだが、働きたくても働き口はないのだということ、すくなくとも現状では働きようがないこと、働けないのに働きたくないとされてしまうこと、そんな事情があった。それでその人たちが、どうのこうの言わずに所得保障を、と主張するのはまったくもっともことであったし、「働かない権利を!」と書いてある垂れ幕を下げるのもよいことだった(「病」者の本出版委員会編[1995])。
 しかしそこからさらに先に進んで考えてみると、ただ肯定的であればよいというわけにもいかなそうだ。こんなところから考えてみく必要があると思った。
 そんな時、ヴァン=パレースが、国際政治学会の大会に招待されたついでに立命館大学にやってきたので、彼が書いていることについていくつか疑問をまとめることになった。以下はそのために書いたものである。なお、Van Parij[1995]については、第◇回に紹介したように、近々斉藤拓の訳による訳書が勁草書房より出版されるので、訳文は基本的に斉藤訳を使用する☆。
☆ 新刊の拙著『希望について』(立岩[2006])に労働に関する短い文章や中くらいの文章を3つ収録した。この(『現代思想』の)連載に付した注も利用して、そこに新たに注をつけ、関連文献などを紹介している。ベーシックインカムについては一六九−一七〇頁、労働の義務については一六六−一六九頁、ワークシェアリングについては一五九−一六一頁。
 その後刊行された著作では小泉[2006]にベーシックインカムについての言及がある。
 「ベーシック・インカムは賃金労働と分業を前提としている限りにおいて、社会主義の分配の改良版にとどまると言わざるをえない。たしかに、市民手当・参加所得などと区別される、資本のコミュニズムとしてのベーシック・インカム構想はよりマシな再分配を説得するための戦術として重要である(フランスのRMI[参入最低限所得]の経験を参照)。しかし、それだけでは、資本の社会主義に回収されてしまう。」(小泉[2006:187]、他の箇所では小泉[2006:140-143])
 私は賃金労働も分業も認める――ただし、この書に記されているように、「市民手当」「参加所得」といった類の「活動」に人を割り振るという類の分業政策は肯定しないから、その点ではまったく立場が異なるというわけではない――ので、批判をするとすれば別のことを言うことになる。
☆ ベーシックインカムを主張する人たちが、家計を単位として考えているということはない、あくまで個人単位で支給されるべきものであると考えているとしよう。
 とした場合には、当然、専業主婦層に対しても、少なくとも一人が暮らしていけるだけの所得は支給されることになる。それはあり、だろうか?
 すると、みなが専業主婦をしていられるようになる。そこで(女性に限らなくてもよいのだが)パートで働いていた人も仕事をやめる。
 とすると、それでは困る雇用主は、よりよい条件を用意するようになるからよいというのである。労働供給が少なくなるから、高い値段になる。その方がよい人はやはり働くことにはなるだろう。こういうお話だろうか。
 その可能性はあると思う。しかし、どこまであるだろう。このことについて本文で述べた。

 とすると、具体的に、私はどのような機構を支持することになるのか。
 ・課税をするなら、結局のところ収入についての調査は避けられない。これはどうせなくせないものである。
 ・では就労、就労意欲についてはどうか。本文に述べたように、今の状況下で、要請するのはよくない。就労に関する調査・査定は、現況下では、不要であるとしよう。ただし、扶養に関わる状況をいっさい外せるかどうか。これは難しいと思う。
 ベーシックインカムによって、より多く働こうとすることがなくなリ、その結果、一人あたりの労働時間が減り、労働の分配が進むという可能性はないではない、だろうか。

