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書評:小泉義之『「負け組」の哲学』

立岩 真也 2006/09/18 『図書新聞』2791:5
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  古いといえば古いこと、つまり共産主義で行こう、と書いてある。しかし、それを言う人はこのごろいない。記憶の彼方という人と、まったく知らない人といるのだろうが、どちらもよくないと思う。この本はよいと思う。
  そして政治的立場の如何を、仮にともかくとしても、ここのところの様々な人々の本の多くに書かれていることは、仮に間違ってはいないとしても、既知の、予想の範囲の内にあるという感じがしていた。何かを考えてさせてくれる気がしなかった。それに比べてよいと思う。
  左翼がいないわけではないのだが、それらは多く、大きな話はあまりせず、様々な現場で抵抗を続ける、倫理的で、すこし苦しい感じのものだ。それはたいへん大切だと思う。けれども、国家の廃棄とか分業の廃絶とか、そのような話もまた大切だと思う。私は、考えて、前者も後者も、必要であったり許容範囲であったりと考えるのだけれども、しかしわざわざそんなことを考えてきたのも、私たちの前に出されたそのアイディアを基本的によいものだと受け取って、だからこそ考えないと、と思ってきたからだ。だから、私のような穏健な人間にとっても、廃棄とか廃絶とかそんなことをはなから想像さえできていないように見えてしまう論が多いのは悲しい。言うべきは言ってもらった方がよい。
  それでこの本は来たるべき世界のあり方を構想しようとする。無茶で乱暴だと、言おうと思えばいろいろ言える。それ以前に、どこがどうなってそうなるのか、わからないところがある。ただ、論証は後でしてもよい、ともかく当たっているところはある。
  例えば、悪人に反省なんかさせようとしてどうする、そんなことより、そんなことをしている暇があったら、分けるものを分ければ、分けさせればよいのだ、それをまじめにやれば、させればよいのだと言う。中庸な私はこんな言いすぎたことは言わない。しかし、基本的には、当たりだと思う。誰にも不正の感情を惹起する加害や残酷さとして現象するようなことにしか人は文句を言えないのか、残酷さを減らすこと、後で謝罪を求めること、そんな苦しい主張の仕方でよいのか、すくなくともそれだけでよいのか、と思わないだろうか。そして、悪人を見くびらず、同時に深く軽蔑するようなやり方を考えた方がよくはないか。
  あるいは戦争について。したい連中に勝手にやらせておいて、自分たちは逃げおおせようと言う。戦争している奴らと私(たち)はなんの関係もない、と言い張る、その間に戦争している連中は殺し合っていなくなってくれるだろうというのだ。もちろんこんな主張も非難されるだろう。また現実の可能性という話もここではおこう。原理的にどうなのか。それを考えるなら、この提起を元手にして考えることはある。例えば、なんらかのかたちで、現にここに住みながら、この国家から、少なくともそのある部分から、離脱する道はないか。
  私はといえば、分配をまともにしようと思ったら、むしろ人を、具体的には金持ちを境界から逃がさないことだと言ってきた。考えるとそうなる。(ただ国境から逃がさないことはできないから、国際主義が論理的に要請されると言ってきた。)しかしここに属していたくもない。引き止めるのも、ここにいるまま逃げ出すのも、どちらも望みなのだ。私は、一人ひとりが「主権者」であってしまうことの気持ちの悪さを思ったらよいと書き、それは私のように良識的な人間の場合には、国政選挙で投票に行くことの意義を述べるという文脈でではあったのだが(青土社刊の拙著『希望について』所収の「選挙に行くということ」)、しかしそこには、本当はこんなところから逃れられたら、という思いはくっついている。逃げることや逃がさないこと、そんなことを考えることのない政治論、民主主義論ではだめなはずなのに、そんな話はめったに聞かない。そんなところから論を立ち上げ、考えていく。社会を構想するということはそんなことでなければならないのではないか。
  そして、準拠されるのは無産者である。生産者としての無産者と、無産者としての無産者、ただ生きている身体を有しているだけの者、しかしその身体であるからすべてであるような無産者。前者を言うのが、社会主義においては、主流だったが、後者の流れもある。筆者はこちらに乗る。
  人間(的な人間)は人間的でない存在を除外するものだとしよう。加えてくれるとしたら、「保険」か「慈善」か、そんなものを介してだ。そんな筋道で出来上がる社会を肯定するわけにはいかない。また、そうした人間たちが集いあってものごとを決めるというようなものごとの決め方を信用するわけにはいかない。すると、それを信用せず別のものを信ずる働きは、人間の外からやって来るものでしかありえない。こうなる。
  次に、人間的なものにうんざりしている人は様々いる。その人たちの中に死を選ぶ者もいる。いまの人間のあり方にうんざりして死ぬというのだ。しかしそれはいくつもの意味で(説明は略)間違っているとしよう。とすると、準拠点は、見習うべきは、ほとんど人間のように生きてはいないが死んではいない者となる。病人が偏愛される。(筑摩書房書房のウェブサイトでの連載「良い死」で、著者のもう一つ前の、しかし今年刊行の著書、ちくま新書の『病いの哲学』のことを書いていて、若干書きあぐねてしまうところに来ている。併せて読んでいただければと思う。)
  大略、そんなふうに筆者の論をつないでいくことはできる。大略、辻褄は合っている。
  ただ、私はもっと淡白に言ってしまう。人間は、すべての人間は、人間的でなくもあり、そしてそれはわるいことではなく、むしろそのようであることができるように世界があればよい、とだけ、それだけでは迫真性とかそんなものにたしかに欠けているだろうかと思いながら、言うだろう。けれども著者は、さらに、救済の希望を語る。
  私は、この本や著者の他の本で、病者・無産者が神話化されているといったことを言いたいのではない。神話化はされている。ただ、そうであっても賞賛してよいことが実際に起こっているのは事実だ。ここまでは認めよう。ただ、病んで生きている者の身体から何かが発見され、それが救済をもたらす、ようには思えないということだ。しかし、ほんとうはまだわからない。著者にもそれが見えているわけではなく、だから、それはこれまでもまたこの本でも、希望として語られる。しかし、何かがある、かもしれない。生きている病人が生きていることに驚けと言われても、生きている人が生きていることにすこしも驚けず、当たり前だと、その言明は無意味だと、まずは言える。しかし、著者はなにごとかが起こっていると思っている。実際、起こっているのかもしれない。


◆小泉 義之 20060710 『「負け組」の哲学』、人文書院、194p. ISBN: 4409040790 1680 [kinokuniya][amazon] ※,

小泉 義之 20060410 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756 [kinokuniya][amazon] ※,
立岩 真也 20060710 『希望について』,青土社,320p. ISBN4791762797 2310 [kinokuniya][amazon][bk1] ※,

◇米田 綱路 200604 『はじまりはいつも本――書評的対話』,パロル舎,541p. ASIN: 4894190516 3360 [kinokuniya][amazon] ※


UP:20060819 REV:0905(誤字訂正)
小泉 義之  ◇書評・本の紹介 by 立岩  ◇立岩 真也
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