★01 例えば1日に10できる人Aと2(あるいは8)できる人Bがいるとしよう。
 1)Aだけが10生産する。2)Aが半日働いて5生産する。Bも半日働いて1(4)生産する。計6(9)。
 ベーシックインカムがどれほどかによるだろうが、例えば3とすると、1)の場合にはAは7、Bは3。2)の場合には、Aは3(5)、Bは3(4)。
 例えば2とすると、1)の場合にはAは8、Bは2。2)の場合には、Aは4(5)、Bは2(4)。
 2)の選択よりも1)の選択の方がよいとは言えないのではないか。
 職は資産であるという。たしかにそのような職、仕事もある。しかしそうでない仕事もある。資産とは捉えられないような仕事がある。
 それに対する答え方は、そのことは認めつつ、b)についてつらい仕事については、金銭で補われるからよいはずということ。ベーシックインカムを導入するなら、さらにより多くの報酬が払われることになるからだいじょうぶだという反論である。
 このことは、b)について得られるものの多い仕事は、a)についてはよい条件でなくてもかまわないことを意味するように思われる。金はたいしてもらえなくても、評価されたり、おもしろかったりすれば、その分、安くてもよいはずだということである。
 両方ともでなくとも、いずれかが魅力的であれば、人はその職に就こうとするだろうというのは事実ではある。しかし、仕事によって得られるもの、仕事が与えるものはそのようにしてだけ決まるわけではない。実際には、他人の評価も自分の評価もよい仕事はしばしば収入も多い仕事である。このことを考えた場合に、ベーシックインカムの導入はどのような効果をもたらすことになるか。…
 人がしたがらない仕事から…b)、その仕事をしなくとも人は暮らしていけるようになるのだから、撤退する。すると、それでも雇いたいのであれば、その賃金が上昇する。このような筋になる。そのようにも思える。しかし、本文に述べたように、一つにはベーシックインカムの(個別の違いに対応するか否かも含めた)水準によって変わってくる。その水準が十分なものであれば、そうなる可能性はある。しかし、いくらかでも(いくらで も)余計に必要だという条件のもとでは事情は変わってくる。  賃金については、単純に市場の価格メカニズムによっては(すくなくとも経験的には)決まらない。(このことについての経済学的な説明はいくつかあるが、実質的には、人はそのように動くものだということを言っているだけにとどまっている。)ある生活できる水準があって、それに合わせて支払われ、人はそれがあれば(合計にそこに達するなら、また達するまで)働く。ベーシックインカムがあるにせよ、その決まり方がむしろ労働時間あたりの賃金は安くなるようなことがありうる。だから、満足しているから問題はないだろうという話には必ずしもならないということだ。

★02 ベーシックインカム論者も働かないこと自体を積極的に認めているのではないのだろう。ただ人生のあり方は様々であるというリベラリズムの教義に忠実であることによって、そのような生き方もまた認めているということなのだろう。

★03 第3章の記述は、私には理解できず納得できないものだった。
 どこがおかしいのか。一言で言えないほどおかしいのだが、それでも幾つかのことを記しておくとしよう。
 まず問題にされるのは、より多くを稼ぐことのできる人が、その能力ゆえに、たくさん使われてしまう危険があるといったことである。本であげられている例では、その容姿端麗ゆえにピープ・ショーで長い時間働かなければならないことにされてしまう、ラブリーという人――著者は三人称単数の代名詞をすべてsheにしているので、性別は不明――がいるという話が示され、それはよくないだろうという話を後につなげていっている。
 「彼女が途方もない稼得能力を持つということは、毎日のピープ・ショーでのパフォーマンス以外の仕事では決して得られないような額のお金を一括税として支払うよう強制される、ということなのである。」(Van Parijs[1995]/5)
 この種の論難は――例えばロールズがしたとされる「才能の共有」といった話に関して――他の人もすることがある。ある大きな益をもたらす才能をもっている人間がいたとして、その人は、それ以外の職に就くことを禁じられてしまうではないかというのである。

 もう一人出てくるのはロンリーという人であって、その人はもてない、と。それはその人の「内的賦与」によるとされている。その人はそのままに置かれてよいのだろうとかということになり、この「内的賦与」も含めて計算しなければならないだろうという話になり、しかしその補償?額がとても高くなってしまうのもまた困ったことではないか、といった具合に続いていく。
 「彼女はその平均以下の才能のおかげで、彼女の稼得能力を平均まで押上げてくれる一括補助金を受け取るのである。」(Van Parijs[1995])
 彼の案:A内的賦与+B外的賦与。みながそれは不利な内的賦与だと認めるなら、それを補うべく、外的賦与(例えば金)を与える。(誰もが認めるという条件も、考えてみると不思議な条件である。実際には、すべての人に聞いてまわるわけではないのだから、これは結局、すべての人がそう思うはずだという想定を行なっているということである。そして、さらに(この種の議論ではまったくありがちなのだが)妙な選好をもっている変な人はいるだろうから、そうした人たちは除外しななけれはならないということになる。)
 「各包括的賦与――すなわち、内的賦与プラス外的賦与――ペアを比較していずれかの賦与を他よりも選好する人間が少なくとも一人あらわれた時点で、この手続きは停止する。」(Van Parijs[1995]/12)
 誰か一人がもうこれでよいと言ったなら、終わる。(しかし、ここで彼が持ち出す例も奇妙だ。)
 まあよい、ような気もする。しかしすぐに、この計算は非現実的であるように思える。このような思考の流れというものもまた、ある種の知的伝統であるかもしれないのだが、それにしても奇妙に思える。

 まず余計に働かされてしまう人のことについて。
 つねにこのような(どのような仕事をするのかについての)強制を禁じられるかといえば、それはそうではないかもしれない。仮に、その人だけが世界を救うことができるとしたら、人々は脅迫してでもその人に世界の救済をさせるだろうし、それはいけないことだとは言えないだろう。
 けれども、その人が、ある仕事を行なうなら、最も多く効率的に稼ぐことができることは確かであるとして、その人が、他の仕事でなくその仕事を割り振られ、他の人よりたくさん行なわなければならないことにはならないはずだ。
 時間あたりの生産性を最大限に高めなければならないといった条件(だけ)をおけば、そんなこともあるいはあるかもしれない。しかしそのように考える必要もないはずである。それ以前に、労働の強制――正確に言えば、どんな仕事をするかという仕事の内容を強制すること、有用であるからといって他の人より多く働かせること――を認めなければよい。それだけのことではないだろうか。

 次に「内的賦与」を計算されないと不利益を被るとされる人たちについて。
 まず、不利益があるというのだが、その不利益はどこからやってくるのだろう。不利益があるというそのとき、その人のまわりの社会はどのようになっているのか。そのありようによってその人の不利益(利益)のあり方が変わることがあるだろう。それ自体が問題であるとされるかもしれないのだが、そのことはそのままにしておかれ、なにか別のもので「補償」しようとしている。損をしている分、別のものを与えて釣り合うようにしようというわけである。しかしこれはおかしくないか。
 彼がもってくるのは、例えば目が見えないことに関わる損失であったり、容貌がわるいことによる損失であったりする。これが、よくないことであるときまっているとして、それでどうしようというのか、だが、例えば彼が前者についてもってくるのは、金を受け取って視力をよくする手術をするといったことである([1995:])。この場合には、そしてうまくいくならば、障害はなくなったのだから、金をかけただけの利得があったわけだ。
 しかしそんなことの方が少ない。むしろ、「内的賦与」自体は除去されない。それが内的賦与の特徴なのだ。その場合に、何がしかが支払われるというのはいったいどういうことなのだろう。
 まず、その不利益を生じさせていること自体について、問題があるのかもしれない。このことをさきに述べた。次に、この点を認めた上でも、たしかに、不利は残る場合があるだろう。として、何ができるか、また何をすべきか、何が有効か。
 その中には、何か別のものによっては補われようのないもの、そんなことをされてもうれしくないもの、があるだろう。様々な内的賦与の差異が人々にもたらす問題の中には、仕方のない部分もあるだろう。また、解決あるいは軽減すべきであるとしても、財の分配によって対応することはできない場合もあるだろう。例えば、彼は何かしらの理由で(特定の、あるいは一般の)人に好かれず、そのことによって不利益を被っているのだが、例えばその人に現金を給付し、給付される現金とこみでその状態を引き受けてもよいという人が出てきた時点で、給付額を決定するというのは、対応としておかしくないか。
 しかも奇妙なのは、その判断を行なう人は、その本人というわけではなく、その状態を想像し、だったら別にいくらあったらその状態でもよいと思うかといった架空の状態について問い、架空の計算をする人なのである。例えば目が見えないという内的賦与自体は、まずは、その人にとっては動かすことのできないものであるし、また目の見える人にとっては現実のことではない。目が見えないという状態にどれだけを足せば、その人は目が見えないことを選ぶのかといった問い自体、おかしくはないか。

 ただしこのことは何もしなくてよいということを意味するものではないだろう。問題がずらされているように思える。代わりに、もっと単純に考えればよいのではないか。
 お金をかけることによって補うことのできる部分がある。その部分についてはその分の金を給付すればよいというだけのことではないか。それが本文に述べたことだ。「内的賦与」に関係して――起因してという言い方は不正確だろう――この社会では、一つに、市場で働いた場合の受け取りが少なくなることがある、あるいは働くことができない場合がある。もう一つ、他人の手を借りる必要などがあって、その費用が他の人たちより余計にかかる場合がある。それをそのままにすることは「本当の自由 real freedom」にとって望ましくないことである。だからその部分を補うべきであり、補えばよいという、ただそれだけのことだ。

☆  働かずに得られるのであれば、さぼってしまうのではないか。それはよくない、だから、という発想はどうなのだろう。自発的に人が働くことをあてにしてよいと考える方がかえって無理があるのかもしれない。パレース氏もこのことは気にしているようだ。そのままでは不安であると、きわめつけの自由尊重主義者であるはずのパレース氏さえもが「愛国心」を頼ることになる([1995])

■cf.

分配
労働
 ◆ワークシェアリング
 ◆労働の義務

■文献

◇「病」者の本出版委員会 編 1995 『天上天下「病」者反撃――地を這う「精神病」者運動』、社会評論社
◇江原 由美子 19910911 「家事労働を「強制」するメカニズム――補足に対してコメントする」,小倉・大橋編[1991:115-122]
江原 由美子小倉 利丸 19910911 「女性と労働のねじれた関係――フェミニズムと身体搾取論はどこで交差するか」(対談),小倉・大橋編[1991:066-107]
稲場 振一郎・立岩 真也 2006/08/** 『所有と国家のゆくえ』、日本放送出版協会
◇小泉 義之 20060710 『「負け組」の哲学』、人文書院、194p. ISBN: 4409040790 1680 [kinokuniya][amazon] ※,
小倉 利丸 1990 『搾取される身体性――労働神話からの離脱』、青弓社 2000 ※
◇――――― 19910911 「家事労働からの総撤退を――対談への補足として」,小倉・大橋編[1991:108-114]
◇小倉 利丸・大橋 由香子 編 1991 『働く/働かないフェミニズム――家事労働と賃労働の呪縛?!』、青弓社
竹内 章郎  1993 『「弱者」の哲学』、大月書店
◇立岩 真也 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店
◇――――― 2005 「ニートを生み出す社会構造は――社会学者立岩真也さんに聞く」(インタビュー),『Fonte』168:7(旧『不登校新聞』、発行:不登校新聞社)→立岩[2006:162-170]
◇――――― 2006 『希望について』、青土社
◇Van Parijs, Philippe 1995 Real Freedom for All: What (If Anything) Can Justify Capitalism?, Oxford Univ Pr, 330p. ASIN: 0198293577 [amazon] ※,


*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)の成果/のための資料の一部でもあります。
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm

UP:20060614(Real Freedom for Allについてのノートとして開始) REV:0615,21,26,0703(現在のファイルの作成開始),04,06(ファイル分離) 0805(リンクミス訂正)
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